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政治そのほか速

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<東日本大震災>南相馬から避難・大阪で鍼灸治療院開き3年の夫婦 ── 故郷の治療院も再開へ

2015-03-11 12:51:16 | キャリア・教育

 <東日本大震災>南相馬から避難・大阪で鍼灸治療院開き3年の夫婦 ── 故郷の治療院も再開へ


 

  「10日で大阪の治療院を開業して3年、本当にいろいろありましたが、これを機に故郷の治療院も再開させたい」と語るのは、大阪市東住吉区「かとう鍼灸治療院」の院長、加藤大助さん(44)。「大阪の」という言葉があるが、本来であれば故郷で治療院を続け、大阪に住んで治療院を開業することはなかった。あの東日本大震災の原発事故が起きなければ。


家族は全員無事も近くで原発事故が

 [写真]友人らに支えられここまで来れたと話す加藤大助さん(右)と清恵さん夫妻=大阪市東住吉区で


  福島県南相馬市で鍼灸治療院を経営していた大助さんは、妻の清恵さん(40)と娘3人と地元で暮らしていた。同院は内科医をしている加藤さんの父親が所有する家の敷地内に建てられており、みんなで仲良く暮らしていたという。「京都にある大学で鍼灸などを習い、大阪府寝屋川市内でも学んだことを生かし2年ほど働いてました。地元へ戻って病院に勤務。その時に受付をしていた妻と知り合い17年前に結婚し、鍼灸院を開業して生活していたんです」
 
  3人の娘に恵まれ、愛する地元で幸せに暮らしていた。だが、そんな暮らしを突然、大きな揺れの悪夢が襲った。2011年3月11日に発生した東日本大震災だった。鍼灸院の休診時間で横になっていた時、突然の激しい揺れに目が覚めた。「最初横揺れが起こり、すぐにおさまると思ったらそれが縦揺れに変わって、はめ込み式のタンスから中の物が全部出てきました」
 
  一方、清恵さんは自宅リビングで当時3歳の3女とすごしていた。最初の揺れで庭へ避難。揺れがおさまり、リビングに戻ると、自分と3女がいた場所に大きな食器棚が倒れガラスも散乱していた。
 
  自宅の中はめちゃくちゃになったが、家族は全員無事だった。しかし、テレビのニュースの内容に驚くばかり。そして、距離にして約20キロの地点にある東京電力の福島第一原子力発電所の事故を知り、大助さんは着の身着のままで妻子とともに車で遠くの方へ避難した。


思うように避難できず、大阪の友人から連絡

  テレビやラジオから聴こえる被害状況や原発事故の内容を聞き、妻子や妻の妹家族と車で避難。「とにかく遠くへ」と福島市内を目指した。「原発事故の情報や被ばくされた方の数が増えていると聞いて、子どもたちを守らなくてはと必死で逃げました」。最初は宮城県の仙台市へ行こうとしたが、津波被害のため道路が通れないと聞き行き先を福島市内にしたという。
 
  だが、福島市内も混乱状態で車も動けない。市民会館へたどりついたが、そこはもう避難してきた地元の人など多くの人が集まっていた。小さな子どもがいることから、大助さんはほかへの避難を模索。そこで「福島空港が避難所として開放されている」と聞き、即座に向かった。
 
  同空港へ着くと、臨時便に行列ができていた。「飛行機での避難」を考え、親類が静岡県内に別荘を持っていたためそこへ向かうことを考え、徹夜で行列に並び東京へのチケットを手に入れた。だが、その日に長野県でも地震が発生。清恵さんや子どもたちも怖かったため、再び避難先を探した。
 
  そんな時、大学時代の同級生の妻が「大阪で文化住宅をキープしたよ」と連絡をくれた。だが、2日以内に本人がサインしないとそれが無効になってしまう。そこで、清恵さんと子どもらが先に大阪へ向かった。大助さんは両親のもとへ戻ろうとしたが、同級生が「奥さんや子どもさんが来ても、なにもしらない大阪ではわからないだろうから一緒に来てくれ」と助言してくれたため、再びチケットの行列に並び翌日に大阪へ向かった。


家や仕事を世話してくれた大阪の友

 [写真]故郷・南相馬に残した治療院の再開を目指すと語る加藤大助さん


  大阪市住之江区のいわゆる文化住宅に来たが、風呂・ガスともにナシの状態。「住めるだけでもありがたい」とすごしていたが、子どもたちは突然の生活環境の違いに辛さを覚えていた。そんな時、父親がマンションを持っているという同級生が「ワンルームが隣同士で2部屋空いたのでおいで」と声をかけてくれた。家族5人でそこへ引っ越し、約8か月すごすことになる。
 
  住む場所は確保。だが、収入がないため大助さんはコンビニやガソリンスタンドのアルバイト求人などに申し込もうとしたが、学生時代の同級生らが「鍼灸の仕事は、手を使わなかったら感覚がなくなってしまう。なんとかするから」と声をかけてくれ、3~4か所で同業者の手伝いをできるように段取りを組んでくれた。
 
  そして、その手伝いであちこちへ移動し、たまたま大阪市東住吉区の地下鉄田辺駅を利用しようとした時、目の前のビルの窓にあった「空店舗」の看板が目に入った。
 
  その瞬間「ここでならやれるかもしれない」という直感がよぎり、すぐに申し込んだ。「子どもたちのことを考えると、南相馬の現状では連れて帰れない。自分だけが南相馬へ帰って治療院を再開することもできない。もうここで暮らしていくしかないと考え、腹をくくりました」
 
  避難から約1年たった2012年3月10日、東住吉区で「かとう鍼灸治療院」を開業した。地下鉄・田辺駅の真ん前ということもあり、今では地元の人が訪れ、中には南相馬で通っていた人が来てくれることもあるという。そして、きょう10日で開業から丸3年を迎えた。子どもらも当初は環境の変化に動揺したこともあったが、今では元気に学校へ通っているという。


大阪で開業3年の決意・南相馬の治療院を再開へ

  「今こうしていられるのは、支えてくれた友人たちのおかげです」と大助さん。3年がたち、地元にもとけこんでいるが「まだ正直、食っていくのが精一杯なんで頑張らなければ」と日々奮闘。清恵さんも子育てをしながら、受付で支えてくれている。「ほんと妻や子どもたちにも感謝です。よくあの状況で文句ひとつ言わず頑張ってくれたので」
 
  開業3年を迎え、新たな決意も口にした。「やはり故郷の治療院のことは、1日も忘れたことがありません。多くの患者さんに支えられてましたし。だから4月から、南相馬の治療院再開に向けて動こうと思うんです」
 
  4月からは月に1週間ほど南相馬へ戻り、治療院を任せられる人を探し再開させたいという。そして、大阪と南相馬で治療院を回していくのが目標だという。「父親は内科医として故郷へ残り、一時期はやむなく東京へ避難したけど、避難指定解除になったら即戻り患者さんを診てるんです。僕もこの3年を機に再開に向けて頑張りたい」。再開の計画を聞いた地元の人たちからは「待ってるよ」という声もあるという。
 
  今でも経営は大変だが「一歩ずつ進んで行かなければ。子ども3人をしっかり育てなくちゃいけないし」と前向きで気合い十分の大助さん。きょうも故郷への想いを胸に患者さんの治療にあたる。
 
 地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.62815600045654&lon=135.52584563912777&z=16


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<福島原発事故4年>原子力標語を作った双葉町の少年 27年目の思い

2015-03-11 12:51:01 | キャリア・教育

 <福島原発事故4年>原子力標語を作った双葉町の少年 27年目の思い


 

 [写真]大沼さんが小学校6年生のときにつくった標語。福島第一原発で7号機、8号機建設計画が持ち上がっていた頃だった


  東日本大震災から丸4年となる現在、福島県双葉町は一部の「避難指示解除準備区域」を除いて、町のほとんどが「帰還困難区域」に指定されています。東京と仙台を結ぶ国道6号線は、地元住民以外でも通行できるように開通され、国道以外の場所には許可証がなければ一切立ち入ることができなませんが、その道路を通過する人は、町の体育館の横に立てられた「原子力 明るい未来の エネルギー」という標語が書かれている看板を目にすることになるでしょう。
 
  東京電力・福島第一原発から約4キロの位置にあるこの看板は、今から27年前、国道からJR常磐線の双葉駅や市街地に向う入り口に立てられました。双葉町が原子力発電所と共存しながら歩んできた事を象徴したものとして、原発事故以降、特に関心を集めるようになったのです。
 
  今、この看板が撤去される可能性が出てきました。朝日新聞によると、双葉町は看板の撤去費用約410万円を盛り込んだ新年度の一般会計予算案を3月9日の町議会定例会に提出。周辺の放射線量が高く、補修工事ができず、劣化し危険との判断からです。


「原子力 明るい未来の エネルギー」

 [図]「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の指定状況(内閣府の資料より)


  この標語を考えたのは大沼勇治さん(39)。作ったのは小学6年生のとき、福島第一原発の立地町である双葉町が、1988年3月に子どもたちを含む町民から標語を募集し採用されました。
 
 「(原発の)賛成派と反対派の両方が親戚にいた。町長は推進していて、幼い頃は町長の選挙事務所に連れていかれたりしていた。疑いはありましたよ。でも、親戚が東電に勤めていたので言い難い。母は神経質で『あんなものが近くにあって大丈夫なのか?』って言っていましたが、そういうことが言えない空気だった」
 
  福島第一原発は、大熊町と双葉町の境界に位置しています。1971年3月に1号機が作られましたが、この標語を募集していたのは、同原発で7号機と8号機の建設を計画していた頃でした(その後、原発事故により計画中止)。当時は町をあげて原発増設を歓迎するムードでしたが、チェルノブイリ原発事故(1986年4月)があった事もあり、大沼さんは原発に対して疑問を抱いていました。
 
  東日本大震災以前にも放射能漏れ事故や火災、臨界事故、硫化水素中毒事故などがあり、ニュースでは「隠していた」という話が流れてきます。しかし、いつしか「チェルノブイリは遠くのこと」と思うようになっていったのです。
 
 「そういうニュースをみると、またか、と思った。慣れっこなっていった。小学生のときの方が原発は危険だと思っていた」


社会人になり原発との「共存」模索

  大沼さんは高校卒業をして一度、県外に出ましたが、大学を卒業してから双葉町に戻ってきました。原発に対して抱いていた危険なイメージは徐々に薄らいできていき、むしろ、不動産屋に勤務していたことから、東電と共存することを考えていくようになりました。
 
 「当初、漫画喫茶を作ろうとしたが、銀行の融資が通らない。一方で、東電社員のためのアパートを作ろうとしたら、融資が通る。東電は人生の成功モデルという感じだった。部屋代の半分は会社が出していたので、本人は負担を感じてないようだった」
 
  標語の看板の近くに、東電社員らが利用するためのオール電化のマンションを建設しました。大沼さんは原発とともに成功するパターンを見つけていったのです。ただ、将来は双葉町から東京へ移り住もうと考えてもいました。
 
 「双葉では職業を選べない。月給も少ない。実家住まいなので家賃はかからなかったが、お金も貯まらない。そして、事故があって180度変わった」


震災、原発事故で状況が一変

  2011年3月11日午後2時46分、大地震が東日本を襲います。大沼さんは、妊娠7か月の妻のせりなさん(39)に電話をしました。
 
 「早く逃げろ」
 
  地震は断続的に30分も揺れました。「この地域は地震がないので油断をしていた」という大沼さんでしたが、そのうち、いろんな情報が入ってきました。会社内では「東電関係者が逃げている」という声も聞こえてきました。しかし、すでに周囲の道路はどこも大渋滞。双葉町から隣の大熊町に行くまでに2時間もかかりました。その後、南相馬市や相馬市の道の駅に避難していましたが、2日後にはせりなさんの実家がある会津地方に避難しました。
 
 「会津は原発から離れているし、磐梯山もあるため、放射能をさえぎるのではないか。何かあっても、新潟に行けばいいと思っていた」
 
  結局、3月末には、身ごもっていた子どもが放射能の影響を受けないようにと、親戚が近くに住んでいることもあって、愛知県安城市に避難、借り上げ住宅に住む事になりました。同市では、脱原発についての講演を30回以上も行いました。避難暮らしのなかで、子ども2人が生まれました。


初期被ばく量は分からないまま

  福島から遠くへ避難したと言っても、すぐ近くで原発事故が起きたという現実は消えません。内部被ばくの検査は事故後3年経ってから行われたため、初期被ばくはわからないままです。
 
 「リスクがゼロにはならないので、(内部被ばく量を)下げる努力をするしかない。例えば、水は買うことにしている。米は秋田や新潟ものを買っている。個別に見ればきちんと検査をしている食品もあるでしょうが、産地は選ぶようにしている。ただ、(現住地の古河市で買う食材は)茨城産としか書いていないため、具体的にはどこかは分からない。住宅の資材だって心配といえば心配」
 
  妻のせりなさんは毎日の食材には気を使っています。ただ、心配すればするほど、どこまで心配できるのか切りがないとして、こう話しました。
 
 「初期に被ばくしたものを子どもには残したくない。でも、今は分からなくても、影響が10年後、20年後になるのかもしれない。買ってきた水も、セシウムが入ってないとは言い切れない。外食産業も分からない。どこの魚、肉を食べているのかも……。日本に住む限りは切っては切れない問題ですが、どうしようもない。諦めている。だから、そんなに神経質になってはいないです」


原子力標語を“書き換え”

 [写真]原発事故後に大沼さん(右)が思いを記したパネル。背景の写真では標語の“書き換え”を行っている。右後方には原子力標語の看板が見える


  大沼さんは、これまでの4年間で、双葉町に何度も一時帰宅しました。その際、原子力の標語について反省の気持ちを込めて、標語の“書き換え”を行なうようになりました。標語の一部を別の言葉にし、その言葉を記した紙を持ちながら、写真を撮影しているのです。
 
  「原子力 明るい未来 ……じゃなかった」
  「原子力 制御できない エネルギー」
  「脱原発 明るい未来の エネルギー」
  「核廃絶 明るい未来の エネルギー」
 
  これらの言葉はその時に思いついたもの。そして、看板近くには自らの心境を書いたパネルを設置しました。
 
  新たな未来へ
  双葉の悲しい青空よ
  かつて町は原発と共に「明るい」未来を信じた
  少年の頃の僕へ その未来は「明るい」を「破戒」に
  ああ、原発事故さえ無ければ
  時と共に朽ちて行くこの町 時代に捨てられていくようだ
  震災前の記憶 双葉に来ると蘇る 懐かしい
  いつか子供と見上げる双葉の青空よ
  その空は明るい青空に
 
  震災3年 大沼勇治
 
 「(帰るべき故郷を)失ってから考えるようになったんです。事故後の写真を撮ろうとも思いました。子どもたちに伝えないといけない」


福島は出たが「故郷に変わりない」

 [写真]現在は茨城県古河市で暮らす大沼さん一家


  現在、大沼さん家族4人は茨城県古河市で暮らしています。福島第一原発から約260キロの位置。震災前は不動産業でしたが、太陽光発電の会社を起こしました。茨城県石岡市、常陸太田市、栃木県さくら市と那須烏山市でソーラパネルを設置して、発電しています。
 
 「僕たちは福島を出たが、福島県民だと思っている。故郷には変わりはない。阪神大震災も今年で20年経ったが、(4年経った福島の事も)節目節目で思い出してもらいたい。家庭内で福島のことを話すだけでも違う。福島では、現在進行形で復興作業が続いている。原発事故は日本だけでなく、世界中の問題だ。のちのち恩返しをしたい。底力を見せたい。歴史を学ぶのは、歴史がなくならないためだ。当事者自ら訴えていかないと説得力がない」
 
 (ライター・渋井哲也)


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<ロシア>ネムツォフ氏殺害事件 プーチン政権の関与は? 国際政治学者・六辻彰二

2015-03-10 12:35:36 | キャリア・教育

 <ロシア>ネムツォフ氏殺害事件 プーチン政権の関与は? 国際政治学者・六辻彰二


 

  2月27日、モスクワのクレムリン(大統領府)そばの路上を婚約者と歩いていた、野党「ロシア共和党・人民自由党」議長のボリス・ネムツォフ元第一副首相が銃殺されました。3月7日、ロシア連邦保安局(FSB)は容疑者2人を拘束したと発表。これによって、真相は明らかになるのでしょうか。


プーチン政権を批判、野党結集

 [写真]2月27日に射殺されたロシア野党指導者のネムツォフ氏(2012年3月資料写真)(ロイター/アフロ )


  ネムツォフ氏は1959年生まれ。ソ連末期の1990年、ロシア共和国人民代議員に当選し、ソ連崩壊後は議員、ノヴゴロド州知事などを歴任。改革派としてボリス・エリツィン大統領(当時)を支持し、1997年には第一副首相に任命されましたが、「過大な外資流入がロシアを不安定化させた」として、約8か月で解任されました。ちょうどその頃、入れ違いのようにプーチン氏は大統領府副長官に就任し、権力の座へ駆け上がりました。
 
  ネムツォフ氏はその後もリベラル派として政治活動を続け、2004年にウクライナで親ロシア派大統領に対する抗議運動「オレンジ革命」が起こると、親欧米派を支持。これによって就任した親欧米派のヴィクトル・ユシチェンコ大統領の経済顧問にもなりました。
 
  一方、プーチン政権には批判的で、2012年にはバラバラだったリベラル派野党の結集に参画し、「ロシア共和党・人民自由党」の共同議長に就任。ウクライナ危機におけるロシア政府の関与も批判しており、殺害される直前の2015年2月には、英紙フィナンシャル・タイムズのインタビューに「(ロシア政府がその派遣を否定している)ウクライナで死亡したロシア兵に関する報告書を作っている」と述べていました。


プーチン氏は徹底捜査を指示

  ネムツォフ氏とともに「ロシア共和党・人民自由党」の共同議長を務めてきたミハイル・カシヤノフ元首相は、事件に関するAFP通信のインタビューに「ロシアを自由な民主国家にするために闘ってきたことへの報復」と述べ、「プーチン政権あるいは過激なナショナリストによる暗殺」を示唆しました。また、欧米メディアの論調もほぼ同様です。
 
  一方、プーチン大統領自身は3月4日、ロシア内務省での会合で、「このような汚点と悲劇からロシアは決別する必要がある」と述べ、徹底した捜査を指示したうえで、「事件には政治的な背景がある」と強調しました。自らへの疑惑が深まっているなか、プーチン大統領の発言は「ロシア政府への不信感を強めようとする勢力の仕業」という意味に捉えられます。
 
  プーチン政権下では主なテレビ局が国営化されており、さらに近年ナショナリズムが強まっているなか、「プーチン大統領の名誉を傷つけるための『挑発』」という政府よりの論調も珍しくありません。その矛先はウクライナ問題に批判的な野党から、CIAに代表される欧米諸国、ウクライナ政府、チェチェンなどのイスラム過激派、さらにネムツォフ氏自身がそれに近かった、プーチン政権下で抑圧された新興財閥にまで向かっています。


少なくない反体制派の殺害事件

  プーチン政権に疑惑の眼が向けられることは、これまでを振り返ると、さほど不思議ではありません。ロシアでは、そこにプーチン大統領が関わっているかは不明ですが、これまでにも政府に批判的な人物が殺害された事件は少なくありません。
 
  チェチェン内戦でのロシア軍による人権侵害を調査していたジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ氏は、2006年に自宅で何者かに銃殺されました。また、2002年のチェチェン過激派によるモスクワ劇場占拠事件がFSBによる「自作自演」であった可能性を指摘していた元FSB職員アレクサンドル・リトビネンコ氏は、やはり2006年に亡命先のロンドンで、放射性物質ポロニウム210によって中毒死しました。
 
  国際NGOジャーナリスト保護委員会によると、ロシアでは2000年1月から2014年12月までの間に39人のジャーナリストが殺害されています。また、それらの犯人はほとんど検挙されておらず、検挙されても当局から詳しい説明はほとんどありません。
 
  今回の事件でも、ロシア当局は当初「現場付近の監視カメラの電源が落ちていたので映像はない」と述べていましたが、監視カメラを管轄するモスクワ市が「クレムリン付近の監視カメラが中断されることはない」と反論。その後、映像データが市当局からFSBに引き渡されるなど、不透明な印象はぬぐえません。


事件がロシアにもたらすもの

 [写真]ネムツォフ氏殺害を受けてモスクワでは大規模追悼デモが行われた(ロイター/アフロ )


  今回、FSBが拘束したアンゾル・グバシェフ、ザウル・ダダエフの両容疑者は、いずれもイスラム過激派の活動が活発なロシア南部の北カフカスの出身。捜査当局からは「黒幕が海外にいる可能性がある」という情報も漏れています。これに対して、ネムツォフ氏に近かった野党幹部イリヤ・ヤシン氏が、ロイター通信のインタビューに対して「真犯人であるかどうかに関係なく、スケープゴートの逮捕で終わるなら、政治的暗殺は続く」と述べるなど、反プーチン派からの批判が止むことはありません。
 
  野党だけでなく、今回のネムツォフ氏殺害は、少なくとも結果的に、反プーチン政権の国内世論を喚起しました。3月1日、モスクワでネムツォフ氏を追悼する数万人の行進が行われましたが、政治活動が制約されやすいロシアでは、異例の規模でした。
 
  ただし、国内での知名度が高く、欧米諸国の政界とも繋がりをもつネムツォフ氏を失ったことで、もともと強くなかった野党勢力の求心力がさらに低下することは避けられない見通しです。弁護士でブロガーのアレクセイ・ナワルニー氏は、ネムツォフ氏と並ぶ知名度と影響力をもつ野党指導者として知られますが、1日の行進に関して不法な活動を行った嫌疑で拘留されていたため、これに参加できませんでした。事件の真相にかかわらず、プーチン政権が国内から揺らぐことは、当面は考えにくいといえるでしょう。


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就活生の顔を独自システムで分類した「顔採用」

2015-03-10 10:16:31 | キャリア・教育

 就活生の顔を独自システムで分類した「顔採用」


 

 東急エージェンシーは3月6日、2016年度新卒採用活動にあたり、Webコンテンツ「これがホントの、顔採用」をリリースしたことを発表した。


 これがホントの、顔採用TOP


 同コンテンツは、同社が独自に開発したシステムで顔の分析を行い、その分析結果に応じて、就活生に様々な「就活支援特典」を提供するというもの。WEBカメラが付いたPCからエントリーすると、入社3年目までの社員+内定者の顔座標から独自の計算式で算出し、「のんびり顔」「心配性顔」「せっかち顔」「よくばり顔」「こだわり顔」の5つの顔に分類する。


 顔分析画面


 分析結果画面


 それぞれの「顔」に応じて用意する就活支援特典も5種類。「のんびり顔」には「エントリーシートの〆切に1週間のロスタイム」、「心配性顔」には「面接5分延長戦」を用意する。また「せっかち顔」の人にはエントリーシート設問を1週間先行公開、「よくばり顔」の人には面接を独り占め、「こだわり顔」には面接官を写真で逆指名権を設ける。


 なお、特典を受けられるのは、各顔10名。応募者の中から抽選の上、決定する。



公務員の年金も株式比率を引き上げ、年金と株価は直結へ?

2015-03-09 11:49:14 | キャリア・教育

 公務員の年金も株式比率を引き上げ、年金と株価は直結へ?


 

  多くの国民が加入している公的年金に加えて、公務員の年金も国債から株式へのシフトが進みそうです。株式市場にはさらに多くの資金が流れ込みますから、市場ではさらなる株高を期待する声が上がっています。一方、年金のお金をリスクの高い株式に投資することについては、慎重な意見もあるようです。


 [写真]国家公務員共済組合連合会のホームページ


  国家公務員の年金を運用している国家公務員共済組合連合会(KKR)は先月、積立金の資産構成を見直し、株式の比率を上げると発表しました。これまで公的年金は、安全運用が第一という観点から、基本的に国債での運用が中心となっていました。特に公務員年金はその傾向が強く、2013年末までは国債の比率は80%に、2014年以降も約75%となっていました。公務員以外の国民が加入する公的年金は見直し前の段階で、国債の割合が60%でしたから、両者にはかなりの差があったわけです。
 
  アベノミクスによって今後、インフレになる可能性が高まってきたことから、国債中心に運用を行っていては、損失が発生してしまうかもしれません。そこで政府は、国債中心の運用から株式中心の運用への切り換えを目指し、有識者会議などでの議論を続けてきました。その結果、昨年10月、一般の年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、債券の割合を35%まで減らし、株式(外国株含む)の割合を50%まで高める新しい運用方針を発表しました。公務員共済も検討を続けた結果、最終的には、GPIFと同じ資産構成を目指すことになったわけです。
 
  GPIFは現在、130兆円ほどの資産を運用していますから、最終的に国内の株式市場には22兆円もの大金が流れ込む計算になります。国家公務員の年金は規模が小さく、運用資産は8兆円弱しかありませんが、地方公務員や私立学校教員の年金も加えると、全体では30兆円ほどになります。ここからは数兆円が株式市場に流れ込むと考えられており、GPIFほどではないものの、株価へのインパクトは小さくありません。
 
  ただ、一般の年金と公務員の年金とでは進め方が多少異なります。一般の年金は、基準ポートフォリオからの乖離は低く抑えられていますが、公務員年金はこの許容幅が高く設定されています。例えば、一般の年金は国債の保有については基準値からプラスマイナス10%しか乖離することができませんが、公務員年金は、プラスマイナス30%まで大丈夫です。公務員年金の方が機動的に運用できますから、株式市場が不調な場合には、国債への投資に戻すことも可能ということになります。もっとも、一般の年金は規模があまりにも大きく、機動的な運用は現実的に難しいという側面があり、同じ基準での比較は困難でしょう。
 
  いずれにせよ、私たちが年金を無事にもらえるかどうかは、今後の株価にかかっています。野党や識者の一部からは、国債中心の運用を継続すべきだとの声も上がっているようですが、現実にはすでに株式へのシフトは始まっています。これからは、株価の動向をしっかりとチェックしておく必要がありそうです。
 
 
 (The Capital Tribune Japan)


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