概ね論では、稀に起こる重大事象に対する原因究明や対策には何ら寄与しない。
概ね論では、既存の安全性しか立証することはなく。それは気分的な安心しか生み出さない。
より高い安全性を確立するためには概ね論は意味を成さない。
稀に起こる重大事象に対し、大衆凡人の多くは気分的な「恐さ。」を「感じ。」ることがない上。稀に起こる重大事象の結果を直視することの精神的苦痛を忌避して気分的に無視し、意識から外し、考えなくなるのである。
概ね論で気分的に満足「安心。」していれば、稀に起こりうる重大事象への意識は働かなくなる。
社会心理学実験によって、どんなにたくさん「ヒト=人間。」という方程式に都合の良い結果だけを抽出サンプリング陳列枚挙しても。「ヒトという種の生物は常に自律的に社会的責任行動を採るものである。」ことの論証にはならない。
現実に実際の社会における、あらゆる非人道的行為の反証はもはや不可能なのである。
本質的意識に基づいたパラダイムを採りさえすれば、短絡的に「あらゆるヒトという種の生物に自律的社会的責任行動選択ができるようになる。」わけではない。むしろ、こうした短絡的解決方法があると「思う。」短絡性、頭の悪さこそが問題であると論じているのであって。一人一人の個人における、自律的で論理的な社会的責任判断選択というものを、どのようにして確立してゆくかを究明するための、極めて基礎的なパラダイムでしかない。
従来の生物学における非科学的なパラダイムを土台としている限り。永久に「ヒトが人間足りうる所以。」には言及することが原理的に不可能なのである。
ヒトという種の生物でありさえすれば人間としての社会性が常に発揮される論証などない。生物学における「概ね論。」からは「概ねヒトは人間として振る舞う。」ことしか立証しない。ましてや社会心理学実験というのは衆人環視下における行動しか原理的に観測することはできず。個人が自律的に社会的責任行動を常に行うことの論証など全くできないのである。
協調性や信頼関係であっても、これらはシエラレオネのゲリラ内部でも働いている心理的、本能的な行動習性であり。こうした習性/傾向性をどんなに「概ね。」陳列しても「人間としての社会性。」の論証には全く到達できない。
その不毛さを文科系の大衆マスコミは一切認識したがらない。
そして稀に起こる重大事象は全て自分達の無意識的な無責任性とは無関係であると「思い込む。」のである。
「人を騙そうとする者にとって、カモを見つけることはとても簡単である。」(マキアベッリ)
大衆にとって、こうした事実は気分の悪い嫌な話であろう。「モンスター○○。」と形容される者達というのは、自分にとって都合の悪い話は「些細なこと、つまらないこと。」であると意識から外し、都合の良い話だけを断片的に抽出してきて正当化することしか意識が働かない。そこには論理整合性とか検証性といったものは皆無であるが、逆に頭の悪いカモを丸め込むための観念的で感情的/本能的な「コミュニケーション能力。」だけは非常に発達している。
だから多くのヒトは感情的な丸め込みの得意な「コミュニケーション能力。」だけの発達したバカに服従し。結果的に本能習性のままに封建的な社会形成に無意識に陥ることになるのである。
詐欺師や占い師というのは基本的にとても執拗で言葉数が多い。ヒトというのは本能習性として相手の機嫌を損ねるような振る舞いをしたがらないため。これを利用することで騙す相手の行動選択を詐欺師や占い師にとって都合の良いように誘導することが可能となる。
これが生物本能的な「コミュニケーション能力。」というものである。イヌが相手の顔を舐め回し、尻の臭いを嗅ぐことや。チンパンジーが興奮して怒鳴り合ったり、疑似的性行為を行ったりするのと同じ動物的「習性。」である。それはとてもシーケンシャルで短絡的条件反射行動であるため、これを利用すれば多くのヒトの行動を誘導することができるようになるのである。
「あんたの言うことは主観的だ。」などと称し、あたかも自分の言っていることが論理的普遍性を持った客観的主張であるかのように論じておきながら。面倒臭い話になると「難しいことは抜きにして。」などと言い出すことが人間として異常であるとは誰も思ってはいない。
「思わ。」ないのである。
芸術家であれば、それでも良かろう。芸術というのは論理的普遍性とは無関係な主観的快楽の追求「気晴らし。」であるからだ。しかし、芸術そのものが単なる「気晴らし。」でしかないという客観性を失った芸術家は「人間。」としては出来損ないである。たとえ社会的に成功していてもである。
「相手の機嫌を考えないことは、人間としていかがか。」などというのも、単なる嘘である。相手の機嫌しか考えていない時点で、動物的な「ヒト。」としての価値観しか働いていないのであり。何ら論理的に「人間として。」の価値観など考慮に入っていないからである。
詐欺師や占い師は、相手の機嫌、気分にだけは異常に意識が働いているであろう。それなら詐欺師は「人間。」として優れているとでもいうのであろうか。それこそキチガイの論理でしかないのである。
ヒトの多くは、固定観念的な主観的価値観にそぐわない相手を気分的に「嫌い。」。自分の気分を良くしてくれる相手を「好き。」になり、観念的な「信頼。」関係を勝手に妄想する。
ヒトという種の持つ本能的「社会形成。」習性というのは、あくまで本能的に組み込まれた気分や感情によって誘導される行動の「結果。」であって。これは本質的な意識的/論理的合理性を伴った本質的自発的行動選択ではない。
無意識な者の集団内部において、どんなにたくさん自分の固定観念にとって都合の良い話を抽出枚挙してみても。それによって論理的普遍性の論証にはならない。飲み屋の酔っ払いの「本音。」を枚挙しても、世の中にとって有益な話など一切出てくることはないのである。エタノールで大脳を麻痺させておいて有益な「考え。」が成立するわけがない。
こうした不毛な話ばかりに意識を奪われていれば、社会の問題に対して無為無策に陥るのは必然というものである。
ヒトは「好き。」なもの、「安心。」なものといった主観的価値観を優先しがちである。それゆえに自律的論理検証を忌避するのである。
航空会社が自社の起こした事故を無視して、再発防止になるであろうか。滅多に起こらない事象であるとして無視して良いとでも言うのであろうか。
あなたの考えや行動の誤りのいちいちを、私は検証したりはしないし、原理的に不可能である。私は四六時中あなたを監視する神でも変態でもないからだ。それならあなたの誤りを正すのは一体誰であろう。
誰も自律的に自己の考えや行動の誤りを認識できない社会の結末がどういうものであるか。
少しは自分で「考えて。」みてはいかがであろう。
end;
概ね論では、既存の安全性しか立証することはなく。それは気分的な安心しか生み出さない。
より高い安全性を確立するためには概ね論は意味を成さない。
稀に起こる重大事象に対し、大衆凡人の多くは気分的な「恐さ。」を「感じ。」ることがない上。稀に起こる重大事象の結果を直視することの精神的苦痛を忌避して気分的に無視し、意識から外し、考えなくなるのである。
概ね論で気分的に満足「安心。」していれば、稀に起こりうる重大事象への意識は働かなくなる。
社会心理学実験によって、どんなにたくさん「ヒト=人間。」という方程式に都合の良い結果だけを抽出サンプリング陳列枚挙しても。「ヒトという種の生物は常に自律的に社会的責任行動を採るものである。」ことの論証にはならない。
現実に実際の社会における、あらゆる非人道的行為の反証はもはや不可能なのである。
本質的意識に基づいたパラダイムを採りさえすれば、短絡的に「あらゆるヒトという種の生物に自律的社会的責任行動選択ができるようになる。」わけではない。むしろ、こうした短絡的解決方法があると「思う。」短絡性、頭の悪さこそが問題であると論じているのであって。一人一人の個人における、自律的で論理的な社会的責任判断選択というものを、どのようにして確立してゆくかを究明するための、極めて基礎的なパラダイムでしかない。
従来の生物学における非科学的なパラダイムを土台としている限り。永久に「ヒトが人間足りうる所以。」には言及することが原理的に不可能なのである。
ヒトという種の生物でありさえすれば人間としての社会性が常に発揮される論証などない。生物学における「概ね論。」からは「概ねヒトは人間として振る舞う。」ことしか立証しない。ましてや社会心理学実験というのは衆人環視下における行動しか原理的に観測することはできず。個人が自律的に社会的責任行動を常に行うことの論証など全くできないのである。
協調性や信頼関係であっても、これらはシエラレオネのゲリラ内部でも働いている心理的、本能的な行動習性であり。こうした習性/傾向性をどんなに「概ね。」陳列しても「人間としての社会性。」の論証には全く到達できない。
その不毛さを文科系の大衆マスコミは一切認識したがらない。
そして稀に起こる重大事象は全て自分達の無意識的な無責任性とは無関係であると「思い込む。」のである。
「人を騙そうとする者にとって、カモを見つけることはとても簡単である。」(マキアベッリ)
大衆にとって、こうした事実は気分の悪い嫌な話であろう。「モンスター○○。」と形容される者達というのは、自分にとって都合の悪い話は「些細なこと、つまらないこと。」であると意識から外し、都合の良い話だけを断片的に抽出してきて正当化することしか意識が働かない。そこには論理整合性とか検証性といったものは皆無であるが、逆に頭の悪いカモを丸め込むための観念的で感情的/本能的な「コミュニケーション能力。」だけは非常に発達している。
だから多くのヒトは感情的な丸め込みの得意な「コミュニケーション能力。」だけの発達したバカに服従し。結果的に本能習性のままに封建的な社会形成に無意識に陥ることになるのである。
詐欺師や占い師というのは基本的にとても執拗で言葉数が多い。ヒトというのは本能習性として相手の機嫌を損ねるような振る舞いをしたがらないため。これを利用することで騙す相手の行動選択を詐欺師や占い師にとって都合の良いように誘導することが可能となる。
これが生物本能的な「コミュニケーション能力。」というものである。イヌが相手の顔を舐め回し、尻の臭いを嗅ぐことや。チンパンジーが興奮して怒鳴り合ったり、疑似的性行為を行ったりするのと同じ動物的「習性。」である。それはとてもシーケンシャルで短絡的条件反射行動であるため、これを利用すれば多くのヒトの行動を誘導することができるようになるのである。
「あんたの言うことは主観的だ。」などと称し、あたかも自分の言っていることが論理的普遍性を持った客観的主張であるかのように論じておきながら。面倒臭い話になると「難しいことは抜きにして。」などと言い出すことが人間として異常であるとは誰も思ってはいない。
「思わ。」ないのである。
芸術家であれば、それでも良かろう。芸術というのは論理的普遍性とは無関係な主観的快楽の追求「気晴らし。」であるからだ。しかし、芸術そのものが単なる「気晴らし。」でしかないという客観性を失った芸術家は「人間。」としては出来損ないである。たとえ社会的に成功していてもである。
「相手の機嫌を考えないことは、人間としていかがか。」などというのも、単なる嘘である。相手の機嫌しか考えていない時点で、動物的な「ヒト。」としての価値観しか働いていないのであり。何ら論理的に「人間として。」の価値観など考慮に入っていないからである。
詐欺師や占い師は、相手の機嫌、気分にだけは異常に意識が働いているであろう。それなら詐欺師は「人間。」として優れているとでもいうのであろうか。それこそキチガイの論理でしかないのである。
ヒトの多くは、固定観念的な主観的価値観にそぐわない相手を気分的に「嫌い。」。自分の気分を良くしてくれる相手を「好き。」になり、観念的な「信頼。」関係を勝手に妄想する。
ヒトという種の持つ本能的「社会形成。」習性というのは、あくまで本能的に組み込まれた気分や感情によって誘導される行動の「結果。」であって。これは本質的な意識的/論理的合理性を伴った本質的自発的行動選択ではない。
無意識な者の集団内部において、どんなにたくさん自分の固定観念にとって都合の良い話を抽出枚挙してみても。それによって論理的普遍性の論証にはならない。飲み屋の酔っ払いの「本音。」を枚挙しても、世の中にとって有益な話など一切出てくることはないのである。エタノールで大脳を麻痺させておいて有益な「考え。」が成立するわけがない。
こうした不毛な話ばかりに意識を奪われていれば、社会の問題に対して無為無策に陥るのは必然というものである。
ヒトは「好き。」なもの、「安心。」なものといった主観的価値観を優先しがちである。それゆえに自律的論理検証を忌避するのである。
航空会社が自社の起こした事故を無視して、再発防止になるであろうか。滅多に起こらない事象であるとして無視して良いとでも言うのであろうか。
あなたの考えや行動の誤りのいちいちを、私は検証したりはしないし、原理的に不可能である。私は四六時中あなたを監視する神でも変態でもないからだ。それならあなたの誤りを正すのは一体誰であろう。
誰も自律的に自己の考えや行動の誤りを認識できない社会の結末がどういうものであるか。
少しは自分で「考えて。」みてはいかがであろう。
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