goo blog サービス終了のお知らせ 

書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

昼あんどん。

2011年08月16日 15時09分19秒 | 日記
 昼間から点き放しの街灯がある。

 夏になると増えるような気がする。

 熱でセンサーが壊れるのかな。

 家で節電を頑張っても、街灯が全部台なしにしている気がして気分悪い。

鉄分たっぷり。

2011年08月16日 14時54分19秒 | 日記
 オリンパスの写真SNSサイトに鉄道コニュニティがあるんだけど。

http://comm.fotopus.com/?m=pc&a=page_c_topic_detail&target_c_commu_topic_id=177

 物凄い古い路面電車とかを、パンタグラフ(ビューゲル?。)を交換して街の中を走っている写真とか載ってて面白い。

 他にも見たことないような作業車両とかも載ってたりする。

 大井町(大手町じゃないよ。)にあるJR車両センターの無料公開のPDFファイルのURLとかも載ってたりして、下手にググるより情報満載。

 ただ物凄い混むらしいです。炎天下に並ぶことを準備した方がいいでしょうね。

 特にログイン登録とかしなくても見ることはできます。

 個人的には登録しないで欲しいんだけど、まあ、自由です。

まだ答が見つかっていない問題。

2011年08月16日 12時53分50秒 | 意識論関連
 子供達、生徒が自発的に考えるようにするためには。現状の社会においての問題点についても教える必要がある。

 しかし、社会の問題点というのは解答がまだないために、教えたとしても学力試験においての点数に結びつかず、学力ビジネスにたずさわる者にとって「うまみ」がないので教えたがらない。

 今の大人達がわからないことを教えると、大人の威厳が保てないと勘違いしているバカな大人も少なくない。

 解答がない問題を教えてこそ、教育は「開かれた。」ものになるのだが。予め解答が用意可能な問題しか与えなければ、それは既に解答の存在すること以外を一切教えないという閉鎖性を意味する。これは生徒に対する情報統制に他ならない。

 「子供に教えるのが難しい。」などというのは単なる言い逃れでしかない。実際大人の多くが解答できないような難問を子供の試験に用いているからだ。

 現在の学力試験で高い成績を取る生徒であっても、基本的な常識を知らない場合も、また、倫理観も持たずに、酒も呑んでいないのに酔っ払っているような奴も少なくはない。


 なにゆえ酔っ払ったような行動を取るのかといえば、本質的意識自体が全く育っていないからである。無意識なヒトがイジメを行うのは当然のことである。

 倫理というものは、そもそも「教える。」ようなものではなく。個人の本質的自発性によって自律的に公益倫理判断をすることによって、文字通り「自ずと。」培われるものなのである。

 養老孟司は高校時代、校長先生に「善い行いは、他人が見ていないところで行いなさい。」と言われて、以下のような解釈を付けている、

 「悪いことと同じだな。」

 これをキチガイという。

 どんなに教師が口頭で倫理を説いても、そんなものは全く意味を成さないのである。逆に本質的自発性によって、自律判断が可能な人であれば、倫理など強制的に教え込まなくても良いのである。


 しかし、現状の教育システム体制において、こうした考えというものは入り込む余地が全くといってない。

 となれば、もはや親や教師などの、子供の教育に関わる大人達など信用ならない。となれば、これは子供達自身が理解し、生徒自身が現状の社会における問題点を知ろうとすることが大切である。

 自律的公益倫理判断などといっても、本当は難しいことではない。

 「集団で弱い者イジメをしない。」などというのも、こんなことは相手の立場を理解しようとする「意思。」があれば、最初から「知って。」いることなのである。

 「知って。」いながらやめることができないのは、そこに本質的意識による論理的思考に基づく自己の情動行動の抑制ができないからに他ならない。

 大衆観念的には、こうしたことも全てバランス問題だと「思う。」のであろうが。これはバランスの問題ではなく、あくまで本質的理性こそが倫理観を作り出すのであって、これは気分の問題ではなく、あくまで論理的な「考え。」に基づくものなのである。


 現在の哲学というのは、ニーチェだのプラトンの言うことであっても、全く批判せずに有り難がって引用するだけであり。そこには全く「考え。」というものが存在しないのである。

 むしろ、ニーチェを引用して気分的に満足し、思考を停止させているのである。

 思考が停止していれば、600万人のユダヤ人を死体に変換することも恐れないであろう。動物の情動行動と同じように、機械手続き的な条件反射によって、体制に迎合する気分的「安心」という感情が優先することによって、教室内でのイジメも簡単に出来るようになるのである。

 それは気分的には「恐くない。」であろうが、人間としては出来損ないに過ぎない。

 別に個人的な好き嫌いを言うのは構わない。嫌いなら関わらなければ良いのである。それはイジメとは言わない。

 関わるべきではないのは、イジメを行うような集団であり。イジメられている少数ではない。それが本質的合理性というものである。

 それを実行することによって、学校に通うことが困難になったとしても、それは仕方のないことである。何の問題意識も持たずに漫然と通うよりかは、ずっと「考え。」ているからだ。

 親は強迫観念的に学校に通わせようとするであろう。だが、その動機のほとんどは世間体を気にしているだけであって、何の縁もない多数他人という「世間。」の顔色をうかがっていないと気分的に「恐い。」から通わせようとするだけである。

 今の時代、Web上にはCADソフトでも3Dグラフィックソフトでも、プログラムコンパイラでもフリーで見つけることは可能である。簡単ではないかも知れないが。学力ビジネスに牛耳られた学校に通わなくても、本当に知りたいことは探せば見つかる。村上龍のふんわりした就職案内を読まなくても、そこに載っていないビジネスやライフワークは自分で開拓することも不可能ではない。

 子供が登校拒否をするのであれば、むしろ子供が本当にやりたいことを応援するだけの度量が親には欲しいものである。大人自身、実際には学校で教わったことが何の役にも立っていないことを再認識すべきなのである。

 ところが、バカというのは過去に行った行動を事後正当化するための屁理屈ばかりに意識が奪われ、むやみやたらと努力辛抱根性的な精神論ばかりをヒステリックに振り回す。これこそが認知症の初期症状「取り繕い。」に他ならない。

 あなたの親や教師、同級生が単なるバカであっても私は一切責任持てない。私は神ではないからである。この世のバカのいちいちを面倒看ることは原理的に不可能であるからだ。



 どうしたらバカがバカでなくなるのか、それはむしろ私が知りたいくらいである。バカがバカなのは、自らの愚かさを認識「したくない。」という「気分。」「感情。」が原因なのはわかっている。

 「ヒトの意識の9割以上は無意識である。」これも個人差があって、中には10割以上が無意識であろうと思われるキチガイも少なくはない。イジメなどというのは、こういうヒトの集団が生物学的な社会形成習性に則って引き起こす普遍的な「習性」なのである。

 本来であれば、こうした習性が引き起こす問題というのは子供達自身がどうこうするようなものではなく。教育にたずさわる大人が面倒みるべき問題なのである。それができない、或は「やりたくない。」というのであれば、そんな体制には迎合するべきではないのである。

 無為無策な体制に迎合していれば、人間としての本質的意識を失うのは当然のことである。

 生物種としての「ヒト。」として生存するだけの存在で構わないのか。それとも本質的社会性を持った「人間。」になりたいのか。それが「選択。」というものであり、また「意思。」というものである。



 何か難し過ぎるかな。調子に乗ってしまうとやたらと文字数が増えちゃって。

 今日はこの辺でおしまいとしましょう。




原寸画像検索。

2011年08月16日 00時22分59秒 | 日記
 画像検索というもの自体を検索したら、原寸画像検索というサイトがヒットしました。

http://gensun-images.com/

 Googleの画像検索がおいらのAndroidPCでは使えなくなってしまったので、ややこしいなと思っていたら、もっと便利な画像検索サイトがありました。

 検索サイト自体も検索で探せばいいんですね。まだWebに慣れていないです。