フランシス:ゴルトンの提唱した優生学というのは、その理論体系は「人種の観念。」に基づいて組み立てられている。
まあ、「観念。」という言葉の翻訳の仕方にもよるのかも知れないが。観念を理論体系の根幹にしている以上、その上にどんなに論理的屁理屈を構築しても理論的証明には原理的にならない。
優生学に限らず、現在の生物学というのは結果的に生存していることが最大の優先事項として扱われており。その過程においての個体の選択判断自体には意味がないことになっている。
個体の犠牲に基づいて種が存続した場合において、それもまた種としての優位性であるとするまでは良しとしても。判断を放棄した個体の無責任性については全く言及しないのはおかしな話である。
生物学における知能論も、個体の判断や思考探索による個人の知能については意味を求めず。ただ、のべつまくなし様々な試行の結果だけで知能を説明しようとする。
他人が思い付いた発見や発明と、自分がそれを理解したことを区別せず。それを「脳内における同じ反応。」であると本気で信じているのである。もしそうでないなら養老に反論しないのは何故であろうか。
ヒトは概ね固定観念に基づいた思考しかできない。従ってどんなに多数が同じ固定観念に基づいた思考を行っても、固定観念を超えた思考探索には至らない。しかし、固定観念を固定観念であると自律的に認識し、固定観念を超えることによって初めて本当の思考探索というものが可能となる。それは人数によって決まるものではなく、個人の意識、論理的思考によって成されるものであり。個人の特性に由来するものである。
固定観念に染まった生物学者がどんなにたくさんの結果論を抽出枚挙してきても、そこから個体の自律的な判断の重要性が検証されないのと同様である。固定観念を固定観念と認識できなければ、固定観念に基づいた考えから抜け出すことはできない。
単なる結果論だけを論じてしまえば、誰が何を発見発明しても、それらは全て種の優位性であると結論付けられてしまい。気付かなかった多数のバカさについては全く言及されず。これが現在の生物学における「言い逃れ。」の手口である。
優生学に限らず、現在の生物学というのは生存だけが絶対的な価値であり。結果として生存してさえいれば過程において何が選択されようとも全く感知しない。詐欺でも虐殺でも搾取でも、全ては結果的に生存してさえいれば「正しい。」ことになっているからである。
文系の者であれば、「命が一番大切。」という固定観念が絶対的正義であろう。それなら個人が他者を出し抜いてでも生存に固執することも正義とされ。また、個人が社会的責任を全く負わずに個人的に生存に固執してもまた正義となる。
これは生物学的な正義である「生存。」価には適しているであろうが、現実に人間社会においては「サルの正義。」或は「イヌの勝利。」にしかならない。
サイバネティクスの観点からはナチス政権に迎合して絶滅収容所の吏官として社会的に成功することであっても、これは生存のために必要なものであり、過ちとして認識されることはない。どんなにバカでもキチガイでも、生存してさええれば生物学上は「正しい。」のである。
優生学に限らず、現在の生物学の観念上においては。個人の自律的判断の意味は種全体の結果的存続の上において必然であり。個人の自律的判断や発見の全ては種全体における功績であるとされてしまうのである。
このように現在の生物学上では個人の自律的判断は社会内部においては価値を持たないのである。
なぜ、このような支離滅裂な観念が放置され続けるのか。それは文系の者の非論理的で断片的な正当性の論証だけが気分的に優先されるからである。
「命は素晴らしい。」と称して絶対的正義にしておけば、患者が苦しむだけであるとしても医学的な延命処置は機械条件反射的に正義となる。死にさえしなければ絶対的に正義なのである。
嘘や暴力を用いて生存を確保したとしても、これもまた「生存。」であり。社会公益のために犠牲になれば「生存。」にはならない。単に生物的に「生存。」していることは必ずしも人間としての存在価値が伴うわけではないのである。
「生存。」を絶対的正義とするのであれば、なぜ死刑制度が存続するのであろう。文系の観念というのは論理整合性には最初から興味がなく、断片的にその場限りに気分が良い話を正当化することしか興味(意識)が働かないからである。
正義を振り回せば暴力であっても快楽を感じるような「仕組み。」が脳にはある。地動説を火炙りにしたのも、こうした本能習性によるものである。島皮質や側坐核の反応の違いによって観測できるのだという。
「仕組み。」とは無意識であり本能であり条件反射である。予め組み込まれた「仕組み。」のままに何ら自発的に行動が選択できずに「自由。」とは言わない。どんなに「仕組み。」によって行動が左右されがちであるとしても、自由に行動が選択できない状態は自由でもなければ意思が働いているとも論理的には言うことができないのである。
支離滅裂な話の全てに反論することは徒労である。どうにでも言い逃れが可能な断片的論証の枚挙抽出に対していちいち論理反証をするのは明らかに不利だからである。支離滅裂な話/論理整合性のない話というのは何の方向性も持たず、何とでも言い張ることが可能であるからだ。
となれば、必要なのはその場限りに言い逃ればかりする者の言うことを信用しないことが最も効率の良い安全性確立方であろう。既に生物学者のほとんど全員はその場限りの言い逃れしかしておらず、信用するに価しないのは明白である。
科学であるなら多数決ではなく、論理整合性に基づく検証性が優先されなければならない。ならば現在の生物学における権威システムは根本から再構築しなければならないであろう。
ところが文系思考の生物学者達というのは、自律的に論理検証をすることが大嫌いで。進化生物的にのべつまくなし無意識な思い付きを述べていさえすれば自動的、無意識的に有効な理論が出来上がると勝手に思い込んでおり。自律的な論理検証を全く行わない。養老孟司が言う「間違えない人などいないから、間違えたら先生が教科書に墨を塗ればいいんだな。」などという自律の欠落した固定観念と同じ思考パタンを共有して満足するのである。こうした観念は誰も自律的には検証訂正することはなく。全く自律的には論理検証は行われない。もし自律的に検証可能であるならば、養老孟司に反論していなければおかしいのである。これこそが現在の生物学界は盲目なバカ集団である証明でもある。
何せ個体の本能目的を超越した、超自然的目的意識の存在を本気にしているくらいである。それなら論理検証や知能というものであっても個体の主体的意識とは無関係に、自動的且つ無意識的に成立すると本気にしていても何の不思議もない。
現在の生物学というのは誰一人として論理検証も行わなければ、誰一人として固定観念に気付くこともなく。自律的には何も気付かず、何も検証できないバカの集団=オカルト集団にしかなっていないのである。
外部から間違いを訂正されても、自分達がなぜ間違えたのかについての原因究明も対策も全く行わず。全く教訓として知識財産にはすることができないのである。こんなものは学問でも何でもなかろう。
工学/物理学系研究者が生物学に対して抱く「訳のわからなさ。」は、支離滅裂な話を誰も論理的に検証することのない非科学性が源である。文系の者の脳というのは論理検証が伴わなくても気分的に満足してしまうのである。
現在の生物学界の内部においては、こうした無意識的観念に基づく限り、意識的に間違いを自律的に修正することは構造的に不可能である。自律浄化が効かない以上、他律的に再構築する以外に方法はない。これを一般的に「体制腐敗。」と形容するのである。
生物学者達は進化生物的に、のべつまくなしその場限りの思い付きを集めて話を丸めておけば、自動的無意識的に科学的業績が出て来ると勝手に錯覚しているのである。これこそがバカの観念というものである。バカの観念をどんなにたくさん枚挙しても、そこから論理検証性や固定観念と理論の区別は一切行われない。
だからこそ支離滅裂な養老孟司が東京大学名誉教授でいられたり。体制多数決に依存して自律判断ができない佐倉統が情報学環教授でいられるのである。こうした異常体制は社会公益的見地からは根本的に再構築/脱構築する必要性がある。
糞の役にも立たないチンパンジーの遊園地を造る資金があるのなら、生物学界自体を再構築した方が社会的有益性を確立出来るというものである。
意識のない集団には意識に基づく自律的な自浄作用が働かないのは必然である。だから養老は「意識に意味はない。」と言い張るのである。自分にない自律的意識が他人にあっては困るからだ。まるで自分だけが人間として出来損ないである論証になりかねないからである。だから無意識な大衆凡人と同じ観念を共有することによって正当化したがるのである。
大衆凡人であれば論理整合性がなくても気分的丸め込みだけで気分的に「納得。」してしまう。論理検証ができないからこそ大衆凡人というのである。論理検証ができないのであれば、社会安全性について言及する資格はない。観念が混入すれば気分的安心の追及によって社会安全性は確立できなくなるからだ。
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まあ、「観念。」という言葉の翻訳の仕方にもよるのかも知れないが。観念を理論体系の根幹にしている以上、その上にどんなに論理的屁理屈を構築しても理論的証明には原理的にならない。
優生学に限らず、現在の生物学というのは結果的に生存していることが最大の優先事項として扱われており。その過程においての個体の選択判断自体には意味がないことになっている。
個体の犠牲に基づいて種が存続した場合において、それもまた種としての優位性であるとするまでは良しとしても。判断を放棄した個体の無責任性については全く言及しないのはおかしな話である。
生物学における知能論も、個体の判断や思考探索による個人の知能については意味を求めず。ただ、のべつまくなし様々な試行の結果だけで知能を説明しようとする。
他人が思い付いた発見や発明と、自分がそれを理解したことを区別せず。それを「脳内における同じ反応。」であると本気で信じているのである。もしそうでないなら養老に反論しないのは何故であろうか。
ヒトは概ね固定観念に基づいた思考しかできない。従ってどんなに多数が同じ固定観念に基づいた思考を行っても、固定観念を超えた思考探索には至らない。しかし、固定観念を固定観念であると自律的に認識し、固定観念を超えることによって初めて本当の思考探索というものが可能となる。それは人数によって決まるものではなく、個人の意識、論理的思考によって成されるものであり。個人の特性に由来するものである。
固定観念に染まった生物学者がどんなにたくさんの結果論を抽出枚挙してきても、そこから個体の自律的な判断の重要性が検証されないのと同様である。固定観念を固定観念と認識できなければ、固定観念に基づいた考えから抜け出すことはできない。
単なる結果論だけを論じてしまえば、誰が何を発見発明しても、それらは全て種の優位性であると結論付けられてしまい。気付かなかった多数のバカさについては全く言及されず。これが現在の生物学における「言い逃れ。」の手口である。
優生学に限らず、現在の生物学というのは生存だけが絶対的な価値であり。結果として生存してさえいれば過程において何が選択されようとも全く感知しない。詐欺でも虐殺でも搾取でも、全ては結果的に生存してさえいれば「正しい。」ことになっているからである。
文系の者であれば、「命が一番大切。」という固定観念が絶対的正義であろう。それなら個人が他者を出し抜いてでも生存に固執することも正義とされ。また、個人が社会的責任を全く負わずに個人的に生存に固執してもまた正義となる。
これは生物学的な正義である「生存。」価には適しているであろうが、現実に人間社会においては「サルの正義。」或は「イヌの勝利。」にしかならない。
サイバネティクスの観点からはナチス政権に迎合して絶滅収容所の吏官として社会的に成功することであっても、これは生存のために必要なものであり、過ちとして認識されることはない。どんなにバカでもキチガイでも、生存してさええれば生物学上は「正しい。」のである。
優生学に限らず、現在の生物学の観念上においては。個人の自律的判断の意味は種全体の結果的存続の上において必然であり。個人の自律的判断や発見の全ては種全体における功績であるとされてしまうのである。
このように現在の生物学上では個人の自律的判断は社会内部においては価値を持たないのである。
なぜ、このような支離滅裂な観念が放置され続けるのか。それは文系の者の非論理的で断片的な正当性の論証だけが気分的に優先されるからである。
「命は素晴らしい。」と称して絶対的正義にしておけば、患者が苦しむだけであるとしても医学的な延命処置は機械条件反射的に正義となる。死にさえしなければ絶対的に正義なのである。
嘘や暴力を用いて生存を確保したとしても、これもまた「生存。」であり。社会公益のために犠牲になれば「生存。」にはならない。単に生物的に「生存。」していることは必ずしも人間としての存在価値が伴うわけではないのである。
「生存。」を絶対的正義とするのであれば、なぜ死刑制度が存続するのであろう。文系の観念というのは論理整合性には最初から興味がなく、断片的にその場限りに気分が良い話を正当化することしか興味(意識)が働かないからである。
正義を振り回せば暴力であっても快楽を感じるような「仕組み。」が脳にはある。地動説を火炙りにしたのも、こうした本能習性によるものである。島皮質や側坐核の反応の違いによって観測できるのだという。
「仕組み。」とは無意識であり本能であり条件反射である。予め組み込まれた「仕組み。」のままに何ら自発的に行動が選択できずに「自由。」とは言わない。どんなに「仕組み。」によって行動が左右されがちであるとしても、自由に行動が選択できない状態は自由でもなければ意思が働いているとも論理的には言うことができないのである。
支離滅裂な話の全てに反論することは徒労である。どうにでも言い逃れが可能な断片的論証の枚挙抽出に対していちいち論理反証をするのは明らかに不利だからである。支離滅裂な話/論理整合性のない話というのは何の方向性も持たず、何とでも言い張ることが可能であるからだ。
となれば、必要なのはその場限りに言い逃ればかりする者の言うことを信用しないことが最も効率の良い安全性確立方であろう。既に生物学者のほとんど全員はその場限りの言い逃れしかしておらず、信用するに価しないのは明白である。
科学であるなら多数決ではなく、論理整合性に基づく検証性が優先されなければならない。ならば現在の生物学における権威システムは根本から再構築しなければならないであろう。
ところが文系思考の生物学者達というのは、自律的に論理検証をすることが大嫌いで。進化生物的にのべつまくなし無意識な思い付きを述べていさえすれば自動的、無意識的に有効な理論が出来上がると勝手に思い込んでおり。自律的な論理検証を全く行わない。養老孟司が言う「間違えない人などいないから、間違えたら先生が教科書に墨を塗ればいいんだな。」などという自律の欠落した固定観念と同じ思考パタンを共有して満足するのである。こうした観念は誰も自律的には検証訂正することはなく。全く自律的には論理検証は行われない。もし自律的に検証可能であるならば、養老孟司に反論していなければおかしいのである。これこそが現在の生物学界は盲目なバカ集団である証明でもある。
何せ個体の本能目的を超越した、超自然的目的意識の存在を本気にしているくらいである。それなら論理検証や知能というものであっても個体の主体的意識とは無関係に、自動的且つ無意識的に成立すると本気にしていても何の不思議もない。
現在の生物学というのは誰一人として論理検証も行わなければ、誰一人として固定観念に気付くこともなく。自律的には何も気付かず、何も検証できないバカの集団=オカルト集団にしかなっていないのである。
外部から間違いを訂正されても、自分達がなぜ間違えたのかについての原因究明も対策も全く行わず。全く教訓として知識財産にはすることができないのである。こんなものは学問でも何でもなかろう。
工学/物理学系研究者が生物学に対して抱く「訳のわからなさ。」は、支離滅裂な話を誰も論理的に検証することのない非科学性が源である。文系の者の脳というのは論理検証が伴わなくても気分的に満足してしまうのである。
現在の生物学界の内部においては、こうした無意識的観念に基づく限り、意識的に間違いを自律的に修正することは構造的に不可能である。自律浄化が効かない以上、他律的に再構築する以外に方法はない。これを一般的に「体制腐敗。」と形容するのである。
生物学者達は進化生物的に、のべつまくなしその場限りの思い付きを集めて話を丸めておけば、自動的無意識的に科学的業績が出て来ると勝手に錯覚しているのである。これこそがバカの観念というものである。バカの観念をどんなにたくさん枚挙しても、そこから論理検証性や固定観念と理論の区別は一切行われない。
だからこそ支離滅裂な養老孟司が東京大学名誉教授でいられたり。体制多数決に依存して自律判断ができない佐倉統が情報学環教授でいられるのである。こうした異常体制は社会公益的見地からは根本的に再構築/脱構築する必要性がある。
糞の役にも立たないチンパンジーの遊園地を造る資金があるのなら、生物学界自体を再構築した方が社会的有益性を確立出来るというものである。
意識のない集団には意識に基づく自律的な自浄作用が働かないのは必然である。だから養老は「意識に意味はない。」と言い張るのである。自分にない自律的意識が他人にあっては困るからだ。まるで自分だけが人間として出来損ないである論証になりかねないからである。だから無意識な大衆凡人と同じ観念を共有することによって正当化したがるのである。
大衆凡人であれば論理整合性がなくても気分的丸め込みだけで気分的に「納得。」してしまう。論理検証ができないからこそ大衆凡人というのである。論理検証ができないのであれば、社会安全性について言及する資格はない。観念が混入すれば気分的安心の追及によって社会安全性は確立できなくなるからだ。
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