秋葉原で殺戮を行えば死刑になるであろうが、シエラレオネでは逆に積極的に殺戮に参加しないと生存に価しない場合も存在する。
状況や環境に左右される生存という結果論は、個体の自律的判断とは無関係である。
「生存=人間。」などという方程式は成立しない。従って単なる結果的生存を論じても、そこから必ずしも個体の自律的な社会的責任判断とは無関係であり。結果的「生存。」価をどんなに強弁しても個人の自律的判断である「人間としての社会性。」に言及することも、また分析することにもならない。
個人の自律的判断による犠牲によって集団全体が生き残った場合、これを種全体における人間性/社会性の結果であると言うことも可能であるが。生き残るという「結果。」だけからは必ずしも個人の自律による結果によるものであるとは言うことができない。
「結果的に種として存続。」したかどうかは、個人の自律的な社会的責任判断とは無関係である。従って、生物学上における「生存=正義。」という価値観自体からは人間の自律的社会的責任判断について原理的に言及不可能である。
本論において「生存自体に意味はない。」とするのは、個人の自律的社会的責任判断は、必ずしも生物学的結果である「生存。」とは等価ではないからだ。
無論、「ヒトという種が存続しなくて良い。」と論じているわけではなく。人間としての社会が構築できないのであれば単に生存だけを論じても、人間として存続する意味や価値にならないという意味で「生物的な生存自体に意味はない。」と言っているのである。ゲリラやナチスに迎合しておいて、「人間。」であるとは言えないからだ。
優生学に有効な反論をできない現在の生物学はオカルトでしかないのである。
現在の生物学上における、生物的生存だけを絶対的正義とした、その場限りの言い逃れや取り繕いを認識できなければ。個人の自律的な社会的責任判断については全く研究が進むことはない。その場限りに「個体の生存価。」を論じたり、「種としての存続。」に価値を置いたりしていては、全く個人の自律には言及不可能だからである。
「仕組み。」というのは本能習性であり、無意識である。現在の生物学における「結果。」論の抽出枚挙陳列による生物的な正当性の論証をいくらたくさん並べても。そこから本質的な意識的選択とは何か、自律的選択とはどのように失われるのかといった分析は構造原理的に成されることはない。
原理的に分析不可能な事柄において「わからない。」としておく謙虚さは必要であるが。論理的理解力が足りないだけであるなら、これは単なるバカに過ぎない。本論はそれ程難解な事は論じてはおらず、極めて基礎的な話しかしていない。これを「わからない。」と言い張るのであれば、科学者として最初からポンコツだったということである。
従来の生物学における根本的間違いを認識できないことには、もはや如何なるヒトの間違いであっても認識することはできないであろう。
文系の気分的な観念を、科学的検証に持ち込むから論理的認識による「気付き。」が働かないのである。
論理的思考の働かない文系の者というのは、自分達にとって不都合な話をすると観念的、感情的に異常な程取り繕いや言い逃れに固執する。何せ動機が本能的恐怖心であるから、その執着心は極めて動物的に強力であり。また、生物本能的な「コミュニケーション能力。」によって、相手の反論意欲を喪失させることにおいては非常に「巧妙。」でもある。
論理的に理解可能な者の多くは、こうした動物的、本能習性による「コミュニケーション能力。」の前において極めて微力である。原発の暴走を許したのも、こうした感情的な「コミュニケーション能力。」による強弁によって、論理的安全性が踏みにじられたのが原因である。
ヒトが作り出す集団や権威において、動物習性的な「コミュニケーション能力。」である生物本能的な社会形成習性による気分的観念が優先することは珍しいことではない。論理的に合理的な地動説を、観念的/強迫観念的に火炙りにしなければならなかったのは。その判断自体が観念によるものであって、論理的合理性によるものではなかったからである。
こうした「ヒトの過ち。」というものを、単なる時代や社会といった環境依存性に原因をなすりつけておけば。そこに自律的判断に言及しなくても良くなってしまう。長い期間を経て結果的に受け入れたという「結果。」だけを論じしまえば、当時の判断の間違いにも言及されなくなる。
これを「言い逃れ。」や「取り繕い。」と言わずして、何と言うであろう。
ヒトが人間としての論理的思考を失うのは、そこに感情に基づいた事後正当化の観念が働いているからである。
ヒトの多くは「自分だけは大丈夫。」であると錯覚する。それは「今までずっと大丈夫だった。」という気分的な観念が作り出す錯覚である。
なぜテロリストが地下鉄に毒ガスを散布したのか。それは当人が「人類の救済。」であると錯覚したまま、自律的にはその間違いに全く気付くこと、認識することが出来なかったからである。
文系の気分的観念を盲目的に「信頼。」しておけば、気分的には「安心。」して生物学の観念を放置しておくことは簡単であろう。それこそが「ヒトという種の生物の行動習性。」であるからだ。
だが、こうした無意識的な行動習性によって疑問や論理検証性を放棄してしまうからこそ、論理的な社会「安全。」性が失われることになるのである。
過去の遺跡から当時の社会状況を妄想するのは簡単であるが。過去に起こったあらゆる事実の全てを知ることは原理的に不可能である。現在においても無人の密室で行われる完全犯罪の事実を知ることができないのに、証拠のほとんどを喪失した過去の事実など、もはや所詮研究者個人の仮想的な妄想の範疇から出ることはない。
個人の仮想的妄想をいくらたくさん枚挙しても、「ヒト=人間。」であることの論証になど一切ならない。
お伽話でどんなに気分的に満足安心しても、振り込め詐欺撲滅への対策にもならないし、重大事故の原因究明にも寄与することはない。文系の観念は気分的満足しか与えることはなく、所詮は芸術「文学。」であって、人文「科学。」としては機能しないのである。
生物学者達の断片的立証による断定に撹乱されて、「ヒト=人間。」という観念に対しての疑念を忘れてしまうのは。文系思考のマスコミにとって、とても簡単なことなのであろう。
個人の自律的判断を、全て(或は多く)のヒトに与えることが面倒臭いと言うのであれば。それは面倒臭いと思っているあなたの脳自体に自律というものが欠落しているからである。「自分にできないことは他人にもできない。」と「思う。」のは、気分感情的にはとても自然なことだからである。
「難しい。」というのも言い逃れである。簡単なことで問題が解決するのであれば、既にあらゆるヒトの問題行動の全ては解決しているはずである。ヒトという種の生物は、「これさえやっておけば、全ては解決する。」という短絡的解決策にばかり意識を奪われがちである。その短絡性こそが、自律的な論理検証性を喪失する要因なのである。
理論的には簡単であっても、相手が生物本能的「習性。」である以上。それが困難であることはわかっている。気分的に嫌なのも想定の範囲内である。
航空機事故であれば航空会社が認識しておけば良い範疇の話であるが。「ヒト。」全般における習性が促す過ちであれば本来何人たりとも無視して良い話ではない。ましてや科学者やマスコミが認識できないなどというのは論外であり、噴飯ものである。
ヒトというのは、人数の大きなコミュニティーの中では。自分個人の自律的判断の無力を「感じる。」であろう。確かに多数を相手に個人の判断というものは、それだけでは決して「大きな力。」とは言えないであろう。だからこそ多くのヒトは多数他人に迎合し、多数他人によって規定された権威に無条件に服従することに「陥る。」習性に従ってしまうことになるのである。
多数他人という「世間。」に迎合しておけば気分的にも安心であり、また世間的にも成功しやすいであろう。効果もない脳トレブームに便乗しておけば金にはなる。しかし流行に逆らって論理的に反論しても一円にもなりはしない。
もはや月々の通信費も捻出不能なので、常時接続もできない。後は私以外の誰かが現在の生物学に対して論理的検証による追及を行うのに任せるしかなかろう。
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状況や環境に左右される生存という結果論は、個体の自律的判断とは無関係である。
「生存=人間。」などという方程式は成立しない。従って単なる結果的生存を論じても、そこから必ずしも個体の自律的な社会的責任判断とは無関係であり。結果的「生存。」価をどんなに強弁しても個人の自律的判断である「人間としての社会性。」に言及することも、また分析することにもならない。
個人の自律的判断による犠牲によって集団全体が生き残った場合、これを種全体における人間性/社会性の結果であると言うことも可能であるが。生き残るという「結果。」だけからは必ずしも個人の自律による結果によるものであるとは言うことができない。
「結果的に種として存続。」したかどうかは、個人の自律的な社会的責任判断とは無関係である。従って、生物学上における「生存=正義。」という価値観自体からは人間の自律的社会的責任判断について原理的に言及不可能である。
本論において「生存自体に意味はない。」とするのは、個人の自律的社会的責任判断は、必ずしも生物学的結果である「生存。」とは等価ではないからだ。
無論、「ヒトという種が存続しなくて良い。」と論じているわけではなく。人間としての社会が構築できないのであれば単に生存だけを論じても、人間として存続する意味や価値にならないという意味で「生物的な生存自体に意味はない。」と言っているのである。ゲリラやナチスに迎合しておいて、「人間。」であるとは言えないからだ。
優生学に有効な反論をできない現在の生物学はオカルトでしかないのである。
現在の生物学上における、生物的生存だけを絶対的正義とした、その場限りの言い逃れや取り繕いを認識できなければ。個人の自律的な社会的責任判断については全く研究が進むことはない。その場限りに「個体の生存価。」を論じたり、「種としての存続。」に価値を置いたりしていては、全く個人の自律には言及不可能だからである。
「仕組み。」というのは本能習性であり、無意識である。現在の生物学における「結果。」論の抽出枚挙陳列による生物的な正当性の論証をいくらたくさん並べても。そこから本質的な意識的選択とは何か、自律的選択とはどのように失われるのかといった分析は構造原理的に成されることはない。
原理的に分析不可能な事柄において「わからない。」としておく謙虚さは必要であるが。論理的理解力が足りないだけであるなら、これは単なるバカに過ぎない。本論はそれ程難解な事は論じてはおらず、極めて基礎的な話しかしていない。これを「わからない。」と言い張るのであれば、科学者として最初からポンコツだったということである。
従来の生物学における根本的間違いを認識できないことには、もはや如何なるヒトの間違いであっても認識することはできないであろう。
文系の気分的な観念を、科学的検証に持ち込むから論理的認識による「気付き。」が働かないのである。
論理的思考の働かない文系の者というのは、自分達にとって不都合な話をすると観念的、感情的に異常な程取り繕いや言い逃れに固執する。何せ動機が本能的恐怖心であるから、その執着心は極めて動物的に強力であり。また、生物本能的な「コミュニケーション能力。」によって、相手の反論意欲を喪失させることにおいては非常に「巧妙。」でもある。
論理的に理解可能な者の多くは、こうした動物的、本能習性による「コミュニケーション能力。」の前において極めて微力である。原発の暴走を許したのも、こうした感情的な「コミュニケーション能力。」による強弁によって、論理的安全性が踏みにじられたのが原因である。
ヒトが作り出す集団や権威において、動物習性的な「コミュニケーション能力。」である生物本能的な社会形成習性による気分的観念が優先することは珍しいことではない。論理的に合理的な地動説を、観念的/強迫観念的に火炙りにしなければならなかったのは。その判断自体が観念によるものであって、論理的合理性によるものではなかったからである。
こうした「ヒトの過ち。」というものを、単なる時代や社会といった環境依存性に原因をなすりつけておけば。そこに自律的判断に言及しなくても良くなってしまう。長い期間を経て結果的に受け入れたという「結果。」だけを論じしまえば、当時の判断の間違いにも言及されなくなる。
これを「言い逃れ。」や「取り繕い。」と言わずして、何と言うであろう。
ヒトが人間としての論理的思考を失うのは、そこに感情に基づいた事後正当化の観念が働いているからである。
ヒトの多くは「自分だけは大丈夫。」であると錯覚する。それは「今までずっと大丈夫だった。」という気分的な観念が作り出す錯覚である。
なぜテロリストが地下鉄に毒ガスを散布したのか。それは当人が「人類の救済。」であると錯覚したまま、自律的にはその間違いに全く気付くこと、認識することが出来なかったからである。
文系の気分的観念を盲目的に「信頼。」しておけば、気分的には「安心。」して生物学の観念を放置しておくことは簡単であろう。それこそが「ヒトという種の生物の行動習性。」であるからだ。
だが、こうした無意識的な行動習性によって疑問や論理検証性を放棄してしまうからこそ、論理的な社会「安全。」性が失われることになるのである。
過去の遺跡から当時の社会状況を妄想するのは簡単であるが。過去に起こったあらゆる事実の全てを知ることは原理的に不可能である。現在においても無人の密室で行われる完全犯罪の事実を知ることができないのに、証拠のほとんどを喪失した過去の事実など、もはや所詮研究者個人の仮想的な妄想の範疇から出ることはない。
個人の仮想的妄想をいくらたくさん枚挙しても、「ヒト=人間。」であることの論証になど一切ならない。
お伽話でどんなに気分的に満足安心しても、振り込め詐欺撲滅への対策にもならないし、重大事故の原因究明にも寄与することはない。文系の観念は気分的満足しか与えることはなく、所詮は芸術「文学。」であって、人文「科学。」としては機能しないのである。
生物学者達の断片的立証による断定に撹乱されて、「ヒト=人間。」という観念に対しての疑念を忘れてしまうのは。文系思考のマスコミにとって、とても簡単なことなのであろう。
個人の自律的判断を、全て(或は多く)のヒトに与えることが面倒臭いと言うのであれば。それは面倒臭いと思っているあなたの脳自体に自律というものが欠落しているからである。「自分にできないことは他人にもできない。」と「思う。」のは、気分感情的にはとても自然なことだからである。
「難しい。」というのも言い逃れである。簡単なことで問題が解決するのであれば、既にあらゆるヒトの問題行動の全ては解決しているはずである。ヒトという種の生物は、「これさえやっておけば、全ては解決する。」という短絡的解決策にばかり意識を奪われがちである。その短絡性こそが、自律的な論理検証性を喪失する要因なのである。
理論的には簡単であっても、相手が生物本能的「習性。」である以上。それが困難であることはわかっている。気分的に嫌なのも想定の範囲内である。
航空機事故であれば航空会社が認識しておけば良い範疇の話であるが。「ヒト。」全般における習性が促す過ちであれば本来何人たりとも無視して良い話ではない。ましてや科学者やマスコミが認識できないなどというのは論外であり、噴飯ものである。
ヒトというのは、人数の大きなコミュニティーの中では。自分個人の自律的判断の無力を「感じる。」であろう。確かに多数を相手に個人の判断というものは、それだけでは決して「大きな力。」とは言えないであろう。だからこそ多くのヒトは多数他人に迎合し、多数他人によって規定された権威に無条件に服従することに「陥る。」習性に従ってしまうことになるのである。
多数他人という「世間。」に迎合しておけば気分的にも安心であり、また世間的にも成功しやすいであろう。効果もない脳トレブームに便乗しておけば金にはなる。しかし流行に逆らって論理的に反論しても一円にもなりはしない。
もはや月々の通信費も捻出不能なので、常時接続もできない。後は私以外の誰かが現在の生物学に対して論理的検証による追及を行うのに任せるしかなかろう。
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