承認欲求は幼児期には必要なのか
結論から言うと必要はありません
必要なのは自主性を重んじることであって 褒めて伸ばすことではないのです
褒めて伸ばしてしまうと 褒められることばかりを追求するようになって 一種の中毒に陥ってしまうので良くありません
親大人達が子供に対してやらなければならないのは 子供が自主的主体的に行おうとしていることを後押しサポートしてあげることです 決して褒めることではありませんし ましてや思い通りにならないからと頭ごなしに怒ることでもありません
頭ごなしに「勉強をしろ」だの「部屋を片付けろ」などと命令し 親の思ったように服従させておくことは健全な精神や人格を破壊してしまいます
学校から与えられた課題云々よりも 子供が何に興味を持っているのかを真摯に分析し それを行うには何が必要なのかを一緒になって考え 支援してあげることだけです
目標が見えるようになれば 子供は自ずから積極的に学ぼうとするようになります
部屋を片付けられないのは 部屋に対して子供が愛着を持っていないからであって どのような部屋にしたいのかを尊重し目標を明確にすれば支援の方法も自ずと見えてきますし 愛着を持った部屋なら自分で片付けるようにもなります
何でもかんでも親から与えられてしまうだけだと 子供本人の主体的意向が尊重されず 「与えてやったんだから片付けろ」という頭ごなしな命令にしかなりません
どんなにお金のかかった物を与えられても 本人の納得がいっていない物にどうして愛着が持てるでしょうか そりゃ片付けなんかしませんよ
逆に どんなに安価なものであっても 子供本人が主体的に好きになったものは たとえ公園で作った泥ダンゴであっても大切にするようになります
親の勝手な思い込みで「子供に良かれという思い込み」で与えるだけだと 子供にはそれが反って精神的な負担にしかならなくなります
親が子供の主体性を重要視出来ないのは おそらく親自身が子供の時に主体性を蔑ろにされて育ったからかも知れません
それは一種の軽い「虐待の連鎖」みたいなものでもあるのです
親が子供に要求するべきなのは「命令に服従すること」ではなく 何の命令もしなくても自律的に能動的に物事を行える一人の人格者になってもらうことでなければなりません
子供の自律を育てるためには まず親自身が自律とは何かを理解していないことにはどうにもなりません
褒めて伸ばした子供は 競争心が強くなります そのため社会的「自立」への意欲は確かにつくのですが これは同時に他人を蹴落とすようにもなってしまい 他人への思いやりが働かない人になってしまいます
これは 自分の本当の主観的な「好き」がわからなくなってしまっているのが原因であり 同時に他人の主観的な「好き嫌い」にも配慮が働かなくなります
これは 育てている親にも当てはまる「連鎖」の一つの現れでもあるのです
自分の主観的な「好き」がわからない親なら 子供の主観的な「好き」も尊重しなくなってしまうからです
それは 本当に子供にとって「幸福」だと言えるでしょうか
自分の本当の幸福がわからない人が どうして社会全体の安全性や持続可能性に配慮が働くようになると言えるのでしょうか
東京電力の社内で 「競走に勝った」からといって 原発の津波に対する脆弱性を放置してしまっていたのでは 一体誰が幸福だと言えるでしょうか
人間の社会は本来自然環境の過酷さから逃れるために構築されたものであって 個人が競走に勝って利己的に金持ちになるためにあるわけではありません
「何の為に」という「目的」を もっと根源的な部分から見直さないと 電通のような過酷な競争で自殺者を生み出してしまうことにもなるのです
「弱者は死ねば良い」というのであれば もし癌になって働けなくなったら もし他人の過失事故で身体に障害を負ってしまったら それでも「死ねば良い」というのでしょうか
人間の社会に自然淘汰圧力を導入する必要はありません なぜならヒトはもう遺伝的進化という「バカの競争」からは逃れることに成功しているのですから
Ende;
結論から言うと必要はありません
必要なのは自主性を重んじることであって 褒めて伸ばすことではないのです
褒めて伸ばしてしまうと 褒められることばかりを追求するようになって 一種の中毒に陥ってしまうので良くありません
親大人達が子供に対してやらなければならないのは 子供が自主的主体的に行おうとしていることを後押しサポートしてあげることです 決して褒めることではありませんし ましてや思い通りにならないからと頭ごなしに怒ることでもありません
頭ごなしに「勉強をしろ」だの「部屋を片付けろ」などと命令し 親の思ったように服従させておくことは健全な精神や人格を破壊してしまいます
学校から与えられた課題云々よりも 子供が何に興味を持っているのかを真摯に分析し それを行うには何が必要なのかを一緒になって考え 支援してあげることだけです
目標が見えるようになれば 子供は自ずから積極的に学ぼうとするようになります
部屋を片付けられないのは 部屋に対して子供が愛着を持っていないからであって どのような部屋にしたいのかを尊重し目標を明確にすれば支援の方法も自ずと見えてきますし 愛着を持った部屋なら自分で片付けるようにもなります
何でもかんでも親から与えられてしまうだけだと 子供本人の主体的意向が尊重されず 「与えてやったんだから片付けろ」という頭ごなしな命令にしかなりません
どんなにお金のかかった物を与えられても 本人の納得がいっていない物にどうして愛着が持てるでしょうか そりゃ片付けなんかしませんよ
逆に どんなに安価なものであっても 子供本人が主体的に好きになったものは たとえ公園で作った泥ダンゴであっても大切にするようになります
親の勝手な思い込みで「子供に良かれという思い込み」で与えるだけだと 子供にはそれが反って精神的な負担にしかならなくなります
親が子供の主体性を重要視出来ないのは おそらく親自身が子供の時に主体性を蔑ろにされて育ったからかも知れません
それは一種の軽い「虐待の連鎖」みたいなものでもあるのです
親が子供に要求するべきなのは「命令に服従すること」ではなく 何の命令もしなくても自律的に能動的に物事を行える一人の人格者になってもらうことでなければなりません
子供の自律を育てるためには まず親自身が自律とは何かを理解していないことにはどうにもなりません
褒めて伸ばした子供は 競争心が強くなります そのため社会的「自立」への意欲は確かにつくのですが これは同時に他人を蹴落とすようにもなってしまい 他人への思いやりが働かない人になってしまいます
これは 自分の本当の主観的な「好き」がわからなくなってしまっているのが原因であり 同時に他人の主観的な「好き嫌い」にも配慮が働かなくなります
これは 育てている親にも当てはまる「連鎖」の一つの現れでもあるのです
自分の主観的な「好き」がわからない親なら 子供の主観的な「好き」も尊重しなくなってしまうからです
それは 本当に子供にとって「幸福」だと言えるでしょうか
自分の本当の幸福がわからない人が どうして社会全体の安全性や持続可能性に配慮が働くようになると言えるのでしょうか
東京電力の社内で 「競走に勝った」からといって 原発の津波に対する脆弱性を放置してしまっていたのでは 一体誰が幸福だと言えるでしょうか
人間の社会は本来自然環境の過酷さから逃れるために構築されたものであって 個人が競走に勝って利己的に金持ちになるためにあるわけではありません
「何の為に」という「目的」を もっと根源的な部分から見直さないと 電通のような過酷な競争で自殺者を生み出してしまうことにもなるのです
「弱者は死ねば良い」というのであれば もし癌になって働けなくなったら もし他人の過失事故で身体に障害を負ってしまったら それでも「死ねば良い」というのでしょうか
人間の社会に自然淘汰圧力を導入する必要はありません なぜならヒトはもう遺伝的進化という「バカの競争」からは逃れることに成功しているのですから
Ende;