13th Avenue日記

一歩ずつ、一歩ずつ・・・・

6月4日

2016-06-04 | 日記

ぼやぼやしているうちに2016年も半分を過ぎました。

この前半は癌に振り回されて過ぎていった気がします。

高濃度放射能ヨード治療をした後、

全身スキャンをとった結果、体の中に転移はないことはわかったのですが、

甲状腺の奇形部分がのことっていることもわかり、

再発の可能性が普通の人より高いかもしれないということで、

先生は「安心はしてない」と言っていますが、

ひとまず良かったってことにしてください・・・というのが私の本音です。

現在は、無味覚になっており、今まで想像をしたことがなかった体験を

毎日しています。

この半年の間、病を通して学んだこと、考えたことはたくさんあるのですが、

その一つは「近道とは何か」です。

そもそも、近道は存在するのか・・・

前に、人は平面的発想をしがちだということ、

また、対比で考えることをしがちだということを、

リージェントにいる時に、聞いたことがありました。

神の国は二次元的な世界ではない中で、

なぜ私たちは二次元で考えるのか・・・

人は対比で考える性質を持っていることを

聖書を読んでいてもよく思わされました。

この性質があるということを私たちがどれだけ知っているか、

そして、神の国は二次元的な世界ではなく、

非常に複雑な立体的な世界であることを知っているか・・・

私たちがその複雑で美しい立体的な世界を

二次元で理解しようとする(二次元に引っ張ってくる)

そして、それをすることによって

単純化し、わかりやすくなったことを称賛することを通して、

私たちは「近道」という盲目の世界に落ちていくのではないか・・・

パウロの目からウロコが落ちた時、

パウロが見た世界は美しい立体の世界だったんじゃないのかと思うんです。

 

留学生の一人で、非常に優秀な科学者が

神の奇跡(ミラクル)ということに4年悩んだと話してくれました。

神が存在することは受け止めることはできたけれど、

奇跡(ミラクル)となると、どうしても受け止められなかったと。

なんどもなんどもクリスチャンのルームメイトと話し合い、

意見を交換し、悩みぬいたある日、

もし、この「奇跡」を受け止めたとしたら、

何が見えるんだろう・・・という素朴な疑問に至ったんだそうです。

クリスチャンは「奇跡」を通して一体どんな景色を見てるのか・・・

そして、彼女は勇気を出して、その「奇跡」の存在をよしとしたんだそうです。

「奇跡」を受け止めた日から、景色が変わって見えたそうです。

世界は何だか輝いて見えたと。

 

以前、クリスチャンホームで育ったクリスチャンが

バンクーバーで1年過ごす中で、

私とメンタリングをする中で、

やはり同じ体験をしたと言っていたんです。

私のいつも言う「美しさ」や「冒険」がわからなかったと。

主の恵みを見つける作業を一緒にしていく中で、

夜、恵みを教えてくださいと祈ったんんだそうです。

次の朝、学校に行く景色が突然キラキラして見えたんだそうです。

テキストが来て「世界には色が付いていたんですね!!」と書いてあり、

なんのことやら・・・と思いつつ

「そうだね、神様の作った世界はカラフルだね」と返事をしたところ

「本当に眩しいです」と返事が返ってきました。

 

誰かから教えられた「正しい答え」から

自分が主の前で「見せてください」と願って受け取る世界には

光の量が違うのかもしれません。

成熟(transformation)がなければ、

信仰も2次元のままで、神の国を見ることができない

目にウロコがついたままになるのではないのか・・・

信仰告白をしたから、洗礼を受けたからじゃなく

主の冒険の中に

主の夢の中に生きて、

主が誰なのかを発見し続けること、

そして、その素晴らしさに圧倒されることが

クリスチャンライフなんだとしたら、

近道は存在しえないことになると思うのです。

二次元的クリスチャニティには成熟という枠組みが存在できないけれど、

天路歴程のように、クリスチャンライフを「旅」と考えるなら、

成熟のプロセスが「喜び」であり、

それがを共有することが「伝道」の基本ではないのかと思ったりするのです。

 

近道を歩くクリスチャンライフなんてつまんないんじゃないかなと。

神様の世界を思いっきり味わって主と語らって

泣いたり笑ったりしながら、その関係を深めていくことこそが

醍醐味じゃないかと思うのです。