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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

困難を経て、神への愛が強まる

2020-06-09 00:36:32 | 賛美の心

 私は周瑞という名前で、全能神教会のクリスチャンです。物心ついた時から、両親が生活のために朝から晩まで畑で一生懸命働くのを見ていました。両親が大変な努力をしても、毎年のように稼ぎがほとんどなかったため、私たち一家の暮らしは常に困窮していました。権力や影響力のある人たちが一生懸命働かずに非常に安楽に暮らしているのを見ると、いつもうらやましく思ったため、「大きくなったら絶対に仕事で成功するか官僚になって、家族が貧乏で時代遅れなことを挽回し、両親も金持ちの生活ができるようにしよう」と堅く決心しました。しかし、この理想のために何年苦労しても、望みどおりに行くことはなく、貧しい暮らしを続けました。どれほど忙しくしても何の成果もないのではないかと不安でため息をつくことが多く、次第に人生への信念を失いました。ちょうど落胆して絶望し始めたその頃に、終わりの日の全能神の救いが私のもとに到来したのです。神の御言葉から、私は真理をある程度把握し、世の人の苦しみの根本原因を知りました。また、人が最も意義と価値のある人生を送るにはいかに生きるべきかを理解しました。混乱して無力でしたが、その時から人生の方向性を見出だしました。憂鬱と落胆を忘れ、新たな生命力がみなぎり、人生を再開する機会を得たように感じ、生きる希望が見えました。その後、いまだに苦しみと無力に生きている人々がこの非常に貴重な救いを得ることができるように、私はあちこちで終わりの日の神の救いを精力的に説いて回るようになりました。ところが、予期していなかったことに、福音を広めている最中に中国政府に二度捕らえられ、残忍で非人道的な拷問に苦しんだのです。この暗い悪魔のねぐらで、全能神は私のそばを決してお離れになりませんでした。神の御言葉は私に信仰と強さを与え、サタンの闇の勢力に対する勝利へと何度も導き、私の神への愛を強めてくれました。

 2003年6月のある日のことでした。私と二人の兄弟はある村に福音を広めに行ったところ、悪人に密告されました。三台のパトカーに乗った警官が五、六人私たちのもとに走り寄り、何の質問もせずに手錠をかけ、私たちを押して蹴りながら車に押し込み、公安局に連行しました。車の中で私はあまり恐怖を感じませんでした。福音を広める目的は人々を救うことなのだから、何も悪いことをしておらず、公安局に着いて状況を説明すれば警察は釈放してくれるだろうと思いこんでいました。まさか中国政府の警官がどんな悪党や悪しき暴君よりも残忍で粗暴だとは知る由もありませんでした。公安局に着くと、警察は私たちに説明の機会も与えず、一人ずつ引き離して個別に質問しました。私が尋問室に入るとすぐに、警官から「共産党の方針は『自白する者には甘く、抵抗する者には厳しく』だ。知っているか」と怒鳴りつけられました。その後、その警官は私の個人情報を尋ねました。私の返事に不満そうな様子を見た別の警官が私の隣に歩いて来て、うなりました。

 「ふん、聞き分けの悪い奴だ。思い知らせてやらないとな。それで本当のことを言うか試してやる」

 そして手で合図をし、「レンガを何個か持って来い。それで奴をこらしめてやるんだ」と言いました。その警官が話し終わるともう二人の警官がすぐに近づいて来て、私の片手を取って、肩の上から背中に沿って下に引っ張りながら、もう片方の手をねじり上げ、両腕を強引に手錠でつなげました。直ちに腕が折れそうな耐えがたい痛みを感じました。私のような弱い者がどうしてそのような苦しみに耐えられるでしょうか。しばらくして私は地面に倒れました。これを見て、悪しき警察は手錠をいきなり持ち上げ、私の両手と背中の間にレンガを挟み込んだのです。何千匹ものアリに骨を噛まれているかのような激痛が突然私の胸を貫きました。苦悶に満ちた中、私は余力を出し切って「全能神、助けてください、全能神、助けてください」と願いました。その頃の私は、三ヶ月ほど前に終わりの日の神の救いを受け入れたばかりで、まだ御言葉があまり身についておらず、真理の理解も浅かったのですが、それでも神に懇願し続けるうちに、神は私に信仰と強さを与え、私の中に「神の証しを立てないと。絶対にサタンに屈してはいけない」という確固たる信念を植え付けてくださいました。それからは私は歯を食いしばり、断じて一言も話そうとしませんでした。焦って腹を立てた悪しき警官たちは私を威圧しようと別の残忍な策をしかけました。床に二つのレンガを置き、私をその上にひざまずかせながら、私の手錠を強く引っ張ったのです。私の両腕はあまりに耐えがたい急な痛みに襲われ、折れたかのように感じました。二、三分間ひざまずいては床に倒れて動けなくなり、そのたびに警官たちに乱暴に手錠で持ち上げられ、ひざまずき続けるように強いられました。このような拷問が何度も繰り返されたのです。そのときは盛夏だったので、苦悶に暑さが重なり、玉の汗が顔から絶えず滴り落ちていました。持ちこたえるのがあまりにも困難で、息がしづらく、気を失いそうになりました。それでもこの悪しき警官連中は私の不幸を喜ぶだけでした。「大丈夫か」とその一人が言いました。「いつまでも話さないつもりなら、こっちは他にも色んな手があるからな」私が返答しないため、警官は「まだ足りないのか。次行くぞ」と息巻きました。こうした責苦を二、三時間受けた末、私は全身が痛み、力は全く残っていませんでした。床に倒れて動けなくなり、大小便を失禁しました。悪しき警官たちの野蛮な拷問に遭って、私はそれまで実に盲目で無知だった自分を本当に恨みました。単純にも公安局が道理の通用する場所で、警官たちが正義を守って、自分を釈放してくれると思いこんでいたのです。まさか彼らがこれほど悪意に満ちて残忍で、少しの証拠もなしに拷問で自白を強要し、私を半殺しの目に遭わせるとは思いませんでした。彼らは本物の極悪人です。私は体がバラバラに崩れ落ちたかのように床に横たわり、動きたくても動けませんでした。彼らがさらにどのように拷問してくるつもりなのかも、自分がどれだけ長く持ちこえられるかもわかりませんでした。苦しく無力な中、私ができることは、耐え続けられるように強さを与えてくださいと絶えず神に願うことだけでした。神は私の嘆願を聞き、憐れみをかけ、御言葉の一つを思い出させてくださいました。

 「今は重大な時期である。落胆したり、弱気になったりしないよう気をつけなさい。すべてのことに前向きになり、振り返ってはならない。……あなたに最後の一呼吸が残っている限り、最後の最後までやり抜きなさい。このことだけが、称賛に値するのだ」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十章」より)

 神の御言葉は私に大きな信仰と強さを与えてくださいました。まったくそのとおりです。光と義の道を歩んでいるのだから、私には続けていく信仰があるはずです。たとえ息絶えても、最後までやり通さなければなりません。神の御言葉は生命力にあふれており、御言葉のおかげで私はこの悪しき悪魔と最後まで戦う信仰と勇気を持つことができ、体力もだんだんある程度まで回復しました。その後、悪しき警察は私を尋問し続け、ずたずたに潰れるまで容赦なく両足を踏みつけました。しかし私はもう痛みを感じませんでした。これが神のすばらしい御業によることを私は知っていました。私を憐れみ、私の弱さを気遣い、苦しみを和らげてくださったのです。後に、悪意ある警官は私たちを「治安を乱した」罪で拘留しました。その夜、私たちを一人ずつ三、四百斤(訳注:約二百キロ)のセメントの塊に手錠でつなぎ、翌日の夜までそのままにして、その後また地元の拘置所に移動させたのです。

 拘置所に入るのは、一種の地獄に落とされるようなものでした。看守は私に色付きの電球を数珠つなぎにする仕事を課しました。ノルマは当初一日六千個でしたが、その後毎日増えて一万二千個にまでなりました。この過剰な仕事量の結果、指が疲れきりましたが、それでも作業が終わりませんでした。夜通しつなぎ続けるしかありませんでした。時には堪りかねて少しだけ眠りたかったのですが、それを見られるたびに直ちにひどく殴られました。看守は、「この囚人どもが仕事をすませていないか、ちゃんとやっていなければ、ペニシリンを何発か食らわしてやれ」と大声で獄中の「いじめ役」たちをけしかけさえしました。「ペニシリン」とは、囚人の股を膝蹴りし、痛がって身をかがめている間に背中の真ん中を激しくひじ打ちし、かかとで相手の足を踏みつけることです。この残忍な仕打ちを受けた人はその場で気を失うこともあれば、体が一生不随になることさえあります。この悪魔のような刑務所で、私は毎日骨の折れる重労働をし、さらに残忍な暴行も受けたのです。その上、毎日三度支給された食事は、味付けのない大根の葉と(腐った葉と根や砂や泥がよく混ざっている)空心菜に、百五十グラムほどの米飯と、米を洗うのに使われた水一杯という、犬や豚の餌以下でした。一日中、私はあまりの空腹で腹が絶えずゴロゴロ鳴っていました。こうした環境では全能神だけが頼りでした。殴られるといつも神に切実に祈り、「サタンの試みに打ち勝てるようにどうか信仰と強さを与えてください」と願いました。二十数日間の蹂躙と拷問の末、私の体はすっかりやつれて見違えるほどになっていました。両腕も両脚も力が入らず、まっすぐ立ち上がることもできず、腕を伸ばす力もありませんでした。狂った看守たちはそれでも私の苦境に無関心だっただけでなく、私の家族が送ってくれた数百元さえも横領しました。時間が経つにつれて、私の体調はますます悪化しました。あまりに衰弱したため、心の中で不平を言わずにいられませんでした。

 「どうしてこの国では、神を信じる者はこんな苦しみに遭わないといけないのだ。私が福音を広めるのは、人々を神の御前に連れて行き、神の救いを得られるようにするためではないのか。それに犯罪など犯したこともないのに」

 そう考えれば考えるほど耐え難くなり、被害感が増しました。できることは絶えず神に祈り、「どうか私を憐れみ、救ってください」と願うことだけでした。苦悩と無力感の中、神が私にご自身の御言葉からなる賛美歌を思い出させてくださいました。

 「……2. あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。『このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。』あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。3. 赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「君たちは神の嗣業を受け取る者」より)

 神の御言葉に大きな慰めと励ましを与えられ、私は御心を悟ることができました。私たちは無神論の国で神を信じているため、悪魔サタンの抑圧と迫害に遭う運命にあります。しかし、私たちがこの苦悩を受けることを神がお許しになっています。つまり、この苦しみには価値と意義があるのです。まさにそうした迫害と苦しみによって、神は私たちの中に真理を植え付け、神の約束を受ける資格を与えてくださいます。この「苦しみ」は神の祝福であり、この苦しみを通して神に忠実であり続けられることは、神のサタンに対する勝利の証であり、私が神のものになったことの動かぬ証拠でもあります。私は思いました。

 「今日、神に従っているために中国共産党の悪魔たちの手でこんな迫害に苦しんでいるが、これは神が私に特別なご厚意を示してくださっているのだから、当然神の指揮に従い、しっかりした平静な心で喜んで向き合って受け入れるべきだ」

 そして神が恵みの時代に語られた御言葉を思い出しました。

 「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:10)

 そのとき、私の信仰と強さはさらに大きくなりました。サタンとその手下からどんな拷問を受けても、彼らに屈しないと決心し、神を証しして満足して頂こうと誓ったのです。権威と力の備わった御言葉により、私が内に抱いていた惨めさと無力感が拭い去られ、それまで受けてきた破滅的な肉体的苦痛が和らぎました。こうして私は暗闇の中で光が見え、霊がさらに強く、不屈になったのです。

 その後、証拠がないにもかかわらず、中国政府は私を一年間の「労働による再教育」に処しました。警察が私を労働収容所に連行したとき、そこの看守は私がほとんど骨と皮だけで、もはや人間に見えない姿であることに気づきました。私が死ぬことを恐れて受け入れようとしなかったため、警官は私を拘置所に連れ戻すしかありませんでした。その時の私は、悪しき警察による拷問のため、物を食べることができなくなっていましたが、警察には治療を与えられるどころか、はったりだとさえ言われました。何も食べられずにいると、人を呼んで口をこじ開けて無理やり食料を流し込ませました。飲み込むのに手間取ると殴られました。日に三度、無理やり食べさせられ、ぼろ切れ人形のように殴られました。警察はこれ以上食べ物を押し込めないと見て、私をやむなく病院に連れて行きました。検査の結果、血管が硬化していたことが明らかになりました。血が黒くドロドロになり、まともに循環できなくなっていたのです。医者は「これ以上拘留が続けばこの男は間違いなく死ぬ」と言いました。それでも憎しみに満ちた悪しき警察は私を釈放しませんでした。その後、私は今にも死にそうだったので、他の囚人たちに「もうどうしようもない、終わったな」と言われました。そのときには苦悩のどん底で、「こんなに若く、終わりの日の神の働きを最近受け入れたばかりで、まだ楽しめることがたくさんあり、まだ神の栄光の日を見ていないのに」と感じました。中国政府に死に至る拷問を諦めて受ける気はまったくありませんでした。まったく無慈悲な悪しき警察連中を徹底して蔑み、中国政府というこのよこしまで天に背く非道でサタン的な政権をさらに憎みました。中国政府こそが真の神に従う自由を私から奪い、私を死の淵に追いやり、私が真の神を崇めることを許そうとしない張本人です。中国共産党は猛烈に神に抵抗し、クリスチャンを残忍に迫害し、神を信じるあらゆる人を根絶し、中国を神なき地に変えようと目論んでいます。この非道な悪魔サタンはまさに神の不倶戴天の敵であり、それも私が決して赦すことのできない敵です。私はたとえその日に拷問で命を落とすことになろうとも、絶対にサタンに妥協せず、屈しないことを誓いました。悲しみと憤りの中で、私は神が仰ったことを思い出しました。

 「数千年におよぶ憎しみが心に凝縮され、数千年におよぶ罪深さが心に刻み込まれている。こうした状態で、どうして憎悪感を覚えずに居られようか。神の仇を討ち、神の敵を掃討し、敵が二度と蔓延ることを許してはならない。また敵が意のままに問題を起こすことを許してはならない。今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より)

 神の御言葉について黙考した後、私は中国政府の悪しき残忍な悪魔の素顔をさらにはっきり見極め、自分がその時点で生と死、善と悪の霊的な戦いに直面しているのだと悟りました。中国政府がこのように私をぼろぼろにする目的は、私に神を捨てて裏切るように強いることでしたが、神は私がしっかり立ち上がり、死による呪縛を脱し、神のために勝利の証しをするように注意と励ましを与えてくださいました。私は消極性の中に退くわけにはいきませんでした。懸命に神と息を合わせ、神の指揮と采配に従わなければなりません。ペテロのように死ぬまで服し、人生の最後の瞬間にはしっかり声高に神の証しをし、神の心をお慰めしなくてはならないのです。私の命は神の御手の中にあり、サタンはたとえ私の肉体を傷つけ殺することはできても、私の魂は滅ぼせず、ましてや神を信じて真理を追い求めようという私の決意を妨げることはできません。その日生き延びるか否かにかかわらず、ただ私の命を神に委ね、神の指揮を受け入れることを願いました。たとえ死ぬまで痛めつけられても、絶対にサタンに屈しません。自分の命を犠牲にしてもよいと思い、神の証しを立てようと決意したとき、神は他の囚人たちが私に食べさせようとするように仕向けることで、道を開いてくださいました。その時、私は胸を躍らせました。神が自分のそばにおられ、いつもともにいてくださったことを心の奥で知っていました。これまでずっと私を見守り、私の弱さを思いやり、入念にすべてを采配してくださっていたのです。その暗い悪魔のねぐらの中、体はぼろぼろにされながらも、私の心はもはやそれほど苦痛と苦悩を感じませんでした。その後、悪しき警官たちは私をさらに十五日間拘留しましたが、私が虫の息でいつ死んでもおかしくないと見てついに釈放せざるをえませんでした。私はもともと体重が五十キロ以上ありましたが、監禁された二か月間ほどのあいだ、拷問の末、骨と皮だけになって二十五~三十キロまでやせ、何とか生きてる状態でした。それでもこのけだもの連中は一万元の罰金を取ろうとしました。結局は、家族にそれほどの大金を用意するのが絶対に無理なことを見て、私の食費として六百元を請求し、それを支払ってからやっと私は釈放されました。

 中国政府の手によるこの非人道的な拷問と虐待に苦しんだ私は、かろうじて地獄の門を逃れたような気分でした。私が生きて戻れたことは、すべて神のお気遣いと御加護のおかげです。神が私に大いなる救いを見せてくださったのです。神の愛を思うと、私は二倍に心を打たれ、神の御言葉の尊さをさらに深く実感しました。以来、私は毎日神の御言葉を熱心に読み、頻繁に神に祈りました。徐々に神が終わりの日に人類を救うためになさっている働きの理解を深めていきました。しばらくして、神のお気遣いのもと、体が次第に回復し、私は再び福音を広め、終わりの日の神の働きの証しをするようになりました。しかしサタン的政権は存続する限り、神の働きの妨害と破壊を試みることを決してやめません。その後、私は再び中国政府の警察による猛烈な追跡と逮捕に遭いました。

 2004年11月のある日、冬の冷たい風がひどく吹き、空気が厚い雪で渦巻いていました。私と何人かの兄弟姉妹は福音を広めていたのですが、そのあいだに私は中共警察に尾行されていました。その夜の8時に、集会の最中に突然、玄関でドアをしつこく叩く音と「ドアを開けろ。公安局だ。今すぐ開けないと蹴破るぞ」と叫ぶ声が聞こえました。考える間もなく、私たちは急いでビデオCDプレーヤー、書籍、その他の資料を隠しました。しばらくして警官が五、六人ドアを破って入って来て、盗賊か追いはぎのように突進してきました。そのうちの一人が「誰も動くな。頭に手を置いて、壁際にしゃがみ込め」と怒鳴りました。すぐに数人の警官が各部屋に駆け込み、あちこち荒らしまわると、小型ビデオCDプレーヤー四台と神への信仰に関する書籍数冊を没収しました。その後直ちに私たちをパトカーに押し込み、地元の警察署に連行しました。私はそこに行く途中、昨年悪しき警官たちに加えられたおぞましい拷問の場面が次々に脳裏によみがえり、この悪魔のような警察に今度はどんな手で苦しめられるのかわからず、大変緊張せざるをえませんでした。彼らの残忍さに耐えかねて、神を裏切ることをしてしまうのではないかと恐れ、黙って熱心に神に祈りました。すると不意に、数日前に集会の際に読んだ御言葉をいくつか思い出したのです。

 「私は兄弟姉妹に対する希望に満ちており、あなたがたが落胆したり意欲を喪失したりせず、そして、神が何をしようとも、あなたがたは火のるつぼのようであり、決して生半可ではなく、神の働きが完全に現れ、神が監督する劇が終わるまで、最後まで貫徹できると信じている」(『言葉は肉において現れる』の「道……(8)」より)

 「私達全員が『団結して働き、 最後まで献身し、決して別れず、常に共にある』という誓いを立てられるように。私達の心が道を逸れず、私達の意志が揺るぐことがないように兄弟姉妹が神の前でこの決意ができるように」(『言葉は肉において現れる』の「道……(5)」より)

 神の御言葉は私の心を揺さぶりました。神が人類に救いをもたらすために天から地に降りられ、ご自身の働きにおいて非常に多くの試練と苦難を受けられたことを私は思いました。人々がどんなに厳しい状況にあっても、神に最後まで揺るぎなく忠誠であり続けることが神のお望みです。神によって選ばれた者、神の御言葉の施しを享受した者として、私には神に完全に自分を捧げる義務がありました。私は思いました。

 「どんなに苦しみ、痛めつけられても心は信仰に満ちたままでなくてはならない。神への気持ちは変わらず、意志は揺らいではいけない。声高に神を証しするのであり、絶対にサタンに屈服してはならない。それに神を裏切って無意味で卑しい生き様をさらすのももってのほかだ。神こそ私が頼る方であり、それ以上に強力な支えなのだ。私が神と真摯に協力する限り、神は確実に私をサタンに対する勝利に導いてくださる」

 こうして、私は黙って神に誓いました。

 「神よ、たとえ自分の命を犠牲にせざるをえなくても、私はあなたを証しします。どんな苦しみに遭っても、真の道を守ります」

 神の御言葉に元気づけられて、私の信仰は百倍になり、すべてを犠牲にしてでも神の証しを立てる信念と決心を見出しました。

 警察署に着くとすぐに、警官は急いでストーブで体を温めました。彼らはみな私をにらみつけ、眉をひそめて燃えるような目つきと厳しい声で尋問しました。

 「しゃべるんだ。名前は何だ。何人に宣教した。誰と連絡を取っていた。教会の指導者は誰だ」

 私があくまで沈黙を守るつもりでいると知ると、悪しき警官の一人がその残忍な本性を表して私に跳び掛かり、首を乱暴につかみ、頭を何度も壁に叩きつけました。私はついにめまいと耳鳴りがしました。次にこぶしを上げ、私の顔と頭を猛然と殴りながら、叫びました。

 「お前が指導者だろう。何とか言え。さもないと建物のてっぺんから吊るして、凍え死にさせるぞ」

 この悪しき警官たちは私を三十分以上も激しく殴り、最後には私は目から火が出て鼻血が流れていました。彼らの望みどおりに話さなかったため、私は公安局に連行されました。そこに向かう途中、私は悪しき警官からたった今受けた狂気の暴行を思い、不覚にも恐怖が波のように押し寄せました。私は思いました。

 「地元の警察署に着いてからこんな非情な仕打ちなら、公安局の警察はどこまで残忍なやり方で拷問してくるだろう。嫌な予感がする。今度は生きて出られないかも…」

 このことをじっくり考えると、心は言葉にならない絶望と悲しみで満たされました。つらく無力な中、一年前悪しき警察によって死の寸前まで拷問されていたところを神のおかげで奇跡的に生き伸びられたことをふと思い出しました。すぐに心が明るくなり、思いました。

 「私が生きるか死ぬかは神の手にあるのではないか。神のお許しがなければ、サタンはどんな手を使っても私を殺すことはできない。これまでの神のすばらしい御業を目にしたのに、どうして忘れられたのだろうか。どうしてそこまで信仰がなかったのだ」

 その瞬間、自分の霊的背丈がまだ未熟であると悟りました。死が差し迫る試練に直面しても、いまだに神のおそばに立てなかったのです。神の御言葉の一つを思い出さずにはいられませんでした。

 「しかし、自分の心の中で生きることは、サタンの虜となることであり、それは行き止まりである。これは今とても簡単なことである。あなたの心でわたしを見上げなさい。そうすれば、あなたの霊はすぐに強くなり、あなたは実践するための道を持ち、わたしはあなたを一歩一歩導くだろう。わたしの言葉は、あらゆる時にあらゆる場所で、あなたに明らかにされる。それがどこであれ、いつであれ、またどんなに状況が不利であれ、あなたの心でわたしを見上げるなら、わたしはあなたにはっきりと示し、わたしの心はあなたに現される。このようにして、あなたは前に延びる道を走り抜き、自分の道を見失うことは決してないだろう」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十三章」より)

 神の御言葉は導きの灯台であり、おかげで私の思いはますます明らかになりました。神のお望みはこの困難な環境を用いて私を清めることであり、危機の最中に私が自分の観念や想像、肉への執着を捨て、神にのみ頼り、神の御言葉に頼って前進するようになることだと私は悟りました。これは、私が神の働きを体験するように神が導いてくださる重要な瞬間であり、私は絶対にひるんではならないと知りました。私は自分の生と死を完全に神の手に委ね、神に頼りつつ、最後までサタンと戦わなければならなかったのです。

 公安局に着くと、警官は再び私たちを引き離して個別に尋問しました。彼らが私から神への信仰に関する事柄を無理に聞き出そうとし続けるなか、そのうちの一人は、私がどうしても口を閉じたままでいようとしていたことに激怒しました。

 「黙ってただですむと思っているのか。我慢ならん」

 警官はそう言いながら、両手で私の襟をつかみ、サンドバッグのように床に投げ飛ばしました。それから、他の悪しき警官がよってたかって私が苦痛で転げまわるまで蹴って踏みつけました。そして、私の頭に足を乗せてきつく押しつけ、前後に引きずりました。私はまだ一年前に受けた野蛮な拷問から完全に回復していなかったので、再びひどく殴られた後、急にめまいと吐き気を催しました。頭の天辺からつま先まで苦痛に見舞われ、体はボールのように丸く縮こまりました。次に、悪しき警察に靴と靴下を破り取られ、裸足で床に立たされました。あまりの寒さで歯が勝手にガチガチ鳴り、両足の感覚がすっかりなくなりました。もう限界だ、いつ床に倒れてもおかしくないと感じました。悪意に満ちた警官の残忍な責苦に、怒りと憤りを燃やさずにはいられませんでした。この極悪な鬼たちを蔑み、卑劣で反動的な中国政府を忌み嫌いました。中国政府は天に背き、神の敵であり、神を裏切り拒むように強いるため、私を抹殺しようと躍起になって蹂躙、拷問しました。サタンの残虐非道さを前に、私は神の愛に一層思いを馳せました。人類に救いをもたらすべく、そして私たちの今後の生存のため、神自ら私たちのもとで歩んで働きをなさりながら、極度の屈辱に耐えられたことを私はじっくり考えました。神は私たちのためにご自身の命を捧げ、真理を追い求めて救いを得る道に私たちを導くために今では辛抱強く真剣に御言葉を表してくださっています……神が人類の救いのために払われた大変な代償をすべて集計すると、神よりも私を愛してくれる者はいないと感じました。神は他の誰よりも私の命を尊んでくださいます。サタンは私を傷つけるか、むさぼって殺すことしかできません。その時、私は心に神への愛と崇敬の念が更に募るのを感じ、静かに神に祈らずにいられませんでした。

 「神よ、このように導き救ってくださってありがとうございます。今日サタンにどのように拷問されても、私はあなたと協力するために必ず懸命に働きます。悪魔の軍門には下らないと誓います」

 肉体は拷問で弱く無力になっていましたが、神の愛による励ましで心は堅く強くなり、決して悪しき警官たちに屈しませんでした。彼らは私を翌朝の一時まで拷問し続け、本当に何らの情報も私からは得られないと見ると、しぶしぶ拘置所に連れて行きました。

 拘置所に着くと、悪しき警官は再び「いじめ役」たちを扇動し、私を罰する手を考えるだけ考えるように仕向けました。その時の私はあまりの拷問の末、全身が切り傷や打撲傷で覆われていました。まったく足の自由が利かず、監房に入ったとたんにこけて、凍てついた床に倒れました。私のこの有様を見た「いじめ役」たちは無言で私をつかみ上げ、拳で頭を殴りました。私は目が回るまで彼らに殴られ、再び床にどさりと倒れました。その後やって来た囚人たち全員にからかわれ、彼らの指示で片方の手を床に押し付けながらもう片方の手を耳に当てて、床の上でコンパスのように回ることを強いられました。二回り以上する前にめまいがして床に倒れると再び蹴られ、殴られました。その上囚人の一人に腹部を激しく突かれたため、その場ですぐに意識を失いました。その後、囚人たちは毎日私を様々な手で痛めつけて虐待し、皿洗いやトイレ掃除といった汚い日課をすべてさせるように看守から指示されました。雪の日に冷たいシャワーを浴びることまで強制されました。しかもシャワーを浴びる度に頭からつま先までせっけんを泡立ててから冷水を全身にゆっくり流すように強いられしました。三十分近くシャワーを浴びた後、あまりの寒さで全身が紫になり震えていました。この非人道的な責め苦と虐待の中、私は絶えず神に祈り、もし神を離れれば完全にサタンの捕虜となってしまうだろうと恐れました。祈りを通して神の御言葉が私に響き渡り、導いてくださいました。

 「神が勝利者と呼ぶ者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中にいる時でも、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があっても、あなたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたが神の前で証しに立っているということであり、それは神が言うところの勝利者となることである」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保つべきである」より)

 神の御言葉は、私の思考を照らして落ち着かせる光でした。サタンに包囲されているときこそ神への忠実さと愛をもつ必要があると私にはわかっていました。この悲惨な環境は私の体に苦しみと痛みをもたらしましたが、その背後には神の広大な愛と祝福が隠れていました。神が私にサタンの前で神を証ししてサタンを徹底的にはずかしめて打ち負かす機会を与えてくださったのです。そのため、私はこの苦しみを経験しつつ、「最後まで辛抱し、この暗い悪魔のねぐらで神の導きに頼って神の証を立て、勝利者になるよう努めなければ」と何度も何度も自分に言い聞かせました。神の御言葉の導きで、私の心は堅く強くなりました。衰弱と苦痛で肉体をぼろぼろにされても、私は自分がそれにすべて耐えてサタンと決死の戦いを繰り広げ、神の証しを立てて息絶えられる自信がありました。

 二十日以上投獄された後、私は突然ひどい風邪をひきました。両手両足が痛んで自由が利かなくなり、体力がすっかりなくなり、思考が混乱しました。状態の悪化と他の囚人たちの容赦ない暴行と拷問のために、これ以上耐えられないと感じました。心の中でとりわけ弱さと憂鬱を感じ、こう思いました。

 「この毎日の拷問と虐待はいつ終わるのだろう。今度は判決を下されるようだから、生きて出られる見込みはない」

 すると心が不意に底なしの深淵の中に落ちたように感じ、あまりに深い絶望と苦痛に沈んで抜けようがありませんでした。この上ない絶望にある時、神の御言葉の賛美歌を思い出しました。

 「わたしはあなたがたが多くの感動的な言葉を語ったり、興奮するような物語りを語れることを望まない。むしろ、わたしに立派な証しをすること、現実に完全に深く入ることができることを求める。.…もはや自分の前途については考えず、すべての物事における神の采配に委ねるとわたしの前で決心したそのとおりに行動しなさい。わたしの家の内に立つ者はみな、できる限りの努力をしなければならない。わたしの地上での働きの最終部分に自己の最善を差し出さなければならない。あなたは、このように実践する気持ちがほんとうにあるだろうか」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「あなたがたは本当に神の采配に服従できるか」より)

 御言葉の一行一行に心を打たれ、私は深く恥じ入りました。何度苦渋の涙を流したかを振り返り、万事において神に自身を捧げ、神の指揮と采配に従う決心を固めました。また、拷問の苦しみを受けていた私を神の御言葉が導いてくださったとき、命がけで神の証を立てることを御前で誓ったのに、いざ実際の代償を払って神にご満足いただくことを本当に神に求められると、私はそうするどころか命に卑しくも執着して死を恐れて、自分の身がどうなるかだけを気にかけていたことも思い起こしました。神の御心を完全に無視し、できるだけ早く自分の苦境を逃れて安全圏に行くことしか考えていなかったのです。自分がどれほど実に低俗で無価値であるかを悟りました。神への信仰が不十分で、あまりにも不実でした。神に真に献身することができず、この身の中に本当の従順がなかったのです。そのとき、私は神が終わりの日の働きにおいて求められているのは人類の真の愛と忠実さであると理解しました。これが神の最後の要求であり、神が人類に託された最後の使命なのです。

 「神を信じる者として、私は完全に神の手に自身を置くべきだ。私の命は神に与えられたのだから、私の生死の最終的な決定権は神にある。私は神を選んだのだから、神に自分を捧げ、神の指揮に従うべきだ。どんな苦しみや屈辱にさらされようと、神に献身して行動すべきだ。自分の選択や要求を持つべきではない。これは私の本分であり、私が持つべき理知だ。私がまだ呼吸をして生きているのは、すべて神の御加護とお気遣いのおかげだった。神によるいのちのほどこしだったのだ。それがなければとっくに悪魔につぶされて死んでいなかっただろうか。私がこのような深い苦しみと困難を最初に経験したとき、神が克服するよう導いてくださった。今やどんな理由があって神への信仰を失うのだ。どうして否定的で軟弱になり、尻込みして逃げたがることができるのだ」

 この考えが浮かぶと、私は静かに自分の罪を神に告白しました。

 「全能神よ、私はとても自分勝手で貪欲です。ただあなたの愛と祝福を享受したいだけで、心からあなたに自身を捧げたいとは思っていませんでした。刑務所で長く苦しみに耐えなければならないと思うと、ただ自由になってそれを避けたいと思います。本当にあなたの気持ちをひどく傷つけてしまいました。神よ、これ以上深く沈みたくありません。ただあなたの指揮と采配に従い、あなたの導きを受け入れたいと思います。たとえ獄死しても、あなたを証ししたいのです。死ぬまで拷問されるかもしれませんが、最後まであなたに忠実であります」

 祈った後、私は二倍に心を打たれました。苦痛はそれまでのままでしたが、心の中では、神にご満足いただくという誓いを果たすまであきらめないという信仰と決意を感じていました。死に至るまで神を証しするという決意と自信が芽生えると、奇跡的なことがすぐに起こりました。ある早朝、ベッドから起き上がると、どちらの足にも感覚がないことに気づきました。歩くのはおろか、立つこともまったくできませんでした。悪しき警察は当初私の話を信じず、はったりだと思いこみ、無理に立ち上がらせようとしました。しかし私はどんなに頑張っても立てませんでした。彼らは翌日戻ってきて、再び私の体を調べました。私の両足が凍るように冷たく、血がまったく通っていなかったため、彼らは私が本当に麻痺していると納得しました。その後、私の家族に「家に連れて帰ってもいい」と連絡しました。私が帰宅した日、足の感覚が奇跡的に戻り、何の不自由もなく歩けるようになりました。これはすべて全能神が私の弱さに憐れみを示してくださったおかげだと私は心の奥で知っています。神ご自身が私のために道を開いてくださったため、私は中国政府による一か月の不法拘留の末、サタンのねぐらから無事に出ることができたのです。

 二度拘留され、中国政府の非人道的で残忍な拷問を受けた後、私は肉体的な苦しみを多少受け、死にかけもしましたが、このとてつもない経験は二度とも、私が神への信仰を持つ道の強固な土台となりました。私の苦しみと困難の最中に、全能神は私に最も実践的な真理の潤しといのちのほどこしを与えてくださいました。こうして私は中国政府とその真理への憎悪、神への敵意、その悪魔的な素顔を徹底的に見極め、猛烈に神に抵抗して神の信者を迫害するという中国政府の凶悪な犯罪を詳しく知ることができただけでなく、神の御言葉の力と権威の理解も授けられました。私が中共の魔の爪を二度逃がれて生き延びられたのは、すべて神のお気遣いと憐れみの結果でした。さらに言えば、神のとてつもない生命力の具現と確証でもありました。私は今や、全能神がいつでもどこでも常に私の唯一の支えと救いであると深く悟っています。この人生でどんな危険や困難に遭遇しても、全能神につき従い、積極的に御言葉を広めて御名を証しし、真実の献身で神の愛に報いることに専念しようと決意しました。

江西省 周瑞(チョウルイ)


恨み晴らす-義理の両親に対する積年の恨みが消えました

2020-06-08 00:39:14 | 賛美の心

 夜10時のことでした。職場で長い一日を過ごした後、ミンフイはベッドで横になっていましたが眠れませんでした。その日の午後に近所の人が言ったことが彼女の頭に浮かびました:「ミンフイ、私はあんたの義理のお父さんが彼の銀行カードとペイロールカードをあんたの義理のお兄さんに渡してるのを見たよ。」これを聞いて、彼女は落ち着いてこう考えました:「それは義理のお父さんのものだから、彼の勝手よ。」しかし、彼女はどんどんイライラしていきました:「私の夫は彼らの息子よね?どうして私の義理の親は私たちよりも彼らの長男を特別扱いするのかしら?家をめぐって何年も争って、私はたったの1万元しかもらえなかったのに。でも今彼らは銀行カードとペイロールカードを長男に渡してるなんて。長男とその妻は働いてもいないのに両親から特別扱いされてるわ。私の夫と私は一生懸命働いているのに大切にしてもらってないわ。。。」彼女はこの出来事を思い出した時、とても腹が立ちました。ミンフイは苦しくなるほどに抑圧されている気分でした。彼女はどうしても正当な扱いを受けたかったのです。

 10年以上前、ミンフイの夫は2人が結婚する前に交通事故に遭いました。残念なことに、彼は足の障害を負ってしまいました。この時の運転手が支払った1万9千元に加え、彼女の義理の両親は2万4千元を家族全員が暮らしていたこの家の購入に費やしました。競争心の強い彼女は結婚した後に夫と必死になって事業を経営しましたが、その間彼女の義理の兄夫婦は一日中麻雀をするだけで何もしていませんでした。しかし、彼女の義理の両親はこれを知らぬふりをすることがあり、彼らの味方をすることすらありました。ミンフイは彼らにうんざりしていたので、他の家を購入して引っ越すことにしました。

 彼女は妊娠中に起こったことは決して忘れませんでした。ある日、彼女と彼女の夫は仕事の後、疲れてお腹を空かせていました。彼女は家に帰ったら温かいものを食べて、体を休めようと思いました。彼女は、義理の父と義理の兄夫婦は麻雀をしていて、義理の母をそれをただ立って見ているとは思ってもみませんでした。彼女はそれを見てとても腹が立ち、こう思いました:「私は妊娠で膨らんだお腹をぶら下げながら家族を支えるために夫と働いているのに、この人たちは夕食すら作ってくれない。どうして彼らはいつも私たちをこんな風に扱うの?」ミンフイは義理の母に文句を言いました。すると、義理の兄は彼女は叩いて母には文句を言うなと言って彼女に警告しました。それ以降、ミンフイは義理の兄を恨むようになり、彼を決して許しませんでした。

義理の両親,積年の恨み,消えました
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 彼女の義理の両親は、ミンフイと彼女の夫が他の家を購入する準備ができていることを知った時、この家を彼女の義理の兄夫婦に与えようとしました。ミンフイは怒りで息が詰まりました:「何ですって?どうしてそんなことが出来るの?この家の半分近くは私たちのものなのよ。兄夫婦はこの家の購入に一銭も出していないじゃない。彼らがこの家を欲しがってるの?そんなの絶対ダメよ!」ミンフイはこの決断にとても不満で、義理の両親は彼らの長男をえこひいきしていると感じました。彼女は諦められず、頭の中でこう決意しました:「新しい家を購入してもここからは絶対に出ていかないわ。」彼らは数日に渡って口論しましたが、決着には至りませんでした。ミンフイが譲歩するのを拒否しているため、義理の父はこの家が欲しいならミンフイと彼女の夫は6万元を払う必要があると言いました。ミンフイと夫は最近家を購入したばかりだったのでお金がありませんでした。義理の父は彼女にきっぱりと諦めさせようとこのような厳しい条件を提案してきたのです。ミンフイは家を出るなら3万元欲しいと要求しました。しかし、彼女の義理の父はこう言いました:「気に入ろうが入るまいが、お前には出て行ってもらう!出ていかないと、お前のドアに鍵をかけるからな!」この家をめぐる争いのおかげで、ミンフイは家族と仲違いしてしまいました。

 その2年後、義理の両親はミンフイに1万元を提供し、彼女と彼女の夫に出て行くよう頼みましたが、家の不動産価格はおよそ8万元でした。彼女と彼女の夫は新居を購入するために夜明け前から日没後まで働いていました。この家の購入資金の半分は彼女の夫の交通事故から得た損害賠償金であったにもかかわらず、どうして何の努力もしない義理の兄がこれを手にすることができるのでしょう?ミンフイはこれを不公平と感じ受け入れる気がしませんでした。これに加え、近所の人がミンフイを支持していたので彼女はこれが義理の両親の責任であるとさらに強く感じました。彼らはお互い反目しているだけでなく、お互いを黙殺し合っていました。彼らは敵と化してしまったのです。その後、ミンフイはもう彼らと一緒に生活するのが耐えられなくなったので、義理の両親から1万元を受け取りました。それ以降、彼女は義理の両親を敬遠するようになりました。

 2010年末、ミンフイは終わりの日の神の働きを受け入れたことをとてもう光栄に思いました。神の御言葉を読み、兄弟姉妹たちと交流していたミンフイは兄弟姉妹たちは誰もが純粋に率直で、何の問題や心配事がなく、お互いとても仲が良いことを知りました。彼らは生活の中でどのような困難を抱えていても、お互いを助け合い、全員が笑顔を見せていました。ミンフイは心からそのような生活を切望しました。彼らと照らし合わせると、彼女は自分はどうしてこのような苦しみの中で暮らしているのかが分かりませんでした。後に、彼女は神のこの御言葉を読みました、「サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ…」(「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より)。 彼女はこの御言葉を読んでショックを受けました:彼女の苦しみはサタンによる堕落が生じていたのです。人は理知と良心を持つべきですが、サタンに堕落させられると、その人が本来持っていた理知と良心は失われてしまうのです。何世代にも渡って堕落したサタンのような性質を指針にして生きてきた人間はとても利己的かつ卑劣になり、個人的な利益のみに興味を示し、自分の得になることしか考えません。さらに、人間は誰もが他人を利用することを好み、全てにおいて不純な動機を持っているため、人々は仲良くできなくなっています。家族同士でも、自分勝手な利益を求めて争い合い、不倶戴天の敵となってしまいます。この瞬間、ミンフイは次のことを思い付きました:「彼女と彼女の家族は自分勝手で卑劣であったため、長年に渡って自分たちの利益を巡って争いながら、お互いに憤慨し合う生活を送っていたのです。義理の兄は、ミンフイは新しい家を購入したから自分がこの古い家に住むべきだと考えました。そして、ミンフイが彼らと口論になった時、彼女の義理の両親は彼らの味方をしました。しかし、ミンフイは自分の夫が交通事故から得た損害賠償金のことを考えると、この古い家はミンフイと彼女の夫のものであると考えたのです。こうして、彼らは10年以上に渡って争い続け、お互いに譲歩していないのです。ミンフイは、「サタンの支配するこの世界では、人間はお互いに折り合うことができない。神の御救いがなければ、この苦しみから抜け出すこともできない」、ということに気が付きました。彼女は家族と仲良くして、普通の生活を送ることを切望しました。そして、ミンフイは神の御言葉を読み、真理を追い求めながら積極的に集会に参加しました。

 ある日、彼女は『いのちの入りについての交流および教え』の中でこの御言葉を読みました、「普通の人間性には次の特徴が含まれます:良心、理知、品性、尊厳、寛容、辛抱強さ、許す心、愛、寛大、優しさ、博愛、親孝行、容赦、考慮、共感、そして気配り。。。今回、あなたは人間性を持っていない、そしてあなたの人間性には欠陥があることを知るでしょう。あなたは普通の人間性を持ってすらいません。あなたは自分が善良な人間で、皆と仲良くできると思っていました。しかし、今、あなたは誰とも仲良く出来ないことを知りました。あなたが自分のパートナーと喧嘩し、子供たちと喧嘩し、義理の両親と喧嘩し、そして他の者全員と喧嘩をするのは不思議ではありません。あなたは常に他人と言い争って、終わりがありません。そして、あなたは自分が普通の人間性を持っていないことが問題の根源であると分かるでしょう。」これを読んだ後、ミンフイは彼女の義理の兄が一度彼女を叩いたのは彼女が義理の両親を尊重していなかったことが原因であったことを思い出しました。彼女は実際に誤ったことをしていたので、彼を嫌うべきではないのです。しかも、彼女の義理の兄はまともな仕事はしていないとはいえ、彼もまた家族の一員であったのです。彼女の義理の両親は住む場所がない自分たちの息子を見るのは耐え難いので、古い家を彼女の兄に与えたかったのです。これは人間の本質です。しかし、彼女は、彼らの立場になって子供に対する親の心配を理解したり、義理の兄夫婦の状況を考慮しようとはいませんでした。彼女は自分の関心事しか考慮していなかったことに気が付いたのです。彼女はこの家を手にするためなら、新しい家に引っ越すよりも、彼らと一緒に滞在した方がましだと思っていたのです。長年に渡って、ミンフイは不当に扱われていると思っていました。しかし、今、彼女は自分は常に、「土地を隅から隅まで狙い、可能な限り奪ってしまえ」、というサタンの人生観を指針に生きていたことを知ったのです。彼女は自分の利益を守るため一歩も譲りませんでした。彼女は家族から冷たく扱われると、暴をもって暴に報いるの態度を取り、彼らを敵扱いしました。彼女はこの家を理由に積年のつながりを断ってしまったのです。長年に渡って自分が見苦しいことをしていたことに気付いたミンフイは家族に対する恨みを少しずつ手放していきました。

 ミンフイは過去の恨みを捨てることができたと思っていましたが、近所の人の言葉が彼女の義理の両親が彼女にとても不公平であったことを彼女に思い出させました。彼女の心には又しても憤りがこみ上げてきました。

 これについて考えながら、ミンフイは立ち上がり、ある本を開きました。そこには神の御言葉がこう書かれていました、「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。」 (「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)。 神の御言葉はまた彼女の目を覚ましてくださりました。今日起こった出来事は霊的な争いだったのです。もし彼女は神の御言葉に従って生きることができず、利益を求めて争い続けていれば、又しても家庭争議に引き込まれるでしょう。ミンフイは神の御言葉に従ってサタンの策略を見抜いたのです。彼女は神に祈りを捧げ、自分が普通の人間性を貫き、これ以上利益を求めて争ったり、心の狭い人間にならないよう、彼女に力と自信をお与えくださるよう請いました。

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 祈りを捧げた後、ミンフイは次の交流の節を読みました、「私たちが他の人々と共存するには、いくつかの原則を実践するべきであります:私たちは不公平な形で他人を利用したり、他人を騙したりしないことに満足するだけでなく、愛に満ちた心、良心、そして理知も持つべきです。そして私たちは全てにおいてお互いを許し合い、助け合い、大切にし合い、お互いのためになることができるべきです。私たちは自分たちのことだけでなく、他人のことも考えるべきで、更には、他人の短所を理解し、他人の罪を許すことができるべきなのです。私たちはこれらの原則を固持してのみ、他人と適切な関係を築き、仲良くすることができるのです。」この交流を読んだ後、ミンフイは心の中でこう確信しました:「私は既に神の祝福を授かっているわ。私は自分の家があって、ゆとりのある生活を送っている、でも同時に、私の義理の両親は若くないし、兄は彼らの世話をするためにお金を必要としている。だから義理の両親は兄に銀行カードとペイロールカードを渡していたのよ。彼らは家族全員が普通の生活を送れるようにと合理的な配慮をしていただけだったのよ。だから、私はいちいち細かいことでもめたり、よくばって義理の父の少ない年金を狙う必要なんかないのよ。この世界で生活するにあたって、私たちは自分たちのことだけを考えるのではなく、周りにいる人たちのことも考えるべきなのです。こうしてのみ、私たちは安堵と平安を感じることができます。神の御気遣いと御指導を受け、ミンフイは以前抱いていた恨みを捨て、神を讃えるために普通の人間性を貫く気になりました。このように考えていると、ミンフイは落ち着いて解放された気分になり、真理を実践して神の御言葉を貫くことの素晴らしさを体験しました。

 しばらくした後、彼女の夫は彼女の義理の母が病気になり歩けないから実家に戻るよう彼女に言いました。ミンフイは心の中でこう考えました:「彼女は歩けないってことは、私が彼女の世話をしないといけなくなるし、向こうまで行くならお金もかかるわね。」以前義理の両親から受けた扱いを振り返ると、彼女は葛藤に駆られました:行くべきか、やめるべきか?ちょうどミンフイが躊躇していたその時、彼女の頭に神のこの御言葉が浮かびました、「正常な人々の性質にはひねくれた点や不正直さはなく、人々はお互いに正常な関係にあり、孤立していないし、その生活は凡庸でもなければ退廃的でもない。そこで神もすべてのものから褒め称えられ、神の言葉は人間の間に広がり、人々はお互い平和に神の配慮と保護のもとに暮らし、地上は調和で満たされ、サタンの妨害はなく、神の栄光が人間の間で最も重要なものになっている。」(「十六番目の言葉の解釈」より)。時にかなった神の御啓示は彼女に神の御心を理解させてくれました:「私たち人間がサタンの作り上げる苦しみの中で惨めな生活を送り、お互いに争い殺し合い、自分たちの利己的な欲望を満たすために策略を練り合ったり、騙し合ったりしている様子を目の当たりされた神は、私たちが普通の人間性を貫くこと、そして私たちが共に仲良く暮らして幸せを手に入れられるように、他人と仲良くする際には私たちが真の気遣いと理解を持つことを期待しておられます。」ミンフイは、自分が家族と適切な関係を持って、争うのを止めるだけでなく、普通の人間になるために真理を貫き、愛をもって他人の世話をすることを神から求められていたのだと理解しました。長い間恨みを持って生きてきた彼女は義理の両親に対する子としての義務は全く果たしていませんでした。今回、神はまた彼女に生まれ変わるチャンスを与えてくださったので、彼女は良心をもって義理の母を扱う必要があります。こう考えてミンフイは恨みを脇に置き、夫と一緒に義理の母の世話をしに行きました。彼女は普通の人間性を貫いた時、神の恵みと祝福を目の当たりにしました。彼女の友好的な態度のおかげで、家族全体が円満になったのです。ミンフイが彼らに対する恨みを脇に置いた様子を見た義理の父は、快く彼らに部屋を貸してくれました。

 その時、ミンフイは恨みを捨て、真理を実践し、普通の人間性を貫き、他人に愛情を見せた時に他人の尊重を得ることができると初めて気が付きました。こうすれば、他人と仲良くするのがかなり容易になるのです。ミンフイはまた、「土地を隅から隅まで狙い、可能な限り奪ってしまえ」、というサタンの毒を持って生きることは辛すぎると深く感じました。今、神の救いは彼女の生活を変え、彼女のサタンに対する観点を正してくださったのです。神の御言葉のみが真理であり、私たちの行動原則であり、私たちのいのちが必要とするものであります。真理だけが、本当に幸せな生活を私たちにもたらしてくれるのです。ミンフイは心の底から神に感謝しています。神の御言葉のおかげで、彼女は自分の観点を変え、人間になる方法を学び、恨みを捨て、サタンの支配下にあった惨めた生活から抜け出し、今は本当に幸せな生活を送っています。

寄稿家:ジンシェン


ゲームで病みつきになった息子はどのようにインタネット依存症から離れて彼女と仲間になるか

2020-06-06 15:50:58 | 賛美の心

 ある夏の夜、公園はとても賑やかでした。遊び回る子どもたち、おしゃべりを楽しむ大人たち、音楽にのって踊る人たちもいました。

 そんな中で1人、ジャオ・ファンは不安げな表情を浮かべてベンチに座り、息子のことを考え込んでいました。「この子は小さい頃、いつも私にべったりで、何でも話してくれた。でも、日に日に成長するにつれ、自分なりに関心や、趣味や生活スタイルができて、短気になってきた。それに、コンピューターゲームに病みつきになって、こっちは何度も強く注意しているけれど、全然耳を貸そうとしない。腹を割って話し合おうとしてもいつも二言三言交わすだけで意見が食い違って終わる。お互いの間にどんどん距離ができてしまっているようね。もう心も体も疲れたわ。どうしたらいいの。」

ゲームで病みつきになった息子はどのようにインタネット依存症から離れて彼女と仲間になるか

 「あの、ハンドバッグ落ちましたよ。」子どもの声に、彼女は我に返りました。

 「あら、ありがとう。」ジャオはハンドバッグを拾い、微笑んで少女の頭をなでてから、家に帰りました。

 帰宅するとジャオ・ファンは2人の子どもたちが一緒に座ってゲームをしているのを見ました。「そこよそこよ」、10歳の娘が兄に向って叫びました。「あーあ。またお兄ちゃんの負け。本当にバカなんだから。」

 その会話を聞いたジャオはますますいら立ち、ピシャリとドアを閉めます。

 すると娘が頭を上げました。「ママ、おかえり。」

 「あなたたち2人とも、1日中ゲームばっかりね。」ジャオはイライラしながら子どもたちに言いました。「もっとためになることをしたらどうなの」彼らが返事をしないのを見て、頭に血がのぼります。「あんたたちに話してるのよ、聞こえないの」。

 娘は口を結んだまま、しぶしぶ立ち上がり、その場を去りました。

 ジャオは怒りをこらえ、息子に向き直ります。「ゲームなんかしてて食べていける?学校の成績が上がるの?取りつかれたみたいに1日中ゲームばかりして。食事中だって、スマホばかり見ているでしょう。スマホがそんなに大事なの。」

 息子は一瞬面倒くさそうに彼女を見上げるとすぐに頭を下げ、またスマホで遊び続けました。これを見たジャオはスマホをつかんで叩き割りたい衝動に駆られました。

 その時、また娘がやって来ました。「ママ、怒らないで。夜ご飯作ってよ。私たち、朝も食べてないし、お腹ぺこぺこよ。」

 「今日は夜ご飯は作りません。好きなだけ遊ぶといいわ。言うことを聞かないんだから、ママはもうあなたたちの面倒はみません。」そう言うと、ジャオは寝室に入り、怒ってドアを閉めました。

 ベッドに腰を下ろしたジャオ・ファンは、次第に落ち着いてきました。「私が何を言っても、この子は絶対に耳を貸さない。今ではゲームから離れない上に、私たちの親子関係もますます気まずくなってきている。私はなぜ、こんなにこの子に腹を立てているの。単にゲーム中毒のせいなの、それとも私の言うことを聞かないからなの。他にも理由があるのかしら。いったい私はなぜ気がどうかしてるの」どうすればよいか分からないまま、ジャオ・ファンは神の御前に出て自分の悩みを告げました。そして祈りの後、神のこの言葉を思い出しました。「しかし、一部の人々が言うように、神は自分の地位について仰々しい概念を持っており、『わたしは最も偉大な存在であり、わたしがあなたがたを支配している。あなたがたは全員わたしに慈悲を請わなければならず、わたしに従わない者は死をもって罰とする』などと言うのでしょうか。神はかつて、このように人間を脅迫したことがありますか。(ありません。)神は、これまでに『人類は堕落しているので、わたしが人間をどのように好き勝手に扱ってもどうでもよい。人間に対して周到な用意を行う必要は無い』などと言ったことがありますか。神はこのように考えるでしょうか。(いいえ。)神がそのように行動したことがありますか。(ありません。)それとは反対に、神による人間それぞれに対する処遇はまじめで責任感があり、あなたが自分自身に対するよりも責任感に溢れています。そうではないですか。神は無益に言葉を述べることも、尊大に振る舞うことも、人々を欺くこともありません。その逆で、神は誠実かつ静かに、自身が行うべきことを行います。」(「唯一無二の神自身 6」より)

 この神の言葉について思いをめぐらせているうちに、ジャオは悟ります。「神は創造主であり、宇宙の支配者。至高にして聖なる方なのに、へりくだって地上で真理を伝え、救いの働きを行われ、大きな苦しみを受けられた。私たちは神の御心が分からないことは何度もあったし、神に反抗したこともあったけれど、神がその身分と地位を使って私たちに何かを要求したり、やみくもに怒り散らしたりすることは決してなかった。神はただ、その計画通り、ご自身のやり方で私たちの中で働きを行われただけなのね。その言葉によって私たちの魂を動かし、いつも私たちのそばにいて、私たちの救いを諦めたことはない。神の本質はとても美しく良いもので、私たち人間の誰にもない。では、私はどうだったかしら。息子をしつけようとしてカッとなって、傲慢な本性をさらけ出してしまっているじゃないの。『私はこの子の母親よ、私がやってることは全部正しいし、この子のためだし、言うことを聞いてもらって当然よ』と思いながらいつもこの子をしつけ、お説教していた。息子が耳を貸さないと、私はひどくイライラして、腹を立てることもあった。そんな私に敬虔なキリスト教徒らしさなんて残っているのかしら。私は息子を産んだけれど、神の御前では、私たちは2人とも、サタンによって深く堕落させられた創造物よ。私に息子を叱りつける資格なんてあるのかしら。母親の立場を利用して言うことを聞かせ、意のままに行動させようとするなんて、あまりにも理不尽だったわ。」そう思ったジャオ・ファンは自分の傲慢さと思い上がりがさらに恥ずかしくなり、神の聖なる善良な本質に心を動かされました。

 そしてジャオ・ファンは心を鎮め、息子と良い関係を築くにはどうすればよいか、そして、息子を神の御前に連れて行き、ゲーム中毒を直していただくにはどうすればよいかについて真理を求めました。自分には息子を正しい道に導く力はないとわかっていました。それができるのは神だけです。自分自身を脇に置いて、息子を完全に神に委ねます。もうサタンの性質によって生きたくないと思いました。それでは息子との関係が壊れて、彼女自身が狼狽し辛くなるだけだからです。

 ある日、息子がまたコンピューターゲームで遊んでいるのを見たジャオ・ファンは、以前のようにイライラするあまり、コンピューターの電源を抜いてしまいたくなります。しかし、神の御前に決意を固めたことを思い出し、怒りを抑えて、すぐに心の中で神を求めました。祈りの後、神の言葉を2つ思い出します。「自分の知識と能力を頼りにして事業に着手するならば、あなたはいつも失敗し、いつも神の祝福をのがしてしまう。」(『神は全人類の運命を支配する』より)「人の心と霊は神の手の中にあり、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、生けるものも死せるものも、ありとあらゆるものが、神の思いによって、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。」(『神は人のいのちの源である』より)神の言葉が光のように心を照らし、彼女は悟ります。「確かにそのとおりだわ。私が自分のやり方に頼ると、いつも失敗する。息子の考え方や発想は神の手の中にあるのに。」そして静かに神に祈りました。「神よ、すべてをあなたの手に委ねます。すべてを整えていただきたいです。」不思議なことに、勢いをつけてプレイしていた息子のキーボードが動かなくなりました。彼は「変だな」と言いながら、仕方なくコンピューターを閉じます。これを見たジャオは、心の中で何度も神に感謝しました。同時に、息子と腹を割って話し合いたいと思いましたが、話をする前に息子は「宿題がある」、と言いました。そこでジャオ・ファンは、神の采配に従うことを望みながら、最適な機会が与えられるよう、神に祈りました。

 夕食時に息子が、「ママ、人生って退屈だね。学校にいる時は、のんびり好きなだけ遊びたくて、早く休みになれと思ったけど、今はよけいにつまらないや」と言い出しました。

 ジャオ・ファンは言いました。「あのね、それはなぜか分かる?この世界では、みんなそれぞれ正しくてまともだと思える趣味とか、関心とかがあるでしょ。それならなぜ、望みが満たされるともっと空しく感じるのかしら?それは、私たちの望みがサタンから来たもので、心の中の空しさや心配を解決できないからなのよ。それにわたしたちのいのちにもならない。私たちは神の御前に出て、神の言葉に従った時に初めて、心が安らいで喜べるの。後で一緒に神の言葉を読まないかしら。」

 息子は頷き、その隣に座っていた娘も、「ママ、私も神様の言葉を読みたい」と言いました。

 神の素晴らしい御業を見て、ジャオは心の中で神に感謝と賛美をささげました。「いいわ。夕食の後に一緒に神の言葉を読みましょう。」

 夕食後、ジャオは神の言葉、『若者は世界の悪しき風潮を見抜くべきである』を子どもたちに読んで聞かせました。彼女の語りを通して、コンピューターゲームはサタンが人間を傷つけるための道具であること、それで遊び続ければどんどん堕落していくことを、ジャオの息子は知るようになります。それを理解した彼は、神の言葉をもっと聞き、ゲームの時間を減らす、と言いました。しかしサタンが人間に害を及ぼす手段を見抜いていなかったので、またオンラインゲームにはまり、神の言葉を読まないことが多くなってしまいます。それを見たジャオはまた心配になり、息子が少しでも早くサタンの束縛から自由になり、普通の生活を送れるように願いました。しかし、息子の助けになることは何もできず、全くの無力感の中、神に祈ることしかできませんでした。

 何度も何度も祈り、ジャオは神の言葉から実践の道を見出だしました。それはさまざまな人々に対して、さまざまな原則とそれぞれの背丈に従って接する、という道です。彼女は考えました。「私自身が神の言葉を体験したことを、この子にもっと伝えるべきね。この子がプレッシャーをあまり感じないように。」

 ある日の夕食後、ジャオ・ファンは部屋でスマホで遊んでいる息子の隣に腰掛けます。すると息子は顔を見上げました。「ママ、どうしたの?」

 ジャオ・ファンは微笑んで、「ちょっとね、話がしたいの」と言いました。

 少し驚きながらも、息子はスマホをそばに置きます。「話って?」

 「まあ、何も特別なことじゃないの。ただ、今のあなたのことを、全然知らないような気がしたから。あなたが高校に入ってから、ママは仕事に時間をかけ過ぎて、あなたにかまっていなかった。あなたが話をしがっていても、いつも時間がなかったり、ちゃんと聞いてなかったりした。時々、あなたがトラブルに巻き込まれると、ママはいつもあなたにお説教して、自分の考えを押し付けてた。今まで本当にあなたを理解したことはなかった。だから、今日話ができたら、気持ちを伝えられたら、と思ったの。学校のこと、たとえばあなたをいじめる人がいないかとか、友だちのこと、辛い時は、どうやって乗り越えているのかを話していいのよ。プライバシーを侵害するつもりはないの。ただ、あなたのことをもっと知りたいから、正直に話し合いたいだけなのよ」と、ジャオは穏やかに言いました。

 それを聞くと、息子は喜んでクラスメートたちとのつきあいのことを彼女に話しました。ジャオは話をしっかり聞いて、自分で理解している神の言葉の一部分や、自分の体験を挙げながら根気強く息子に助言しました。どんな人と友人になるべきか、人と仲良くするにはどうしたらよいか、どのような悪い習慣を止めるべきかを教え、物事の分別がつくよう手助けをしました。その夜、息子はとりわけ幸せそうで、自分の将来や趣味のことを喜んで母親に話しました。そしてジャオは神の言葉に従って息子を導き、彼が正しい人生の展望を築けるようにしました。こうした会話により、彼ら親子はお互いの誤解が解け、距離が縮まり、再び親友同士のように何でも話し合える仲になったのです。

 その時から、何か問題が起きると、息子は一番にジャオに話し、ジャオは話をよく聞いて、神の言葉に真理を求めながら彼を助けるようになりました。

 時々、息子が強情になって腹を立てることがあっても、ジャオは即座に神に祈り、真理を求めます。そして彼が落ち着いた後で、サタンの性質のままに話したり、行動したりすると、周囲の人々を傷つけるのだということを理解させます。息子がまたゲームで遊んでいると、ジャオ・ファンは彼のために祈り、コンピューターゲームはサタンが人間に害を及ぼすための道具だということを話し合い、彼がゲームの本質を見抜き、神の言葉に基づいて行動し、ゲーム遊びを止める決心ができるようにします。知らず知らずのうちに、ジャオと息子の仲はますますよくなり、息子は進んで自分の悩みや喜びを母に打ち明けるようになりました。さらに、神の言葉を読むことを通して、ゲームの時間が次第に減り、さらに思慮深くなっていきました。この効果を目にしたジャオは心の中で神に感謝します。神の導きがなければ、2人が対等にふれあうことはできなかったでしょう。2人の関係もあまり改善せず、息子のゲーム中毒も直らなかったでしょう。すべては神の祝福なのです。


聖書には永遠のいのちの道が含まれているか

2020-06-05 16:30:41 | 賛美の心

 ある夜、高兄弟は聖書を手に桂兄弟の家へと急ぎました。

 高兄弟がそこに着くと、二人はソファに座りました。

 高兄弟は聖書を開いて言いました。「桂兄弟、聖書を読んでいる途中で一つの問題に突き当たったんだけど、どう解決すればいいかわからないんだ。この問題は、僕らが主への信仰を通じて永遠のいのちを得る鍵のような気がする。だから君と一緒に答えを探し求めようと急いだんだ」

 桂兄弟は笑みを浮かべて言いました。「わかった。じゃあそれを話してくれ」

 すると高兄弟は言いました。「聖書はキリスト教の正典で、クリスチャン全員が読まなければならないものだと、僕らはみんな知っている。集会に参加していようと、ディボーションをしていようと、福音を宣べ伝えていようと、あるいは説教をしていようと、いつも聖書に従う必要があるんだ。だから、聖書は欠かすことのできない僕らのいのちの一部だと言えるだろう。聖書には神様の以前の働きだけでなく、多くの人による証しも記されている。聖書の中にはいのちがあって、じっと聖書を読み続けていれば永遠のいのちを得られると、僕らは堅く信じている。でも今晩聖書を学んでいたら、主イエス「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書5:39-40)とおっしゃった一節を目にしたんだ。そのせいで僕はすっかり混乱した。と言うのも、聖書に神様の御言葉と人間の証しが含まれているなら、聖書を読むことで永遠のいのちを得られるはずだからだ。ならどうして、主イエスは聖書の中に永遠のいのちはないとおっしゃったんだろう。その御言葉をどう理解すべきだろう。これが本当にはっきりと理解できなくて、君の認識はどうなのかと思ったんだ」

聖書には永遠のいのちの道が含まれているか

 桂兄弟は言いました。「高兄弟、君が話したこの問題は本当に鍵を握っているよ。何人かの他の同労者と僕も、最近この問題のせいで混乱したんだ。そのあと、町の外で行なわれた集会に出かけたとき、数名の兄弟姉妹と一緒に答えを探し求めてようやくこの問題を理解したんだよ」

 高兄弟は喜んで言いました。「本当かい。主よ、感謝いたします。さあ、早くそれを教えてくれないか」

 桂兄弟は言いました。「いいとも。実を言うと、この問題を理解したければ、まずは聖書に記されている、律法の時代と恵みの時代に神様がなされた働きの内幕と、それらの働きによる結果とを理解する必要があるんだ。そうすれば、なぜ主イエスがそのようなことをおっしゃったのかが理解できる。まず最初に、旧約聖書に記された律法の時代にヤーウェ神がお語りになった御言葉は、律法とヤーウェ神の戒めを布告することと、地上におけるイスラエル人の生活を導くことがおもな目的だった。どう正常に生きるべきか、どのように捧げ物をして神様を讃えるべきか、罪とは何かなどを人間が知るようお教えになったことが、ヤーウェ神の成し遂げられた結果だった。しかしそれらは単純な真理に過ぎず、人間がいのちを得られるようにするにはほど遠く、まして永遠のいのちを得られるようにするなど不可能だった。新約聖書には主イエスの御言葉と働きが記録されているけれど、それはおもに人類を贖う主の働きであり、悔い改めの道を人間に与えるとともに、天国が近づいていることと、誰もが悔い改めなければならないことを人間に伝えている。人々が告白して悔い改められるようにし、それによってその人の罪が赦されるとともに、盗みや強盗をしないとか、他人と争わないとか、他人を罵ったりしないとか、酒を飲まないとかいう、いくらかの外面的な良い振る舞いをできるようになったというのが、主の成し遂げられた結果だった。また一部の人たちは、強い熱意をもって働いたり、主のために自分自身を費やしたり、主に従って主の福音を広めるためにすべてを捨てたりすることさえできるようになった。

 「よって、天地万物は神様によって造られたこと、律法の時代に神様が律法と戒めを布告なさったこと、そして神様のお求めに従って地上で暮らすにはどうすればいいか人類が知るようになったことを、僕らは聖書を読むことで知るようになる。そして神様の性質が鮮明で本物だったことや、神様は僕らに憐れみをお示しになるだけでなく、人を呪い罰することもありうるとわかった。さらに、神様に自分の罪を告白して悔い改め、他人を許して自分の敵を愛し、塩と光になるべきだということもわかるようになった。僕らは自分の十字架を背負って福音を広めるべきであり、また主イエスが自分のように隣人を愛されたこと、人間に果てしない憐れみと愛情をお授けになったこと、そして主の救いを受け入れることでのみ僕らは神様のお恵みと祝福を豊富に享受できることを理解するようになった。だから、聖書に記されている律法の時代と恵みの時代における神様の御言葉と働きはすべて、人類の堕落の度合いと当時の人間が必要としていたものを土台にしていた。律法の時代におけるヤーウェ神の御言葉は、人間が地上で正常な生活を送れるように語られたものであり、恵みの時代に主イエスがお話しになった御言葉は、人間が悔い改められるようにする道としか呼べず、永遠のいのちの道とは呼べないんだ。

 「では、永遠のいのちの道とは正確には何だろうか。永遠のいのちの道とは、僕らがもはや罪の束縛や制約を受けないようにし、自分のいのちの性質が変化できるようにする道であり、僕らが永遠に生きるようにする真理の道だ。より具体的に言えば、それは僕らを罪から救い、僕らが真理を自分のいのちとして獲得することと、サタンの影響を完全に振り払うことを可能にするとともに、真に神様を知り、神様に従い、神様を崇拝し、これ以上罪を犯さず、神様に抵抗したり神様を裏切ったりしないようにすることができる。これらの成果を挙げることでのみ、僕らは永遠のいのちの道を見つけられるんだ。でも自分自身を振り返ってみると、僕らは聖書に詳しく、外面的な良い振る舞いをいくらかしているかもしれないけれど、罪深い本性が自分の中に深く根ざしたままで、いまだに思わず罪を犯しかねないことがわかる。たとえば、僕らはいまだ傲慢になったりうぬぼれたりしかねないし、親類や友人や教会の兄弟姉妹とうまくやっていくことができず、そのせいで他人を見下したり、見くびったり、排除したり、裁いたりするかもしれない。金銭関係の問題や、自分の個人的な利益に関する問題に直面したとき、僕らは互いに謀り合ったり欺瞞を行なったりしかねない。神様に仕えながら、他人が自分を仰ぎ見て偶像化するよう、自分の証しをして自身を高く掲げる可能性もある。何らかの地位に昇ると、他人を罠にはめて支配し、教会の中で派閥に分かれ、自分自身の王国を打ち立てるかもしれない。災害が起きたとき、それが人災だろうと天災だろうと、僕らはしばしば神様を責めて神様のことを誤解し、神様を裏切りさえする。これはいくつかの例に過ぎない。だから、律法の時代と恵みの時代に神様がなされた働きは、人々が自分の罪に気づけるようにし、それを悔い改めて告白できるようになったという成果を挙げたのは明らかだけど、僕らのいのちの性質を清めて変えるという働きはまだなされていなかった。主イエスは『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書8:34-35)、『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)とおっしゃった。僕らがいまも頻繁に罪を犯しかねず、堕落した性質がまだ清められていないことは、僕らを罪の奴隷も同然にしているんだ。僕らはいまだに永遠のいのちの道を見つけていないし、神様にお会いする価値もない」

 桂兄弟の話を聞いたあと、高兄弟は考え込むように言いました。「桂兄弟、君の話は本当にその通りだ。律法の時代にヤーウェ神がなされた働きは、律法と戒めを布告し、人の生活を導き、神様をどう崇拝すべきか教える働きだった。恵みの時代、主イエスは僕らを贖われ、悔い改めの道をお与えになった。主への信仰を持ったあと、僕らの罪は赦されるけれど、罪深い本性が深く根ざしたままで、なおも思わず罪を犯したり、時々腹を立てたり嘘をついたり、神様に反逆したりしかねない。僕らはいまだに清められていないんだ。桂兄弟、もしそうなら、律法の時代と恵みの時代の働きを受け入れるだけでは、罪を振り払えず永遠のいのちも得られないということにはならないか。僕は正しく理解しただろうか」

 桂兄弟は言いました。「君は間違っていないよ」

 高兄弟は続けました。「じゃあ、聖書を読んでも永遠のいのちを得られないとすると、どうすれば永遠のいのちを得られるんだろう」

 桂兄弟は眼鏡を外して拭いました。そしてしばらく考え込んでからこう言いました。「僕が出席したその集会でのみんなとの交わりから、人類が死ぬべき運命にあるのはひとえに神様から離れてしまったこと、神様の御言葉を自分のいのちとして受け取っていないこと、そして罪の中で暮らしていることが理由だと僕はついに理解した。罪に関するこの問題を解決して真理が自分のいのちとなるようにすることができる限り、神様は僕らが決して死なないように永遠のいのちをもって祝福してくださる。だから永遠のいのちの道を見つける人は、傲慢や欺瞞や利己心や悪意といったサタン的な堕落した性質にもはや支配されず、真理を自分のいのちとして受け取ったあとは決して罪を犯したり神様に抵抗したりせず、キリストと相容れるようになる。神様だけが永遠のいのちの道を有しておられ、それを僕らにお授けになれる。では、神様はいったいいつ、僕らに永遠のいのちの道をお授けになるのか。それは終わりの日だということでみんな一致しているし、聖書もその考えを支持している。主イエスがこう預言なさった通りだ。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。またヘブル人への手紙第9章28節にはこう記されている。『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである』。また黙示録の第2章と第3章でも『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』と7回も預言されている。さらにそこでは、神様のパラダイスにあるいのちの木の実と隠されているマナが人間に与えられるとも述べられている。だから主イエスは終わりの日にお戻りになるとき、聖書を乗り越えて、僕たちが永遠のいのちを得られるようにするすべての真理を表現なさることがわかるんだ。終わりの日のキリストが表現なさる真理を受け入れ、いのちの性質が変化し、罪が清められて真理を自分のいのちとして受け取るとき、僕らは永遠のいのちを得て、そのとき初めて天国へ引き上げられるのにふさわしくなるんだ」

 桂兄弟はそこでお茶をすすり、話を続けました。「僕は福音のウェブサイトでこのような神様の御言葉の一節を読んだ。『終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない』(『終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる』より)。永遠のいのちの道は終わりの日のキリストから生じるのであって、聖書から生じるものじゃない。聖書は神様の働きにおける以前の二段階を記録しているだけで、神様の証しに過ぎない。それは神様の権威や力や永遠のいのちを表わしているわけじゃないんだ。キリストだけが聖書の主でありすべてのいのちの源だ。まさに主イエスが『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない』(ヨハネによる福音書5:39-40)とおっしゃった通りだ。聖書にしがみつくだけで、お戻りになった主の働きを探し求めたり追究したりしないなら、僕らは決して主の出現をお迎えすることができず、永遠のいのちを得るのも不可能になってしまう。こうしたことを理解することが、永遠のいのちを得て、主への信仰を通じて天国へ入るのに不可欠なんだよ」

 高兄弟は喜びで顔を輝かせ、興奮した口調でこう言いました。「主よ、啓きとお導きに感謝いたします。聖書は神様の証しに過ぎず、永遠のいのちを含んでいないことをようやく理解しました。終わりの日のキリストだけが永遠のいのちの道を有しておられ、終わりの日のキリストが表現なさる真理を得て、自分の堕落した性質が清められて初めて、私たちは永遠のいのちを得て天国に入れるのです。そうだろう、桂兄弟」

 すると桂兄弟は言いました。「その通りさ。僕らは終わりの日のキリストの働きを受け入れなければならない。そうして初めて、永遠のいのちを得る機会がもたらされるんだ。主よ、感謝いたします」

 高兄弟も言いました。「主よ、感謝いたします」


噂や嘘を見抜いた後は光が見つかるでしょう(II)

2020-06-04 23:29:39 | 賛美の心

著者:シャオカオ(米国)

 そして、姉妹は続けてこう交流しました、「真の道と偽の道を見極めるために、私たちはその道が人間を導いて、普通の人間性をもっと貫き、神に関する知識をもっと得られるようにしてくれるかどうかを見分けるべきなのです。兄弟姉妹たちは中国で福音の伝導活動を行う際、中国共産党からの迫害を受けますが、彼らは神の御導きの下で困難や危険を恐れず、逮捕される危険にさらせれながらも神と協力し続けるのです。時に、彼らは福音を説く最中に相手から見捨てられ、侮辱されることもありますが、その人が心から神を信じている限り、彼らは愛と辛抱強さを土台にその人との交流を続けます。彼らがこれほどの信念、忍耐、そして愛を持っているのは神の御言葉による御導きのおかげであり、それはまた神の働きによって成し遂げられてもいるのです。」

 私はこの言葉に心を打たれました。私は自分の前にいる兄弟姉妹を見てこう思いました:「彼らはそれぞれ正直で、率直で、他人と誠実に接しているし、彼らの言葉も正直だわ。さらに、彼らは交流の中で神を讃え、神の証言もしている。彼らはインターネット上の噂の内容からかけ離れているわ。」その時、私は、調査をしてちゃんとした答えを出す前にインターネット上の噂を全て信じ込み、又しても神の働きを拒否していた自分が本当に無知だったと感じました。しかし、神は私を見捨てず、依然として私に対して慈悲を持ってくださったのです。この姉妹は真の道と偽の道を見分ける原則に関してとても明確に話してくれたので、私はその見分け方を知りました。神に感謝いたします!

噂や嘘を見抜く,光が見つかる,真の道と偽の道

 その後、姉妹は、「山東省招遠事件の裏に隠された真実の暴露」と「真実を明かす:邪悪な中国共産党による見せしめ裁判の実態」と題した映画を見せてくれました。中国共産党が全能神教会の噂を広め、全能神教会のクリスチャンを残酷に拷問したという事実を知った時、私は自分の目が信じられませんでした。私は彼らがここまで邪悪で、クリスチャンをこのように扱うほど人間性を失っているとは想像もしていませんでした。私は言葉で表現できないほど心が悲しくなり、思わずこう口走ってしまいました、「中国に住んでいたのでは中国共産党が何をしでかすが分かったものじゃないわ。中国のインターネットは制限されているから、私たちは彼らが秘かに行う卑劣で邪悪な行動を知ることができないわ。私たちは中国共産党に騙されているのよ。」

 私の言葉を聞いた姉妹はこう交流しました、「知っての通り、中国は無神論を信じる政党が統治している国です。政権を握って以降、中国共産党は宗教的信仰を絶えず抑圧してきました。それは聖書を狂信的宗教の文献とさえ呼びます。中国共産党の言葉に照らして教会を判断、そして定義するのはとんでもないことだと思いませんか?中国共産党は真理と神を極端に嫌い、人々が神の御声を聞いたら神を頼りにすることを恐れているのです。これ故に、誰も神に従わないのです。それは人々を永久に支配し、操るという野心と欲望を達成するため、全能神教会を理不尽に有罪とし、中傷し、神の福音の拡大を妨害、そして世の終わりの神の働きを禁止しようと試みているのです。これより、中国共産党は神に逆らい抵抗する悪魔サタンであることが分かります。真の道が古代から迫害を受けてきたことは誰もが知っています。主イエス様が働きをしに現われた時、主は宗教界とローマ政府による強烈な迫害と非難を受けました。今、神はまた受肉され、人間の中で働きをされていますが、全ての分派および宗派の指導者たちはそれを探求も調査もしていないどころか、彼らは全能神教会を熱狂的に批評、非難、そして中傷しているのです。彼らは全能神教会を中傷し、攻撃するために中国共産党と結託してさえいるのです。これは邪悪で暗い世代であり、人々は神の敵であることは明らかです。中国共産党と宗教界が認めるかどうかに照らして真の道を調査していたら、私たちは騙されやすくなり、そして神の救いを失って、ついには神から排除されてしまうでしょう。これは聖書にあるこの預言を現実のものとしています、「わたしの民は知識がないために滅ぼされる。」 (ホセア書4:6).

 実際、神の働きが宿る場所ではサタンによる妨害が起ります。サタンの策略を見抜けなければ、私たちはそれに騙され、捕まってしまうでしょう。神はこう仰っておられます:「神は業を行い、人間を慈しみ、見守るが、サタンは常に神の働きの邪魔をする。神が大事にする人間を、サタンも見ていてつけ回す。神がその人間を求めると、サタンは持てる力の全てでどんなことでもして神の行うことを阻もうとし、隠された目的を達成するため、あらゆる邪悪な方法で神の業を試し、邪魔し、挫折させようとする。サタンの目的は何であろうか。サタンは神が人間を得られなくなることを求めている。サタンは神が求める人間を求め、その者を自分のものとして支配し、掌握してサタンを崇拝させ、サタンと共に邪悪なことを行わせることを求めている。これはサタンの悪意に満ちた動機ではないか。」 神が人類を救おうとされる反面、サタンはインターネット上の噂を利用して私たちを妨害し、騙そうとしていますが、これは霊的戦いなのです。神に祈りを捧げず、真理を求めもせず、または真理を使ってサタンの策略、邪悪な本質、そして悪質な動機を見抜かなければ、私たちはサタンの策略に捕まって、神に救っていただける待望の機会を逃してしまうでしょう。」

 姉妹の交流を聞いた私は突然この認識に至りました:「インターネット上の噂はサタンの仕業だったのね。サタンはそれを使って私を騙して、私に全能神の働きを調査しないいようにして、私が救われる機会を逃してしまうようにして、最終的には私を貪り食おうとしているんだわ。サタンは本当に極めて卑劣で邪悪過ぎるわ。」神に感謝します。姉妹たちが私を何度も集会に誘ってくださり、そして辛抱強く私と心理について交流してくださったおかげで、私はサタンの策略に関する見識を持てるようになり、その結果、また神の前に立ち返ることができました。サタンの妨害を受けた後、私は人類を救う神の働きに関する知識を修得し、全能神が主イエス様の御姿であることをより強く確信することができました。私は最後まで主について行く決心をしました。

 その後、私は神の家族に戻って教会生活を送りました。兄弟姉妹たちと集会をしていると、とても幸せで解放された気分になりました。私は集会に参加し始めた時、記憶が悪く交流の内容を覚えていなかったのですが、彼らは私を疎外しないどころか、辛抱強く私が理解できるまで交流を続けてくださり、私はそこに神の愛を実感しました。私は集会に参加してお互いの経験、そして神の愛について兄弟姉妹たちと共有し合うのが増々好きになりました。神によるお引き上げと御恵みのおかげで、私は神の前に行くことができたのです。私は神に対する感謝の気持ちでいっぱいになり、真理を求めて神の愛に報いるために最善を尽くす決意をしました。その後、私は娘に何度も全能神の御国の福音を証した後、彼女も噂を見抜いて神に立ち返ることができたのです。神様有難うございます!