ヘイトスピーチの構造
ヒトという種の生物は 進化の過程において集団組織的な協調行動を採る習性が かつての環境において生存にとって有利であったため 集団統率的な協調行動への快楽が組み込まれているのである
仲間同士で何かを攻撃することに快楽を感じるよう 脳の報酬系と直結しており 中毒的に暴力的攻撃をする行動バイアスとして働くのである
こうした先天的本能による行動習性というものは ヒトにまで進化する以前の環境適応として組み込まれたものであって 同調圧力や多数派迎合性を発揮することで結果的に「生存にとって有利」に働いた結果であって こうした動物的習性には合理的な「目的」も「戦略」も存在しない
合理性があろうとなかろうと 先天的本能習性である以上何も「考え」ずに無意識に行動していれば自ずから(自動的・自然)に暴力的排除行動は発揮されることになる
脳の報酬系と直結している行動である以上 一旦中毒に陥ると「やめることができなく」なり 異常な執着を発揮するようになる
主観的に快楽を感じることを 短絡的に「正しいこと」だと認識していれば ヘイトスピーチだろうが幼女誘拐殺人だろうが「正しいこと」になってしまうのが犯罪者全般に共通する価値観である
先天的本能習性というものは 自己自身では選択不可能なものであり 本能習性のままに行動していては人間としての自由は存在しないのである
しかし ヘイトスピーチやイジメなどの集団組織的協調による暴力的排除をやっている者にとっては「脳への報酬」すなはち価値観に異常な偏りが生じているため 自己客観性というものが全く働かず 本能が促す気分感情だけでしか行動が促されない状態に陥っているのであり それゆえ歯止めが全く効かない暴走状態から脱することが出来ないのである
野依良治であれば「女子受験生を一律減点する」ことに対して主観的に「おかしい」と思うのかも知れないが 主観というのは人それぞれであって一貫性や普遍性というものがないからこそ 順天堂大学や東京医科大学では入試不正が組織的に行われていたのである
順天堂大学や東京医科大学の担当者達の主観では「女子受験者は金にならないので 一律減点しておいて構わない」と思っていたのである
老練な将棋棋士であれば直感(主観)的に最善の指し手を導き出すことも可能であるが これはあくまで熟練者においてのみ可能なアクロバットであって 凡人が真似して出来るようなものでは全くない
ヘイトスピーチのような犯罪行為というものは 彼らの主観的快楽の追求であって 自己客観的論理検証性は全く働くことはなく 問い詰めると「悔しい」などという主観に帰結してしまい 客観性も論理も出てくることはない
凡人に過ぎない大多数の我々にとって 本当に正しい行動選択とは何かを見極めるためには 何が無意識で 何が錯覚で 何が論理客観的根拠に基づいた真実なのかを見分ける「人間としての意識」が必要なのである
ヒトは権威の言っていることを信用しておけば安心である
これは逆に言えば 言っていることを安心して信用することのできる相手を「権威」と分類しているに過ぎず 権威というのはむしろ主観的分類であって論理客観的根拠が伴うものではない
オウム真理教の信者達にとっては教祖が権威であり
ナチス政権下のドイツ人達にとってはアドルフ:ヒトラーを信用しておくことこそが安心だったのである
科学というのは多数決ではないのだが 誰を権威としてみなすかは多数決でしか決定することはなく 本来であれば「科学的権威」というものは論理客観的検証に基づくものでなければならない
「学問の自由」とは 「学ぶ」という「教えられたことを鵜呑みにして 教えられたことを教えられた通りに答えられる能力」だけではなく 「問う」という「自ら考えて検証判断する能力」が伴わなければ「学問」ではない
「自由」とは 自ら選ぶことを意味するのであって 何も選ばずに環境に左右されているだけでは自由でも何でもないのである
客観的論理検証性にとっては主観的感覚は環境である
ヘイトスピーチ中毒に陥っている糞DQNを見ていると「コイツ死ねよ」としか「思わ」ないが 同じヒトでありながら糞DQNになってしまう原因はどこにあるのかを検証し 糞DQNが出てこないようにするためにはどうすれば良いのかについての知見を得ることを優先すれば 社会的利益にもなるのである
目の前の糞DQNを罰や暴力で除去しても 世の中の糞DQNの全てがいなくなるわけでも 糞DQNが永久に出てこなくなるわけでもない
ヘイトスピーチのような暴力的差別行動といものは 先天的なヒトという種の生物における「人間としての欠陥」に由来するものであって 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという論理的根拠もない嘘を鵜呑みにして その場限りに気分的安心満足しているというのは 自発的な論理検証を放棄した社会的に無責任な行動選択である
「真実は何か」を見極めてこその「人間性」であり 客観的論理検証性なくして倫理も「人間としての心」もヘッタクレもないのである
自分で考えてみても「わからない」のであれば それは「わからない」と保留することも客観性である
しかし ヒトの多くは論理客観的な「考え」もせずに主観的に安心満足感が得られる話を盲目的に信じ込む習性があるため 流言やデマや科学的誤謬を誰も疑わずに信じ込んでしまうのである
自分の安全性を確保するためには 自らも他人の安全性を担保することによって他人からも自らの安全性を担保してもらうという相互の信頼関係によって社会安全性というのものは担保されるのであり
社会安全性を蔑ろにしてまで目先の利益を追求しても 結局は自分自身の尊厳を失ったままこれからの人生を歩まなくてはならなくなるのである
社会安全性よりも利己的利益を追求している奴を見て そいつを人間として尊敬できるかと言えば 出来ないでしょうが それなら自分も同じことですよ
それだったら むしろ自分は損をしてでも社会安全性や持続可能性を追求して生きることの方が心安らかに死ぬことが出来るでしょうが
どうせ必ず死ぬんですから「どう生きるか」って 結局「どう死ぬか」と同義なんですよ
Apple社のCEOになったってガンで急死するこたあるわけで 俗世の競争に「勝った」って人間としての行動選択も出来ない人生を送って 本当に満足出来るかと言えば 死ぬ時に「糞しょうもない人生だった」と悔やむだけなんですから
話がヘイトスピーチの構造からズレたって思いましたか? 物事っていうのは全部つながっているんですよ 一面的にしか物事を見ていないから「繁殖行動バイアスは人類にとって重要」なんていう無責任な話を鵜呑みにするようになる
そりゃ繁殖も必要ですけど 動物的な配偶者選択だけでは社会的負担になってしまう以上 配偶者選択においても理性は必要不可欠なんであって ただ繁殖して殖えりゃ良いってもんじゃないでしょうが
むしろ現在の世界ではヒトは繁殖し過ぎて地球環境の許容量を超えちゃっているんですから どう安全に持続可能な社会への転換をしてゆくべきなのかを模索することの方が「人類にとって最も重要」なんであって 先天的本能習性を短絡的に「人類にとって重要」などと言うのは社会的に無責任な寝言レベルの話でしかないでしょうが
本能習性のままに暴力威圧的な外見を装っておけば バカな女は簡単にケツを振って子供作ってDVで苦しんで逃げ回って役所や警察に助けを求めることになる
それのどこが「人類にとって重要」なんすかね
こういう話は気分的に良くないと思う奴は多いでしょうよ
その「気分的に良くないと思っている」ことこそが主観であって それこそが「信じたくない」というバイアスとして働くことになり 客観的論理検証性よりも優先することで何が本当の真実なのかを見分けられなくなる
要するに バカに何を言っても無駄なんですけどね
オウム真理教の信者に対して「お前さんの信じている教祖はペテン師だよ」と諭しても耳貸さんでしょ それと同じですよ
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