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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

体制腐敗。

2012年01月30日 22時26分07秒 | 意識論関連
 フランシス:ゴルトンの提唱した優生学というのは、その理論体系は「人種の観念。」に基づいて組み立てられている。

 まあ、「観念。」という言葉の翻訳の仕方にもよるのかも知れないが。観念を理論体系の根幹にしている以上、その上にどんなに論理的屁理屈を構築しても理論的証明には原理的にならない。

 優生学に限らず、現在の生物学というのは結果的に生存していることが最大の優先事項として扱われており。その過程においての個体の選択判断自体には意味がないことになっている。

 個体の犠牲に基づいて種が存続した場合において、それもまた種としての優位性であるとするまでは良しとしても。判断を放棄した個体の無責任性については全く言及しないのはおかしな話である。

 生物学における知能論も、個体の判断や思考探索による個人の知能については意味を求めず。ただ、のべつまくなし様々な試行の結果だけで知能を説明しようとする。

 他人が思い付いた発見や発明と、自分がそれを理解したことを区別せず。それを「脳内における同じ反応。」であると本気で信じているのである。もしそうでないなら養老に反論しないのは何故であろうか。

 ヒトは概ね固定観念に基づいた思考しかできない。従ってどんなに多数が同じ固定観念に基づいた思考を行っても、固定観念を超えた思考探索には至らない。しかし、固定観念を固定観念であると自律的に認識し、固定観念を超えることによって初めて本当の思考探索というものが可能となる。それは人数によって決まるものではなく、個人の意識、論理的思考によって成されるものであり。個人の特性に由来するものである。

 固定観念に染まった生物学者がどんなにたくさんの結果論を抽出枚挙してきても、そこから個体の自律的な判断の重要性が検証されないのと同様である。固定観念を固定観念と認識できなければ、固定観念に基づいた考えから抜け出すことはできない。

 単なる結果論だけを論じてしまえば、誰が何を発見発明しても、それらは全て種の優位性であると結論付けられてしまい。気付かなかった多数のバカさについては全く言及されず。これが現在の生物学における「言い逃れ。」の手口である。

 優生学に限らず、現在の生物学というのは生存だけが絶対的な価値であり。結果として生存してさえいれば過程において何が選択されようとも全く感知しない。詐欺でも虐殺でも搾取でも、全ては結果的に生存してさえいれば「正しい。」ことになっているからである。

 文系の者であれば、「命が一番大切。」という固定観念が絶対的正義であろう。それなら個人が他者を出し抜いてでも生存に固執することも正義とされ。また、個人が社会的責任を全く負わずに個人的に生存に固執してもまた正義となる。

 これは生物学的な正義である「生存。」価には適しているであろうが、現実に人間社会においては「サルの正義。」或は「イヌの勝利。」にしかならない。

 サイバネティクスの観点からはナチス政権に迎合して絶滅収容所の吏官として社会的に成功することであっても、これは生存のために必要なものであり、過ちとして認識されることはない。どんなにバカでもキチガイでも、生存してさええれば生物学上は「正しい。」のである。

 優生学に限らず、現在の生物学の観念上においては。個人の自律的判断の意味は種全体の結果的存続の上において必然であり。個人の自律的判断や発見の全ては種全体における功績であるとされてしまうのである。

 このように現在の生物学上では個人の自律的判断は社会内部においては価値を持たないのである。



 なぜ、このような支離滅裂な観念が放置され続けるのか。それは文系の者の非論理的で断片的な正当性の論証だけが気分的に優先されるからである。

 「命は素晴らしい。」と称して絶対的正義にしておけば、患者が苦しむだけであるとしても医学的な延命処置は機械条件反射的に正義となる。死にさえしなければ絶対的に正義なのである。

 嘘や暴力を用いて生存を確保したとしても、これもまた「生存。」であり。社会公益のために犠牲になれば「生存。」にはならない。単に生物的に「生存。」していることは必ずしも人間としての存在価値が伴うわけではないのである。

 「生存。」を絶対的正義とするのであれば、なぜ死刑制度が存続するのであろう。文系の観念というのは論理整合性には最初から興味がなく、断片的にその場限りに気分が良い話を正当化することしか興味(意識)が働かないからである。

 正義を振り回せば暴力であっても快楽を感じるような「仕組み。」が脳にはある。地動説を火炙りにしたのも、こうした本能習性によるものである。島皮質や側坐核の反応の違いによって観測できるのだという。

 「仕組み。」とは無意識であり本能であり条件反射である。予め組み込まれた「仕組み。」のままに何ら自発的に行動が選択できずに「自由。」とは言わない。どんなに「仕組み。」によって行動が左右されがちであるとしても、自由に行動が選択できない状態は自由でもなければ意思が働いているとも論理的には言うことができないのである。




 支離滅裂な話の全てに反論することは徒労である。どうにでも言い逃れが可能な断片的論証の枚挙抽出に対していちいち論理反証をするのは明らかに不利だからである。支離滅裂な話/論理整合性のない話というのは何の方向性も持たず、何とでも言い張ることが可能であるからだ。

 となれば、必要なのはその場限りに言い逃ればかりする者の言うことを信用しないことが最も効率の良い安全性確立方であろう。既に生物学者のほとんど全員はその場限りの言い逃れしかしておらず、信用するに価しないのは明白である。

 科学であるなら多数決ではなく、論理整合性に基づく検証性が優先されなければならない。ならば現在の生物学における権威システムは根本から再構築しなければならないであろう。

 ところが文系思考の生物学者達というのは、自律的に論理検証をすることが大嫌いで。進化生物的にのべつまくなし無意識な思い付きを述べていさえすれば自動的、無意識的に有効な理論が出来上がると勝手に思い込んでおり。自律的な論理検証を全く行わない。養老孟司が言う「間違えない人などいないから、間違えたら先生が教科書に墨を塗ればいいんだな。」などという自律の欠落した固定観念と同じ思考パタンを共有して満足するのである。こうした観念は誰も自律的には検証訂正することはなく。全く自律的には論理検証は行われない。もし自律的に検証可能であるならば、養老孟司に反論していなければおかしいのである。これこそが現在の生物学界は盲目なバカ集団である証明でもある。

 何せ個体の本能目的を超越した、超自然的目的意識の存在を本気にしているくらいである。それなら論理検証や知能というものであっても個体の主体的意識とは無関係に、自動的且つ無意識的に成立すると本気にしていても何の不思議もない。

 現在の生物学というのは誰一人として論理検証も行わなければ、誰一人として固定観念に気付くこともなく。自律的には何も気付かず、何も検証できないバカの集団=オカルト集団にしかなっていないのである。

 外部から間違いを訂正されても、自分達がなぜ間違えたのかについての原因究明も対策も全く行わず。全く教訓として知識財産にはすることができないのである。こんなものは学問でも何でもなかろう。

 工学/物理学系研究者が生物学に対して抱く「訳のわからなさ。」は、支離滅裂な話を誰も論理的に検証することのない非科学性が源である。文系の者の脳というのは論理検証が伴わなくても気分的に満足してしまうのである。

 現在の生物学界の内部においては、こうした無意識的観念に基づく限り、意識的に間違いを自律的に修正することは構造的に不可能である。自律浄化が効かない以上、他律的に再構築する以外に方法はない。これを一般的に「体制腐敗。」と形容するのである。

 生物学者達は進化生物的に、のべつまくなしその場限りの思い付きを集めて話を丸めておけば、自動的無意識的に科学的業績が出て来ると勝手に錯覚しているのである。これこそがバカの観念というものである。バカの観念をどんなにたくさん枚挙しても、そこから論理検証性や固定観念と理論の区別は一切行われない。

 だからこそ支離滅裂な養老孟司が東京大学名誉教授でいられたり。体制多数決に依存して自律判断ができない佐倉統が情報学環教授でいられるのである。こうした異常体制は社会公益的見地からは根本的に再構築/脱構築する必要性がある。

 糞の役にも立たないチンパンジーの遊園地を造る資金があるのなら、生物学界自体を再構築した方が社会的有益性を確立出来るというものである。

 意識のない集団には意識に基づく自律的な自浄作用が働かないのは必然である。だから養老は「意識に意味はない。」と言い張るのである。自分にない自律的意識が他人にあっては困るからだ。まるで自分だけが人間として出来損ないである論証になりかねないからである。だから無意識な大衆凡人と同じ観念を共有することによって正当化したがるのである。

 大衆凡人であれば論理整合性がなくても気分的丸め込みだけで気分的に「納得。」してしまう。論理検証ができないからこそ大衆凡人というのである。論理検証ができないのであれば、社会安全性について言及する資格はない。観念が混入すれば気分的安心の追及によって社会安全性は確立できなくなるからだ。

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想定。

2012年01月30日 15時01分00秒 | 意識論関連
 秋葉原で殺戮を行えば死刑になるであろうが、シエラレオネでは逆に積極的に殺戮に参加しないと生存に価しない場合も存在する。

 状況や環境に左右される生存という結果論は、個体の自律的判断とは無関係である。

 「生存=人間。」などという方程式は成立しない。従って単なる結果的生存を論じても、そこから必ずしも個体の自律的な社会的責任判断とは無関係であり。結果的「生存。」価をどんなに強弁しても個人の自律的判断である「人間としての社会性。」に言及することも、また分析することにもならない。

 個人の自律的判断による犠牲によって集団全体が生き残った場合、これを種全体における人間性/社会性の結果であると言うことも可能であるが。生き残るという「結果。」だけからは必ずしも個人の自律による結果によるものであるとは言うことができない。

 「結果的に種として存続。」したかどうかは、個人の自律的な社会的責任判断とは無関係である。従って、生物学上における「生存=正義。」という価値観自体からは人間の自律的社会的責任判断について原理的に言及不可能である。

 本論において「生存自体に意味はない。」とするのは、個人の自律的社会的責任判断は、必ずしも生物学的結果である「生存。」とは等価ではないからだ。

 無論、「ヒトという種が存続しなくて良い。」と論じているわけではなく。人間としての社会が構築できないのであれば単に生存だけを論じても、人間として存続する意味や価値にならないという意味で「生物的な生存自体に意味はない。」と言っているのである。ゲリラやナチスに迎合しておいて、「人間。」であるとは言えないからだ。

 優生学に有効な反論をできない現在の生物学はオカルトでしかないのである。

 現在の生物学上における、生物的生存だけを絶対的正義とした、その場限りの言い逃れや取り繕いを認識できなければ。個人の自律的な社会的責任判断については全く研究が進むことはない。その場限りに「個体の生存価。」を論じたり、「種としての存続。」に価値を置いたりしていては、全く個人の自律には言及不可能だからである。

 「仕組み。」というのは本能習性であり、無意識である。現在の生物学における「結果。」論の抽出枚挙陳列による生物的な正当性の論証をいくらたくさん並べても。そこから本質的な意識的選択とは何か、自律的選択とはどのように失われるのかといった分析は構造原理的に成されることはない。

 原理的に分析不可能な事柄において「わからない。」としておく謙虚さは必要であるが。論理的理解力が足りないだけであるなら、これは単なるバカに過ぎない。本論はそれ程難解な事は論じてはおらず、極めて基礎的な話しかしていない。これを「わからない。」と言い張るのであれば、科学者として最初からポンコツだったということである。

 従来の生物学における根本的間違いを認識できないことには、もはや如何なるヒトの間違いであっても認識することはできないであろう。

 文系の気分的な観念を、科学的検証に持ち込むから論理的認識による「気付き。」が働かないのである。

 論理的思考の働かない文系の者というのは、自分達にとって不都合な話をすると観念的、感情的に異常な程取り繕いや言い逃れに固執する。何せ動機が本能的恐怖心であるから、その執着心は極めて動物的に強力であり。また、生物本能的な「コミュニケーション能力。」によって、相手の反論意欲を喪失させることにおいては非常に「巧妙。」でもある。

 論理的に理解可能な者の多くは、こうした動物的、本能習性による「コミュニケーション能力。」の前において極めて微力である。原発の暴走を許したのも、こうした感情的な「コミュニケーション能力。」による強弁によって、論理的安全性が踏みにじられたのが原因である。

 ヒトが作り出す集団や権威において、動物習性的な「コミュニケーション能力。」である生物本能的な社会形成習性による気分的観念が優先することは珍しいことではない。論理的に合理的な地動説を、観念的/強迫観念的に火炙りにしなければならなかったのは。その判断自体が観念によるものであって、論理的合理性によるものではなかったからである。

 こうした「ヒトの過ち。」というものを、単なる時代や社会といった環境依存性に原因をなすりつけておけば。そこに自律的判断に言及しなくても良くなってしまう。長い期間を経て結果的に受け入れたという「結果。」だけを論じしまえば、当時の判断の間違いにも言及されなくなる。

 これを「言い逃れ。」や「取り繕い。」と言わずして、何と言うであろう。

 ヒトが人間としての論理的思考を失うのは、そこに感情に基づいた事後正当化の観念が働いているからである。

 ヒトの多くは「自分だけは大丈夫。」であると錯覚する。それは「今までずっと大丈夫だった。」という気分的な観念が作り出す錯覚である。

 なぜテロリストが地下鉄に毒ガスを散布したのか。それは当人が「人類の救済。」であると錯覚したまま、自律的にはその間違いに全く気付くこと、認識することが出来なかったからである。

 文系の気分的観念を盲目的に「信頼。」しておけば、気分的には「安心。」して生物学の観念を放置しておくことは簡単であろう。それこそが「ヒトという種の生物の行動習性。」であるからだ。

 だが、こうした無意識的な行動習性によって疑問や論理検証性を放棄してしまうからこそ、論理的な社会「安全。」性が失われることになるのである。


 過去の遺跡から当時の社会状況を妄想するのは簡単であるが。過去に起こったあらゆる事実の全てを知ることは原理的に不可能である。現在においても無人の密室で行われる完全犯罪の事実を知ることができないのに、証拠のほとんどを喪失した過去の事実など、もはや所詮研究者個人の仮想的な妄想の範疇から出ることはない。

 個人の仮想的妄想をいくらたくさん枚挙しても、「ヒト=人間。」であることの論証になど一切ならない。

 お伽話でどんなに気分的に満足安心しても、振り込め詐欺撲滅への対策にもならないし、重大事故の原因究明にも寄与することはない。文系の観念は気分的満足しか与えることはなく、所詮は芸術「文学。」であって、人文「科学。」としては機能しないのである。

 生物学者達の断片的立証による断定に撹乱されて、「ヒト=人間。」という観念に対しての疑念を忘れてしまうのは。文系思考のマスコミにとって、とても簡単なことなのであろう。



 個人の自律的判断を、全て(或は多く)のヒトに与えることが面倒臭いと言うのであれば。それは面倒臭いと思っているあなたの脳自体に自律というものが欠落しているからである。「自分にできないことは他人にもできない。」と「思う。」のは、気分感情的にはとても自然なことだからである。

 「難しい。」というのも言い逃れである。簡単なことで問題が解決するのであれば、既にあらゆるヒトの問題行動の全ては解決しているはずである。ヒトという種の生物は、「これさえやっておけば、全ては解決する。」という短絡的解決策にばかり意識を奪われがちである。その短絡性こそが、自律的な論理検証性を喪失する要因なのである。

 理論的には簡単であっても、相手が生物本能的「習性。」である以上。それが困難であることはわかっている。気分的に嫌なのも想定の範囲内である。

 航空機事故であれば航空会社が認識しておけば良い範疇の話であるが。「ヒト。」全般における習性が促す過ちであれば本来何人たりとも無視して良い話ではない。ましてや科学者やマスコミが認識できないなどというのは論外であり、噴飯ものである。


 ヒトというのは、人数の大きなコミュニティーの中では。自分個人の自律的判断の無力を「感じる。」であろう。確かに多数を相手に個人の判断というものは、それだけでは決して「大きな力。」とは言えないであろう。だからこそ多くのヒトは多数他人に迎合し、多数他人によって規定された権威に無条件に服従することに「陥る。」習性に従ってしまうことになるのである。

 多数他人という「世間。」に迎合しておけば気分的にも安心であり、また世間的にも成功しやすいであろう。効果もない脳トレブームに便乗しておけば金にはなる。しかし流行に逆らって論理的に反論しても一円にもなりはしない。

 もはや月々の通信費も捻出不能なので、常時接続もできない。後は私以外の誰かが現在の生物学に対して論理的検証による追及を行うのに任せるしかなかろう。

end;
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