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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

クリスチャンの結婚-やっとの思いで掴んだ結婚の裏に隠された神の愛

2020-06-18 23:58:52 | 賛美の心

寄稿家:リー・チアン(ドイツ)

 「リン、リン、リン⋯⋯」

 近所の教会から心地の良いベルの音が聞こえてきました。コンピュータの前に座っていたリン・ユアンはご機嫌でした。彼は手を止めて、ストレッチをするために立ち上がろうとしました。立ち上がろうとしたその時、壁に掛かっていたある写真が彼の目に留まり、その写真には4人家族が写っていました。中年層の大人が2人、笑顔を見せながら隣通しで立っており、ある少女が弟の手を掴みながら両親の前に立ち、わんぱくな笑みを浮かべた幼い男の子はお姉ちゃんの肩に頭を寄り掛けていました。

 リン・ユアンはクリスチャン、そしてこの写真に写っているホストでもありました。この写真の円満な家族を見つめた彼は笑顔を浮かべ、思わず過去を振り返りました。

クリスチャンの恋愛・結婚,やっとの思いで掴んだ結婚,神の愛

 リン・ユアンは田舎で貧しい家庭に生まれ、友達たちよりも矮小でした。彼が結婚年齢に達した時、大勢の人が彼に結婚相手になりうる女性を紹介しましたが、彼は背が低く家庭も貧乏だったので、女性たちは彼に興味を持ちませんでした。友人たちが相次いでパートナーを見つけているのを知ったリン・ユアンはとても動揺し、彼らに嫉妬しました。彼はこう思いました:「私はいつになったら、一緒に手をつないで日向を歩き、膝を交えて語り合い、人生を共にする妻を持つことができるんだ?」しかし、これらは全て彼の手の届かない所にありました。こう考えると、リン・ユアンは気が沈み、心の中でこう文句を言いました:「裕福な家庭、もしくは権力のある家庭に生まれていたら、そしてもっと背が高かったら、今頃は妻と一緒に人生の道を歩んでいたかもしれない。この現実に直面したリン・ユアンは、今よりも良い生活を求めて努力しなければならない、そして可愛くて善良なパートナーを手にするために奮闘しなければならないと自分に言い聞かせ、専門学校で技術を修得することに努力を注ぎました。

 卒業した後、リン・ユアンは地元に帰郷ました。技能があり、人の頼みによく応える彼はすぐに村の人気者になりました。彼は、「これで直ぐに好みのパートナーに出会えるぞ」と思いました。しかし、事態は彼の期待に反する展開となりました。リン・ユアンは他人から女性を何人か紹介されましたが、ブランドデートに現れた女性が彼に興味を持たなかったり、彼が彼女たちに心を引かれなかったりしたため、彼は依然として適切な結婚相手を見つけることができなかったのです。リン・ユアンはがっかりして落ち込み、誰が自分の妻になるのかは分からないままでした。

 1年後、リン・ユアンは他の地域の仕事から帰郷しました。他人の紹介で、彼はヂィハンと出会いました。彼女は小柄で可愛く、瞳は黒く輝き、赤いリンゴのようにピンク色でふっくらとしたほっぺたをしていました。彼女はとても内気でいつも下を向いていました。リン・ユアンは素朴なヂィハンをとても良く思いました。しかし、過去数回のブラインドデートに失敗していた彼は今回もこれがお付き合いに発展するという期待は持っていませんでした。しかし、予想外にも彼女は彼と結婚する意欲があり、彼らは喜んで婚約する日を決めたのでした。しかし、リン・ユアンと彼の家族が婚約祝いの宴会をどのように準備するかと話し合っていた時、彼らは突然、ヂィハンの家族は彼の家族を貧乏だという理由で嫌っており、沢山の要求をしていることを耳にしたのです。自尊心の高いリン・ユアンはこの要求を受け入れられず、彼らは別れてしまいました。この時、リン・ユアンはイライラしてこう思いました:「俺はもう独りで死ぬことになるのかもしれない。」彼の心は枯れていき、彼は結婚の希望を失ってしまいました。

 その半年後、リン・ユアンが外で働いていると、彼の家族は突然彼に実家に戻って婚約するように言ってきました。彼はこれを聞いてびっくりしました。彼はこう思いました:「最近はどの女性とも連絡を取っていないのに。一体だれと婚約しろって言うんだ?」緊張を胸に帰宅した彼はヂィハンの家族が彼らの結婚を承諾したことを知ったのです。しかしながら、リン・ユアンはこれを喜びませんでした。なぜなら、以前彼らの間に起こったことが原因で、ヂィハンへの愛情は既に薄くなっていたからです。今、彼は彼女との結婚に対してあまり乗り気ではありませんでした。しかし、彼は自分の両親が自分の結婚について相当心配してくれていたこと、そして、自分が彼らのことを心配してあげていなかったことを考慮し、嫌々ながらも彼女との結婚に合意したのです。

 後に、リン・ユアンは国有の工場の作業場で次長となり、以前よりも沢山給与を稼いでいたので回りの人たちから尊敬され始めました。その一年後、ヂィハンが大事故に遭い、命を落としそうになるとは誰も思っていませんでした。その時、リン・ユアンの親戚と友人たちが、ヂィハンはもうあまり働くことができないから彼女との婚約を破棄するようにと彼に勧めてきたのです。リン・ユアンは途方に暮れました。彼はヂィハンに対し特別な愛情を抱いてはいませんでしたが、彼女が極めて大変な状況でとても辛い思いをしている時に婚約を破棄するのは良心に欠けることだと思いました。従って、彼は彼女と別れるのではなく、むしろ時間を割いて彼女の世話をしました。ヂィハンと会話をしていると、リン・ユアンは彼女は優しくて思いやりがると思った上に、以前彼女が興味を持っていながらも彼と別れたのは家族からの圧力のせいであったということを知りました。これを知った後、彼女に対する誤解は解消されました。この時、彼は、彼女が未だに初めて出会った時の可愛くて純粋な女の子のままであることに気が付いたのです。その2年後、彼らは結婚し、すぐに可愛い赤ちゃんを授かりました。ヂィハンは善良で思慮深く、リン・ユアンの両親を大切にしました。彼女は神の御国の福音を受け入れた後、リン・ユアンを神の前に連れていきました。彼らは頻繁に一緒に神の御言葉を読み、神を讃えながら讃美歌を歌いました。リン・ユアンが職場で不満な状況や困難に遭遇すると、彼女は彼が問題を切り抜けられるよう積極的に彼と神の御言葉を語り合い、彼を支え、彼に付き添いました。リン・ユアンは神の愛が彼に幸せな生活をもたらしてくれたことを知りました。

 ある日、リン・ユアンは神の御言葉のこのパラグラフを読みました:「人間は、人生において多数の人々に出会うが、誰が結婚相手となるかを知っている者はいない。誰もが結婚という問題に対する個人的な概念や意見を持っているものの、結婚に関して、最終的に誰が相手となるかを予測出来る者はいない。また、自分の意向はほぼ問題外である。自分が好きな人物と出会い、その後その人物を追いかけることは出来るが、その人物が自分に関心を持っているか、自分の配偶者となり得るかは、自分自身で決められる問題ではない。自分が慕う人物は、必ずしも自分が人生を共に出来る相手ではない。その一方で、全く意外な人物が自分の人生に登場し、自分の運命において最も重要な要素であり、自分の運命が不可分に結びついている人物、すなわち配偶者となる。…結婚そのものがもたらすのが幸福であるか苦悶であるかを問わず、結婚における各人の使命は創造主により予め定められ、変わる事が無く、したがって皆それを全うする必要がある。また、それぞれの結婚の背景にある運命は変わらない。なぜなら、それは創造主により遙か以前に定められているからである。」
リン・ユアンは神の御言葉をこう理解しました:「人の結婚は神によって支配され、予め定められており、それに関し人々は何もできないのです。人はその身分、地位、そして外見に関わらず、自らの結婚も、自らの結婚相手も決めることはできないのです。」過去失敗に終わった幾つかのブラインドデートを振り返ってみると、リン・ユアンが好きだった人は彼を好まず、彼に興味を持っていた人は彼にとって魅力的ではありませんでした。そして、彼とヂィハンの結婚は全くの予想外でした。最初、彼は彼女の家族から受けた多大なる要求が原因で彼女と別れ、彼は彼女を誤解してもいました。しかし、彼女の病気のおかげで二人はよりを戻し、彼は彼女と仲良くしているうちに彼女に対する誤解を取り除いただけでなく、彼女のことをもっとよく知ることになったのです。幾つもの失敗を経て、彼女は彼の妻になりました。リン・ユアンは人の結婚は自らが決めるものではなく、神によって支配され、計画されているということを身をもって体験したのです。彼はブラインドデートに失敗し、動揺して悲しみを味わい、結婚を諦めさえしました。これは全て神の主権を知らなかったことが原因であったことを彼はやっと知ったのです。

 後に、リン・ユアンはこの神の御言葉を目にしました:「神は人間を選択すると同時に人間のためにこうした環境を用意しますが、それは神が人間を救う働きに大いに有益です。外面的には、神は人間のために何ら劇的なことをしていないように見えますが、神は全てを秘密裏かつ謙虚に、そして静かに行うからです。しかし実際には、神がすることは全て人間の救いのための基盤を築き、将来の道を用意し、救いに必要な全ての条件を用意するためのものです。」神の御言葉から、リン・ユアンは神が人類を救われる善良なる御旨を知りました。神は誰かを救おうとされる時、その人のために、結婚を含め沢山の環境を苦心して用意され、その各環境には神の御心が宿っています。ヂィハンは見た目が普通で、背も低かったのですが、彼女は優しく思いやりがあり、リン・ユアンの両親を敬いました。最も大切なのは、ヂィハンが神の御国の福音を受け入れた後にリン・ユアンを神の前に導いたことでした。これは神の善良な御旨であったのではないでしょうか?彼はヂィハン以外の女性と結婚していたら、神の前に行く機会を手にしていなかったかもしれません。更に、彼は自分が手にしたものと自分が体験したことをふり返りました。貧しい家庭に生まれ、背が低く、ブライドデートで失敗し、幾度となく結婚が遅れ、そしてついに掴んだこの結婚。彼はこの全てに神からの愛が込められていたことを知ったのです。こう思ったリン・ユアンは神に対する感謝の気持でいっぱいになりました。
以前、彼はブラインドデートで挫折を経験した時、誤解と不平を抱き、失敗したのは自分の平凡な外見と貧しい家族のせいだと思っていました。しかし、神の御言葉を読んだ後、結婚は結婚生活において2人のパートナーが取り組むべき使命によって決まり、人間の好みや、まして外的要因で決まるものではないことを彼は知りました。リン・ユアンは神がこのような適切な結婚を用意してくださったこと、円満な家庭を与えてくださったこと、そして更には救われる機会を与えてくださったことを神にとても感謝しました。

 「リン、リン、リン⋯⋯」

 近所の教会からもう一度心地の良いベルの音が聞こえてきました。


あなたはなぜ主イエスが天の神様を父の名で祈るのかを知っていますか

2020-06-18 00:21:43 | 賛美の心

 祈りの会の後、私は3人の教会の姉妹を自宅に招きました。彼女たちは王さん、于さん、賛美歌を教えている趙さんで、3人とも長年にわたり主への信仰における霊的仲間でした。一緒に自宅に着いた後、私はお茶を沸かして彼女たちに出し、皆で歓談を始めました。

 趙さんがこう言いました。「あの、まだ分からないことがあります。普通、説教者はいつも『主イエスが神の子だ』と言いますね。それに聖書を見る限り、主イエスは人に説教や話をされている時はいつも、天の神のことを父と呼ばれました。だから主イエスが神の子だということ私は信じていますけど、聖書の話では、主イエスは聖霊によって宿されましたし、主は弟子たちにこう仰ったことがあります。『わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい』(ヨハネ 14:11)、『わたしと父とは一つだ』(ヨハネ10:30)と。それで混乱しています。主イエスは神ご自身ですか、それとも神の子なのですか。」

 于さんは皆の前で思わず「神の子に決まってますよ」と答え、そこで趙さんは「何を根拠にそう言うんです」と尋ねました。于さんは次のように説明します。

あなたはなぜ主イエスが天の神様を父の名で祈るのかを知っていますか

 「マタイによる福音書第3章16と17節にこう記されています、『イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」』

 この2つの聖句から、主イエスがバプテスマを受けられたとき、聖霊が直々に主イエスが神の愛する子だと証ししたことが分かります。主イエスは愛する御子と呼ばれたということは、主がまさに神の子だということではありませんか。しかも、主イエスはゲツセマネの園で祈られていたとき、天の神のことを父と呼ばれていました。こういうことこそが根拠じゃないでしょうか」

 この話を聞いた後、趙さんはしばらく考え込んで、「于さんが言ったことは最もです。これらの聖句によれば、主イエスが神の子であることは簡単に確認できます。刘さんと王さんはどのように理解していますか。ただ聞いていないで、話してくれませんか」と言いながら私たちの方を見て返事を待っていました。

 王さんと私は微笑み合いました。趙さんも于さんもそれを見て、「何を笑っているの」と不思議に思いました。このとき、王さんが先ず次のように話し始めました。「主イエス・キリストは神ご自身か、それとも神の子か。これは宗教界全体がいつも議論している問題です。私たちは聖書に記されていることから、主イエスが何度も天の神を父と呼ばれたこと、そして聖霊も直々に主イエスが神の愛する子だと証したことを知った時点で、イエスが神の子であると一層確信します。このようにして、この父子関係という概念が形成されました。以前は私もそう考えていましたけど、刘さんと一緒に秦さんという姉妹の伝道者の説教を聞いて初めてこのことについて新しい洞察を得たのです。」

 于さんは「頼むから早く教えてください。どんな説教だったんです。2人ともどんな新しい知識を得たんですか」と躍起になって聞きました。

 王さんは「于さんは相変わらず結果に対してせっかちですね」とにっこり笑って話しながら、聖書をかばんから取り出して言いました。

 「主イエスが神ご自身か神の子か知りたいなら、先ず聖句をいくつか読みましょう。ピリポが主イエスに天の父を見せるように求めたとき、主は彼にこう仰いました。『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。』(ヨハネ14:9-10)。

 これらの言葉を通して、主イエスは、ご自身と父が一つであり、同じ霊であること、主が神の霊の受肉であり、天における御父の具現であることを人々に告げられていたのです。明らかに、主イエスは完全に神ご自身であって、神の子ではありません。でも現在の人々は、聖書に対する自分たちの理解から、主イエスが神の子だと推論します。実際には、主イエスご自身はそのような話を認められませんでした。ご自身について証しされたときは、完全に神ご自身だと仰いました。パリサイ人が主イエスに『あなたの父はどこにいるのか』(ヨハネ8:19)と尋ねると、主は『あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう』(ヨハネ8:19)と答えられたのです。

 また別の例を見ましょう。主はユダヤ人たちにこう仰いました。『しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう』(ヨハネ 10:38)。それからヨハネの第12章44と45節では、『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである』とあります。

 これらの聖句を通して、主イエスは人類に『私は神ご自身だ』と直接は仰らなかったとはいえ、ご自身が神の顕現だと証しされていたのです。主イエスのこれらの御言葉をよく思案すれば、主がまさに神ご自身だと確認できます。」

 于さんは聖句を聞いて検討し、王さんの声が鎮まるとすぐに聖書を閉じ、首を上げてこう言いました。「そうですね。主イエスは確かに、『わたしと父とは一つである』と仰いました。ご自身が神の子ではなく受肉した神だとはっきり私たちに教えてくださったのですね。私もこれらの聖句も見たことがありますけど、主が仰ったことに注意せず、ごく一部の聖句を根拠に主イエスを神の子と見なしていました。どうして主の御言葉を心で考えなかったのでしょう。」

 そこで趙さんが言いました。「王さんの話は理にかなっていて根拠もしっかりしていますけど、私はこれがよくわかりません。主イエスが明らかに神ご自身なら、どうしてそれでもお祈りの時、天の神を父と呼ばれたのですか。どうして聖霊は、主イエスが神の愛する子だと証しされたのでしょう。」于さんも我慢できず、「そう、その通りです。私もそこが引っかかります。いまいちよくわかりません。それについて話を聞かせてくれませんか」と言います。

 私はうなずいて答えました。「その問題には私たちも戸惑いました。そのとき、秦さんがそれに関して私たちに御言葉を3節を読んでくれたのです。」そこで私は自分のノートを開けて読みあげました、「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。『天にいますわれらの父よ……』イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。」「それでも、イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったかと言う人たちがいる。『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と、確かに神自身が語った。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。」「イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない。」

 これらの御言葉を読み終えた後、私は続けました、「秦さんの説教のおかげで、私は次のことが分かりました。私たちが想像したのとは違って、主イエスが祈りの時、天の神を父と呼ばれたのは、神の子という身分でそうなさっていたのではありません。実は、創造物の視点に立ってそうなさっていたのであり、そうしてキリストの謙虚さと従順を示されたのです。そのとき、聖霊は主イエスが神の愛する子だと証しされましたが、神の子だとは言われていません。そうではなく、聖霊は主イエスが神ご自身の受肉であることを霊の視点から証しされていたのです。神の肉の姿を愛する子と呼ばれましたが、神の子とは呼ばれていません。

 現実には、神は唯一の真の神なのです。天にて宇宙全体に指令を出しておられようと、人の間で働きをするために肉になられようと、肉となった神と聖霊はなおも一つの神です。

あなたはなぜ主イエスが天の神様を父の名で祈るのかを知っていますか

 受肉されたキリストは本来的に神ご自身であり、神の霊が肉において真に実現された姿だから、神の本質を持っておられます。そしてこの御方が表されるものは神の性質すべてなのです。主イエス・キリストは外見上は普通で正常の肉体でしたが、その本質は神ご自身です。主が働きに来られたことで、旧約聖書の律法の時代が終わって、恵みの時代がもたらされ、私たちは悔い改めの道を賜りました。それに、主イエスの御言葉には権威と力があります。主が風と海を叱責されたとき、海は再び穏やかになりました。ラザロに墓から出ろと命じられたとき、ラザロは死から蘇りました。ですから、キリストは完全に神ご自身なのです。主イエスが天の神を父と呼ばれたのは、肉となって働かれていたからに過ぎません。主の肉としての働きが終わったとき、この父と子という観念もなくなったのです。」

 私がこのように話した後、趙さんは喜んで言いました。「今日の刘さんと王さんの話は目から鱗でした。主イエスは天の神を父と呼ばれたとき、肉の視点からそうされたということなのですね。天の神が主イエスを我が愛する子と呼ばれたとき、神は聖霊の視点からご自身の受肉を証しされていたというわけですね。」于さんもうなずいて納得してくれました。「主イエスが天の神を父と言われた本当の理由も、聖霊が主を神の愛する子と証しされたことの意味もやっとわかりました。ついに謎が解けました。」これらの言葉を聞いて、私たちは皆喜んで微笑みました。


真のキリストと偽キリストを見分ける3つの方法

2020-06-16 23:58:41 | 賛美の心

寄稿家:クオヂャン(カナダ)

 主イエス様は仰りました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25章6節) 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3章20節)。 主の御言葉から、私たちは誰かが主の来臨の知らせを伝導するのを耳にする時、賢明な処女となって、それを積極的に探究し、調査するべきだということが分かります。私たちはこうしてのみ主の再臨をお迎えすることができるのです。しかし、牧師たちは、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24章23-24節)、という聖句を理由に、「主イエス様が再臨されたと宣教する人たちは偽キリストの道を宣教しており、人々を惑わせているので、信じてはならない」、といつも私たちに言います。これ故に、兄弟姉妹の多くがこのように困惑しています。「私たちは主イエス様の再臨を証言する人を耳にする時、前向きにそれを探求して調査するべきなのでしょうか、それとも、それを避けて拒むべきなのでしょうか?主の御心に従うには、何をするべきなのでしょうか?」この疑問について、私は真キリストと偽キリストを見極める方法に関する真理について、皆と交流したいと思います。この側面の真理を理解してさえいれば、私たちは偽キリストと偽預言者たちに惑わされる心配はないですし、消極的な守りの姿勢に入って主の再臨をお迎えする機会を逃すこともないでしょう。

真のキリストと偽キリストを見分ける3つの方法

 先ず初めに、この御言葉を読んでみましょう。「受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(「序文」より)。 これらの御言葉は、偽キリストたちを見極めるには、彼らの外見ではなく、彼らの本質に注目する必要があると明確に語っています。すなわち、彼らを見極めるには、彼らの働き、言葉、そして性質に注目する必要があるのです。では、主イエス様の御言葉を幾つか読んで、真キリストと偽キリストの実質的な違い、ならびに彼らの見極め方について話しましょう。

 第1に、私たちは彼らの働きを見なければなりません

 主イエス様は仰りました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24章24節) 主の御言葉は、偽キリストと偽預言者たちは、主として、しるしと奇跡を行って神の選民たちを惑わそうとすると示しています。これが偽キリストが人々を惑わす最も基本的な方法です。次の節を読めば、この問題をより明確に理解できるでしょう。「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。…人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」(「今日の神の働きを知るということ」より)。

 神は常に新しく、決して古くない、そして同じ働きを繰り返されることがないということをこの節は明確に語っています。これは、主イエス様が働きをしに来られた時、律法の時代に律法を発布する働きを繰り返えさずに、恵みの時代を開始され、人類の罪を贖う働きをされたのと同じです。主は人間に悔い改めの道を備え、病人を癒し、悪霊を追い出し、最終的には人間のために十字架につけられて、人類の罪を贖ってくださりました。なので、主イエス様は終わりの日に再臨なさる時も、新たな時代を開始され、新たな働きをなさり、既になされた働きを繰り返されることはありません。そして、偽キリストはどうかといいますと、彼らは皆、キリストを装う悪霊です。彼らは新たな時代を迎え入れ、古い時代の幕を閉じる働きはできません。彼らは、混乱して識別力のない人たちを惑わすために、単純なしるしと奇跡を行って主イエス様のふりをすることしかできないのです。しかし、彼らは、主イエス様がなされた様に、死者を蘇らせたり、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせたり、風と海を叱るということはできません。こういったことは、彼らの能力の域を完全に超えています。なぜなら、彼らは神の権威と御力を持っていないからです。従って、新たな時代を開いて、古い時代を完結できる御方が真キリストであり、それができずにただ神のすぐ後について、神が既になされた働きを真似ることしかできない人たちは間違いなく偽キリストなのです。

 第2に、私たちは彼らの話す言葉に注目しなければなりません

 主イエス様はかつてこう仰りました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14章6節) キリストの仰せられる御言葉はその全てが真理であり、それは人間にいのちを与え、人間のために歩むべき道を指し示し、人間のいのちを構成し得るということが分かります。それを証明するものとして、主イエス様は働きをなさっておられた時、人類が必要としていたことに応じて悔い改める道をお見せになり、人々に自らを愛する様に他人を愛して他人を幾度となく許すことを教えられ、そして自らの罪を言い表して悔い改めることも教えられ、律法の下で暮らしていた人々に新たな実践の道を指し示してくださりました。

 主イエス様はこうとも仰りました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16章12-13節)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2章7節)「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる。」(ヨハネの黙示録5章5節)これらの節より、主は終わりの日に来臨される時、私たちが理解できない真理をたくさん仰せられ、巻物を開いて7つの封印を解かれるということは明らかです。主イエス様の再臨に関するこれらの預言からすると、真キリストは来臨される時に真理を表すことがおできになるのだと、私たちは確信を持つことができます。これに間違いはありません!他の御言葉の節も読んでみましょう。「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」(「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)。

 これらの言葉より、キリストは受肉された神御自身であり、肉として顕現された神の御霊であり、キリストは人間に備え、人間を導くために、いつどこでも、真理を表すことがおできになるということが分かります。一方の偽キリストは、その殆どが悪霊に取り付かれています。本質的に、彼らは真理をほんの僅かも持たない悪霊であり、悪魔であります。これ故に、彼らはどのようにして聖書を誤解したり、意味深い知識や理論について語ったとしても、人々を惑わし、傷つけることしかできないのです。彼らが行うことで、私たちにとって啓発的なことは何1つありません。彼らは永遠と私たちの心に闇をもたらすだけで、私たちに歩む道を残さず、最終的には私たちを滅ぼしてしまいます。キリストのみが真理、道、そしていのちであります。従って、真理を表し、私たちに道を示し、いのちを与えてくださる御方がキリストであり、自らをキリストと名のりながら真理を表すことができない人たちは間違いなく偽キリストなのです。これが偽キリストと偽預言者を識別するための基本原則です。

 第3に、私たちは彼らが表す性質に注目しなければなりません

 主イエス様はかつてこう警告されました、「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。」(マタイによる福音書24章5節)。 主イエス様はこの節の中で、私たちに偽キリストのもう1つの特性を教えてくださっておられます。彼らは皆、傲慢でうぬぼれた性質を持っており、人々から神として崇拝されることを狙って人々の前で自己顕示し、自らをキリストであると宣言することを好みます。

 次の御言葉の節を読めばもっと深く理解できるでしょう。「偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。」(「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より)

 この節より、こういった者たちは偽キリストであるからこそ、人々を惑わすために増々人々の前で自己顕示をするようになる反面、キリストは御自身の働きによってその身分を宣言されるということが分かります。主イエス様が働きをされた時も同じで、主は病人を癒し、悪霊を追い出さし、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせ、そして死者を蘇らせました。人間は主のことを知りませんでしたが、主の権威と御力が主の身分を受肉された神御自身であると証明したのです。なぜなら、神以外にそのような権威を持つ御方は存在しないからです。従って、キリストは働きをしに来られる時、決して自分が神であり、キリストであることを声に出して言われたり、自己顕示をされることはありません。むしろ、キリストは人間たちにそのいのちが必要とするものを備えるために、謙遜して肉の中に身を潜めながら働きをされ、御言葉を仰せられます。そして、それは神のいのちの最高に尊く、聖なる本質を証明しているのです。しかし、偽キリストたちはいつも自分たちがキリストであると声に出して主張し、彼らの言うことを聞かないと天国に入れないなどと破廉恥なことを言う人たちすらいるのです。彼らは人々を自分たちに会わせるために出来る限りのことを行ったり、人々を騙すためにしるしと奇跡を行います。この実例は本当にたくさん存在しています。これ故に、真キリストと偽キリストを見極めるためのもう1つの重要な原則は、彼らが表す性質に注目するということなのです。

 兄弟姉妹たちの皆さん、上述した内容が真キリストと偽キリストを見分けるための3つの原則です。私たちはこの3つの原則を理解してのみ、偽キリストに惑わされるのを妨げ、賢明な処女になって主の再臨をお迎えすることができるのです。

 脚注:a. 原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。


キリスト教が2000以上の教派に分裂していることは何を表しているのでしょうか

2020-06-15 11:57:09 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、こんにちは

 全世界で、イエス様の信者たちは多くの教派に分かれてしまっています。中国本土だけでも、信仰義認派、カリスマ派、呼喊派、大賛美派、三班僕人派、真イエス教会等が存在しています。私にはこれが理解できません。私たちは皆、主イエス様を信仰し、同じ聖書を読んでいるのに、どうしてこれほど多くの教派が現れるのでしょうか?このような形で主を信仰していて、私たちは主に良しとされることができるのでしょうか?

 リー・メン

キリスト教,沢山の宗派

 リー・メン姉妹、こんにちは

 あなたの疑問は実に現実的な問題に関連するものです。ほとんどの兄弟姉妹もこれには困惑しています。真理のこの一面について、まずは様々な教派がどのようにして誕生するのかについて話したいと思います。

 異なる教派は聖書における人々の偏った理解および彼らの傲慢な本性が原因で誕生しています。

 キリスト教は主イエス様の働きにより生まれ、元々は主御自身が導き牧養されていたということは、私たち主の信者全員が知っています。当時の信者は正しい道からそれることがなかったため、分裂は起っていませんでした。しかし、主イエス様が天に上られ、主の弟子と使徒たちが息絶えた後、異なる教派が少しずつ出現するようになったのです。どうしてこれらの教派が形成されたのでしょうか?神の御言葉を見て、これを理解していきましょう。神はこう仰いました。「人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。」

 神の御言葉より、異なる教派が形成される主な理由は主を信仰する人々が聖書に関して各々の偏った理解を持っているからだということが分かります。主イエス様は十字架に磔にされる働きを成就された後に去っていかれ、その後に主イエス様の信者たちが主の福音を伝道し始めたということは私たち全員が知っています。しかし、神の信者たちは聖書の教えに関する純粋な理解を持っていないため、その多くが聖書に関する各々の偏った理解を教会を設立するための教義とし、それを固持してしまっているのです。例えば、ある信者たちは、「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10:10)、という言葉を受けて信仰義認派を築きました。他には主イエス様の、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)、という御言葉に執着し、「悔改め派」が主の御心に最も則したものだと思い込んでいる信者たちもいます。各教派それぞれが聖書に関して偏った理解を持っています。さらに、人々は傲慢さ、うぬぼれ、独善性、自尊といったサタンの性質を持っています。彼らは自分たちに才能と博識があり、自分たちの持つ聖書の理解のみが純粋なもので、それだけが正しいと思っています。従って、彼らは他人の意見を強く拒み、または非難し、聖書の教えを解説して自己顕示するのです。彼らは人々を自分たちの周りに引き寄せて、独自の教派を立ち上げます。教派はこのようにして誕生します。2000年にも渡り、クリスチャンは異なる教義を持っていることが原因で、絶えず討論を行い、新教派が形成されてきました。彼らはお互いを攻撃し、軽蔑し、議論し、そして除外するために決して一つに団結することができない。このようにして1つの教会が2000以上の教派に分裂していったのです。これより、異なる教派の設立は人間が引き起こしているということが分かります。これは主イエス様が要求されていることでなければ、全く神の御心に沿ってもいないのです。

 宗教団体で神を信仰する人々は人々によって罠にかけられ、人々を崇拝し、人々に従い、真理を理解することや、神を知ることは決してありません。

 異なる教派が形成される原因を考えると、宗教指導者たちは誰もが神に仕えるために主の教えに従う代わりに、聖書に関する各々の理解を頼りに働き、説教していることが分かります。ならば、彼らの働きの本質は一体どのようなものなのでしょう?このような教派に属して神を信仰したら、どのような結果が伴うのでしょうか?神はこう仰っています。「たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。」

 神の御言葉から、宗教指導者たちと牧師たちは皆、神学的知識と教義に頼って働きと説教を行っているということが分かります。彼らは神への信仰において信者たちが持つ多種多様で不適切な考えや、信者たちの堕落を解決してくれることはありません。例えば、異なる教派間における攻撃や口論が起こる中で、牧師たちは皆自分たちの意見が正しく、他の教派の意見は間違っていると強く主張します。彼らは決して自分たちの逸脱や誤りを顧みることはなく、自分たちが傲慢な性質を表していることすら分かっていません。そして、彼らは信者たちが神を知ることを手伝うために神の御心を伝えることも全くありません。代わりに、彼らはいつも現実的な問題を避け、ただ単に中身のない理論を語っているだけなのです。彼らの交わりは罪の束縛を取り除くこととは全く無関係で、彼らはただ自分たちの才能、そして自分たちがどれだけ恵まれているか、さらには各々の神学的知識と理論を誇示したいだけなのです。信者は長い間牧師たちの言うことを聞いていると、必然的に彼らに影響されてしまいます。彼らは牧師たちの才能と牧師たちが非常に恵まれていることに憧れを持ち、牧師たちが雄弁で会話が上手なことに感銘を受け、自分たちも牧師たちのように豊かな聖書の知識を修得し、巧みに会話ができ、福音を伝え説教できさえすれば、他人の羨望と称賛の的になれるのになと思ってしまうのです。この結果、彼らは神の御言葉を実践することには注意を払わなくなり、神の御旨を見出そうともしなくなり、ただ単に儀式と規則に従うだけになってしまうのです。このように、宗教団体の信者たちは、律法の時代末期に神殿の中で神を信仰していた人たちと同じように、聖霊の導きを受けることができないのです。これ故に、彼らは何年神を信仰しても、真理を理解することも、神を知ることもできず、彼らの性質が変わることもないのです。従って、宗教の中で神を信仰するという本質は人間の指導者たちを崇拝しているに過ぎず、真に神に従っているということではないのです。

 宗教から離れ、神の働きについていき、神の御前に立ち返りましょう。

 聖書には次の節が記録されています。「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき…」(イザヤ書2:2)

 神はこう仰っています。「あらゆる宗教、あらゆる宗派の人々全てを、唯一の神の支配の下に集める……あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって……万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。」

 神の御言葉より、終わりの日の末期には、全ての宗教が1つとなり、全人類が神の家に立ち返るということが分かります。終わりの日に、神は人類を救う一段階の働きを実行する必要があり、それによって神の顕現を心から切望する人々全てが神の御声を聞き、それぞれの教派を去り、神の御前に立ち返れるようになるのです。この働きは神御自身以外の者が行うことはできません。神は私たちを創造し、導き、さらには栄光に輝く終着点へと連れていくことがおできになり、これは神の権威の象徴であると同時に神の唯一無二な性質の象徴でもあり、いかなる教派の指導者や聖職者でも代わって行うことはできません。世界には2000を超える教派が存在していますが、その全てが人間によって設立されています。神の羊たちはついに教派から歩み去り、創造主の支配下に戻り、そうすることで全ての教派が1つとなります。これが、終わりの日に神が達成することを意図される働きです。牧師と長老たちがどれだけ高い地位にあったとしても、彼らは皆、サタンに堕落させられた人間なのです。彼らは自分を救うことすらできないのに、他人を救えるはずがありません。万物を支配される唯一の真の神のみが私たちをサタンの被害から救い、神の御前に導くことがおできになります。今は終わりの日が到来し、イエス様がお戻りになられたと、多くの人々が証ししています。私たちは観念を捨て、宗教を去り、終わりの日の神の働きと御言葉を探さなくてはなりません。これは、賢明な人がする選択です。

 以上が僅かですが私たちの見解です。少しでもお役に立てば幸いです。もし他にも質問がございましたら、またお気軽にお知らせください。

 敬具

 信仰ステーションより


神の愛のみが真の愛である

2020-06-15 00:53:51 | 賛美の心

四川省 シャンドン

 神はこう仰いました。「数千年にわたり腐敗し続けてきた中国国家は、現在まで存続してきた。ありとあらゆる害毒が、らい病のように随所に拡散している。人間関係を見るだけで、人間にどれほど大量の害毒があるかを理解するに十分である。そうした密閉されて害毒に冒された領域で御業を行うことは、神にとって極めて困難である。人々の人間性、習慣、行動方法、人生や人間関係で表現されるあらゆる物事は、すべて信じられない程に破壊され…」(『言葉は肉において現れる』の「道 (6)」より)神の御言葉の御啓示により、サタンの堕落は人々の関係全てを異常なものと化してしまうのだと分かりました。なぜなら、全てがサタンの人生観に基づいており、それには何の真理も含まれていないからです。神の御救いを受けていなければ、私は依然として盲目で、感情も騙されたままであったでしょう。しかし、神の働きを受けた私は、“お互いを助け合う” ことの本質を理解して、友情、愛、そして家族間の愛情のあり方を知ることができたのです。私は、神の御言葉のみが真理であり、神の御言葉をつらぬいてのみ、サタンの支配から抜け出すことができ、真理に従って行動してのみ、有意義な人生を送ることができるのだと分かりました。

 私の両親は共にキリスト教徒だったのですが、当時、イエスを信仰していた私達は多くの恵みを授かりました。特にビジネスにおいて、神は物質的な安楽を沢山お与えくださいました。私の親戚の大多数は私の両親ほど裕福ではなかったので、私の両親は金銭的にも、物質的にも彼らの面倒を見ていました。私の親戚は私の両親をとても尊敬しており、自然と私にも同じ姿勢でした。私はこのような恵まれた環境で育ったのです。私の友人達と親戚はとても素晴らしい人達で、私の家族が何か必要であれば、快く助けてくれるものだと思っていました。

 1998年の事です。私達家族は全員で全能の神の働きを受け入れたのです。そして、神の祝福を授かりたいという希望と、厳しい業界でビジネスを展開していたということを理由に私達は家業を辞めることにしたのです。友人と親戚の中には、“お前達が何年もかけて成長させてきたビジネスなのに、辞めてしまうなんてもったいない”、と言って家業を続けるように説得してくる人達がいました。私達はこれ以上いらない程に稼いだから辞めるんだろうと、私達のいない所でこそこそ言っている人達までいたのです。これを聞いて悲しくはなりましたが、それでも私達はビジネスを辞める決意をしました。全能の神の働きを受け入れたと言っても、私は依然として人々の堕落については全く解っていませんでした。それ故に、私は、心の中では依然としてこの世俗的な世界を手放せずにいたのです。私はよく仲の良い友人や親戚達と一緒に食べたり、飲んだりして、楽しく遊んでいました。私は気前よくお金を使うので友達が沢山でき、非常に “重要” だった私は、同窓会、パーティ、クラスメートや友人達の誕生日会や結婚式、その他の集まりには必ず招待されていました。その上、毎週日曜日には、ガールフレンドを迎えに行っては見送り、頻繁にデートをしました。当時私は、教会で週に3回ある集会を一度も逃したことはありませんでしたが、依然として神の御言葉を理解しておらず、私の心も変わらぬまま世俗をさまよい続け、神への信仰は規制による束縛のように感じました。しかし、神は私が真理を理解できるような環境をお作りくださったのです。人々の関係は共通の関心に基づくもので、それには本当の気持ちや愛などといったものは存在しないとお示しになりました。

 家業を辞めた後、私の両親は自宅の修理を行い、私の妹と私の授業料を納める必要があったため、僅か数年後には家の貯金がほぼ底をついてしまったのです。そして、両親から収入を得ていた私の出費も減っていきました。私は、結婚式や集まりにはその規模に関係なくできるだけ参加しないようにし始めたため、私の友達の輪も次第に小さくなり、友人達の目から見た私の存在もその重要性を失い始めたのです。貧しかった友人や親戚の運気が改善したとたん、彼らは私達から遠ざかっていきました。この時、私は他の人達の心の中にはもはや存在していないと感じたため、私にとっての精錬の期間となりました。特に、私のガールフレンドは、私が以前ほど気前よくお金を使わなくなったため、私からどんどん距離を置くようになり、2001にはついに私と別れて、他の人と付き合い始めてしまったのです。

 それを知った時、私は事実として受け入れられなかったのです。感情を露わにはしなかったものの、この知らせはナイフが心臓に刺さったかのように辛いものでした。私は浮気をしたことなどなく、彼女のために費やした努力も誠実な動機によるものでした。なのにどうして、私は彼女に裏切られるようなことになったのでしょうか?5年間続いた彼女との関係もこんな形で幕を閉じたのです。私は彼女を忘れることができずに、この痛みを心の奥深くに埋め込んだのです。それ以降、私は、誰かがこれについて触れるたびに嫌な思いをしました。どうしてこのような事が自分に起ったのか、私には理解できませんでした。そして、ある日、私はこの神の御言葉の一節を目にしたのです、「殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。したがって、人間は一生を朦朧とした状態で過ごし、神が人間のために用意した良き物事を享受することは決して無く、その代わりにサタンにより傷めつけられ、破滅させられる。現在、人間は無気力かつ無関心な状態となり、神の働きに留意する気は全くない。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より)神の御言葉による御啓きは人間のいのちを忠実に描写しています。恋の病にかかり、“ロマンチックな恋” の幻想的な世界を過ごした時期を振り返ってみると、私は脱出不可能な罠にかかっていたのです。これらはサタンが人を欺くために仕掛けた罠であり、人々を捕まえては目標を持たずに、神の働きに気付こうとする意思すら持たずに生きて行かせるための計略であったとは、全く知りませんでした。私は自らを神の信者と称してはいましたが、友情と愛について頭を悩ませ、苦労した日々を沢山過ごしました。私の状況が変わっていなければ、依然として “永遠の愛の誓い” であったり、“忠実な友人” を信じ、決して脱出できなかったでしょう。ガールフレンドと分かれたことをきっかけに、私はクラスメート全員との関係も断ちました。騒々しい環境から出たことで、私は心を落ち着かせ、神への信仰に専念することができたのです。私は集会の場で兄弟姉妹達と交流するようになり、私の傷ついた心が徐々に元気を取り戻していったのです。私は長い間忘れていた喜びを感じとり、もはや喪失感はなく、苦しみの中を生きることもなくなったのです。外部からの邪魔が入らないため、私は心が落ち着いた状態で集会に集中することができたのです。私は神への信仰にますます興味を持つようになり、それ以降、自分の本分を尽くし始めたのです。

 私が神を信じていることを知った親戚達は、窮まるところを知らずに邪魔をしてきたのです。神を信じるなんてこんな若い私がすることではないというのが親戚の考えだったのです。母方の叔母は頻繁に頼み事をしてくるようになり、父方の叔母は彼女と一緒に商売をしようと言ってきたり、育ての母までもが(自分に息子がいないから)赤ちゃんが生まれてもその子の面倒を見るからと言って、結婚させようとしてくるのです。御婆ちゃんは泣きながらこう言いました:“あなたの親が神を信じるってことには反対じゃないけど、人生の半分を働いて、あなた達が生きて行く道を開くために全てを注ぎ込んだんだから、のんびりさせてあげなさい。あなたは子供を作ることと、自分のキャリアに集中しなさい。そして御婆ちゃんは、私の父が貧困の中で育ったこと、父がゼロから出発したこと、沢山辛い思いをしたこと、どれだけ一生懸命に働いたかということ、私が恵まれた環境で育ったこと、そして私が理想的な目標を持てていないことについて説明し出したのです。皆が突然私を“心配”してくれたことはとても嬉しく思いました。しかし、私は混乱しました。なぜなら、皆が言っていたことは正しくて、皆が私にとって一番良いことを望んでくれていたように思えたからです。しかも、皆は私の一番近い親戚だから、私を傷つけるようなことはするはずがありません。若い時に何かをやり損ねていたとしたら、私は年を取った時どうなるでしょうか?私は精錬の中を生きていたのです。これは精神的な戦いだと分かってはいましたが、私にはもう戦い続ける気力が残っていませんでした。集会の場で、リーダーが私にこの神の御言葉の一節を見せてくれました、「数千年にわたり、中国人は奴隷生活を送ってきたため、考え方や観念、生活、言語、態度、行動が大いに制限され、少しも自由がなかった。数千年にわたる歴史により、霊と活気を備えていた人々は疲弊して霊のない屍のような状態になった。多くの人々がサタンの大形肉切り包丁の下に置かれ…外側からは、人間は高等『動物』のように見えるが、実際には汚れた悪魔と共生している。そうした人間を世話する者は居らず、サタンが常に待ち伏せする中で暮らし、罠にかかり、そこから逃げ出すことは出来ない。そうした者は、居心地のよい家で愛する者と共に幸福で満たされた生活を送っていると言うよりも、陰府に住み、悪魔と取引し、悪霊と付き合っていると言うべきであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(5)」より)私は、神の御言葉による御啓きと兄弟姉妹達との交流を通じて、私の親戚達が、表面的には親戚であるかの様に見えると同時に、彼らの言葉が私の肉の要求と一致しているものの、彼らの思考、観念、いのち、言葉遣い、振る舞い、そして行動はサタンの堕落によって拘束されているのだと気が付きました。私の親戚は全員が未信者なのです。彼らが持つ観点の全て、および彼らが口にすることは全てサタンから来ているものであり、皆が求めるものは全てが肉の利己的な欲求なのです。この中に真理と合致しているものは何一つありません。真理と識別を全く兼ね備えていない私がこれ以上彼らと関わりを持つのは私をどんどん堕落させるだけです。これから得られるものは何もないのです。彼らは単に私を破滅へと導くのです。当時、私は、兄弟姉妹達が頻繁に語っていた “未信者は全員が悪魔である” ということについてある程度は理解していましたが、完全には把握できていませんでした。その後、神は、私が家族の絆の真の本質を知ることができる環境をご用意してくださったのです。

 私の家族は常にホストファミリーで、2005年のある日、ある悪人による報告のせいで、私の両親と兄弟姉妹数人が大きな赤い竜に捕まってしまったのです。私の実の姉は、逃げようとした時に溺水しそうになりながらも何とか生き延び、神の御加護のおかげで命は助かりました。私の両親と私の家族宅で滞在していた兄弟姉妹達は拘束され、罰金を科されてしまい、全員が拷問を受けて怪我を負ったのです。この知らせを聞いた私は、感情を抑えられず、自分の本分を尽くすほどの勇気を持てませんでした。私は、“こんな時は何が何でも実家に戻るべきだ。両親は私を育ててくれた。今は二人が大変なことになってるんだから、何もできないにしても様子を見に行って安心させてあげるくらいの事はするべきだ”と思ったのです。 それで、私は両親に会いに行くために電車に乗り(私と同じく神を信仰している)父方の叔母の家に直行しました。その時点で、両親の傷はまだ癒えていませんでした。私はとても気の毒に思い、目から急に涙が溢れ出したのです。私は自分の両親が屈辱をうけたような気分になりました。その時、両親が私にこの話をしてくれました:大きな赤い竜から逃げようとした時、私の実の姉が(12月のある日の日没後に)川に飛び込んだのです。水面は彼女の首の高さまであり、川の流れは強く、野草が彼女の足に絡まりつき、彼女の靴は泥沼にはまっていたのです。これを考えると、彼女が川の反対側までたどり着いたのは全く不可解なことだったのです。神が奇跡的に彼女をお守りくださったに違いありません。そうでなければ、考えたくもないような結果になっていたことでしょう(この数日前に40代の男性が深みにはまり、強い流れにのまれて命を落としていたのです)。後に、私の実の姉は年配の姉妹宅に隠れ、この姉妹が私の姉に着替えを出してくれたのです。その時、私の姉は泣きながら自分の濡れた服を乾かし、この姉妹はそれ以外にも私の姉の世話をしてくれたのです。数日後、私の姉はこの姉妹の家ももはや危険な状態にあると知り、私の父方の叔母宅へと移動してそこで隠れたのです。 彼女は日中に私達の教会のリーダーに私の家族の状況を知らせるために手紙を持って行きました。しかし、彼女が戻ると、私の母方の叔母の下の娘がが彼女にこう言ったのです、“ねえ、どうして戻って来たの?もう出て行ったと思ってたのに。とっくに布団をたたんでしまったわよ。” その時、私の姉は、母方の叔母はこれに巻き込まれたくないから彼女をそこに住ませたくないのだと思い、泣きながらその家を出て、他に行くあてがなかった彼女は拘束されるリスクをおいながらも家に帰ってきたのです。私の両親は、解放された後に私の姉が溺水しかけたことや母方の叔母が彼女を家から追い出したことを知ってとても怒りました。しかし、私の母方の叔母はいかにも自分が正しいと確信しているかのような口調でこう答えたのです、“その通りよ。私達は巻き込まれたくなかったのよ。あなた達が拘束されたのは自分達が招いたことじゃない。あなた達は完璧な人生を送っていたのに、自分達でめちゃくちゃにしたんじゃないの。あなた達のせいで人が1人殺されそうになったんだから!” 大きな赤い竜が私の家族を拘束し、いのちの危険にさらされている時に、安心を感じられることが最も大切だという時に、私の一番近い親戚が、過去私と一番距離が近かった人達がこのような非人道的なことを言ったり、残酷なことをするなんて思ってもみませんでした。 こんなことが出来る人達だったと知ってとても悲しくなりました。過去に沢山助けてあげた人達は誰も私達の様子を見に来たり、慰めてくれようともしませんでした。私達と一番良い関係にあった人達は、私の両親と道端で顔を合わせても話しをしないどころが、私の両親をよけて歩くようになったのです。以前は私達に会釈して挨拶してくれた人達の中には私達を無視して陰口をたたくようになってしまった人もいました。私達の兄弟姉妹達のみ、夜になると私達の所へ足を運んでくれて、一緒に交流してくれたのです。自分の家族がこのような悲惨な状態に陥ることになるとは思ってもみませんでした。私は、又しても、精錬の状態に追い込まれ、神を裏切ることを心の中で考え始めたのです。後に、私は神の御啓きを受け、私の兄弟姉妹達が話していた “人々の関係は共通の関心のみに基づいており、お互いを利用し合うことを目的に築かれた関係では、家族と友人もお互いをただ助け合うだけなのです” という事を実際に体験したのでした。私は更に、自分の両親が言っていた大きな赤い竜に拘束された経験から得たことについて振り返ってみました。例えばこれです:大きな赤い竜が私の父親を革製のむちで打った時、お父さんは大した痛みを感じることがなく、ベルトが粉々になった、と言う事。私の姉は彼女の体験した事は全く怖くなかったと言いました。12月のことであったにもかかわらず、水から出た時も寒くなかったと言うのです。神が彼女に特別に力と自信をお与えになっていたのです。大きな赤い竜によって拘束されたことで、彼らの信仰がより確固たるものとなり、強さも増したのです。私の父親は、以前は神の御言葉を信じずに、むしろ大きな赤い竜の崇拝者であったけれども、今回の出来事で大きな赤い竜は単なる悪党集団で、私達の家にあった金目の物なら何でも奪い、殺人者や放火魔よりも、神を信じ、律法に従う信者達を拘束したがる盗賊であることが分かったと言っていました。 私は、私達は皆、神のリーダーシップの下で生き、私達が体験することは全て神の主権と采配の一部であり、いかなる者でも他人を助ける力は持っておらず、家族間の愛情は私達を神から遠ざけるだけのものであり、人々がお互いを助け合えるものは肉にかなうものに限り、真理とは合致していないということを理解して恥ずかしい思いをしました。“両親の肉に苦しんで欲しくない” といった思考は、両親のいのちの為にならないだけでなく、両親が救われることの為にもならないのです。人が何を必要とするかは神のみが知り得ることであり、神は誰よりも人を愛しているのです。私はこの神の御言葉の一節を目にしました、「神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)神の御言葉と実相を通じて、私は神のいのちの力の異例さと偉大さを、神は常に私達の中に生きておられるということ、常に人類を御導きになり、御力をお示しになっているということ、そして人はそれぞれが神の立案される采配の中を生きているということを体験しました。神の御言葉を受けて、自分がどれだけ小さく、情緒的なつながりがどれだけささいな事であるかを知ったのです。私は、自分の家族が直面した苦難に対して何をすることができたでしょうか?彼らを守り、気を遣い、危機を乗り越えさせてくれたのは神だったのではないでしょうか?人から人への愛が、神から人への愛を超えることは可能なのでしょうか?これと同時に、私は神の御言葉の裁きを受けたのです、「あなたがたのうち、私のために全てを費やし、捧げることが本当に出来る者は、誰であろうか。あなたがたは皆、心が中途半端で、考えが堂々巡りし、自宅のこと、外部の世界のこと、食べ物や着る物の事を考えている。あなたがたは私の前で行動しているという事実に反し、あなたがたの心の中では、依然として自宅に居る自分の妻子や両親の事を考えているが、それは全てあなたがたの性質であろうか。あなたがたは、なぜそうした物事を私の手に委ねないのか。あなたがたは私を十分に信じていないのであろうか。それとも、あなたがたに対して、私が不適切な采配をすることを恐れているのか。あなたがたが常に自宅を恋しがるのはなぜか。そして他の誰かを恋しがるのは、なぜか。あなたがたの心の中で、私は何らかの位置づけがされているであろうか。それでも、あなたがたは私にあなたがたを統べ治めさせ、全てを占めさせるなどと言っているが、それは全くの偽りである。あなたがたのうち、心から教会のために在る者は、何人居るだろうか。あなたがたのうち、誰が無我になって現在の王国のことを考えているだろうか。あなたがたは、このことを熟慮する必要がある。」(『言葉は肉において現れる』より)私は、心の中で依然として自分の家族のことを気遣っていたことを知りました。神を信じていなかった私は、依然として自分の家族のことを神にお任せすることができなかったのです。私は、真理の中を生きておらず、神の家で自分の本分を尽くしてはいても、自分の家族のことを頻繁に心配して、神に自分の心にお入りいただくことを拒んでいたのだと知ったのです。私は何よりも神を尊敬し、自分の本分を忠実に尽くすということができませんでした。私はサタンにより騙され、苦しめられていたのです。私は、これらの “不幸な” 出来事が起こっていなかったら、決して物事を明確に見極めることができなかったでしょう。この神の御言葉による讃美歌はまるでこの事について歌っているかのように思えます、「人間の生活の状態について、人間は、まだ真の人生を見出しておらず、世界の不公平、荒廃、惨めな状態を見通しておらず、そのため災いが降りかかることがなければ、大抵の人は、まだ母なる自然を信奉し、『人生』の味わいに夢中になっていることだろう。これが世界の現実ではないのか。これが、わたしが人間に語っている救いの声ではないのか。なぜ、人間の誰一人、真にわたしを愛さないのか。なぜ、人間は刑罰と試練の中でだけわたしを愛し、わたしの守りを受けている時には、誰もわたしを愛さないのか。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)これらの状況が明らかにしてくれた事がなかったら、私は決して人々の間の関係を本当に理解することができずに、依然として家族の絆、愛情、友情にコントロールされたままとなり、脱出する術がないままこういった物事を追い求め続け、これらに騙されては苦しめられ、無知のまま幸福を感じていたことでしょう。“大惨事” に襲われていなければ、私は依然として邪悪で世俗的なトレンドを追い続け、自分の卑しさを知ることはなかったでしょう。神の刑罰と裁きを受けていなければ、私は決して真理を授かることがなく、人生の正しい道を歩むこともなかったでしょう。神の御救いは、私が二度と “人生” を堪能することがないようにしてくださったのです。私は、これを全て理解した時、神を心から信じて、神がお与えくださった愛に応えられるよう真理を求める決意をしたのです。

 2007年に、私が自分の本分を尽くしに故郷に戻った時、共に信仰に参加した兄弟が社会の闇と悪を見抜けなかったがために、俗世間の誘惑に屈し、神を裏切り、神の家族から去って行ったことを知りました。彼の両親と兄弟姉妹達が繰り返し彼と交流を行い、留まるように説得しようとしたのですが、彼は頑固にも首を振り神の家族に戻ることを拒否して、俗世間に帰る選択をしてしまったのです。その後、間もなく、彼はこれら俗世間のトレンドの落とし穴にどんどん深入りしていったのです。彼はハンサムで高収入を得ていました。なので、彼は多くの女性と関係を持つようになったのです。最終的に、彼は殺害されてしまい、彼の臓器は売られてしまったという知らせを聞きました。彼の両親が彼の体を見ることは二度とありませんでした。この知らせを聞いて、私は可哀想に思いましたが、同時に私は、俗世間のトレンドを追い求めることの悲惨な結末も目にし、それ以上に、私の両親が私に俗世間に戻ることを止めさせようとしていたのも、神が御遣いになっていたことであったと知ったのです。これにより、私は神の御心遣いと御加護を体験することができ、この世界で大金を持つということは自身の破滅に繋がる下り坂であるということを理解できたのです。神はこう仰いました、「人間は何と哀れであろうか。自分が育った大地が悪魔の大地であることや、自分を育てた者が自分の敵であり、自分を傷つける者であることを、どうして人間が知り得ようか。しかし人間は全く目覚めない。人間は、飢えと渇きを十分に満たしたので、自分を育ててくれた「両親」の「厚情」に報いる用意をする。人間とは、そうしたものである。現在、人間は、自分を育てた王が自分の敵であることを、未だに知らない。地には死者の骨が散在し、悪魔が絶え間なく浮かれ騒ぎ、「暗黒の陰府」で人間の肉をむさぼり食い続け、墓で人間の骸骨と共に居て、いたみ切った人間の身体が残されていればそれを食べようとうぬぼれた努力をしている。しかし、人間は無知なままであり、悪魔を敵として扱ったことが無く、むしろ心から悪魔に仕えている。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(9)」より)私は、神の御言葉を通じて真理を知り、サタンが人類を堕落させる方法を知りました。私は、最終的にはその悪質な本質が人々を飲み込み、神の時にかなったお救いがなければ私もこの邪悪で世俗的なトレンドに飲み込まれ、その中に埋もれてしまう運命にあったと知ったのです。 これを理解した私は、神に心から感謝の念をお伝えし、神を讃えたました。私は神の慈しみ、恵み、御加護のおかげで今日までやってこれたのです。

 私が神の家族として自分の本分を尽くすようになってから数年が経ち、そこでは神の愛を感じることができました。私がどこで自分の本分を尽くしていようとも、神はいつもそこにいて、私の面倒を見てくださるのです。私の兄弟姉妹達ともまるで本当の家族のように仲良くしています。お互いを利用し合ったり、利益の取引などはしていません。私の兄弟姉妹達はとても誠実で、私達の堕落がお互いに顔を出すことがあっても、お互いが心を開き、自分自身について分かっていることを話し合うようにしているので、私達の間に恨みや警戒心はないのです。私達はお互いを助け合い、愛しあっています。それぞれを同じ目で見なし、貧乏であるとか、金持ちだからと言って特別扱いすることはありません。私は健康に問題あるので、頻繁に病気になりますが、私の兄弟姉妹達はとても思いやりがあるので、手厚く看護してくれるのです。この中で、私とこの兄弟姉妹達の間に血の繋がりはなくても、彼らは実際の親戚よりも近い存在であることを実感したのです。そして、私達は、神の御導きを受けながら全員で真理を追い求め、自分達の本分を尽くそうと努めています。

 ここ数年の間に経験したことによって、私は、神の御心を徐々に理解できるようになっただけでなく、神が私に対して行ったくださった働きはお救いの働きと愛情であり、神の仰る御言葉は真理であり、それ以上に私達のいのちを御救いになる御言葉であることを知りました。これらの真理が私にとっては神からの最高のお気遣いと御加護となったのです。これらの御言葉から逸脱したり、これらの御言葉が与えてくださる根拠を基に物事を見ていなければ、私は自分自信を破滅させてしまうでしょう。私はサタンにより深刻に堕落させられていたため、神の御言葉の意義を真っすぐに捉えることができなかったのです。それ故に、神は私に恵みを与えるため、私を完全にするため、そして私が神の御言葉を理解できるようにするために、私のニーズに合わせて多種多様な状況、人々、問題、出来事をご用意してくださったのです。私は、経験した苦難と試練の渦中でこれらの神が仰る御言葉は全てが真理であり、人類が必要とするものなのだと無意識のうちに認識したのです。それは人類がいのちを授かり、普通の人としてのいのちを生き抜けるようにしてくださるだけでなく、人生の正しい道をも指し示してくださるのです。それは、神が真理であり、正しい道であり、いのちであるからなのです。神の御言葉はこうあります、「わたしは、人間にはただ、わたしの言葉の内容とわたしの言葉の本来の意味とを受け入れる以外のことは何も求めない。わたしの言葉は単純であるが、その実体は複雑である。人間はあまりに小さく、あまりに鈍くなっているからだ。わたしが肉の体でわたしの奥義を直接明示し、わたしの心を明らかにしたとき、あなたがたは、まったく気づかない。あなたがたは、その音を聞いても、意味は理解しない。わたしは悲しみにうちひしがれる。わたしは肉の体をもっているが、肉の職分の働きはできない。」(『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「九章」より)私は神の御言葉に神の感じておられる緊急性と悲しみを見ました。神の仰る御言葉は全てが真理であるものの、人類は霊的背丈が低すぎて、麻痺しずぎているために、神の御心を気にもかけておらず、神を憂鬱感な気分にさせてしまっているのです。私は神にご安心していただき、共に協力し合いたいと思っています。私が理解できていない真理は多くありますが、真理を追い求め、自分の本分を尽くしていれば、神は私が神の御言葉を理解できるように御啓きと御光を与えてくださるでしょう。 私の内には依然として清めが必要なドラクが多く存在しています。私は神の働きだけでなく、神の裁きと刑罰、そして付随する苦難と精錬をもっと沢山受ける必要があります。しかし、神は人に多くを求めている訳ではないのです。私が神の御言葉の実相を受け入れることのみを御求めになっておられるのです。

 以前、私が神の信仰を始めたばかりの時、私は神の御言葉を愛していなければ、大切にしてもいませんでした。しかし、神が私にご用意してくださった状況と長年に渡って授かった精錬のおかげで、私は神の御言葉を富として見るようになったのです。しかし、これらの状況が起っていなければ、私は決して神の御言葉を真の意味で理解することはなかったでしょう。私は神を讃え、神に感謝いたします!神が私を御救いくださったのです。神からのいのちの御言葉が私の目を覚まし、サタンの支配下で騙されながら生きていた私を救済してくださったのです。私は、神の御言葉の中に、いのち等の真の意味を知ることができたのです。私は、神は常に人類に対して気を遣われ、常に人類を見守られ、保護されて来られたのだと知り、更に、人類は神の御言葉の供給、育み、注ぎ、支援を受けることから離れられない、そして神のみが真理であり、正しい道であり、いのちであると理解し、神を通してのみお救いを受けることができるのだと知ったのです。神の御言葉が今日まで私を御導きくださったのです。私は神の御言葉を自分のモットーとし、この先歩む道の目印とし、自分の行いの指針にしたいと思います。ああ、神様!あなたは私を御救いくださいました。私はあなたの御言葉で目覚め、堕落の道を歩むまずに済んだのです。私は残りの人生をこのままあなたに従いながら歩み、絶対にあなたのもとから離れたくはありません。私の決断がいかなる状況でいかなる困難や苦難を招こうとも、私はあなたの足跡をたどりながら、あなたと共に歩み、あなたに安心していただきたいと思っています。私は、これから常に、永遠に、最後まであなたに従って生きていきます。