13th Avenue日記

一歩ずつ、一歩ずつ・・・・

6月11日

2015-06-11 | 日記

今年の6月はお客さんが多い月です。

ちょっと気分は女将。

 

昨日、リージェントの公開講座の中で、in か for か・・・という話があったんですね。 

私は「ために」と言われるとちょっと違和感を感じる方なので、

これはちょっとツボで(笑)

in Christ なのか for Christ なのか・・・

このforが中心に据えられると、この世のauthenticity の罠にはまっていくけど、

inが中心に据えられると、聖書のいうauthenticityが可能になる・・・

これは「恩」の世界も同じじゃないかと思ったんです。

「恩」ってforの世界でできているわけですよね。

だから、当然、そこに「見返り」という他者の存在が据えられる。

そもそも、私たちのあり方はfor Christ なのか in Christなのか・・・

西洋も「ありのままの自分」に対する執着心というか、

「ありのままブーム」というか・・・

ここまでくるとアディクションといっても過言じゃないと言われています。

そうじゃないと、あれだけFrozenのあの歌が流行らないわけです。

去年、ずーっとなんでこの曲が売れるのかが私の中で謎だったんですけど、

昨日のレクチャーを聞いてて納得!でしたね(笑)

問題は、そもそも、「ありのままの自分」の定義が流動的すぎて、

誰も、それをわかってない・・・

for Christの中に潜む罠はそれだと。

つまり、相手にどう自分を捉えてもらえるか・・・

それは「自分が自分かくあるべきと思う自己」と一致しているのかが

非常に大きな問題になってくると。

フーストン博士がずーっと声高に話している

ナルシシズムの話と一致してくるわけです。

そもそも「ありのまま」という言葉の定義づけが曖昧だから、

自己主張するしかなくなる。

これが「恩」の世界とつながる時、

一体どういう化学反応を起こすのか・・・

その一つはバウンダリーの問題じゃないのかなと思うんですね。

そして「暴力(agression)」の問題。

 

ああ、そうつながっちゃうわけね・・・と妙に考え中の私でした。

続く。


6月5日 その2

2015-06-05 | 日記

今日はノースバンクーバーのナイトマーケットに

「アートと聖書」のスタディグループの一人と行ってきました。

いや~!!私、毎週行ってもいい!!と思ったくらい

楽しかった・・・

久しぶりにちゃんと「マーケット」だった!

アートとオーガニックと手作りで満ちている

職人とアーティストの融合って言うんですか。

いや~、これです、これ。

手土産に「今日採れたて」の

オーガニックな立派なネギと人参をゲットしました。

ネギの味噌汁が飲めるかも的な立派な感じが

私をニヤニヤさせるのでした・・・これならきっと食べられる!

 

しつこいようですが、「恩」の続きです。

お坊さんをしている友達と話している時に

私たちのgraceの定義が違うことにふと気付いたんですね。

彼にとって、obrigation はあって当たり前のもので、

それがない世界がありえなかった・・・

つまり、彼のいうgraceというのは結局はお返しするものであって

常に、その関係性の糸の中でぐるぐる回っているものだったんですね。

ただ「ありがとう」と受け取るなんていう価値観がありえないっていうか、

返すというそもそもの無言のお約束ことがないなかで

graceがあるというそもそもそれはなんだ???と。

それじゃあ、なにも回っていかないじゃないか!と。

お互いに助け合わないといけないのに、

なんでそんな自分勝手な発想が成り立つのか・・・?と。

多分、その方がしっくりいく部分もあると思うんですよね。

同じくらいの値段の何かを返す的な・・・お中元とかそういう感じで。

そもそも、個人単位でそういうお中元とかいうのを送る習慣が無い私的には

そうなのか・・・それって、おちおち親切とかできないし、

私が「たくさん作っちゃったから食べる?」っていうのですら、

「恩を売る」世界になってしまうじゃないか!!と

かなりびびったわけです。

obrigation じゃなく、感謝したから、嬉しかったから

だから、何かをしたいと思った・・・というところで

発動する行為もobrigationの世界ではそれ自体が

思いもよらないobrigationを相手に課してしまう・・・

なんと恐ろしいことなんだろう・・・と思ったわけですね。

そうだとしたら、心から嬉しいとか、心からありがとうって

言えるシチュエーションがなくなってしまうんじゃないか・・・と。

もし、この「恩」の世界がシフトされないままに

クリスチャン生活を送るとしたら、

かなり不自由じゃないのか・・・

それって、イエス様的には本末転倒になるんじゃないのかなぁ・・・と

ふと思ったりするわけです。

まずはそのobrigation から自由にならないと、

自由に心から感謝とか喜びとかを味わえないんじゃないのかなぁと

思っちゃったわけです。

 

どうでしょうか・・・

私にとって、結構、どう理解したら良いのだろう・・・と思っていることで、

これがシフトするとしたらどういう風にすることができるのかなと

意外と真剣に考えているんでございますので、もし、明日もこれについて書いたら

もう少しお付き合いくださいませ。

 


6月5日

2015-06-05 | 日記

今朝見たある人のコメントに「知らないという恵」という言葉がありました。

それなんだよなぁ~~・・・と思いました。

自分は知らないんだということは恵なんだってこと。

つまり、知らないということを知らないなら

知るということもできないということ。

人も知りえないんですよね・・・

私たちが「知っている」というのは

非常にsubjectiveなもので、

突き詰めていけば、「知っているということにしている」

という意味になるんじゃないでしょうか。

それをちゃんととらえられるというのは恵だなと思うんです。

それは全能の神様に聞くということがどれだけ大事かにつながるから。

 


6月4日

2015-06-04 | 日記

一難去ってまた一難の今日この頃。

少し食べられるようになると、また、大きめの一難がくるので、

また食べられなくなるの繰り返し。

困ったものです。

 

さて、「恩」の続きです。

この「恩」という文化を私たちはどのくらい理解しているのかなと

思うんですね。

そして、「損得文化」をどのくらい理解しているか・・・

この「損得」と「恩」がどのくらい近いのか・・・

私は「恩を感じる」というのが「得を感じる」と

どのくらい同じ意味合いで使われているのかというのを思っているんです。

「得」というのは非常にsubjectiveな問題で、

個人の利益とつながるわけですよね。

そして、この「得」というのは目先の問題の場合が多い。

そして、多くの場合、「自分がここち良いか良くないか」が

基準になっていることが多い気がするんですね。

これは「徳」ではなく「得」だということです。

この「お得感」をある一定の間もしくは、ある一定のボリューム以上感じる時に

もしや「恩」という思いが芽生えるのではないかと・・・

この「恩」というのはそもそも、相手が損をしても自分に得をくれるという意識から

生まれるとしたら、「恩を着せる」とか「恩知らず」とかいう発想が生まれ得るかなと。

もちろん、「恩」という意識をそれだけで切り取るわけにはいかないので、

あくまで、「恩」がネガティブになる時を想定してです。

しかし、そうなると、「恩」はニュートラルなものではなくなってしまう。

そもそも、「恩」は動詞化しない名詞なんですよね・・・

「愛」は「愛する」がある。

「恵」は「恵む」とか「恵まれる」となる。

「恩」はそれができないんですよねぇ・・・

ちなみに、私がいつも使っているウエブ辞典で調べると、

返すべき恩恵〉 an obligation; a debt of gratitude

に与える恩恵〉 a favor; 【形式ばった表現】 a benefit

親切〉 kindness

という三つが出てくるのですが、一番上がやっぱり一般的な使い方なんだろうなと

思うんですね。

例えば、「恩人」という時、どの意味で使っているのか・・・というのは

大事なポイントになるんじゃないのかなと思うんです。

また、「恩返し」というのがどういう意味なのか・・・

クリスチャンとして歩む時、この発想のどの部分がシフトが必要なのか・・・

個人的には一つのポイントは「得」が「徳」の発想に

シフトしたかを考えてみる必要があるんじゃないかなと思うんですね。

これがシフトしていないと、霊的成熟の妨げになることと同時に、

バウンダリーの問題も含めて、神様や他者との関係の中での歪みが

わからなくなってしまうんじゃないかと思うんですが

みなさんは、どう思われるでしょうか?

 

最近、日本人としての自分の自信も日本語に対しても、

本当に自信がなくなることばかりで、

この「恩」に関しても、多分、日本人である方々には

とても当たり前のことで、簡単に説明できることなのだろうなと思いつつ

書いているので、みなさんも私がすっとこどっこいなことを書いてるなら、

教えてくださると嬉しいです。

 

 


6月3日

2015-06-03 | 日記

えらいお久しぶりになってしまいました。

この2ヶ月ほど、かなり強いストレスを感じるような事が多く、

それを通して色々な事を考えさせられています。

考えさせられているだけでなく、どうも食に出てしまったらしく、

なかなか食べられなかったり、食べると気持ち悪くなったり、胃が痛くなったりと

意外と自分は弱かったと苦笑いしています。

ジムにも通い出したのですが、日によっては思いはあっても、体が動かない時もあり

なかなか思い通りにはいきませんね。

体と相談しながら、自分がどのくらいストレスを感じているのかと相談しながら

ぼちぼちいけたらいいなと思っています。

 

まずは思わされている事1つ目ですが、

日本人のいう「恩」ってなんなんだろうなんですね。

今、丁度、友達で日本でお坊さんをしている方がこちらに来られていて、

ちょっと意見を聞いてみたんです。

で、彼の説明は彼の宗派では「恩」はgrace(恵)だと。

じゃあ、そもそもそうだとしたら、なぜ「恩を着せる」っていう発想が生まれるのか・・・

う~ん・・・それは文化になる時に変革したからかぁ・・・となるわけです。

今、別の案件で読んでいる(日本人)という本があるのですが、

その中で、「日本の文化はそもそも損得で成り立っている」という場所があったんですね。

この本では、今までしっくりしてこなかった部分を取り上げてくれていて、

なかなか私はありがたく読んでいるのですが、この、「損得文化」が影響しているのかと

ふと思ったんですね。

彼の説明によるとそもそもは「恩」はポジティブなんだそうです。

その説明を聞いているとそれは確かにそうなのだろうなと思うんですね。

でも、何か腑に落ちない・・・

それが多分私の「恩」という言葉に付随しているobrigationの匂いなんだと思うんです。

この無言の目に見えない微妙な匂いというか・・・

それはこの「損得文化」が作りあげたものなんじゃないかなと。

この「恩」という発想の根本がどこにあるのかが問題で、

この「文化」という衣を剥がさないといけないものの一つかなとすごく思わされているんです。

クリスチャンとして歩む時、ちゃんと世界観のシフトがあったか、そのシフトをし続けているのかが

問われる部分かなとも思うんですね。

「恩を感じているから」「恩があるから」という感情がどこから来ているのか。

そもそも、親切にするのは、相手に代償を求めているからなのか・・・

代償がなくても喜びは生まれうるのか・・・

神様は私たちに代償を求めているのか・・・

クリスチャンが親切にするのは、見返りを期待しているからなのか・・・

応じるというのは「恩を返す」ことなのか・・・

そもそも「恩」は返すことができるのか・・・

じゃあ、返さなくていいのか・・・

クリスチャンの恩の感覚と甘えの感覚は微妙に似てると思えてならないんですね。

そして、権利と甘えの感覚も微妙に似ている。

 

私は、牧師をしているわけでもなく、

そもそも、宣教師で新しいフィールドなんて

なかなかわかりずらい立ち位置で働いているのと、日本の独身女性なので、

全ての他者に対して、無言の権威が無いわけです(笑)

だからこそ、色々微妙なアンバランスな世界を見せられることがとても多いなと

最近感じるわけです。

それは同時に私がクワトロカルチャーであることにも関係しているかなと。

TCK(Third Culture Kids)という言葉がありますが、

このカテゴリーは非常に狭く、私たちのような青年期から海外で生活する人たちには

当てはまら無い言葉なんですね。

そこで、そういう人たちと私たちってなんだろうねって話になって、

「多文化人」じゃないかという現在結論になってるんです。

私の場合、青年期から4つの文化(北海道と本州の文化の差を入れると5つになりますが)

の体験と現在3つの言語(古代語は抜かして)がアクセス可能なわけです。

海外生活も20年となり、目線がどうしてもモノカルチャー人とは

違った目線になってしまう・・・というのは否め無いかなと。

私たちはin between people (境界人)として、

当たり前のことが当たり前としてわから無いから

「当たり前のこと」がなんなのか、そのものを知りたいと思うのかもしれません。

 

エレミヤを読みつつ・・・