13th Avenue日記

一歩ずつ、一歩ずつ・・・・

11月15日

2016-11-15 | 日記

まずい、クリスマスがやってくる!

プレゼント作りが間に合ってない・・・

 

Where God happensは2005年に出版された本ですが、

この頃は丁度私がリージェントで学びを始めた頃で、

community(共同体)というのが非常に強く語られていました。

現在もそうですが、霊性(Spirituality)というのが個人主義と結びつくと、

Solitude(独居)の必要性を強調することが多く、

共同体と切り離して話されたり、理解されたりして居る事への懸念が

大きいと思います。霊性は自分と神様との関係の中だけに置かれることが

多かったからです。霊性と伝道は全く別々に語られることが多いですしね。

そのようなことを話すときに、多くの人がDesert Father/Motherを

Solitudeという観点で話したがるけどそうじゃないんじゃないかな、

本来のSolitudeの立ち位置を取り戻しましょうよというのが

話され始めた頃なんじゃないかなと思うんですね。

カナダは静かで強い個人主義の国なので、

この共同体の必要性を考えるには良い場所なのかもしれません。

この本の目線もそこにあるかなと思います。

 

昨日はデズモンド・チューチューの前書きを引用させていただきましたが、

今日は本文から・・・

plain acknowledgment of your solidarity in need and failure opens a door: it shows that it is possible to live in the truth and to go forward in hope. It is in such a moment that God gives himself through you, and you become by God’s gifts a means of connecting another with God. You have done the job you were created to do.
(独居によって得られる自分の必要や失敗を知ることは、真実に生きることへの可能性と希望への前進の扉を開きます。この瞬間こそ神ご自身をあなたに与え、あなたを通して現れ、あなた自身が他者を神と繋ぐ賜物となるのです。あなたはあなたがするべきように造られたそもそもの「仕事」をなすことができるのです)

これをウイリアムスは Where God happens(神が始まるところ)と呼びます。

私たちのミニストリーもそれをとても大事にしてきました。

どう伝えるかじゃなくて、何が伝わるのか・・・誰が伝わるのか・・・

私たちはシャロームの中に共に歩みたいと願う中で、

自分が福音に生きることに真剣になることから始めようという立ち位置です。

でもそれは、福音に生きられたからじゃあ次伝えますじゃなくて、

そのプロセスの中にこそ伝わるものがあると考えるわけです。

「神様が始まるところ」つまり「聖霊がすでに働かれている場所」に行くことを

大事にしてきました。

これか、あれかじゃなくて、

これができたから次じゃなくて、

色々なプロセスの中で

solitudeとcommunityが共存する場所が

必要だと私も思います。

It is opening doors for them to healing and to wholeness. Insofar as you open such doors for another, you gain God, in the sense that you become a place where God happened for somebody else. You become a place where God happens. God comes to life for somebody else in a life-giving way, not because you are good or wonderful but because that is what God has done. So if we can shift our preoccupations, anxiety, and selfishness out of the way to put someone in touch with the possibility of God’s healing, to that extent we are ourselves in touch with God’s healing. So, if you gain your brother or sister, you gain God.

To find my own life is a task I cannot undertake without the neighbour; life itself is what I find in solidarity, and not only in a sense of togetherness (talking about solidarity can easily turn into no more than this) but in that willingness to put “on hold” the perspective I want to own and cling to and possess, so that something else may happen through my presence and my words- the something else that is the announcing of the gospel.

私、やっぱり普通のことを普通にしてただけだったんだって

安心しました(笑)


11月14日

2016-11-14 | 日記

アレヨアレヨという間に11月も半ばになりました。

や・ば・い(笑)

今、課題図書をすごい勢いで読んでいます。

Rowan WilliamsのWhere God happenです。

この本はDesert Father/ Motherについて考えつつ、

現代の私たちとどの様にそれが繋がるのか・・・

霊の形成、成熟について考える本です。

この中で、ウィリアムズは霊の形成や成熟は

「一人でなすものではなく、共同体の中で起きるものである」と

主張していきます。

この前書きをデズモンド・チューチューが書いてるんですけど、

この一節を紹介します。

We are too scared to experience the stillness that will let us know our intrinsic worth, a free gift of God’s grace, and we obtrude our selves between God and our neighbour when we could know the blessedness of putting our neighbour in touch with God, when God can then happen, and we then can know the double blessing that blesses both the giver and the receiver, and no one knows which they are and it does not matter.

(私たちは静けさを体験することを非常に恐れている。その静けさこそがが私たちの本質的な価値や神から無償でいただける恵を教えてくれるのにだ。その上、神と隣人が触れ合うということが神によって実現するとき、与えた方も受けた方もどちらも祝福され、一体どっちが与えた方か受けた方かなんてもうどうでも良いくらいの二重の祝福を知ることができたのにも関わらず、私たちが神と隣人が触れ合うという祝福を味わえる時に、私たち自信を神と隣人の間に入り込み妨げになる。)

この、「神と隣人が触れ合う」put our neighbour in touch with Godというのがこの本の第一にキーになっていきます。

私はいつも私たちのミニストリーは「誠実に、忠実に、丁寧に」をモットーにしています、と言いますが、

それをいうたび、皆さんまるで新しいことを聞いたかの様に言われるのですが、

いや〜・・・この本によるとアントニーがすでに同じ様なことを言ってますよね(笑)

そもそも、私がそんな新しいすごいことを考えるわけないんですよ(笑)

結構どのみち、かなり当たり前のことしか言ってないと自分で思っているし。

この本もある意味、非常に当たり前のことを言語化してくれているかなと思うんですね。

ここのstillness(静けさ)というのは、物理的なものだけではない気がするんです。

もちろん、物理的な静けさはとても大事だと思うんですよ。

私はどんなに「静か」と言われている図書館でも耳栓をしないとダメなくらい

音に敏感なので、この物理的な静けさの大切さはよくわかるんです。

でも、同時に心の静けさはどうだろうと思うんです。

つまり、マージンですよね。

このマージンがなければ「忙しい」という状態になるんじゃないかと思います。

そして、その静けさ(マージン)こそが主と出会う場所だと思うんです。

この本の面白いところは(今の所)一人じゃダメなんだということを

なんどもなんどもいうんですね。

そもそも、一人だったとしても静けさを得ることは

そうそう簡単じゃないと思うし。

どんなに一人で静かなところに行っても、

心がざわざわしていたり、頭がいっぱいだったりしたら

めちゃめちゃうるさいですよね。

stillnessってsilenceと同じじゃないと思うんです。

神が始まる場所・・・考えてみたいと思います。

 


Dr Strange (ドクター・ストレンジ)

2016-11-09 | 日記

昨日、ドクター ストレンジを観ました。

そして、その後、US選挙があったのですが、

いや〜・・・なかなか考えされられました。

すごいタイミングで観た映画だったなぁと・・・

 

ドクター・ストレンジですが、

この画面がとんでもないことになっています(笑)

3Dで観たら絶対観た後フラフラして転びそう・・・

というか、最初の時点で頭が痛くなりそう・・・

この画面を作った人たち、めちゃめちゃ楽しかっただろうなぁと

思って観てました。ふと安藤忠雄を思い出したり・・・

アート作品として本当に素晴らしいと私は思いました。

先に見た学生から「インセプションとマトリックスが混ざってる感じ」と

聞いておいて本当に良かった(笑)

そうじゃなかったら画面にやられてたかも(笑)
 

そして、内容も「時間」と「現実」の定義が問題になってきます。

ここもインセプションやマトリックスと似ています。

同時に、「善悪」についての問題が関わってきます。

その中で、私が今回のドクターストレンジの中で取り上げていた

「自意識」の問題に心の目がいきました。

星の王子様的なアプローチですが、

本当に大切なものは見えない系ですね。

そして、「無知の知」という立ち位置がなければ、

パワーゲームの罠に落ちていく・・・

同時に「知性」だけで物事を見ていくことが

視野の限界、もしくは知性によって作り上げた壁が出来上がることを

通して、力に対する固執や執着が生まれていく・・・

自分が知らないという現実をどう受け入れるか、

そして、自分の視野の外にあるもの、知性で消化しきれないものを

どう受け取ることができるのか・・・

その中で、主人公が人の愛とか優しさを受け取る、

愛するという心の動きが現れる・・・

全て自分のためから、他者のためという

新しいムーブメントが心の中に生まれてくるわけです。

 

同時に、「善悪」という二分化した白黒な世界感だけで

物事を理解しようとするとそこには破壊が発生する・・・

graceがなければ、そこに「善い」が生まれない・・・

善いがない正しさは愛が無いってことかなと思いました。

 

プライドの問題を随分扱っていて、

どれだけそれがあると人は盲目になるのかとか

アイデンティティの構築の問題が

自分だけではなく、他者との関係にどれだけ影響があるか・・・

確かにドクター・ストレンジはエゴイスティックな神経外科だったとも言えるけど、

結構、こういう人普通にいるんじゃ無いかなぁと思ったんですよね・・・

さすがにこんなにお金持ちにはなれないかもしれないけど(笑)

時計のコレクションがものすごかった(笑)でもこれも

この先の「時間」の定義への入り口だったのかも!と

今書きながら思いました(笑)

そして、壊れてしまった大好きだったのに

大好きだって言えなかったクリスティーンからのプレゼント・・・

彼の中で彼女は時が止まった関係だったのかもしれないし、

思いは変わっていないという意味だったのかもしれないし・・・

そして、彼のアイデンティティの全てをなくしてしまう・・・

なんか、このあたりがすごく現実的なんですよね。

映画なので(それもマーベルなので)設定的にはぶっ飛んでるんですけど、

実際、普通のシチュエーションで考えると、

The人間みたいな設定で。

私たちクリスチャンの歩みも意外と似てるんじゃ無いかなと思ったりするわけです。

 

激しい画面の中で随分深い内容を入れ込みましたね・・・という

さすがのマーベル映画だなと思いました。

この先、このキャラクターの映画、どんな続きが待っているのか、

とっても楽しみにしています!

ドクター・ストレンジの役がカンバーバッチでよかった・・・と

思っているということも書いておきます。

 


君の名は

2016-11-04 | 日記

日本滞在最終日の朝、

珍しく頑張って映画を見て来ました。

それも「君の名は」

これはさすがに北米には来ないだろうなという予想の元でしたが、

来そうで来れないって感じかな・・・

字幕やる人が大変すぎる(笑)

この映画を選んだ理由は、なぜ売れているのか、

なぜ、そんなに話題になっているのかを知りたかったからですが、

そこはやっぱり分からなかったのは、

私に日本人としてのセンスがあまりないからか・・・

朝9:00のに行ったんですが、何より意外と人がいたことがびっくり。

そして、年齢層が高かった(そりゃそうだ)のもびっくり。

私がこの映画で学んだことは

「日本人は理由が何か分からなくても、伝統という名の元に

代々受け継いでそれを守るということを大事にしている」ということです。

今回の日本出張でも時々そういう会話になったのですが

(例えば、ラジオ体操とか)この映画でははっきりそれをいうんです。

「なぜかは分からないけど、伝統は守らないといけない」

多分、視点は「守る」なのかなと思うんですね。

日本文化はそもそも消費文化というよりむしろ大切にする文化なのかなと。

だから、「匠の技」とかに魅力を感じるのかもしれないと思ったんですね。

だから、大量消費文化というのはそもそも根底にないんだろうけど、

でも、大量消費文化っていうのが入って来て、それをそのまま「守る」という

行為に出ちゃったってことなのかなぁと・・・

この映画でも、この「なぜ」が欠落していたために、

大事参事から逃れられないという事実を元に、

じゃあ、「なぜ」を知ったらどういう別の行動が起き得るのか・・・

という話になっていくわけです(この解釈が正しいかどうかは分からないですが・・・)

おばあちゃんが「なんでか分からないけど、伝統だから守らないといけない」っていうのが

ものすごく印象的で・・・言葉にして言わなくても、

多くの場合、そういう思考回路なんじゃないかなぁと思うんですよね。

昔、「一休さん」に「どちて坊や」というキャラクターがいて、

どうして?どうして?と聞くからそう呼ばれているという・・・

子供心に「いや、それ普通だろう・・・」と私は思ったんですけど、

どうも、そういうのは好かれない。

文化の中に「どうして」がなくても社会が回る「守る」という文化がある

という言い方ができるのかもしれません。

本当の意味での伝統を守るとか愛するというのは

この「なぜ」がわかって初めて始まるんじゃないかなと思うんです。

その「なぜ」がわかってその伝統の意味がわかると

その伝統を守ることが楽しくなるんじゃないかなと。

私も「なんで?」が好きな子供のまま育った大人子供ですが、

この映画をみて、ますます「なぜ」と「守る」の両方を持つことの

大切さを思わされました。

ただ、守ることを愛することから、守っているものを愛することが

できるとしたら、それは恵じゃないかなと。

毎週の聖餐式も毎日のデボーションも然り。

感動があって、守るがある、そんなのもアリなんじゃないかと

思わされています。