脱法ハーブに手を出す人っていうのはパターンがあるそうで、「身近な大人を信用していない。」というのもその一つらしい。
だからって何で脱法ハーブの売人のことは信用しちゃうんでしょう。
多分、「身近な大人と言っていることが違う」というだけで盲目的に「信頼」しちゃうんじゃないかな。「敵の敵は味方」的な短絡的見解がそうさせているんであって、こうした短絡性が脳に学習されてしまうのも「身近な大人」達の短絡性に因るものなのではないかと思う。
身近な大人が何の考えも持たずに、その場限りの気分でしか行動が決定していないからこそ、子供も気分感情だけで行動が決定してしまうようになる。
気分感情だけで行動が決定していれば、依存性薬物にハマるのは必然的結果です。
ネズミの脳の快楽中枢に電極をつけて、ネズミがスイッチを押すと電流が流れるようにしておくと、死ぬまでスイッチを押し続ける。それを「自由」だと勘違いしているのと一緒です。
ヤンキーだの暴走族の類が必ず言い出すのが、「マトモに向き合ってくれる大人がいなかった。」などという他者依存性が根本にあり、これは要するに社会的な「甘え」の証拠です。
ヒトという種の生物は哺乳類ですから、先天的に「甘え」る習性が本能的に存在しているわけですが。こうした「甘え」が個人の自律的意思選択というものを障害し、バカげた結末に向かって暴走を引き起こすわけです。
「やる気スイッチ」的な、環境依存的行動バイアスを利用して子供を操作しようとするのは。要するに「サル回し」と一緒で、子供個人の主体性とか本質的自発性といったものを無視した、その場限りのご機嫌取りにしかならないのです。
「その場限り」という短絡性こそが、一貫した自律的な社会的責任判断の喪失を招くことに陥り。無責任な行動へとヒトを導くことになるのです。
薬物依存に陥る人というのは外見ではわからないそうで。生徒会委員長とかクラスの人気者が薬物に手を出すことも少なくないそうで、芸能界においても意外な人が薬物中毒に陥っています。
これらの人達に共通して言えることは、「頑張ってしまっている。」とか「努力している。」といったキーワードです。
生きることに余裕がないと、人は壊れてしまうのではないかと、おいらは思う。
自分に出来る範囲、楽しいと思える範囲でしかヒトは頑張ってはいけないのではないかと、おいらは思う。
イジメなんかも一種の中毒で、大人からの抑圧によるストレスが子供個人の自主的抑制というものを蔑ろにしてしまっている結果だと言えるでしょう。
学力成績だけで子供の価値を測るような短絡性が大人にあるからこそ、子供が大人を信用出来なくなるのです。
子供だけに「良いところメガネ」を要求しておいて、大人が子供の良いところを見つけてあげないからこそ、子供達は萎縮して誰かを蹴落として自分の優位性を見出だすことでしか脳が満足出来なくなる。
他人を蹴落として自分の優位性を見出だすことでしか脳が満足しないのであれば、社会安全性だの持続可能性や、他人への思い遣りが働かなくなるのも必然的結果です。
大人が子供達の良いところを見つけてあげていれば、自ずと子供達も他人の良いところを見つけるように育つものです。「子供は親の背中を見て育つ。」のであって、その場限りの口先で育つものではないのです。
ところが口先だけで育てられた子供というのは、一種の虐待連鎖と同じで「俺はそういう育て方しかされてねぇ。」的な言い逃れを平気でするようになります。これは一種のネグレクト(育児放棄)であり、虐待なのです。
「怖いからやらない。」という観念が脳に行動「学習」されていれば、「怖くないからやる。」という短絡的行動に陥るのは必然的結果であり。こういった大脳辺縁系が促す動物的行動バイアスで子供を操作するのは犯罪にも等しい行為だと言えるでしょう。
「やる気スイッチ。」というのは、他人が学力成績のために押すようなものではなくて。子供自身が「これなら一生続けられそうだな。」と思えることを、子供自身が自ら見つけるべきものなのです。
他人から「やる気スイッチ」をそそのかされていれば、誰かがスイッチを押し続けなければ何もしないヒトが出来上がり。結果的に「高学力な無差別殺人犯」までをも作り出してしまうのです。これがどれだけ無責任かを「考え」ないからこそ、脱法麻薬に溺れるようなバカが生産されてしまうのです。
自律とは、自発の中にあり、他にはない。これは定理です。人工的権威という恐怖を用いて抑圧制御していれば、恐怖かどうかという価値観でしか行動が決定しなくなり、結果的に「怖くないから薬物にも手を出す。」ということになるのです。
Ende;
だからって何で脱法ハーブの売人のことは信用しちゃうんでしょう。
多分、「身近な大人と言っていることが違う」というだけで盲目的に「信頼」しちゃうんじゃないかな。「敵の敵は味方」的な短絡的見解がそうさせているんであって、こうした短絡性が脳に学習されてしまうのも「身近な大人」達の短絡性に因るものなのではないかと思う。
身近な大人が何の考えも持たずに、その場限りの気分でしか行動が決定していないからこそ、子供も気分感情だけで行動が決定してしまうようになる。
気分感情だけで行動が決定していれば、依存性薬物にハマるのは必然的結果です。
ネズミの脳の快楽中枢に電極をつけて、ネズミがスイッチを押すと電流が流れるようにしておくと、死ぬまでスイッチを押し続ける。それを「自由」だと勘違いしているのと一緒です。
ヤンキーだの暴走族の類が必ず言い出すのが、「マトモに向き合ってくれる大人がいなかった。」などという他者依存性が根本にあり、これは要するに社会的な「甘え」の証拠です。
ヒトという種の生物は哺乳類ですから、先天的に「甘え」る習性が本能的に存在しているわけですが。こうした「甘え」が個人の自律的意思選択というものを障害し、バカげた結末に向かって暴走を引き起こすわけです。
「やる気スイッチ」的な、環境依存的行動バイアスを利用して子供を操作しようとするのは。要するに「サル回し」と一緒で、子供個人の主体性とか本質的自発性といったものを無視した、その場限りのご機嫌取りにしかならないのです。
「その場限り」という短絡性こそが、一貫した自律的な社会的責任判断の喪失を招くことに陥り。無責任な行動へとヒトを導くことになるのです。
薬物依存に陥る人というのは外見ではわからないそうで。生徒会委員長とかクラスの人気者が薬物に手を出すことも少なくないそうで、芸能界においても意外な人が薬物中毒に陥っています。
これらの人達に共通して言えることは、「頑張ってしまっている。」とか「努力している。」といったキーワードです。
生きることに余裕がないと、人は壊れてしまうのではないかと、おいらは思う。
自分に出来る範囲、楽しいと思える範囲でしかヒトは頑張ってはいけないのではないかと、おいらは思う。
イジメなんかも一種の中毒で、大人からの抑圧によるストレスが子供個人の自主的抑制というものを蔑ろにしてしまっている結果だと言えるでしょう。
学力成績だけで子供の価値を測るような短絡性が大人にあるからこそ、子供が大人を信用出来なくなるのです。
子供だけに「良いところメガネ」を要求しておいて、大人が子供の良いところを見つけてあげないからこそ、子供達は萎縮して誰かを蹴落として自分の優位性を見出だすことでしか脳が満足出来なくなる。
他人を蹴落として自分の優位性を見出だすことでしか脳が満足しないのであれば、社会安全性だの持続可能性や、他人への思い遣りが働かなくなるのも必然的結果です。
大人が子供達の良いところを見つけてあげていれば、自ずと子供達も他人の良いところを見つけるように育つものです。「子供は親の背中を見て育つ。」のであって、その場限りの口先で育つものではないのです。
ところが口先だけで育てられた子供というのは、一種の虐待連鎖と同じで「俺はそういう育て方しかされてねぇ。」的な言い逃れを平気でするようになります。これは一種のネグレクト(育児放棄)であり、虐待なのです。
「怖いからやらない。」という観念が脳に行動「学習」されていれば、「怖くないからやる。」という短絡的行動に陥るのは必然的結果であり。こういった大脳辺縁系が促す動物的行動バイアスで子供を操作するのは犯罪にも等しい行為だと言えるでしょう。
「やる気スイッチ。」というのは、他人が学力成績のために押すようなものではなくて。子供自身が「これなら一生続けられそうだな。」と思えることを、子供自身が自ら見つけるべきものなのです。
他人から「やる気スイッチ」をそそのかされていれば、誰かがスイッチを押し続けなければ何もしないヒトが出来上がり。結果的に「高学力な無差別殺人犯」までをも作り出してしまうのです。これがどれだけ無責任かを「考え」ないからこそ、脱法麻薬に溺れるようなバカが生産されてしまうのです。
自律とは、自発の中にあり、他にはない。これは定理です。人工的権威という恐怖を用いて抑圧制御していれば、恐怖かどうかという価値観でしか行動が決定しなくなり、結果的に「怖くないから薬物にも手を出す。」ということになるのです。
Ende;