10月最初ぼ土曜日、気温は高めなれど、頬わたる風に空きの訪れを感じる。
友人とふたり、埼玉県行田市を訪ねる機会を得た。
“行田”と言えば、ある年齢層には懐かしさを覚える。
「足袋の町行田」として全国にその名を知られていた町だ。徳川時代後半から昭和30年代まで足袋は生産され、最盛期は全国シェアの80%をしめていたという。
完成した足袋を出荷まで収納したのが足袋蔵であり、現在市内に約70棟あると言われていて、和菓子屋、そば屋、レストランなどに活用されている。
この日、訪問した蔵もギャラリーとして市民に親しまれている所だった。
蔵ギャラリーでは、木工、染色、鍛金展を開催しており、各自の作品も体裁よくディスプレーされていて、気持ちよく個性を受けとめることが出来たと思う。
“用の美”として鍛金作品が気になり、何度も手に持つとスーッと馴染んでくる。真鍮の細いフォークを2本購入。
鴻巣市在住の女性作家の作品は、来年あたりギャラリー・スペースMでご紹介できたらいいナ……と企画中だということをお知らせします。
遅いランチは同敷地内のカフェでいただく。
行田市の初代市長の邸宅だった家。広大な敷地の中にある広い庭を見ながらの食事は、秋のきらめく木漏れ日に時が止まってしまったの?と思えるほど、静かに過ぎていった。
次に訪ねた場所は、かの有名な忍城(おしじょう)城。
市の商店街(左右に
銅人形の童子達が建っていた)を通り抜け、5~6分。
駐車場も十分スペースがあり、いざ「お勉強を!」とばかり郷土博物館へ。
……いやに玄関が暗い。「2枚ください」「本日はもう閉館です」「エッ?」……時計を見れば午後4時5分。
「もう閉館?」「ハイ、4時で入場をしめ、4時30分に閉館します」「ウソー!今日は土曜日なのに」「……」。
目と鼻の先に5~6人たむろしている。資料を見ながらペチャクチャ。
「あそこで資料を調べたいのですが」「あの方達は4時前に入館されていて、4時半には出ていただきますっ!」と睨まれてしまった。
「あ、そうですか。失礼しました」……決まりごととはわかっていますが…ね。
仕方なく、時おり見える看板を頼りにブラブラ歩く。
赤松と、竹と楓、桜と多くの樹木の林。
“松風さわぐ丘の上…”今は亡き歌手の歌が自然に口とついて出た。
忍城は文明10年(1478年)、成田家十五代当主、成田親泰によって築城されたが、成田家の家系をさかのぼれば、大火の改新にて功を成し遂げた藤原鎌足にいきつく名家だ。
信長亡きあと、8年後に天下人となった豊臣秀吉は、関東に君臨する北条氏を気にかけていたが、いよいよ北条家打討ののろしをあげる。
北条勢の中心地、小田原を攻め、有名な石垣の一夜城を築いて北条氏を驚かせ、「城をあけ渡す、いや渡さない」の長いダラダラ会議「小田原評定」となる有名なたとえを後の世に残した。
北条方に味方する行田・忍城を攻めてきたのは、才智たけたる石田三成。
三成は備中高松城を水攻めにした秀吉の戦法が忘れられず、忍城は水攻めと決めてあった。
三成は城を半円形の土手で囲み、利根川から水を引き、本丸近辺まで水位をあげた。
家臣や領民は本丸いっぱいに逃げ込んできた。しかしやがて、この堤防を決壊した領民がおり、水は石田三成の陣営にどうと流れ込み、一度は水に浸かった忍城が再び美しい姿を見せ始めたのだった。
このときの忍城の総大将が成田長親であり、家臣・領民から「のぼう様」と呼ばれていた。
なぜ、「のぼう様」なのか?は、ここでは明かさないことにする。
2008年小学館から刊行出版された和田竜の
『のぼうの城』をぜひ読んでいただけたらと思う。
「忍は浮き城なのか!私の負けだ!」と三成に言わしめた忍城の史実はとても面白い。昨今の時代劇ブームとやらで、さっそく映画化されたらしいが、関東武士の面目躍如。
>>>映画「のぼうの城」オフィシャルサイト
三層の櫓の白壁が、秋の夕焼けにあかね色に染まっていた。
城址に別れを告げる頃、つわものどもが夢のあと…には鈴虫の音が石垣にぶつかり、よりいっそう強く、はかなく響きわたっていた。
帰路は上武国道で前橋まで1時間10分。
今度は初冬の冬枯れの城址を訪ねてみようと思う。
2010年10月2日