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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

独裁。

2011年03月10日 23時47分45秒 | 意識論関連
 普通、独裁国家というものは、一人の独裁者によって作り出されるものであると考えがちである。しかし、これは間違いである。

 独裁というものは、独裁者単独で作り出すことのできるようなものではない。独裁というものを作り出しているのは、独裁者への盲目的な信頼や、それに伴う服従によって作り出されるのである。

 ヒトという種の生物には、生物的に封建社会を作り出す本能習性というものが存在するため、しばしば独裁状態に陥るものなのである。

 本能習性に抗うのは、本質的意識である。

 しかし、ヒトの意識の9割は無意識であり。本質的意識となれば絶望的である。

 それでも、封建制度に陥るメカニズムとしての、生物本能的な社会形成習性というものの存在を。読者の少なからずは「知った。」はずである。少なくともそういう考え方が存在するということを理解できた人が何人かはいるはずである。

 それなら、何も知らずに無為無策に、無意識に、流れのままに、予め組み込まれた本能のおもむくままに、独裁封建社会に陥らないようにできるかも知れない。

 このページの読者は精々100IP程度である。その内の何割かは、意識論を苦々しく思っている脳科学者や生物学者、哲学者であろう。

 今はまだ、僅かな人にしか知られない本質的意識の存在の証明を述べただけである。これで本当に独裁がなくなるかどうかは、私の知るところではない。





認知。

2011年03月10日 19時26分04秒 | 意識論関連
 いきなり「認知。」なんて書いてあると妊娠でもさせちゃったのかと勘違いされそうだが。そうではない。

 臨床心理学の方面では、「認知。」というものは、いわば刷り込まれた無意識的な思い込みや、反射的な行動を指して言うらものらしい。

 しかし、そうなると脳神経の方面における、認知症患者などの「認知の衰え。」という言い回しとは噛み合わないことになる。

 脳神経医学においては。認知症の患者などに見られる「認知の衰え。」とは、無意識的な反射的行動自体は衰えておらず。意識的な「気付き。」としての認識能力が失われているからである。

 「認知。」とか「認識。」とか、こうした言葉の扱い方は厳密に定義しておかないと。一向に理論体系化が進まないので、できれば臨床の方面でもはっきりと定義しておいて欲しいものである。



 臨床心理における治療というものは、基本的に「社会生活上不適応な反応を軽減し、適応的な反応を学習させてゆく。」ものである。

 これは極端にいえば、反応さえ「適応。」的であれば良いというものであって、患者の公益倫理的な自律判断の有無などは、一切問わないし。また、適応に値する社会であるかどうかも全く論じない。

 臨床であるから、社会そのものに言及しないのも当然であるが。果たして社会そのものに病理が存在する場合、それは無視したままで、単に患者を社会の方に「適応。」させることが、本当に正しいことであると言えるのであろうか。

 司法制度が、犯罪の再発防止に対して無為無策であるのと同様に。臨床もまた、病理の根幹には言及しないつもりであろうか。果たしてそれでいいのだろうか。

 目先の患者が、現在の社会に適応できさえすれば良いという「考え。」自体が、いわば「認知。」としての無意識的な思い込み、心理的な拘束であるとは言えないだろうか。

 たとえ、そこに言及することが臨床の領域を超えているとしても。言及しないことが正しいことであるとは考えられない。それは別に超えてはいけない領域ではないはずだからである。

 それは司法においても同様である。

 患者の治療から導き出された社会そのものの病理であるならば、それは社会に還元して社会そのものに働きかけることも必要なはずである。もちろん、それがあればの話だが。

 臨床医師の意識が狭窄で、患者さえ治れば金になるといった。その場限りの治療にしか興味がないのであれば、むしろ患者をより多く発生させる社会の方が医師にとっては得であると考えるかも知れない。それが本当に患者も含めた一般人が臨床心理に求める要請であろうか。

 司法も含めて、社会制度の有無であるとか、報酬の有無とかを根拠にして社会的要請に応えないというのは問題意識の欠落であると言える。機械的に与えられた作業だけをこなしていて、社会そのものの問題が解決することはない。単に利益だけを追求することも、いうなればエサにしか反応しないチンパンジーと、行動原理は変わらないのである。




 斉藤環氏による「社会的引きこもり。」に関するページを紹介しておく。

 若干唐突であるが、臨床心理が社会に働きかけることの一例として挙げておく。でわまた。



バラコミ。

2011年03月10日 14時18分11秒 | 日記
 バラコミとは、バランスコミュニケーションの略だそうである。科学的に検証すれば、これは観念であることに間違いはない。これをエサにセミナーで行き先不明の募金活動をしているのであれば、ペテンである可能性も充分ある。

 ただ、結婚を考える時に。「相手を幸せにしてあげたい。」などと他人優先で考えるのではなく。「まず、自分が幸せになりたい。」ことを考えるというのは、私の意識論の考えにおける本質的自発性と重なる部分がある。

 どこまで信用していいのかは、私自身まだ研究段階であるが。一般的な占い師のように世間や多数他人を優先するような、いかにも聖人君子的な生き方を脅迫的に押し付けるような指向とは、少し異なるようである。

 ただ、やはり理論的には相当無理があり。理論的な体系化の段階で、かなり観念的な決め付けが混入している所は少なくない。

 バラコミの意図するところは、心理的な拘束によって生ずる根拠のない恐怖心を取り除くことによって。無駄な固執、ヒステリーを除去することによって、心理的に楽に考えられるようにするものであるようだ。

 私の意識論においては、単に気分的に楽になれば良いというものではないのは確かだが。無駄に恐怖心を煽ることが目的でもないので。無駄な恐怖心を取り除くという観点からは参考にしたい部分はある。だが、別にバラコミを推奨はしないので、誤解のないように。

 私が推奨したいのは、英国で実績のある認知行動療法である。こちらは正式な臨床心理である。





 ヒステリーとは、心理的な拘束からくる意識の固定化、思考の過剰な整理のことである。ヒステリーというと、単に苛立っている人のことを指していると一般的には思われているが。心理学用語でのヒステリーとは、何らかの観念によって思考が拘束されている状態全般を指している。

 つまり、鬱状態のことも、広義においてヒステリーなのである。鬱になる人というのは、自分自身を過剰に過小評価したがる傾向があり。「自分は下らない人間だ。」といった風に自分で自分を追い詰めてしまうのである。

 理論的に考えると、自分で自分を評価することなど不可能である。自分の基準を用いて自分自身を検証することに意味がないからである。

 モノサシで例えてみよう。ここに一つのモノサシがあるとする、この一つのモノサシの目盛りが正確であるかどうかを検証可能であろうか。

 「他人と比較して、ここが劣っている。」といった検証は可能であるかも知れない。しかし、なぜ、他人と比較しなければならないのであろうか。その基準自体が自分自身の基準によるものなのである。

 特定のある人物と自分を比較するとき、その比較基準となるモノサシが、自己自身の好き嫌いに由来する基準であるならば、その比較結果は理論的根拠を伴うものではなく、単なる自分の個人的な観念に過ぎない。

 「ノーベル賞受賞者と比較して、自分は何の業績も、成果も持たない。」そんなことに意識を奪われ、自分が行うべき研究自体への意欲を失っていて、何を研究できるであろうか。

 ノーベル賞受賞者であっても、最初は単なる研究者の一人に過ぎない。その段階において他人との比較によって、気分的に意欲を失っていたのでは、研究者に邁進することなどできないのである。アインシュタインが大学の研究室に入ることができなかったことを悔やんで、研究自体を諦めたり、あるいは意欲を失っていただろうか。否、そんなことは全く無関心だったのである。だからこそ特許局勤めをしながら相対性理論を書き上げたのである。

 たとえどんなに社会的に成功しようとも、実際には振り込め詐欺への耐性も得られない脳トレ類の流布によって社会的に成功することには、実質的には社会に害を与えるだけなのである。

 従って、表面的に他人と自分とを単純比較しても、その基準自体が正しいことの論理的根拠があるとは限らないのである。単なる観念的な羨望である場合がほとんどなのだ。

 「他人と比較して、自分は不幸だ。」そう思い込む。TBSの川田亜子アナウンサーは、自分のベンツの中で練炭自殺をしたという。一部他殺の疑いもあるようだが、自殺をする人の動機というのは、物質的な充足や社会的成功とは無関係であることが多い。

 自分の個人的な、極めて主観的な基準によって。「自分は不幸である。」という思い込みを自分自身に刷り込み学習することによって、自己洗脳してしまい、勝手に自己嫌悪に陥って自分を嫌いになるという心理的なスパイラルに陥ることが、ヒトの脳では時折生ずる。

 大脳辺縁系の促すシーケンシャルな心理拘束というのは、それ自体が誰も望んでそうなっているわけではない。こうした無意識的なシーケンスからの脱構築を行うのが本質的意識なのである。

 脳科学的な観点からは、気分的な抑鬱というものも、単なる副腎皮質ホルモンであるコルチゾールやカテコールアミンなどの不安物質が、脳の大脳辺縁系に作用しているだけの機械的条件反射に過ぎない。だから、気分的に不安なだけであるならば、「鼻からコルチゾール。」的に笑い飛ばせれば、脳内物質のコントロールも可能である。

 論理的に除去不可能な気分的不安というものに、多くの人は意識を奪われがちな傾向がある。例えば、目の前にお菓子があったとしよう。そのお菓子が本当に安全かどうかは、理論的にはもはや検証のしようがない。もし検証しようとするならば、検査機関に調査を依頼することになる。果たしてその検査機関自体の信頼性までも検証するとなれば、もはや永遠に絶対的信頼性など保障されえないのである。

 こうした検証不可能な事柄に対して精密検証性を行うのは単なる徒労に過ぎない。従ってそれに不安を抱くことに意味はない。食品安全性に関わることであるならば、厚生労働省にお任せしておくしかないのである。そこに気分的不安を訴えてもどうにもならないのである。他人に責任行動を任せておくのであれば、必要なのは無駄な気分的不安ではなく。自分に関わる行動選択に責任を持つことなのである。

 相互に自分の行動に責任を持つことによって、社会全体の信頼性というものが保障されるのである。自分の行動責任自体がたとえ小さなことであっても、一つ一つの積み重ねによって社会は成立しているのである。

 誰にも認知されずに、毎日パンを真面目に焼き続けることによって、近隣の住人に安全でおいしいパンを供給することであっても。それは社会にとって大切な責任行動である。見方によっては莫大な税金を使って岩山の中に巨大な水槽をこさえてノーベル賞にうかれていることと、一体どちらが社会にとって「必要。」なことであろうか。

 自分の行いが、社会にとってどの程度の価値が存在するか。そんなことは考えても意味がない。たとえ些細なことであっても、確実に行うこと。責任を持つこと。その積み重ねによって社会全体の安全性が確保されるのである。自分が特別な存在である必要など、社会全体にとって全く意味がない。社会というものは大多数の平凡な人達によって安全性を保たれているものなのである。従って多数他人からの評価や、過大な報酬を得ていなくても存在価値が低いことにはならないのである。

 自分が他人と比較して、幸福であるかどうか。それは理論的には比較不可能なものである。それこそ、頭部結合のシャム双生児でもなければ、自分と他人との間に脳神経はつながっていないのである。自分の幸福感と、他人の幸福感を比較することなど理論的には不可能なのである。外見上他人が幸福そうに見えたとしても、その「見えて。」いる状態以外の全てを知っているわけではなく、あくまで主観的な「自分の基準。」でしかないことを忘れるべきではない。



ズバリ。

2011年03月10日 11時05分35秒 | 日記
 意識というキーワードで、無差別に読みまくっていたら、自己啓発系と思われるページにおいて、「本能=危機回避能力。」という旨の記述があったので。反論のメールを送付したところ。回答を頂いたので、検証してみようと思う。

 この人物が論ずるに。

 『私達が定義する「野性の本能」とは、ズバリ、「危機回避能力」なのです。
バラコミ理論上では、「本能は危機回避するもの。」であると定義しています。
つまり、振り込め詐欺も、車に飛び出す子供も、飛び出す猫も、バラコミ理論で解釈すると
「関係者全て」の
「カルマ」
「セット」
「危機回避」
が関係していると捉えるのです。』

 とのことである。

 これは本当に「理論。」であろうか。ハーバード大学のハワード:ガードナーの提唱する「MI理論。」と同様に、理論的には根拠のない観念としか思えない。

 この「バラコミ理論。」上では「野性の本能」とは、「危機回避するもの。」と定義しているそうであるが、その定義に論理的根拠は一体何か。論理的な根拠もなしに「定義。」してしまうから理論ではなくなるのである。

 私が「ズバリ。」という言葉で想起するのが、細木数子である。TBSの番組のタイトルとして「ズバリ。言うわよ。」と掲げながら、その中において「占い師の言うことなんか、真に受けるんじゃないわよ。」などという無責任発言である。

 「ズバリ。」言ったからといって、それは何ら論理的な根拠にはならないのであるが。相手を丸め込もうとするとき、論理的根拠のない決め付けをする際に用いられる言葉としか思えない。

 説明の中には「捉える。」とあるが、これもまた論理的根拠の説明にはなっていない。

 バランスコミュニケーション理論は、実際には理論ではなく。経験則である。提唱者自身が臨床心理の人間でもない。それは私も同様である。



 

 臨床は科学ではない。従って、臨床に科学的検証を強制することはできないのであるが。科学的検証が可能である方が、より安全性を担保できるのは確かである。あまり科学的理論を振り回して情緒不安定な人間を大量生産するのも建設的とも思えない。特に私の場合。

 しかし、理論的に根拠が明確である方が安全性が高いのは確かである。「どうなっているのか、よくわからないが。こうしておけば、概ねうまくゆく。」という経験則だけでは、本当に安全であることの証明が存在しないということであるからだ。

 本当に危機回避をするためには、理論は不可欠である。危険学、失敗学というのは工学的なアプローチであり、徹頭徹尾理論的追求を行うものである。

 航空機の運行において、経験則ばかりで行われたら危なくて仕方ない。しかし、現実には着陸においては操縦者の経験的な技術任せであることは確かである。こればかりは現在の科学技術をもってしても理論化することも、それによる自動化もできない。無理に自動化したことで反って危険が増した例もあるくらいだ。

 現実の社会の全てが理論で説明できるわけではないが。可能な限り理論的根拠を解明する姿勢は必要である。

 かつては、ナチス政権の指導者であるアドルフ:ヒトラーも、戦場での恐怖体験からくる抑鬱状態の治療として。臨床心理の催眠術を用いた治療によって、過剰な自信を持ってしまったともいわれている。単に患者の気分を改善するだけでは、本当の意味における患者自身が求める状態になるとは言い切れない。

 もし、心療内科などに通院されている方が、この文章を読んで医師を信用できない気分に陥るとしたら。それは少しはやとちりである。これはまだ、研究段階の理論であって、実際の臨床に直接用いるべき話ではない。理解しなくてはならないのは医師の方であって、自分の精神もコントロールできない医師であるなら、患者の面倒を見ている場合ではないからである。

 私の意識に関する話は、たとえ臨床心理の医師であっても情緒的には不安定になることは充分ありうる。むしろ何の反応もない無関心で無意識な医師の方が信用ならないと考えるべきである。自らの愚かさを知ろうともしない無意識な人間にとって、私の話は単なる少数意見でしかないからである。