なんと私の地元にこんな公園があった。
公園のそばにはゆかりの家と思われるサロンまである。何十年も住んでいてここは初めて。
このあたり超高級住宅地です。と言っても昔は田園地帯だったところに関東大震災で被害に
あった作家や有名人が一斉に引っ越してきたらしい。
もっと近場に太宰治や太宰の面倒見た井伏鱒二氏の住宅もあるのです。
なんと私の地元にこんな公園があった。
公園のそばにはゆかりの家と思われるサロンまである。何十年も住んでいてここは初めて。
このあたり超高級住宅地です。と言っても昔は田園地帯だったところに関東大震災で被害に
あった作家や有名人が一斉に引っ越してきたらしい。
もっと近場に太宰治や太宰の面倒見た井伏鱒二氏の住宅もあるのです。
晶子夫妻はここから文化学院まで通っていたのでしょうか。さくらさん、すごい縁に囲まれてらっしゃる。
さくらさんが夏目漱石をやっておられるとのことなので、ここに書き残しておきますね。
最近かささぎの旗で一位になっている記事に、江崎悌三とその妻についての記事があります。あんまりものを考えず、おもいついたことをさっさか書いてしまうのですが、ここらへんは新聞記事の引用だったり、乙骨一族の記録からの転載だったりしますので、さほどおおきなとんちんかんはしでかしてはいないとおもいます。
(なにしろ石橋秀野をしらべていたとき、ひでのとよさのあきこをとりちがえて書いていた、というへまをしでかしていたので。(文化学院の生徒がひでの、学監の先生があきこ、先生のくちべにがはみだしていたのを注意してあげたのにもかかわらず、晶子先生は終日そのままだった、というもの。)
さて、高校生で唱歌をしらべていらっしゃるかたから、江崎まきこ(おつこつさぶろうの姉)はいつなくなりましたか、とたずねられた。
小伝乙骨家の歴史、をかってよんだのですが、かかれていたかどうか記憶にないし、ブログに打ち込んだ円交5号のなかから、まきこさんについての記事をさがしました。すると、以下を発見。
「最後に三男悌三(私の父)の事ですが、父は東京牛込の払方町に生まれ、幼少時代をそこで過ごしました。小学校六年の五月に母牧子が亡くなりましたが、牛込の愛日小学校を卒業していますので、母の没後も大阪に行かず、暫く牛込の家に住んでいたものと思われます。また、大阪の北野中学校を卒業していますが、その前に東京の府立四中に入って、その後北野中に転校したとも聞いています。これも、誰方かに確かめなければと思っております。」
えさきていぞうは東京生まれだってかいてありますし、なんと、漱石の母校、あいじつしょうがっこうをでておられるではありませんか。
ここで、さらにしらべていますと、ますぞえさんにぶつかってしまうのだ。
ででで。
これはたぶー?
ねえさくらさんところはそこまでいっていいんかいはないの?
たぶん、くちごもられたのは、このけんだろうとおもった。
大変なことになっていますね、ますぞえさん。
ああ。あれはいやだ、といまさらながらおもうのが、
エンブレムです。
さのさんのデザインがだんぜんよかった!
すったもんだして、あげくのはてが、あの上品過ぎる俳句みたいな深みの淵。
戦時中の日本みたいなあじがしてしようがない。
いろがないってさびしすぎる。きびしすぎる。
ちょっとくらいせこくたっていいじゃない。
けちはどっち。
クレヨンしんちゃんがリストに入っていたのでした。
ちいさなおこさんがいらっしゃるのでしょう。
おとうさん、おりんぴっくのとき、あの場所におれないの?なんて、会話もあったのだろうか。かわいそう。
よさのあきこ、ひろし夫妻には13人の子、、、
つくづくおもう。
むかしのひとたちはなぜあんなに寛容でいられたのでしょうね。
おおっつ。つがおおきい。
でんつうとおりんぴっくのやみがかかれとる!
ほてるみかづきのこともかかれているし、やっぱりあべしげさんはすごいや。
けさは八時からおみやの裏道のあなぽこに砂利をうめる土方仕事をして、そのあとすぐ、公民館で地区の第一回防災訓練でした。消防隊員から救急知識と、火事の備えをまなび、炊き出し訓練で大きなおにぎり二個とぶたじる(かんとうではとんじる)をつくる。はあ~どすこいどすこい。
でもこれ、訓練だし、はじめてだし、ご婦人方はきのうからしこんでいらしたもよう。おかげでかささぎのてはよごれず、ただでっかいおにぎりをほおばるだけでよかったのでした。
新米、おいしゅうございました。ごちそうさま。
折々に印象的なコメントを有難うございます。
さて、☝の続きです。書いておきたい。
アッコにおまかせを見てたら、佐野研さんの風呂敷のデザインが出ました。
あっと驚く升目模様は、原稿用紙からの本歌取り!
すごいセンスです。
現都知事の風呂敷の本に紹介されていたというこの因縁にも、なにか鳥肌たちませんか。
だれだったか、おもいだせません、、、