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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

なんと「三位一体の神」はでたらめな言い方なんだ

2020-06-14 01:25:40 | 賛美の心

寄稿家:惠美子

 ある日の早朝、窓の外では鳥がさえずり鳴いていました。私は普段通りに起き上がって聖書の勉強をしました。「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。30心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』」(マルコによる福音書12:29-30) という主の言葉を読んだ時、神は三位一体であると、牧師と長老たちが集会でよく言っているのを思い出しました。そして、彼らはまた「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」(マタイによる福音書 28:19) という主イエスの言葉を引用して、ヤーウェ神が聖なる父、イエスが聖なる子、そしてさらには聖霊がいて、この3つの位格が1つになると、三位一体の真の神になると言っているのです。そして私は「神は唯一なる神であると主イエスは仰っていて、神は唯一なる存在であるはずなのに、3の位格からなっているとは一体どういうことかしら」と不思議に思いました。先ほどの節の中で、主イエスは「… 父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」と仰っているだけで、神が三位一体であるとは仰っていないのです。ならば、三位一体説とは一体何のことなのでしょう。私はとても困惑しました。

 その後、私は小林姉妹のことを思いました。私は「彼女は他の地域の研修から戻られたばかりだし、長年に渡って説教師をされているわ。彼女なら私の困惑を解消できるかもしれない」と思いました。そしてすぐ、私は小林姉妹の家に行きました。そこで私はたまたま彼女の友人で、説教師でもある秋子と出会いました。そして私が三位一体説に関して困惑していることを彼女たちに伝えると、彼女たちは私と温かく交流してくれました。

 秋子は優しい声で私にこう言いました。「惠美子姉妹、あなたが言われた疑問には私も長年頭を悩ませました。でもつい最近、ある書籍を読んでやっと答えが分かったんです。この書籍を一緒に読んでみましょう、そうすればあなたもこの疑問を理解できると思います。小林姉妹、読んでいただけますか?」
 小林姉妹は言いました。「分かりました。私も最近この書籍の言葉を幾つか読みました。私は、これらの言葉はとても現実的で、権威と力に溢れていると同時に、その全てが真理であると感じました。これらの言葉はその疑問について明確に答えています。その言葉の節を幾つか読んで差し上げます。『すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。あなたが言うように、それが父、子、聖霊であるならば、三つの神ではないのか。聖霊は一つの事柄であり、子は別の事柄、さらに父も別の事柄である。彼らは本質の異なる、違った位格であるのだから、どうしてそれぞれが唯一神の一部分でありえようか。聖霊は霊である。これは人にとって理解しやすい。もしそうなら、父はさらにいっそう霊である。父は地上に降臨したことも、肉体になったこともない。父は人の心の中でヤーウェ神であり、確かに霊でもある。では父と聖霊の関係は何か。それは父と子の関係なのだろうか。それとも聖霊と父の霊の関係なのだろうか。各霊の本質は同じなのだろうか。それとも聖霊は父の道具なのだろうか。これはどうしたら説明できるのだろうか。それなら子と聖霊の関係は何なのだろうか。それは二つの霊の関係なのだろうか。それとも人と霊の関係なのだろうか。これらはすべて説明のできない事柄である。彼らがみな一つの霊ならば、三位格の話はありえない。彼らはただ一つの霊を所有しているからである。彼らがはっきり異なる位格であるならば、霊の力も異なるものになり、断じてただ一つの霊になることはできないだろう。父、子、聖霊のこの概念は非常に不合理である。』

 「聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行なわれたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。」

三位一体,「三位一体」の神,三位一体說

 小林姉妹がこの言葉を読み上げた後、秋子はこう言いました。「これらの言葉は聖なる父、聖なる子、そして聖霊から成る三位一体説は神を分割しており、それは虚偽であると言っています。神は唯一なる御方です。そして、神は唯一なる存在で、その本質は霊です。だからこそ、三位一体説は事実とは全く異なるものなんです。律法の時代に、ヤーウェ神はイスラエルの民に対して神は三位一体であるとは決して仰いませんでした。また、当時神の使いであったモーゼ、イザヤ、ダニエルといった預言者たちも神は聖なる父、聖なる子、そして聖霊から成っておられるとは言っていません。恵みの時代において、主イエスも神が三位一体であるとは一度も仰いませんでした。主の弟子と使徒たちが宣教と働きをしにあちこちを旅して回った時も、彼らは神が三位一体であるという証言はしていません。聖書には『主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる』(ゼカリヤ書 14:9) と書かれています。 そして、主イエスはこう仰いました。『第一のいましめはこれである、「イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」』(マルコによる福音書 12:29)。神は比類なき御方であり、ヤーウェ神は霊であり、主イエスは神の霊が受肉されたお姿であると同時に神ご自身であり、主の本質もまた霊なのです。そして聖霊もやはり霊であります。従って、神は唯一なる真の神であり、個別の存在に分割することなど絶対に不可能なのです。神が三位一体であるという宗教界の考えを信じるとすれば、神がたくさん存在することになるので、神は唯一なる真の神ではないということになってしまいます。だからこそ、三位一体説は聖書に基づくものではないし、まして神の言葉に沿ったものではないのです。これは虚偽であって、完全に人間の観念と想像が作り出したものなのです」。

 この書籍の言葉と秋子姉妹の話しを聞いた後、私はこれは筋が通っている、と感じました。しかし、依然として心の中に疑念を感じた私はこう質問しました。「秋子姉妹、神の言葉は三位一体説を実証していないと言われましたが、私はまだ理解できません。牧師や長老たちも三位一体について説明する時は神の言葉を引用しています。彼らはそれが聖書に記録されていて、主イエスが洗礼をお受けになった後には『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』という天からの声があったと言っています。彼らはまた、主イエスはよく天の神を父と呼び、主は『わたしが父におり、父がわたしにおられる』そして『わたしと父とは一つである』と仰ったと言っています。これらの節には父と子という考えがありますが、これは一体どういうことなのでしょうか」。

 秋子はこれに優しく答えました。「実は、父と子という考えは主イエスが受肉されて、働きをするために地上に来られた時に初めて誕生したものです。惠美子姉妹、あなたは、主イエスが洗礼をお受けになった後に『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』という天からの声があったと言われましたが、これは神が神ご自身の証言を、受肉された神の証言をする霊の観点からされていたのです。なぜなら、当時の人々は主イエスがキリストであることを知らなかったので、彼らは聖霊による証言を聞く必要があったのです。次に、ヨハネの福音書に書かれたピリポと主イエスの会話を見てみましょう。『ピリポはイエスに言った、‘主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します’イエスは彼に言われた、‘ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである’ 』(ヨハネによる福音書 14: 8-10)。主イエスのことをあまりよく知らなかったピリポは、主イエスは神の子であり、天には父なる神がいると思っていたのです。なので、彼は主に『父を見せてください』と言いました。その時、主は『わたしを見た者は、父を見たのである』そして『わたしが父におり、父がわたしにおられる』と言って彼の誤りを正されました。すなわち、父は子であり、子も父であり、父と子は元々1つであり、かつ1つの霊であるということです。主イエスは主と父は1つであり、1つの神であるということを私たちに明確に伝えるためにそう仰ったのです。主は神に父と子がいると仰っていたのではありません。実際、父と子という考えは、神の受肉によってのみ生まれてものでした。そして、この考えは主イエスが肉として働きをなさった時代にのみ適切なものだったのです。主イエスが去られた後はもう、父と子という考えはありませんでした」。

 私はこれを聞いてどんどん理解していきました。私は興奮しながら言いました。「そうか!主イエスが来られた後に父と子という考えがあったのは事実だったんですね。神は『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と仰った時は、霊の観点から受肉した自分の証言をされていたということが分かりました。主イエスが『わたしが父におり、父がわたしにおられる』そして『わたしと父とは一つである。』と仰った時は、主とヤーウェ神は元々1つであって、1つの霊であって、神は唯一なる真の神であると仰っていたんですね。主に感謝します!これで私は三位一体説はまぎれもなく人の観念と想像であって、それは支持できるものではないと確信しました」。

 私の言葉を聞いた小林姉妹は興奮してうなずきました。

 その時、私の頭にまた他の疑問が浮かびました。私はこう聞きました。「秋子姉妹、小林姉妹、神が主イエスを愛する子とお呼びになった時、神は主イエスが受肉した神であることを霊の観点から証言されていたと言われましたが、それは理解できました。しかし、主イエスはゲッセマネの地にいた時、祈りを捧げる中で天の神を父という名でお呼びになりました。これはどのように理解すればよいのでしょう。お話しを聞かせてもらえませんか?」

 小林姉妹は言いました。「そのの疑問に関してですが、この書籍の言葉がとても明確にしています。この言葉の節をいくつか読んでみましょう。『イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの「人の子」になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。「天にいますわれらの父よ……」イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたたちは天の神を父の名で呼んだので、このことはイエスが彼自身をあなたたちと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていることを示している。もしあなたたちが神を「父」と呼ぶならば、これはあなたたちが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑以前はイエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのはもっぱら彼の謙虚と従順さからであった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけることで、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっていることであり、彼が別の位格であるということではない。別個の位格の存在というのは間違った考えである。磔刑以前、イエスは肉体の限界に縛られた人の子であり、霊の権威を十分には所有していなかった。そのため、彼は被造物の視点からのみ父なる神の意志を求めることができた。ゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と三度祈ったときのように。十字架刑に処せられる前、彼はユダヤ人の王にすぎなかった。彼はキリストであり、人の子であり、栄光の体ではなかった。そのため、彼は被造物の観点から神を父と呼んだのである。さて、あなたは神を父と呼ぶ者はすべて子であると言うことはできない。もしそうなら、ひとたびイエスがあなたたちに主の祈りを教えたら、あなたたちは皆「子」になっていたのではないだろうか。まだ納得しないなら、教えて欲しい。あなたたちが父と呼ぶのはだれなのか。イエスに言及しているなら、あなたたちにとってイエスの父は誰なのか。イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない』。

 すると、秋子がこう言いました。「これらの言葉の内容から、主イエスがゲッセマネの地で捧げた祈りの中で天の神を父と呼ばれた時、主は肉の観点、すなわち、創造物の観点からそう言われていたわけで、それはいわゆる主イエスの謙遜した従順な姿勢の表れであったことが分かります。しかし、多くの人々はこの真理を理解していないがために、主イエスが父なる神に祈りを捧げたからといって、それは主イエスが父なる神の子であり、天の神が聖なる父、そして地上のキリストが聖なる子、さらには神に父と子がいることを証明していると勘違いしているのです。これは全て人々の観念と想像なのです。神の本質は霊であり、霊には年の差というものがないため、神に父と子がいるはずがないのです。主イエスは受肉された神であり、主の本質は霊なのです。主が人間の観点から天の神を父と呼ばれたのは天なる父に対するキリストの従順な姿勢の表れです。従って、いつの時代においても、父と子と聖霊からなる三位一体の話しは存在しないのです」。

 彼女たちの会話を聞き終えると、私は夢から目覚めたような気分になりました。私はまた、牧師と長老たちの広めた虚偽をむやみに聞いていた自分はとても無知であったとも感じました。この宗教指導者たちは本当に極めて悪質なのです。主イエスは彼らについて「彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」(マタイによる福音書 15:14) と仰っています。

 それから、秋子姉妹は、私に書籍のこの節も読むようにと言われました。「神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に『唯一の聖霊、唯一の神のみがいる』と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたたちが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、宇宙中に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である」(「三位一体は存在するのか?」)。この言葉の内容を通じて、私は更に明確な理解に至りました。「神は霊であり、霊は唯一、そして神を個別の存在に分けることはできません。父と子と聖霊からなるという考えも全く存在しません。神の霊は限りなく広く、全宇宙を満たします。神の霊は、働きの必要性に応じるため、そして人類を救うためだけに、人間として受肉され、神の言葉を話し、神の働きをするために地上に来られたました。これこそが神の偉大な愛なのです」。


クリスチャンが神を信じる上での四つの実行は、あなたが持っているのか

2020-06-12 11:53:38 | 賛美の心

 わたしたちすべてのクリスチャンは神に良しとされ、祝福されようとします。では、わたしたちがどうすれば、神に良しとされることができますか。実は、これは少しも難しくありません。わたしたちが神を信じる上での四つの実行を持ちさえすれば、神に祝福され、良しとされることができます。

 第一に、神を信じるのに、神の言葉を経験しなければなりません。

 では、神の言葉を経験するとは、どういうことですか。神の言葉を経験するには、どのように実行すべきですか。実は、神を信じるのは、神の言葉を信じるのです。神の言葉は真理であり、神から来たものです。だから、わたしたちはまず神の言葉をよく読み、神の言葉に精を出し、真剣に神の言葉を読み、噛み締めるべきです。そうすれば、聖霊の啓き、照らしを得られるし、また神の言葉を通して神のみこころを理解し、神の性質と働きを認識し、神がわたしたちにどんな要求を出したか、わたしたちがどんな人になるべきか、神がわたしたちのどんな欠点や腐敗をさらけ出したかを知ることができます。こうして、わたしたちは神の言葉を自分に結びつけて、自分の腐敗を認識することができます。例えば、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタ5:37)と、主はわたしたちに要求を出されました。主のこの言葉によって、わたしたちはわたしたちが誠実な人になることを追い求め、うそを言わず、尾ひれをつけて話さず、ありのままを言うことが神のみこころだと分かりました。神は誠実な人が好きで、狡猾な人を嫌います。誠実な人こそが神に良しとされます。だから、神の言葉を読む過程も神の言葉を経験する過程です。神の言葉を読むことは、神を信じ、神の言葉を経験する上での第一歩です。こういうわけで、わたしたちは毎日神の言葉を読み、経験しなければなりません。

 第二に、神を信じるのに、神の働きを経験しなければなりません。

 では、神の働きを経験するとは、どういうことですか。神の働きを経験することの内容は何ですか。神を信じる上では、わたしたちは神の言葉を読むだけでなく、神から来た試練、精錬、対処、手入れ、懲らしめを経験することも必要です。それゆえ、神はさまざまな人や事、物、環境がわたしたちに臨むようにされます。それは、わたしたちがさまざまな環境の中で真理を求めて、真理の実際に入るためであり、わたしたちの命が次第に成長することができるためです。例えば、わたしたちが真理にかなわないことをすれば、神はわたしたちの身の回りの人、事、物を利用してわたしたちを対処し、懲らしめられます。恵みの時代、神は同じようにペテロを扱うのでした。主イエスが十字架につけられる前に、ペテロは親切心から主イエスを阻みました。すると、彼はすぐ主イエスに厳しく対処されました。主は彼がサタンだと言い、彼に引き下がれと命令されました。神を信じる上では、わたしたちはまたあざ笑われ、誹謗されるはずです。しかも、邪悪な霊や偽キリストはデマを飛ばしたり、人を惑わします。これらのことを、わたしたちは経験しなければなりません。だから、わたしたちに臨むさまざまな試練、精錬は、神のわたしたちに対するテストであり、わたしたちには、神に対する本当の信仰、忠誠心があるかどうか、わたしたちが神の言葉によって生きることができるかどうかを明らかにします。だから、これらの環境、人、事、物がわたしたちに臨むのは、神の働きがわたしたちに臨むのです。わたしたちが神の言葉によって生き、これらの環境の中で学課を学び、暗やみの権威の束縛に打ち勝つとしたら、わたしたちは神の働きを経験したことになります。

 第三に、神を信じるのに、自分の腐敗した性質を変えなければなりません。

 わたしたちはサタンに腐敗させられた後、腐敗した性質によって生きるようになりました。だから、わたしたちが神に救われたいなら、わたしたちの腐敗した性質、例えば、傲慢さ、エゴイズム、狡猾さなどを捨て去らなければなりません。わたしたちが自分の腐敗した性質を解決するために神を信じるのでなければ、わたしたちは神の真の信者ではなく、たとえわたしたちが神の多くの言葉を読んだとしても、わたしたちが文字の中の教理を理解しているとしか言えません。なぜなら、わたしたちが真理を実行しておらず、しかも真理がわたしたち自身の問題を解決しなかったからです。こういうわけで、わたしたちが他人に教理を説くことができても、わたしたちは真理の実際を持つ人だと言えません。あの時の律法学者、パリサイ人もそうです。彼らは聖書の知識をたくさん身につけ、また神の多くの言葉を読みましたが、神の言葉の中の真理を理解せず、また自分の腐敗を認識せず、解決しませんでした。だから、主イエスが来て働かれた時、彼らは自分たちの腐敗したサタン的性質のゆえに、傲慢にも神の働きに対して断定的判断を下し、神の働きを批判し、ただ主イエスが旧約聖書の範囲内で働くことを許すだけで、主が旧約聖書の範囲外で働き、神殿の外で働くことを許しませんでした。自分たちの地位、生活の道を守るためには、彼は主を冒涜し、誹謗する言葉をたくさん言い、最終的に主を十字架につけました。主イエスが三日目に復活した後、彼らは偽りの証しをし、うそを言い、人を欺き、人心を買収しました。彼らは神を信じるが、真理を実行しませんでした。だから、主イエスは七重の災いをもってパリサイ人を呪った時、彼らの堕落した行為と、彼らのあくどいサタン的本性をすべて暴露されました。このことから分かるように、何年神を信じても、真理を得なければ、自分がひどく堕落しているという真相を悟ることができず、自分が神を十字架につける可能性が依然としてあります。今、わたしたちの言動を見てみましょう。わたしたちが文字の中の教理を少し理解したら、それを他人に説きます。そのため、わたしたちは働く時、いつも自分をひけらかして、他人が自分を重要視し、崇拝するようにさせます。それは神を高く揚げ、神を証しすることでは決してなく、名誉、地位のために働くこと、自分の経営を行うことです。わたしたちのこのような働きが神の心にかなうことは可能だろうか。だから、もしわたしたちが神を信じる上で正しい道を歩まず、何を追い求めるべきかを知らず、神の言葉を通して自分の腐敗と欠点を認識することを重んじず、全然自分自身の腐敗を解決せず、自分の本当の経験によって他人を助け、支えることはせず、文字の中の教理によって他人を教えるとすれば、わたしたちは現代のパリサイ人になったのではありませんか。そのように神を信じるなら、最終的に成功を収めることができません。だから、神を信じるのに、正確な追求目標を持つべきです。わたしたちが真理に基づいて実行してこそ、神を信じることで成功を収めることができます。

 第四に、神を信じるのに神を認識しなければなりません。

 神を信じるが神を認識しないなら、わたしたちが神を信じる人だと言えるでしょうか。だから、神を認識したいなら、神の言葉を経験し、神の働きを経験し、自分の腐敗した性質を本当に認識しなければなりません。そうしてこそ、わたしたちの古い性質を変え、わたしたちの天然の個性を捨て去ることができます。そうなれば、わたしたちは傲慢さやエゴイズムなどの腐敗したサタン的性質の中に生きなくなり、どんなことがあっても真理に基づいて物事を判断し、自分の想像、観念の中に生きません。神の言葉がわたしたちの生活の指針となり、わたしたちの人生観、価値観が変わるとしたら、わたしたちは神に味方することができ、神を愛し、満足させるために生きることもでき、もはや自分を満足させるために生きなくなります。人が神に対する認識を持ったら、神に味方することができます。そうなったら、人は神に救われました。例えば、ヨブ、ペテロ、アブラハムたちは神に対していくらかの認識を持つから、試練の中で神の側に立って物事を判断することができ、全然神に不平を言わず、また自分の利益や得失を考えず、終始一貫神に忠誠を尽くし、神を愛し、満足させました。彼らは神を信じる上で正しい道を歩むから、最終的に神に良しとされました。それゆえ、彼らこそが神の真の信者です。

 だから、わたしたちが本当に神を礼拝する、神の心にかなう人になりたいなら、神を信じる上でのこの四つの実行を行うべきです。そうすれば、わたしたちは神を信じることで成功を収めることができ、最終的にきっと神の真の信者、適格なクリスチャンになって神に良しとされ、祝福されます!


どんな祈りは効果に達することができるか

2020-06-11 21:19:16 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

 こんにちは!少し前、姉が私に主イエスの福音を説いてくれました。教会に加わったあと、毎日主に祈る必要があると言われたのです。そのとき、私は混乱しました。どうして毎日主に祈る必要があるのでしょうか?神様は私の祈りをお聞きになるでしょうか?こうした疑問を私と分かち合ってくれませんか?

 林麗


 姉妹林麗:

 こんにちは!主のお恵みとご慈悲のおかげで、私たちは主の家へと戻るために世界から選ばれました。私たちは主の新しい信者なので、なぜ祈る必要があるのか、神様が私たちの祈りをお聞きになるかどうか、理解していないのは当然です。私も最初はあなたと同じように混乱していました。その後、兄弟姉妹とのやりとりや助けを通じて、祈りの意義を理解し、神様の御心にかなうためにどう祈るべきかを知りました。それからというもの、私の困惑はきれいになくなりました。ここで私自身の理解を少しお話ししましょう。それがあなたの助けになることを願っています。

 最初に、なぜ神の信者は祈らなければならないのかをお話ししましょう。私はインターネットで一つの文章を読みました。

 「神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの『衛星テレビ放送』は地上で受信できないように神が定めた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に『住む』ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその内面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って『遊ぶ』ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに来ようとはしない。サタンが混乱を起こさなければ、人々のすべての生活は正常であり、神はまったく妨害なしに彼らの中で働く機会を得る。こうして、神が行いたいと思うことは人間を通して達成することができる。」

 その文章から、神様の信者が祈らなければならないのは、神様を呼び求め、神様との正常な関係を築くにあたって、祈りがそれを実現する方法の一つだからだ、ということがわかります。私たちが心から神様に祈り、心を開いて自分たちの困難や困惑を神様に訴えるとき、神様は私たちの真の心をご覧になり、私たちの欠点や求めに応じて私たちを啓発し、困難から導いてくださいます。サタンは普通、神様と私たちの関係を破壊するため、様々な環境や人々を利用して私たちの心をかき乱し、私たちを悪い状態に陥れ、霊的に無力感を覚えさせます。こうしたとき、私たちが真心を込めて神様に祈り呼び求めるなら、神様は私たちを導いてサタンの罠を見破り、神様の御心を理解できるようにしてくださいます。こうして、サタンは私たちに影響を及ぼす機会を持たなくなります。そして私たちは正常な状態に戻り、聖霊の働きを獲得し、神様の存在を享受するのです。加えて、祈りは私たちの信仰を高めることができます。とりわけ、試練や苦難が降りかかるとき、私たちは祈りを通じて神様への完全な信仰を持ち、神様の慈愛と素晴らしさを感じ、かくして神様を愛し満足させる心を生み出せます。たとえば、無神論者の中国共産党による逮捕や拷問に直面したとき、真に主を信じる多くの兄弟姉妹はまったく無力感を覚えたでしょう。しかし、信仰と強さを求めて神様に祈ることで、ついに中国共産党の拷問に打ち勝ち、神様の証しをしました。ゆえに、私たちキリスト教徒一人一人が祈りを学ぶことはとても重要なのです。一定の期間祈らなければ、私たちは心の中に神様の居場所を持たず、そのことは私たちが神様との関係を断ち切ったことを意味します。結果として私たちは聖霊のご指導とお導きを失い、サタンの領域に戻り、暗闇に陥ることになるでしょう。神様が私たちを祈らせるのは、私たちがいかなる時も神様のご配慮と保護の下で暮らせるようにするためです。これが私たちに対する神様の愛なのです。

どんな祈りは効果に達することができるか

神様は本当に私たちの祈りをお聞きになるでしょうか。それは、私たちが心を込めて誠実に神様を崇めているかどうかによります。主イエスはかつて言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4:23-24)。この御言葉から、主が信実の本質を持っておられること、神様が誠実な人を好まれることがわかります。よって、私たちは祈るときに心から話し、自分の本当の考えや困難を神様に伝え、神様の御心と啓発を探し求めるべきなのです。こうすることでのみ、神様は私たちの祈りをお聞きになります。これとは対照的に、神様を騙すためにきれい事を言ったり、祈りのたびに同じ決まり文句を繰り返すだけなら、あるの言葉を暗唱するためだけに神様の御前へ赴くのと一緒です。そのように祈るなら、私たちは不誠実であり、神様への畏れを持っていません。たとえとても素晴らしい言葉を述べたとしても、それらは本音ではありません。神様は私たちの祈りを受け入れず、ましてお答えになることはないでしょう。例として、最初期のファリサイ人による祈りを取り上げましょう。彼らは、神様に忠実に仕え、ユダヤの人々を神様の前に連れてきますと祈りましたが、実際には自分自身のたくらみを実行し、自分たちを崇めさせるためにユダヤの人々を連れてきました。このことから、ファリサイ人が完全に偽善者であることがわかります。よって、私たちは正直な心をもって神様に祈り、自分の心の中にあることを神様に語らなければなりません。そうすることでのみ、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。

 一方、私たちの祈りの内容が神様の御心にかなっていれば、神様は私たちの祈りに答えてくださいます。例として、聖書に記録されているソロモン王の話を取り上げましょう。ソロモン王が各時代を通じて最も賢明な王になれたのは神様の祝福のおかげです。国家の王として、ソロモン王は自分の肉体のためにお恵みや祝福を求めたり、祈るときに神様と取引したりはしませんでした。その代わり、神様に祈り、神様の民を統治する助けを求めたのです。ソロモン王の祈りは神様への配慮からなされたものであり、神様を満足させるためのものでした。こうした祈りは神様に受け入れられ、認められます。神様はソロモン王に十分な知恵を授け、最も豊かで賢明な王となされました。

 今日、私たちの祈りも同じようであるべきです。私たちの祈りが神様の御心とお求めにかなっていれば、神様は聞いてくださいます。主イエスはこう言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書6:33)。神様はご自身の御心にかなう祈り、心から神様に服従する聡明な人々の祈りをお聞きになります。では、どのような祈りが神様の御心にかなっていて、どのような祈りがかなっていないのでしょうか。ここでいくつかの例を簡単に取り上げます。神様の御言葉が理解できないとき、私たちは神様の御心とお求めを理解できるよう、聖霊の啓発とお導きを探し求めるべく祈り、神様の御言葉の真理を理解するよう努めるべきです。教会で真に神様を信じる兄弟姉妹が消極的になったり弱くなったりすれば、神様の御心を理解して消極的な状態を克服するよう、私たちは祈ります。こうした祈りは神様の御心にもかなっています。兄弟姉妹の誰かが迫害などの困難に直面しているとき、私たちは神様に祈り、彼らが神様の証しをするようお導きになることを求めます。それは、神様が彼らを通じて栄光を得られるようにするためです。こうした祈りは神様に認められます。私たちは様々な苦難や試練に見舞われたとき、真心を込めて神様に祈り、私たちをお導きになり、不満を言わせないよう神様に求めるべきです。それは、 私たちが神様の証しをできるようにするためです。私たちは、被造物として自分の本分を尽くし、神様の福音の働きを広める能力を求めて祈るべきです。神様の御心を知るため、神様を満足させるべく真理を実践するため、そして神様の御心を実行するために行なわれるこれらの祈りはすべて神様に認められ、答えられます。

 神様のお答えを得られない祈りはどのようなものでしょうか。たとえば、大金を稼げるように祈る人がいます。よい仕事を見つけられるよう神様に手助けを求める人もいれば、ふさわしい結婚相手を用意してくださるよう神様に祈る人もいます。こうした祈りは自分自身の利益のため、あるいは自分の肉体を満足させるために行なわれるものなので、どれも神様の御心にかなっていません。神様の働きは人間をお救いになることに集中しています。祈ることが私たちの救いと矛盾し、何ら役立つものでなければ、神様に認められません。例を挙げると、私たちはこの世でより多くの金を得るために、自分を祝福してくださるよう神様に祈ります。こうした時、神様が私たちの祈りを聞き入れて百万長者にしてくださるなら、私たちの心は金で占められるでしょう。私たちはそれでも神様を信じる心を持つでしょうか。しまいには金のために神様を裏切るでしょう。ゆえに、神様はこうした祈りをお聞きになりません。

 姉妹林麗、私たちの神様は信実です。私たちの祈ることが神様に受け入れられる限り、神様は答えを与えてくださいます。はるか昔、神様はこうおっしゃったからです。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイによる福音書7:8)。神様の御言葉のこの一節から、神様の信実と素晴らしさがわかります。私たち全員が神様のお約束と祝福を得られるよう、神様は望んでおられます。

 他に質問やわからないことがあれば、いつでも私たちに連絡してください。一緒に神様を探し求めましょう。神様の御言葉のお導きがあれば私たちの問題はすべて簡単に解決できると、私は信じています。


ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(II)

2020-06-10 23:06:30 | 賛美の心

 その後、映画の主人公であるシャオイーがこのように語っている場面を観ました。「なぜ中国共産党は全能神教会を人間の組織だと言うの?なぜ受肉された神様には触れないの?『言葉は肉において現れる』のこともそうだ。中国共産党は全能神が表した真理を恐れているからさ。共産党は知ってるんだ。全能神の信者はみな『言葉は肉において現れる』を読んで全能神を受け入れたって。だから全能神教会が人の手によって創られた、人による組織だなんて言いふらすんだ。終わりの日のキリスト・全能神の出現と働きを隠して、この男性に注目を集めようとしてる。人々が神様を信じて従うのを止めさせるものだ。それが本当の目的だよ。事実を捻じ曲げ、神様が働きをなさる教会を人間の組織だと言う。そんなの神様の教会を弾圧するための言い訳さ。中国共産党はとことん狡くて邪悪だよ。」

 その瞬間になってようやく、中共政府がいつも「全能神教会は人間の組織である」と主張する理由がわかりました。これは、中共が全能神教会を抑圧するための口実であり、その悪しき動機が隠されていたのです。映画の抜粋シーンを観た後、リュウさんから3つの聖書の言葉が送られてきました、「そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。」(ヨハネの黙示録13:6)「この時代は邪悪な時代である」(ルカによる福音書11:29)「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙5:19)

 リュウさんはこのように話してくれました。「アダムとエバが神の御心に背いて善悪の知識の木の実を食べたため、人間は堕落してサタンの支配下で生きるようになり、サタンの邪悪な道を歩み、神に抵抗しています。全世界がサタンによって支配されてきたと言えます。ですから、この堕落した人類は、神の働きが到来してもいつも非難し、拒絶し、抵抗しています。主イエスが現れて働かれた時と同じです。この時もユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人がローマ政府と共謀して主イエスを十字架にはりつけにしました。終わりの日には、神の働きを為さって真理を伝えるために出現される全能神は宗教界からも中共からも非難と抵抗を受けられます。しかしサタンがいかに猛威を振るおうと、いかに神の働きを妨害して覆そうと、神の羊たちは皆神の御座の前に戻ります。これは神の権威によって決定されます。噂を流して神を非難し冒涜する人々は永遠に救われないのです。この点は疑いの余地がありません。神が世界を洪水で滅ぼし、ソドムを焼き尽くされた事実や、ユダヤ人がイスラエルから追放され、世界各地に離散した事実から、神の性質が聖く義にして、不可侵であることがわかります。神に抵抗する者は誰しも、神の義なる罰を受けなければなりません。一方、世界から拒絶され、非難されるほど、神の働きが為される可能性は高く、なお一層求めて吟味すべきものであることもわかります。真の道は古くから迫害を受けてきたためです。」刘さんの話はあまりにも反論の余地がなかったため、私は完全に納得しました。

ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私

それからリュウさんは、『いのちの入りについての説教と交わり』の次の一節を送ってくれました、「真の道を吟味する際、特にウィキペディアに頼る人々がいます。彼らは『ウィキペディアに書かれていることは正確だ!』と言いますが、よく考えてみてください。ウィキペディアとは何でしょうか。この世のものに過ぎません。堕落した人間に書かれていないでしょうか。サタンの悪の力の一部ではありませんか。そこには真理があるでしょうか。そこに真理はありません。神に仕えるものではなく、神を畏れることは決してなく、神に証しされたグループではありません。どうしてそれを信じるのですか。嘘だらけのサイトです。嘘を広めています。サタンの政府が捏造する噂や嘘なら何でも、ウィキペディアは広めています。従って、嘘を広める組織ではありませんか。中国共産党が捏造する噂なら何でも、彼らが全能神教会の信用を傷つける手段なら何でも、ウィキペディアに掲載されます。つまり、ウィキペディアはサタンが嘘を広める道具で、サタンが人を欺く道具ではないでしょうか。それなのにどうして人々は真の道を調べるときウィキペディアを信じるのでしょう。この人々は何を血迷っているのか。この世が義であり公正であると信じているのでしょうか。政府や宗教界が『これが真の道だ』、『これが真の神だ』といった意見や主張を述べれば、この人々はその道と、その神を信じるでしょう。政府や宗教界が『これは真の道ではない』とか、『この神は本物ではない』と言えば、この人々はその道もその神も信じないでしょう。彼らは誰を信じるのかと言うと、政府を信じ、宗教界の言葉、宗教界の牧師や長老の言葉を信じています。ではこのような人は本当に神を信じているのでしょうか。彼らは神を信じていません。真理を認識しないため、神を信頼せず、神が本物であると信じず、神が真理であることを認めません。それ故に、そのような人が真の道を分析しようとすれば、サタンの嘘や噂を耳にするなり麻痺してしまうでしょう。この人は知的でしょうか。いいえ、違います。混乱しているのです。私の神への信仰には一つの原則があります。もし神であるならば、真理を伝え、人間を救うことができるはずです。それができれば私は信じます。私の神への信仰は揺らぎません。私たちが神を信じるのは真理を頂くためではないでしょうか。真理を得ることは、神を得ることです。真理を得なければ、あなたの信仰は失敗であり、何の役にも立ちません。真理を得て初めて、神を得ることができます。真理を得ずに、神を得ることはできません。」

 この話の一節を読んだ後、私は何だか恥ずかしくなりました。どの言葉も自分に向けられていたように感じて、こう思いました。「そうだ、ウィキペディアはこの世のものであり、その内容も堕落した人類によって書かれている。彼らは神を知らず、真理を持たず、神によって証しされた集団ではない。彼らが広めているものはあまりにも不純物だらけじゃないか。神への信仰と真の道の吟味において、俺はこの道に真理があるかどうかを確かめるべきだ。神のみが真理であり、道であり、いのちであり、神の働きのみが真理の表現なのだから。以前の私は、全能神の御言葉が真理であることは理解していたが、未だに中国共産党の噂や、権威があるとされるサイトに支配されていて、全能神の働きを吟味しようとしなかった。本当に愚かだった。中国共産党は全能神教会についての噂をたくさん捏造してきたし、ネットのプラットフォームは見境なく無分別にそれらを公開し、あちこちに転載している。それらが人々に及ぼす害は深刻だ。幸いにも、神が兄弟姉妹を通じて私を助け、導いてくださったおかげで私は惑わされていない。そうでなければ、主の再臨を迎えるチャンスを逃していただろうな。」

 私はリュウさんに尋ねました。「どうして神はこれらの噂が存在し、ネット上に溢れ、神の信仰者を欺いて害を及ぼすのを赦しておられるのでしょう。」

 リュウさんは、私が読むために神の御言葉の一節を送ってくれました。神の御言葉にはこうあります。「大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている『脱穀場』だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの『悪い者』が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。」

 リュウさんはこのように話してくれました。「全能神の御言葉から、神が働かれる間にこれらの噂の存在を許されているのは神のご厚意と知恵によることが分かります。神の国の時代の働きは、神の人類救済のための経営計画を完了させるためのものです。神は、神を心から信じている人々の集団を神の国に招き入れ、偽の信仰者や空腹を満たすためにパンを求めるだけの人々を暴き、排除されます。主の信仰者は数多くいます。真の信仰者か偽の信仰者であるか、毒麦か麦であるかはどのように証明できるでしょうか。これらの噂は、神が人々を暴く働きを為さる道具の役割を果たしてきました。これは、神の知恵と全能性を十分に示しています。ある人が真の信仰者か否か、麦か否かは、この噂の嵐の中で暴かれるでしょう。これは脱穀場をきれいにするという神の働きであり、神の終わりの日の働きを受けた人は皆、この試験に合格しなければなりません。ここから、神の働きはまさに本物であり、非常に実際的で賢いことがわかります。終いには、完全に確信させる、神の義を称えるようになります。」

 神の御言葉を読み、兄弟の話に耳を傾けたところ、私は急に目が覚めて、神への感謝の気持ちがこみ上げ、自分のそれまでの歩みを思い出しました。絶望のふちに沈んでいた私を困難から救い出し、希望に満ちた米国という地に足を踏み入れるチャンスを与えてくださったのは神でした。そうして私は真のキリスト教徒になり、自由に神を崇拝しています。神の終わりの日の働きが私のもとに到来したとき、ウィキペディアの記事を盲目的に信じたためにサタンの噂の犠牲になるところでしたが、神が慈悲と恵みをかけ、兄弟姉妹を通じて思い出させてくださったおかげで、神の働きを求め、吟味して、救いのチャンスを掴むことができました。今では毎日神の御言葉を読み、神の働きを経験しています。兄弟姉妹と協力して神の国の福音を広めています。神の国の福音を広めるという本分を尽くすことができ、大変光栄に思います。神に感謝します。全能神にすべての栄光あれ。


ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(I)

2020-06-09 15:29:34 | 賛美の心

 【編集者注記】今日、ネットワーク情報が発達したこの時代、多くの人々はインターネットのプラットフォームを信頼し、そこからの情報を物事の善悪を測る基準とみなしています。しかし、ウェブやプラットフォーム上の情報が本物で客観的かどうかを見分けることは滅多にありません。真の道を探究することに関して、この記事の著者はインターネット上のあらゆる報道や情報の真偽を見分けることができなかったために主をお迎えするチャンスを危うく逃しそうになりました。以下はウィリアムの体験談です。

 高校を卒業後、私は生活費を稼ぐために就職しましたが、いつも壁に突き当りました。その後、友人に騙されてネズミ講にはまり、抜けられずにいました。絶望に陥りそうだったとき、寝室の隅にある聖書が目に留まったのです。聖書を読み進めることで、目に見えない創造主の存在を信じるようになりました。そこで、天地万物の創造主に静かに祈り、「どうか苦しみから救ってください。自由に神を崇拝できる、希望に満ちた場所に導いてください」とお願いしました。まさかそれから1カ月も経たないうちに、渡米する機会を得るとは思いませんでした。神が助けてくださったのだとわかり、心からとても感謝しました。

ネット上の話を鵜呑みにして

 2016年10月、私は米国のニューヨーク市に来て、比較的良いと思った中国系の教会で洗礼を受けてキリスト教徒になりました。しかし、一年以上にわたって教会の集会に参加しても、宗教儀礼をいくつか学んだだけで、神と聖書に対する知識は文字通りの意味を超えることはなく、私の霊のいのちも全く成長しませんでした。それでも教会はキリスト教徒の家だと思っていたので、教会に通って集会に参加し、一度も欠席することはなかったのです。

 2018年3月のある日、ある姉妹の家で終わりの日の神の働きを説いた刘兄弟に出会いました。何度か彼の話に耳を傾けるうちに、これまで聖書では理解できなかった多くの真理や奥義を理解しました。たとえば聖書の創造や、受肉とは何か、救われるとはどういうことか、救いとは何か、終わりの日の主の再臨への対応の仕方、真のキリストと偽キリストの違い、神の働きと人間の働きの違いなどです。それまで聞いたことのないこのような側面の真理を聞いたおかげで、実に視野が広がり、集会からはいつも多くのことを得ました。あるとき、交流中に、リュウさんが聖書に書かれていないたくさんの言葉を読みました。私はその出所を知りたかったので、彼に尋ねると、「これらの言葉は終わりの日のキリストである全能神の発言だ」と答えました。全能神の御名を聞くなり、私は少しそわそわし始めました。それまでに聞いたことがある批判的なプロパガンダが何度も心に浮かんだためです。その集会の間は話を聞くことにほとんど集中できず、途中で「用事がある」という口実でその場を去りました。

 アパートに戻った後、私は落ち着けず何度もベッドの中で寝返りを打ちました。全能神教会の兄弟姉妹との集会の場面が心に浮かぶ一方で、牧師や長老の言葉、テレビのニュースで放送された噂も耳に鳴り響きました。ひどく狼狽し、誰が正しく、誰が間違っているのか、誰の言葉に耳を傾けるべきかわかりませんでした。

 その後、スマホを付けて、非常に信頼していたサイトであるウィキペディアで検索をしました。そこで全能神教会に関する人騒がせな記述を読んだ時、ネジみ講から抜け出せなかった失意の日々を思い出さずにいられませんでした。リュウさんと連絡を取り続ければ、騙されるかもしれないと心配になりました。そこで、真理を探究するチャンスを捨て去り、全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す準備をしました。しかし彼らとの付き合いを全て思い起こしてみると、「彼らの品行、生き方、雄弁さはどれを取っても立派で、悪い印象を残したことはなかったな」と感じ、躊躇しました。その時期、リュウさんからたくさんのメッセージやいくつかの映画や動画が送られてきましたが、私はどれも見ませんでした。礼儀として、「リュウさん、もう何も送らないでくれませんか」というメッセージを送ると、すぐに返信が来ました、「ウィリアムさん、送ることに別に意味はありません。ただじっくり吟味してから、決断してくれるように願っているだけです。神は、神の働きを受け入れることを誰にも強制されません。私は自分の尽くすべき本分を尽くしたいだけです。そうしないと良心が落ち着きませんし、兄弟姉妹のいのちに責任を持たないことになります。」彼の言葉はとても誠実でしたが、噂に騙されていた私の心はそれでも動きませんでした。以後、二度と彼のメッセージに返信することはなく、尚も全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す気でいました。私と共に学んでいた姉妹のエラにこの決意を伝え、彼女は私の話を聞くと、「主の再臨を迎えることは大変なことだから、真剣に受け止めるべきだわ」と、自身の考えを話してくれました。また、「結論を急いだり、簡単に諦めたりしないで、主にもっとお祈りして、神のお導きを求めるのよ」としきりに勧められましたが、彼女の言葉を聞いて、途方に暮れてしまいました。

 このような経緯で、私は跪いて神に祈り、このように求めました、「主よ!私は今、非常に当惑しています。東方閃電の道に耳を傾けた後、私は確かに多くの真理や奥義を理解し、彼らがいい人たちだと感じました。しかしどうして世界で最も権威あるウィキペディアに、東方閃電に対して批判的なプロパガンダが書かれているのでしょうか。全能神教会は神の教会ではなく人間の組織であると書かれています。ああ、神よ!間違った道を歩んでしまうのではないかと不安です。サタンの罠にかからないよう私を導き、お守りください。」お祈りをして大分心が落ち着きましたが、よくよく考えてからもまだ心配でした。そこで、昔通っていた教会の、仲が良い年長の姉妹に自分の考えを伝えました。私の話を聞いて、彼女はこのように話してくれました。「ウィリアムさん、どんなことになっても、神の御前では心を静めて、何度も祈りましょう。そうすれば聖霊があなたを啓いて、人や出来事や物事を通して語りかけ、導いてくださいます。」翌日、教会に行く途中で姉妹は次のような話を聞かせてくれました、「主の信仰者の1人が危機に遭った時、神に救いをお願いしました。神は救いのチャンスを三度与えられましたが、彼はその内どれも掴まず、毎回、『結構です。私は主に祈ってきました。主が私を救ってくださいます』と言いました。死に際になってようやく、これら三度のチャンスは神が彼を救わんとして与えられたものだったのだと悟りました。自分でチャンスを掴まなかったために、死んでしまったのです。」この話に私は深く心を動かされ、「そうだな。主がチャンスを与えてくださったときは、注意して、掴み取らないと」と思いました。教会に到着した後で再び主にお祈りし、「どうすべきか教えてください」と懇願しました。説教を聞いたとき、道中で姉妹から聞いたものと同じ話を牧師が不意に語りました。その瞬間、私は心底驚きました。「すごいな。一日に二人から同じ話を聞くなんて。主がこのような状況を通して俺にどうするべきか教えてくれているのか。」主に大変感謝いたします。私は東方閃電を求め、調べ続けることを決意しました。

 その後、ネット上でリュウさんと連絡を取り、自分の疑問を伝えました。「リュウさん、あなたがこの前話してくれたことにはある程度納得します。どこも間違っていないと思います。ただ、全能神教会に対しては中国共産党政府が非難しているだけでなく、ウィキペディアまで批判的なプロパガンダを掲載しており、趙という名前の人物が設立した人間の組織であるという記述があります。この件についてはっきりと理解できないので、この側面の真理について教えて頂ければと思います。」

 それを聞いたリュウさんから「赤の家庭教育」という映画の抜粋シーンを送られ、一緒に観ました。映画の主人公であるシャオイーはこのように語りました。「なら教えてよ、キリスト教の創始者は誰?カトリックを立ち上げたのは誰だい?創始者はパウロかな?それともペテロ?ユダヤ教はどうだろう?モーセが創ったのかな?バカバカしいと思うでしょ?…キリスト教の各派が、本当に人間の手によって創られた組織だって、そう思ってるの?そんなにバカげた話はないよ。主イエスが現れなかったら、信者や従者は存在しなかった。キリスト教も生まれなかった。それが事実でしょう?使徒たちだけで教会を創るなんて無理だ。確かに人々を率いたのは使徒のペテロやヨハネだったさ。だからって、キリスト教は使徒たちが創ったことになるの?全能神教会は全能神の出現と働きで創られた。全能神が明かされた真理から、神様の声を聞いた人たちが、集まってできた教会だよ。聖霊に用いられる人が、全能神に自ら証しされ、教会の先導者となった。恵みの時代の使徒たちや、律法の時代のモーセのように、神様に用いられたんだ。神様に選ばれた人々に水を注ぎ、彼らを導くために人の本分を尽くす。…全能神が現れなければ、全能神教会は誕生しなかったはずだ。それは紛れもない事実だよ。…全能神の信者はその名において祈りを捧げる集会で語りあうのは全能神の御言葉だよ。…教会の信者が信じるのは全能神だ。そしてその御言葉のとおり、聖霊に用いられる人に従っている。それが事実だ。」次に、主人公の妹のシャオルイが全能神の御言葉と神の国の時代に全能神が発布された行政命令を読みます。神の御言葉にはこうあります。「神が用いる人が行う働きは、キリストや聖霊の働きに協力するためのものである。この人は、人間の間にあって神により立てられ、神により選ばれた者全員を率いるために存在する。また、その人は、人間が協力して行う働きをするよう神に立てられている。…しかし、神が用いる人は神により整えられた人であり、ある種の素質を備え、人間性を持ち合わせているのである。そういう人は聖霊により前もって整えられ、完全にされており、聖霊によって全てが導かれ、特にその働きについては聖霊により指導され、命じられる─そしてその結果、神に選ばれし者らを導く道からは逸れることがない。なぜなら、神は確実に自らの働きに責任を持ち、神は常に自らの働きを行うからである。」

 「教会の仕事や事柄に関し、神に従うことは別として、すべてのことについて聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。絶対的に順守するべきであり、正誤を分析してはならない。何が正しいか、間違っているかはあなたには関係がない。あなたは全面的に服従することだけを気にかけなければならない。」

 全能神の御言葉を聞き、主人公シャオイーが言ったことは正しいと思いました。神の現れと働きがなければ、私たち人間には教会を設立する術はありません。旧約の律法の時代、ユダヤの信仰者はモーセが率いていましたが、ユダヤ教がモーセによって創始されたと言える者はいません。ペテロやパウロも当時教会を指導しましたが、カトリック教やキリスト教がペテロやパウロによって創始されたと言える者はいません。今は神の国の時代です。全能神の御言葉は、聖霊に用いられる人が用意され、教会を指導すべく神によって起こされていることを明確に示しています。それはちょうど律法の時代にヤーウェが、当時のイスラエル人を導かせるためにモーセを起こしたのと同じです。全能神教会は聖霊に用いられた人によって設立されたと言う人がいれば、それは実に間違っています。