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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

慣れ。

2011年08月26日 13時53分37秒 | 意識論関連
 「慣れ。」というものには、良い慣れと悪い慣れがある。

 危険な行為を何度も繰り返しているうちに、それが偶然事故などを起こさなかった場合。ヒトは危険行為に慣れてしまい。気分的に「安心。」して、平気で危険行為を繰り返すようにもなる。

 自動車や自転車に乗りながら携帯電話を操作したり。

 遮断機の降りた踏切を渡ったり。

 酒を呑んで自動車や自転車に乗ったり。

 果ては暴動に参加したり。

 これらは全て、気分的な安心によって行動が左右されている「ヒト。」の行動パタン、「習性。」というものである。

 文系の者特有の観念とは、「自分とは、ヒトとは、こういうものである。」と称して、大多数のヒトの行動パタンの枚挙によって、自己自身の意識的行動改善を放棄するための屁理屈や取り繕いにすりかえることである。

 「人気があるから。」という一面的事実だけでは、ニーチェの支離滅裂な内容が哲学であることの論証にはならない。

 マスコミが多数大衆の人気取りに走ることが、結果的に民衆扇動につながる危険性があることを、知っていながらニーチェを垂れ流すというのは。これはキチガイとしか形容し難い。

 ニーチェを読むと、バカなヒトは気分的に安心して、既に存在する自己というものを無批判に肯定するための論理的根拠であると勘違いすることが可能である。

 しかも、それは極めて簡単なことらしい。

 逆に、理論的な根拠を追求することというのは。いわば自己自身の愚かさを認識することにもなるので、バカが酷い程拒絶忌避するようになるのである。

 バカになることは簡単である。

 ヒトの大脳辺縁系というものは、バカになるように出来ているからである。

 しかし、ヒトはバカになる以外の選択肢が絶対に存在しないことの論理的根拠証明など、存在しないのである。

 「バカでいたい。」という個人的気分を述べるのは自由である。しかし、「バカのままで構わない。」という無責任が許されるわけではない。

 こんなことは理屈の上では誰しも「わかって。」いることである。「わかって。」いながらできないのは、既に存在する自分というものを自分では制御できないということなのである。

 自分で自分が自由にならずに、そこに本質的自由など存在しないのである。

 バカなヒトの多くは。他人を自由に操れることを自由であると勘違いする。他人を操ることの理由としての、自己自身の高慢さは制御することができないことは、意識の上から外している、無視しているのである。

 バカというのは、基本的に「だって、だって。」と取り繕いにだけは必死になって考えようとする。取り繕いにしか意識が働かないからバカであることは、全く認識できないからである。

 自己自身の愚かさを無視しておけば、気分的には楽である。自分を神か何かと勘違いすることも簡単であろう。

 「アスペクト盲。」などの「無視。」というのは、精神が病んでいることの現れなのである。

 バカという病は、一度悪化し始めると、大脳辺縁系の構造に従って悪化のスパイラルに陥る。

 高血圧の患者が塩分を欲することや、糖尿病の患者がカロリーを欲することと同じように。ヒトという種の生物というのは、一度悪いスパイラルに陥ると、雪だるま式に悪い方向に向かおうとする性質も持っているのである。

 生物の持つ方向性というのは、一面的には生存への方向性も持っているが。決してそれだけではない。

 どのような結果であれ、生物的な性質というのは偶発性に依存するものであり。そこには誰の「意思」も働いてはいないのである。