「恥ずかしい。」っていう感情は何か。それは他人からの見た目に対する恐怖心。
大学生が、学食で一人で食事するのが恥ずかしいらしい。でも、そんなの学生だけの特殊な感覚であって、社会人は誰もそんなこと恥ずかしがったりしない。
大脳辺縁系の働きが活発なヒトっていうのは、どうしても感覚優先で物事を判断してしまうため。考えが浅くて表面的。
くらたまの漫画とかって、よく、「みんな、そうなんだ。」っつう観念的な安心感を、あたかも「人間として、それが正しい。」行動や思考であるかのように錯覚している部分が非常に多い。
一人だけ考えとか行動が違うと感情的に「恥ずかしくて。」それが精神的に不安だから拒絶して。逆に多くのヒトが同じ思いや行動をしていると観念的に「恥ずかしくない。」もんだから、気分的に安心して、満足感に浸って思考停止に陥る。
「ヒトとは、そういうものである。」
「ヒト。」としてはね。
「ヒト。」という生物種としての習性、傾向性としてはね。
でもね、「ヒト。」という種の生物というものが、それ以外の行動の一切が不可能であることの論理的証明は存在しない。
アイヒマン実験における被験者のおかれた環境において、被験者の多くが採った行動をどんなにたくさん枚挙しても。それが「人間の行動選択として正しい。」という理屈は出てこない。
出てこないにも関わらず、「出てくるかも知れない。」っつってんのが東大生物学部。チンパンジーの遊園地作って血税無駄遣いしている。
例えば、シエラレオネの少年ゲリラとか、振り込め詐欺の仲間を。チンパンジーの代わりに鋼鉄とポリカーボネートのケージに閉じ込めておいて、彼らがどのような行動を採ったら、既に行われた非人間的行為を反証できるのであろうか。
具体的にどのような行動を採れば「人間としての社会性を立証した。」ことになるのであろうか。この問いに対して、東京大学生物学部は一切具体的な解答も、また、反証も行わないのである。
単に、「利他的行動を採った。」というだけでは、何ら「人間としての社会性を立証した。」ことには成り得ない。集団レイプにおいて、仲間にレイプを譲ることも、また、振り込め詐欺集団内部において、仲間に食事をおごることも、行為自体は「利他行動。」であり。こうした集団内部だけにおける「利他行動。」というものは、何ら社会全体において公益倫理的行動選択であるとは言えないのである。
たとえ公益倫理的行動を採ったとしても、特定環境下、それこそ衆人環視下のような特定環境において、どのような行動を採ったとしても。それが本当に自律的判断であることの論証など、原理的に不可能なのである。単に監視している人間の顔色を窺っただけの、表面的な取り繕いに過ぎない可能性を排除することは不可能である。
難しいかぇ?。
多分、難しいんだろうなー。だから問題にならないんだろうから。
ヒトという種の生物の中には、残虐行為をする者がいる。これは厳然たる事実である。その残虐行為を行った人物が、一体何を行ったとしたら、この人物が公益倫理的な自律判断を常に可能であると証明することができるのであろうか。
殺人の罪で20年間服役した殺人犯が、出所した後数週間で再び殺人を犯したという話がある。この殺人犯が獄中の20年間において、どのような行動を採れば再犯しないという証明ができるであろうか。あるいは、どのような行動を採らなければ、自律的に自分の情動行動を抑制できると言えるのであろうか。
もし、具体的にそれが言えるとしよう。ならば、なぜ、そうした立証を行わないまま刑期を迎えたからといって出所させてしまったのであろうか。
皆さん、考えたくないですか。面倒臭いですか。
そういえば、訪問アクセスIPに対して、実際の閲覧数が3倍くらいあるのは。おいらの言ってる内容がわかり難いからなのかね。何度も読み直しているのかね。何度も読み直している人がいるんだとすれば、なるべく解りやすいようにしたいとは思うんだけどね。
話を戻しましょう。
ある囚人が、その行動を自律的に制御でき。また、意識の広さによって公益倫理的な判断が可能であることを、特定行動から立証可能であるとするならば。なぜ、再犯はなくならないのか。なぜ、立証してから出所させないのか。
もし立証可能であるにも関わらず、立証せずに社会に解放するというのは、これは司法の怠慢、手抜きではないのか。というかあまりに無責任ではないのか。
現実には、特定環境下においての特定行動の抽出からは。人間としての社会性。すなはち、公益倫理的な自律的判断が常に可能であることの証明、立証は不可能なのである。
「そんなことを考えたら、あらゆる他人を信用できなくなっちゃうし。また、信用できないなら、自分が他人から信用されることも無意味になっちゃう。」って思った?。それが恐いですか?。
多分、おいらの言ってることは、恐いんだと思う。でも、恐いとか恐くないというのは気分の問題であり。大脳辺縁系が促す価値観によるものであるってことも、理論的には理解しているんだと思う。
私の意識に関する話というのは、ペテン類とは異なり逃げ道がない。そのため気分的に楽になることができない。徹底的に意識の明瞭さ、広さを要求するため。気分的「救い。」がない。
ペテン類の場合。「飴とムチ。」の使い分けをすることによって、上手に意識誘導を促して論理的思考を撹乱させることができる。だから、最終的には気分的には「楽。」になることができるので、ペテンに引っ掛かるのは簡単なのである。
騙されやすい環境というのは、多くのヒトが騙されることを望むようにできている。
脳というのは、理論的に考えることよりも。気分的に楽になることの方を優先するようにできている。
理論的に考えることというのは、場合によって気分的に嫌になることもある。嫌にしかならない場合もある。大脳辺縁系と大脳新皮質は背理関係にある。そのため気分的な「葛藤。」というものが生ずるのである。
葛と藤、なんで植物なのかは良く知らないのだけど。この二つの植物は共存できないのかな。関係ないけど。後でググってみよっと。
天使と悪魔。悪魔に魂を売るのは簡単だけど、天使の囁きに耳を傾けるのは難しい。天使というのは囁くことしかしないからね。それに対して悪魔っていうのは声がデカイ。脅迫的に行動を促すから、多くのヒトは悪魔の声に従ってしまう。
アイヒマン実験というのは、環境によって促される悪魔の行動に対し。自分の中で囁く天使の声に従うことの重要さを促すものである。
オウム真理教の幹部、林郁夫は。教団からの命令に従うべく、毒ガステロを実行するとき。「自分は他人を救うために医者になったのに、こんなことをして良いのか。」と葛藤したという。
しかし、結局テロは実行されてしまった。アイヒマン実験の被験者の多くと同じように、葛藤を抱えながらも、最終的には権威者の命令のままに他人に暴力行為を行ってしまうのである。もとい、「行ってしまいがちな傾向。」がある。
福島第一原発の津波対策に対して、「このままでは危険なのではないか。」と思った技術者がいたかも知れない。しかし、それ以上の対策を行うことが採算性に適しないとして無視したのであろうか。
スペースシャトルチャレンジャー号の技術者も、気温低下に起因する「Oリング。」の柔軟性低下による燃料漏れと、それに伴う大事故の可能性を予期していながら、最終的には発射の延期をさせることは出来なかった。
天使というのは、常に声が小さいらしい。
「んあっ?。もっとでっけぇ声でしゃべれよ!。」
とか言うのは酷である。優しい心というものは酔っ払いみたいに大声でしゃべるものではないからだ。
ヒトの意識の9割は無意識であるという。従って、本当の意識とは1割以下なのである。その声が小さいのは必然というものであろう。
無意識的行動の全てが悪魔的であるわけではない。しかし、機械的な条件反射行動というものを漫然と続けていれば、状況に依っては悪魔の行動になってしまうのである。
アイヒマン実験でも同じことが言える。普通、権威の言うことに従っていれば、特に問題なく生活することが可能であろう。C型肝炎患者の大量生産することも、600万のユダヤ人を虐殺することもないであろう。「概ね。」問題ないのである。
だから、普通のヒトの多くは観念的に「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという、論理的根拠のない実証不能の観念を振り回し、結局は他人に多大な迷惑をかけてしまうことにもなるのである。
多くのヒト達に迎合しておけば安心である。その安心が作り出す価値観によって、多くのヒト達とは迎合しない人間に対する論理的根拠のない不安感、恐怖感は作り出されるのである。
その強迫観念こそが「恥ずかしい。」という感覚なのである。
「空気を読む。」という言葉がある。「その場の雰囲気に迎合する。」と換言しても間違いではなかろう。アイヒマン実験において、被験者の多くは、その場の空気を読んでしまった結果、自身の本当の意図とは全く異なる野蛮行為に手を染めてしまうのである。
バカなガキが「空気読めよ。」なんて強迫強制的に行動や言動を求めることがある。こうした大衆迎合的行動への異常な執着というのは、そこに自律的な行動選択への重要性に意識が全く働いていないからである。
むしろ、言っている本人こそが強迫観念によって操られているからこその発言なのである。
先程、「悪魔は声がデカイ。」と述べたが。感情的な観念に由来する言動であるからこそ、強迫的であり、強制的であり。また、感情的なのである。
ヒトは他人の感情を逆なですることを忌避する傾向がある。それは感情的でない者ほど、感情的な者のヒステリーに従ってしまう傾向がある。
その結果、ヒステリックで感情的な者の主張に対し、多くの者は無意識的に誘導されてしまう傾向がある。
こうした誘導の結果、ヒステリックで感情的な行動こそが多数や大勢を占める結果を導き、ますます多くの者をヒステリックで感情的な行動への気分的安心感へと誘うのである。
ヒステリースパイラルとでも名付けておこうかな。ルワンダ内戦の大きな要因とされる、感情的な興奮状態というのは、こうして加速させられるのである。
一度、こうしたスパイラルが生じてしまうと、もはや誰にも手がつけられない。多数というのは非常に大きな「力。」を持っているため、一度暴走を始めると抑制は効かないのである。
「力。」を制御する目的意識は失われ、「力。」それ自体を振り回すことが目的になってしまうのである。
本当に恐ろしいのは、「私の話。」ではなく。誰にも意識のない暴走の方が遥かに危険なのである。気分的な不安感よりも、論理的危険性を重要視すべきなのである。
スタンレー:ミルグラムの「アイヒマン実験。」とか、「バーナル効果実験。」。あと「監獄実験。」とかも、できれば目を通しておいて欲しいですね。一度で良いですから、ヒトという種の生物の行動習性というものは知っておいて損はないですから。
「ヒトという種の生物の行動習性。」とは、あなたの行動習性でもあるんですからね。
今日はブチ切れません。最後まで読んで頂き有り難うございました。
大学生が、学食で一人で食事するのが恥ずかしいらしい。でも、そんなの学生だけの特殊な感覚であって、社会人は誰もそんなこと恥ずかしがったりしない。
大脳辺縁系の働きが活発なヒトっていうのは、どうしても感覚優先で物事を判断してしまうため。考えが浅くて表面的。
くらたまの漫画とかって、よく、「みんな、そうなんだ。」っつう観念的な安心感を、あたかも「人間として、それが正しい。」行動や思考であるかのように錯覚している部分が非常に多い。
一人だけ考えとか行動が違うと感情的に「恥ずかしくて。」それが精神的に不安だから拒絶して。逆に多くのヒトが同じ思いや行動をしていると観念的に「恥ずかしくない。」もんだから、気分的に安心して、満足感に浸って思考停止に陥る。
「ヒトとは、そういうものである。」
「ヒト。」としてはね。
「ヒト。」という生物種としての習性、傾向性としてはね。
でもね、「ヒト。」という種の生物というものが、それ以外の行動の一切が不可能であることの論理的証明は存在しない。
アイヒマン実験における被験者のおかれた環境において、被験者の多くが採った行動をどんなにたくさん枚挙しても。それが「人間の行動選択として正しい。」という理屈は出てこない。
出てこないにも関わらず、「出てくるかも知れない。」っつってんのが東大生物学部。チンパンジーの遊園地作って血税無駄遣いしている。
例えば、シエラレオネの少年ゲリラとか、振り込め詐欺の仲間を。チンパンジーの代わりに鋼鉄とポリカーボネートのケージに閉じ込めておいて、彼らがどのような行動を採ったら、既に行われた非人間的行為を反証できるのであろうか。
具体的にどのような行動を採れば「人間としての社会性を立証した。」ことになるのであろうか。この問いに対して、東京大学生物学部は一切具体的な解答も、また、反証も行わないのである。
単に、「利他的行動を採った。」というだけでは、何ら「人間としての社会性を立証した。」ことには成り得ない。集団レイプにおいて、仲間にレイプを譲ることも、また、振り込め詐欺集団内部において、仲間に食事をおごることも、行為自体は「利他行動。」であり。こうした集団内部だけにおける「利他行動。」というものは、何ら社会全体において公益倫理的行動選択であるとは言えないのである。
たとえ公益倫理的行動を採ったとしても、特定環境下、それこそ衆人環視下のような特定環境において、どのような行動を採ったとしても。それが本当に自律的判断であることの論証など、原理的に不可能なのである。単に監視している人間の顔色を窺っただけの、表面的な取り繕いに過ぎない可能性を排除することは不可能である。
難しいかぇ?。
多分、難しいんだろうなー。だから問題にならないんだろうから。
ヒトという種の生物の中には、残虐行為をする者がいる。これは厳然たる事実である。その残虐行為を行った人物が、一体何を行ったとしたら、この人物が公益倫理的な自律判断を常に可能であると証明することができるのであろうか。
殺人の罪で20年間服役した殺人犯が、出所した後数週間で再び殺人を犯したという話がある。この殺人犯が獄中の20年間において、どのような行動を採れば再犯しないという証明ができるであろうか。あるいは、どのような行動を採らなければ、自律的に自分の情動行動を抑制できると言えるのであろうか。
もし、具体的にそれが言えるとしよう。ならば、なぜ、そうした立証を行わないまま刑期を迎えたからといって出所させてしまったのであろうか。
皆さん、考えたくないですか。面倒臭いですか。
そういえば、訪問アクセスIPに対して、実際の閲覧数が3倍くらいあるのは。おいらの言ってる内容がわかり難いからなのかね。何度も読み直しているのかね。何度も読み直している人がいるんだとすれば、なるべく解りやすいようにしたいとは思うんだけどね。
話を戻しましょう。
ある囚人が、その行動を自律的に制御でき。また、意識の広さによって公益倫理的な判断が可能であることを、特定行動から立証可能であるとするならば。なぜ、再犯はなくならないのか。なぜ、立証してから出所させないのか。
もし立証可能であるにも関わらず、立証せずに社会に解放するというのは、これは司法の怠慢、手抜きではないのか。というかあまりに無責任ではないのか。
現実には、特定環境下においての特定行動の抽出からは。人間としての社会性。すなはち、公益倫理的な自律的判断が常に可能であることの証明、立証は不可能なのである。
「そんなことを考えたら、あらゆる他人を信用できなくなっちゃうし。また、信用できないなら、自分が他人から信用されることも無意味になっちゃう。」って思った?。それが恐いですか?。
多分、おいらの言ってることは、恐いんだと思う。でも、恐いとか恐くないというのは気分の問題であり。大脳辺縁系が促す価値観によるものであるってことも、理論的には理解しているんだと思う。
私の意識に関する話というのは、ペテン類とは異なり逃げ道がない。そのため気分的に楽になることができない。徹底的に意識の明瞭さ、広さを要求するため。気分的「救い。」がない。
ペテン類の場合。「飴とムチ。」の使い分けをすることによって、上手に意識誘導を促して論理的思考を撹乱させることができる。だから、最終的には気分的には「楽。」になることができるので、ペテンに引っ掛かるのは簡単なのである。
騙されやすい環境というのは、多くのヒトが騙されることを望むようにできている。
脳というのは、理論的に考えることよりも。気分的に楽になることの方を優先するようにできている。
理論的に考えることというのは、場合によって気分的に嫌になることもある。嫌にしかならない場合もある。大脳辺縁系と大脳新皮質は背理関係にある。そのため気分的な「葛藤。」というものが生ずるのである。
葛と藤、なんで植物なのかは良く知らないのだけど。この二つの植物は共存できないのかな。関係ないけど。後でググってみよっと。
天使と悪魔。悪魔に魂を売るのは簡単だけど、天使の囁きに耳を傾けるのは難しい。天使というのは囁くことしかしないからね。それに対して悪魔っていうのは声がデカイ。脅迫的に行動を促すから、多くのヒトは悪魔の声に従ってしまう。
アイヒマン実験というのは、環境によって促される悪魔の行動に対し。自分の中で囁く天使の声に従うことの重要さを促すものである。
オウム真理教の幹部、林郁夫は。教団からの命令に従うべく、毒ガステロを実行するとき。「自分は他人を救うために医者になったのに、こんなことをして良いのか。」と葛藤したという。
しかし、結局テロは実行されてしまった。アイヒマン実験の被験者の多くと同じように、葛藤を抱えながらも、最終的には権威者の命令のままに他人に暴力行為を行ってしまうのである。もとい、「行ってしまいがちな傾向。」がある。
福島第一原発の津波対策に対して、「このままでは危険なのではないか。」と思った技術者がいたかも知れない。しかし、それ以上の対策を行うことが採算性に適しないとして無視したのであろうか。
スペースシャトルチャレンジャー号の技術者も、気温低下に起因する「Oリング。」の柔軟性低下による燃料漏れと、それに伴う大事故の可能性を予期していながら、最終的には発射の延期をさせることは出来なかった。
天使というのは、常に声が小さいらしい。
「んあっ?。もっとでっけぇ声でしゃべれよ!。」
とか言うのは酷である。優しい心というものは酔っ払いみたいに大声でしゃべるものではないからだ。
ヒトの意識の9割は無意識であるという。従って、本当の意識とは1割以下なのである。その声が小さいのは必然というものであろう。
無意識的行動の全てが悪魔的であるわけではない。しかし、機械的な条件反射行動というものを漫然と続けていれば、状況に依っては悪魔の行動になってしまうのである。
アイヒマン実験でも同じことが言える。普通、権威の言うことに従っていれば、特に問題なく生活することが可能であろう。C型肝炎患者の大量生産することも、600万のユダヤ人を虐殺することもないであろう。「概ね。」問題ないのである。
だから、普通のヒトの多くは観念的に「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという、論理的根拠のない実証不能の観念を振り回し、結局は他人に多大な迷惑をかけてしまうことにもなるのである。
多くのヒト達に迎合しておけば安心である。その安心が作り出す価値観によって、多くのヒト達とは迎合しない人間に対する論理的根拠のない不安感、恐怖感は作り出されるのである。
その強迫観念こそが「恥ずかしい。」という感覚なのである。
「空気を読む。」という言葉がある。「その場の雰囲気に迎合する。」と換言しても間違いではなかろう。アイヒマン実験において、被験者の多くは、その場の空気を読んでしまった結果、自身の本当の意図とは全く異なる野蛮行為に手を染めてしまうのである。
バカなガキが「空気読めよ。」なんて強迫強制的に行動や言動を求めることがある。こうした大衆迎合的行動への異常な執着というのは、そこに自律的な行動選択への重要性に意識が全く働いていないからである。
むしろ、言っている本人こそが強迫観念によって操られているからこその発言なのである。
先程、「悪魔は声がデカイ。」と述べたが。感情的な観念に由来する言動であるからこそ、強迫的であり、強制的であり。また、感情的なのである。
ヒトは他人の感情を逆なですることを忌避する傾向がある。それは感情的でない者ほど、感情的な者のヒステリーに従ってしまう傾向がある。
その結果、ヒステリックで感情的な者の主張に対し、多くの者は無意識的に誘導されてしまう傾向がある。
こうした誘導の結果、ヒステリックで感情的な行動こそが多数や大勢を占める結果を導き、ますます多くの者をヒステリックで感情的な行動への気分的安心感へと誘うのである。
ヒステリースパイラルとでも名付けておこうかな。ルワンダ内戦の大きな要因とされる、感情的な興奮状態というのは、こうして加速させられるのである。
一度、こうしたスパイラルが生じてしまうと、もはや誰にも手がつけられない。多数というのは非常に大きな「力。」を持っているため、一度暴走を始めると抑制は効かないのである。
「力。」を制御する目的意識は失われ、「力。」それ自体を振り回すことが目的になってしまうのである。
本当に恐ろしいのは、「私の話。」ではなく。誰にも意識のない暴走の方が遥かに危険なのである。気分的な不安感よりも、論理的危険性を重要視すべきなのである。
スタンレー:ミルグラムの「アイヒマン実験。」とか、「バーナル効果実験。」。あと「監獄実験。」とかも、できれば目を通しておいて欲しいですね。一度で良いですから、ヒトという種の生物の行動習性というものは知っておいて損はないですから。
「ヒトという種の生物の行動習性。」とは、あなたの行動習性でもあるんですからね。
今日はブチ切れません。最後まで読んで頂き有り難うございました。