中庸というのは、ずいぶん古くから言われていることで、孔子が言及している
し、アリストテレスも似たような概念を唱えているという。六つかしい話は分
からぬが、まあ極端を排して中間をとるというくらいの意味を考えるならば、
たしかに我々の日々の暮らしに不可欠なところであろう。
昔読んだミクロ経済学の教科書にこんな話が載っていた。酒ばかり飲んでも面
白くない、焼き鳥ばかり食うても面白くない。両方を同時にいただくと、あと
一杯の酒、あと一本の焼き鳥がより旨いものになるというのである。これが人
間の行動を律する基本であるというわけであるが、効用の増大という点から見
て極端というのがあまりうまくないというのは、さもありなんである。
これほど当たり前のことに思える中庸ではあるが、意見を言い合う段となると、
途端に霞んでくる。これももっとも、あれももっともというのでは、議論にイ
ンパクトが出ないからであろうか。論者というのは極端を魅力的に見せるのが
役目で、聞く者がそれぞれ落とし所を考えればよいということなのか。
焼き鳥の串と徳利を両方ながらに並べて酒を飲みつつ、口角に泡を飛ばして極
端なことを口走るのはありふれた光景だが、してみると胃袋と弁舌は異なる基
準に従うものなのかもしれない。
し、アリストテレスも似たような概念を唱えているという。六つかしい話は分
からぬが、まあ極端を排して中間をとるというくらいの意味を考えるならば、
たしかに我々の日々の暮らしに不可欠なところであろう。
昔読んだミクロ経済学の教科書にこんな話が載っていた。酒ばかり飲んでも面
白くない、焼き鳥ばかり食うても面白くない。両方を同時にいただくと、あと
一杯の酒、あと一本の焼き鳥がより旨いものになるというのである。これが人
間の行動を律する基本であるというわけであるが、効用の増大という点から見
て極端というのがあまりうまくないというのは、さもありなんである。
これほど当たり前のことに思える中庸ではあるが、意見を言い合う段となると、
途端に霞んでくる。これももっとも、あれももっともというのでは、議論にイ
ンパクトが出ないからであろうか。論者というのは極端を魅力的に見せるのが
役目で、聞く者がそれぞれ落とし所を考えればよいということなのか。
焼き鳥の串と徳利を両方ながらに並べて酒を飲みつつ、口角に泡を飛ばして極
端なことを口走るのはありふれた光景だが、してみると胃袋と弁舌は異なる基
準に従うものなのかもしれない。