クロネコヤマトの配送所で解雇された男が暴れて二人が死傷したそうな
そんなことするような奴だから解雇されたんじゃないかとも思うんだが
気分感情と行動が直結しているサルみたいなバカがどうやったら出来上がるのかについてのプロセスは解明しておく必要性がある
そもそも「刑事責任能力の有無」の判定基準に論理科学的根拠なんぞ存在していないのであって だからこそ具体性のある論理的な予防策が一切出てこないのである
三浦春馬とか竹内結子のように社会的に成功していて生活に困窮しているようにも見えないのに自殺したりする原因も 結局は主観的な気分感情の強度程度が行動に直結してしまっていることが大きな要因を占めていると考えられる
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文科系の「学者」達が良く言い出すんだが ヒトという種の生物に普遍的に見られる行動に対して「人間的」などと形容することがよくある
「まちがったって いいじゃないか にんげんだもの」(あいだみつを)
「ヒトだから間違うこともある」とは言えるが 「人間は間違っても良い」ことにはならない
間違うことは良くないことだが ヒトである以上間違いは避けられないのであって 如何にして間違いを減らせるのかについて論理客観的な根拠に基づいた具体性のある対策を立てることが「人間」としての知性であり 「人間性」の本質でもある
相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖のような「重大なバカ」がどうやったら出来上がるのかについて それこそ食事や生活習慣や親の教育方針や ありとあらゆる観点から徹底的に調べ上げ 「感情=行動」という短絡性の原因を明確にしないと何度でも「重大なバカ」による重大事象は繰り返されてしまうことになる
それを放置していれば同罪だぞ
大多数の大衆が放置していれば責任が薄まるとでも「思って」いるのだろうが それこそが「感情=行動」というバカの源でもある
「思い」の強度程度ではなく 論理客観的な「考え」に基づいて行動しないことには迷惑な「重大なバカ」の発生を抑えることはできない
現状においては国家権力を用いた罰という抑圧がなければ自律的に社会的責任を負わないバカが好き放題に犯罪をしまくるであろうことは予想に難くないが だからといって罰だけで犯罪の論理客観的原因究明や再発防止にならないことは明らかである
誰しもがヒトである以上間違う可能性はある それなら どのようにすれば間違いに陥らないようにできるのかについて論理科学的に「知って」おけば 間違いを減らすことは可能である
ところがヒトという種の生物はサルから進化しているため 気に入らない相手に暴力的懲罰さえ与えておけば満足し 気分的安心によって論理客観的検証を放棄してしまう性質がある
だからこそ航空機事故や原発事故では危険学や失敗学のメソッドに則って刑罰を一時停止させ 徹底した論理客観的な原因究明を優先するのである
ところが 交通事故や犯罪においては実質的被害が大きいにも関わらず 罰で「解決」になってしまっているのである
この現状をおかしいと「思わ」ないこと自体がヒトという種の生物の先天的欠陥なのである
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芸能人はネットやマスコミから攻撃されやすいとは言われるが 論理的根拠のない誹謗中傷の類いを真に受け 鵜呑みにして勝手に気分的に落ち込んで薬物中毒になったり自殺したりするのは気分感情が行動と直結し過ぎである
そもそも芸能人というのは多数他人からの評価だけが商売でもあるため 評価承認中毒に陥りやすいとは言えるが 具体的に誰かに迷惑をかけていないのであれば誹謗中傷の類いは気に病む必要性は全くない
評価承認中毒であれば 評価されることに快楽を感じるようになるのと同時に 悪い評価にも過剰に反応してしまうようにもなる
好き嫌いというのは個人の主観であって 好きな人がいれば嫌いな人もいるものであり 主観的に嫌いというだけで「死ね」だの「消えろ」だのといった「個人の感想」もまた言論の自由の範疇である
それこそ松田ゆう姫みたいに「どうした? 何があった? 大丈夫か?」と誹謗中傷をしている相手を心配する方が人間としてマトモであろう
だが 実際の誹謗中傷というのは 誰かを攻撃することによって「正義の鉄槌を下した」かのような錯覚に勝手に陥っているだけであって 一種の病気(誹謗中傷中毒)に過ぎない
人間としての倫理とは 個人的な主観的満足を追求することではなく あくまで論理客観的に社会安全性を優先することにある
主観的満足が思ったように得られないからといって勝手に落ち込んで自殺されても迷惑だということにまで「考え」が及ばないのは 社会安全性や持続可能性に対する配慮が足りていない
「生き続けなければいけない理由」は存在しないが だからといって「それは本当に死ぬ程の理由か?」と「考える」理性が足りていないのではないか
ヒトはどうしても主観的気分感情を短絡的に人間としての意思や意識だと錯覚しがちだが その錯覚を錯覚だと認識する論理客観性が足りていないのである
そもそも気分感情というものが人間としての意識の本質ではないことについては 私以外ほとんど誰も論じていないこと自体 哲学界の怠慢にも程がある
Ende;