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いのちの源

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教会の人間関係-4つの原則を把握すれば他人との付き合いが楽になる

2020-02-19 23:09:52 | 賛美の心

寄稿家:ワン・ヂィハン

 多くの人にとって、他人の相手をすることは極めて大きな問題です。私たちは実生活において多くの人々に遭遇します。波長の合う人がいれば、合わない人もいます。私たちはクリスチャンとして、周りの人々をどう扱うべきでしょう?主の御心に従うには、主のどのような要件を実践するべきなのでしょう?私は真理の本にこれらの疑問の答えを発見した上に、この本に記されている通りに振る舞っていると、自分自身の人間関係が本当に解決しました。なので、私は自分の実体験に基づく理解を皆さんにお話したいと思います。

第1に、私たちは個人的な感情と好みにまかせて振る舞うのではなく、皆を平等かつ公平に扱うべきです
 主イエス様はこう仰りました:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書 5:46-48). 主の御言葉は、私たちはクリスチャンとして次に挙げることをしてはならないと明確に仰っておられます:「自分の利益となるものをもら える時だけ人々と正直に接し、傷つけられたら無視をする。気質の合う人たちと出会えば距離を縮め、気の合わない人たちは差別して遠ざける。高い地位に就く人または大きな権力を持つ人の機嫌を伺い、地位や権力のない人はのけ者にして見下す。」こんなことをしていては、私たちは未信者と同じで、主の信者と呼ばれるに相応しくないのです。

 実は、私たちもこのような表現があります。例えば、私たちは自分たちと気質の合う人に自分の欠点を指摘されても受け入れられますが、自分たちの好きじゃない人に指摘されると、それに耳を傾けずに自分たちのことを正当化し、反感を抱いて葛藤を覚えたり、攻撃することすらあります。これは、私たちが感情と好みにまかせて振る舞っていること、そして人々に不公平であることを示しています。これは主の御心と一致していません。私たちは主を信仰しているのだから、主に従って自らを愛するように他人を愛するべきなのです。人が自分たちと気質が合う合わないに関係なく、彼らが普通の兄弟姉妹もしくは教会の指導者であろうとなかろうと、私たちは彼らを騙したり、彼らに対して偏見を抱いたりせず、誠意を持って、かつ公平に彼らを扱い、寛大な心、辛抱強さ、そして愛情を持つべきです。こうしてこそ、私たちは主の御心に沿うことができるのです。

第2に、私たちは他人の欠点と堕落を正しく扱うべきで、恣意的に他人のことを説明したり非難するべきではありません
 主イエス様はこう仰りました:「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書7:1-2)。主イエス様は、もし他人が罪過や堕落を明らかにすることがあっても、私たちは彼らのことを恣意的に非難したり、説明したりすべきではないと教えてくださりました。なぜなら、私たちは皆同じくサタンに堕落させられた人間なので、他人の欠点と不足は私たちも持ち、私たちは他人の一時的な問題に基づいて、彼を裁いたら、これは極めて傲慢です。したがって、私たちは他人の欠点や堕落を正しく扱い、成長の可能性を探りながら他人を評価するべきです。これは当然と言えるでしょう。サタンのような堕落した性質にまかせて他人を扱い、他人に厳しい要求を課し、些細なことに時間を浪費し、恣意的に他人を非難し定義していたら、それは主の御心に沿っていないし、私たちは間違いなく他人と普通の関係を持つことはできないでしょう。

 例えば、私たちの教会には消極性と弱さが原因で決して時間通りに集会に参加しない姉妹がいました。私は彼女と何度も交流しましたが効果はありませんでした。私はこれにとても腹を立てて、彼女は神の誠実な信者ではないと決めつけていました。So, これ故に、私はもう彼女を支えるのも、彼女に気を配るのも止めてしまいました。その後、私は聖書にこう記されているのを目にしました:「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ人への手紙14: 3-4)。私はこれを読んでとても恥ずかしくなりました。私が否定的で弱気で挫折していた時に、私がしっかり立っていたれるようにと神が兄弟姉妹を動かして私のサポートをさせてくださったことを振り返りました。これと同様に、今私はあの姉妹が家族や世俗的なことのごたごたが理由で時間通りに集会に参加できないことを知っているのだから、彼女を優しく支えてあげるべきなのです。しかし、私は彼女の生活を心配したり、気に掛けたりせず、彼女を冷たくあしらい、彼女のことを神に誠実でない信者だと決めつけていたのです。私はとても邪悪で思いやる気持ちを全くもっていませんでした。私のとった行動は基本的に主の御旨に適っていなかったのです。私はこう気が付いた後、神の前に行って自ら犯した罪を告白し、それを悔い改め、姉妹を支え続け、愛情を持って彼女と交流し、自分の実体験を彼女に話す決意をしました。交流を何度か行った後、彼女は定期的に集会に参加するようになり、教会の仕事をするようにもなりました。この経験を通じ、私は、神が人間を救う働きをなさる間、私たち信者がどのような弱さと欠点を持ち、どのような種類の堕落を示そうとも、神の誠実な信者であり、過ちを犯したら神の前で悔い改めができる限り、神は私たちに変化を遂げる機会を与えてくださるのだと理解しました。そのため、私たちは愛情をもって他人を助け、許し、そして皆を神の要件に従って扱うべきなのです。私たちは他人を恣意的に定義したり、非難したりしてはならないのです。他人をこのように扱うことのみが公平であり、主の御心と合致しているのです。

第3に、私たちは他人を過大評価も過小評価もせず、他人の長所を発見して自らの欠点を補うことを学ぶべきです。
 聖書にこの記述があります:「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3-5)。兄弟姉妹と触れ合う時、私たちには自分たちに一定の能力があり、力量と才能も少しあるからといって、才能がなく、或いは愚かで力量に乏しい人たちを見下していたら、これは皆サタンの傲慢な性質に支配されているのです。主イエス様はこう仰りました:「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイによる福音書 23:12)そのため、私たちは自分を正しく扱い、賜物や特長を自分を誇る資本と見なさず、多く自らを捨て去り、謙遜して他人の長所を生かしながら自分たちの欠点を補うべきです。こうしてのみ、神は私たちに満足してくださり、私たちのいのちも継続的に成長していくのです。

 加えて、私たちは人の愚かさや賢明さ、力量の良し悪し、貧乏なのか裕福なのかに関係なく、他人に対して偏見を抱いたり、自分の好みにまかせて彼らを扱うべきではないことを知っておかなければなりません。私たちがどのような外見をしていても、どのような力量、長所、そして才能を持っていても、それは神から事前に定められているものであるため、私たちが他人のあら探しをするべき理由などはありません。神が人を救われるかどうかはこのような外面的なことで決まるものではありません。従って、私たちはこのようなことを気にするべきではないのです。むしろ、私たちは皆の欠点を正しく扱い、他人を尊重することを学ぶべきなのです。

第4に、私たちは他人が自分の考えと合わない行為をしているのを見ても、先ずは他人の問題には注目せず、自分たちを知ることを学ぶべきです。
 主イエス様はこう仰りました:「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイによる福音書7:3-5)。他人と触れ合う上で、小さな衝突はつきものです。私たちはむやみに他人に執着したり、善し悪しにこだわったり、他人を責めようとせず、自分自身の問題を見つけることを学ぶべきです。自らを知れば、他人に対する偏見は自然と脇に置くことができるでしょう。

 私はこの経験は沢山してきました。例えば、私がペアを組んでいた姉妹が、私は教会の仕事で何の責任も担っていないと言いながら私の欠点を何度も指摘してきたことがありました。私はこれを神からのものと受け入れなかっただけでなく、彼女は私を意図的に虐め、面倒な状況を作り上げていると思ったのです。私はこれが理由でこの姉妹に対して先入観を持つようになり、彼女と教会の仕事をするのが嫌になりました。その後、私は探求により、私が他人のアドバイスを拒否していたのは自分のサタンのような傲慢な性質に支配されていたことを知りました。同時に、私はこう気が付きました。実際に、私が毎日のように遭遇する人々、出来事、そして物事は神が私を変えて救うために用意してくださっているのです。あの姉妹が私にとって面倒な状況を作り上げていた訳ではなかったのです。私は神様からそれらのことを受け取り、姉妹の正しいアドバイスを受け入れ、自分の問題も反省すべきでした。その後、反省を通して、私は自分が確かに本当の重荷を担っておらず、慣習に縛られ、どのようにすればより良い効果が得られるかを尋ね求めなかったことを認識しました。これらに気づいた後、私は進んで姉妹に心を開いて自分の堕落を打ち明けました。最終的には、私たちは霊的に繋がり、以前の調和に戻ったのです。

 上述した4つの原則は私の実体験に基づく理解です。神の教え通りに皆を扱って、周囲の人々に利益をもたらすことができてこそ、私たちは真の人間らしさを貫くことができ、神を讃え、神の証言をすることができるのです。


仕事の人間関係-今後、私は同僚をとがめるのをやめます

2020-02-18 22:47:30 | 賛美の心

寄稿家:シンディ(米国)

 今朝、ケリーが私にこう言いました、「私の前の同僚のアラは職場で些細なことを気にして、小さな問題を詮索しているの。これが原因で彼女の同僚はみんな彼女と仕事をするのを恐れているわ。だから彼女はこれにすごく動揺してて、私にこの問題の解決方法を聞いてきたの。でも私には解決の仕方なんて分からないわ。何かいい解決策ないかしら?」

 ケリーの質問を聞いて私は落胆しました。私は、「何でアラの行動は私とこんなに似ているのかしら?私も職場でいつも些細なことを詮索しているわ」、と思いました。その瞬間、昨日の出来事のシーンが頭に浮かびました:支店にいる私の同僚のヴィッキーがチェックの必要な書類の最適化されたタイトルを私に3つ送ってきました。私はこれらの最適化されたタイトルは数字を欠いていて、その後には二重引用符が続いて元のタイトルを置き換えてしまっているのを目にしました。私はこれは見た目が良くないと感じました。こうして私は隣に座っていたケリーに大きな声でこう言いました、「ヴィッキーは働き方が本当にいい加減だわ。見てよ、彼女は最適化されたタイトルの前に番号を打ってないし、二重引用符で元のタイトルを置き換えることしかしてないのよ。これは見た目が全く良くないわ。彼女は本当にいい加減よ。」

 私の声が鎮まると、私たちの事務所にいる他の同僚が笑い声を上げ、ベイキーがこう言いました、「シンディ、あなたって本当によく詮索するわね。」彼女の言ったことを聞いた私は真剣な口調でこう言いました、「私は詮索してこういったことに気を付けないといけないのよ。ヴィッキーがこんな書き方をするのは無責任だし、見た目が悪いわ。彼女が残りを完成させるのを手伝って、綺麗に書き上げる方法を見せてあげる必要があるのよ。」そして、私は番号を1、2、3と元のタイトルを追加し始めました。こうした後、私はやっとこれら最適化したタイトルが適切であるかを確認する気分になりました。私はこれを読んでこう思いました:「ヴィッキー、あなたの仕事に対する姿勢は本当に酷いわ。もう何度もこんなことをしているわ。私の誠実な姿勢を見てみなさい。私はあなたみたいにふざけたことはしないわ。」

 これを今振り返ってみると、私はこうしながら誠実に慎重に仕事をしていたのではなく、ささいなことに注目していたのだと気が付きました。実際、これらの最適化されたタイトルは番号と元のタイトルがなくてもよかったのです。なぜなら、これには何の原則もなかったからです。ヴィッキーはタイトルは既に書かれていたので、最適化タイトルを書く時はそれを1つずつ書くことはしないと私に言っていました。しかも、タイトルの数は僅か3でした。それらには番号は付けられていませんでしたが、タイトルがいくつあるかは全員が分かっていたのです。なので、彼女は時間を節約して他の事ができていたのです。しかし、私はこれを心の中では受け入れられず、良く見せるために全てのアイテムを書くべきだと常に思っていました。従い、私はヴィッキーが何度もこのように最適化タイトルを書くのを見る度に、彼女は怠慢だとか仕事を真剣にしていないと文句を言って、怒りながら彼女の残りの仕事を完成させていました。

 この時、私は聖書のこの言葉が頭に浮かびました、「高ぶりおごる者を『あざける者』となづける、彼は高慢無礼な行いをするものである」(箴言 21:24)。この言葉には痛い所を打たれ、私は恥ずかしい思いをしました。私は小さなことに真剣になり、同僚のあら探しをし、彼女の書類にしつこく変更を加えようとしていたのです。さらに、これを理由に、私は自分が仕事に対して真剣で誠実であると思って自分を褒めていたのです。私は傲慢ではなかったでしょうか?

 振り返ってみると、私はいつも小さなことを詮索し、同僚たちのミスをほじくり出していました。例えば、私の同僚たちが書類の書式を調整していないと、私は彼らを叱りました。彼らの書類の活字書体が一致していない時も、私は彼らをとがめました。書類の中の文字を変更するかしないかということになれば、私はそれを変更していました⋯⋯私は常に極めて小さな詳細にこだわっていたため、私の同僚たちは言葉を失い、私のことを少し恐れていました。実際、私は時に、自分が注目していたこの小さな詳細は重要ではないのではないかと熟考することがありました。しかし、私はこれらの問題を見つけてそれを自分の意思通りに訂正したかったのです。今、私はこれは自分が傲慢過ぎていたことが原因だったと理解しました。そして、私は心の中で神にこう祈りを捧げました、「ああ、神様!私はもうこんなに傲慢になったり、些細なことを詮索したくはありません。どうか実践する道を見つけて、我執を捨て、同僚たちと普通の関係を取り戻せるよう私を御導きください。」

 祈りを捧げた後、私はこう思いました:「主イエス様は人間を罪から救うために天から地へと降臨されました。主は罪人たちの中で御座りになりながら謙虚に御自身を御隠しになられました。主は人間と共に生活され、人間に対する慈悲、愛情、そして寛容と忍耐で満ちておられました。主は決して人々をそれぞれの罪過に従って非難されることはありませんでした。神の寛大さは無限であり、私たち人間に対する愛で満ち溢れていました。私はサタンに堕落させられた、腐敗だらけの人間です。私は神の前では罪人であり、傲慢になれることは何一つありません。私は謙虚な人になって主の愛を貫くため、主の示された模範に見習うべきなのです。私は兄弟ペテロのこの言葉を覚えています、「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい」(ペテロの第一の手紙 3:8)。その通りです。私たちは他人と一緒に働く時は心を1つにし、お互いを理解し、愛し、尊重し合うべきなのです。私たちは他人の小さなミスを見つけて彼らを見下したり、自分たちの個人的な好みに従って他人に要求したりすべきではなく、まして自らを自慢したり自己顕示するべきではないのです。これが私の実践すべきことなのです。ヴィッキーが次回もあのようにタイトルを書いたとしたら、私は絶対に彼女のやり方を尊重して彼女に謝罪するべきです。

 私はある程度知識を得た後、心が大分軽くなりました。私は聖書のこの言葉について考えました、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙 8:28)。そして私は神にこの状況を作ってくださったことを感謝しました。私はケリーがアラの問題について述べたことを受けて自分自身の問題について反省しました。これが自分の傲慢さを解決し、他人と普通の関係を取り戻すための道だったのです。後に、私はケリーにこの記事を読ませて、自分の体験が彼女の同僚、アラ、の役に立つことを願いました。

 今後、私はもう同僚をとがめません。


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落ち葉が土に還る時、あなたは行ったあらゆる悪事を後悔するであろう

2020-02-17 23:27:35 | 賛美の心

 あなた方は皆、わたしがあなた方の間で行った働きを自ら見、わたしが語った言葉を自ら聞き、あなた方に対するわたしの態度も知っている。それ故に、わたしがこの働きをあなた方の内に行っている理由を知っているはずだ。あなた方に真実を話そう─あなた方は、終わりの日におけるわたしの征服の働きの道具に過ぎない。あなた方は、異邦人の国々にわたしの働きを広げるための手段である。わたしの名が異邦人の国々、つまりイスラエル以外のあらゆる国々に広まるよう、わたしの働きを広めるために、わたしはあなた方の不義、汚れ、抵抗と反抗を通じて語るのである。それは、わたしの名、わたしの行い、わたしの声が異邦人の国々全体に広まり、それによりイスラエルではないそれらの国々すべてがわたしにより征服され、わたしを崇拝し、イスラエルとエジプトの地の他にもわたしの聖地となるためである。わたしの働きを広げるのは、実際はわたしの征服の働きを広げ、わたしの聖地を広げ、わたしの地盤を広げることである。あなた方は、わたしが征服する異邦人の国々にある単なる被造物に過ぎないことをよく知っておくべきである。あなた方は、元来何の身分も持たず、用いられる価値も持たず、全く無用であった。ひとえにわたしが糞の山から蛆虫を引き上げ、わたしの全土征服のための見本とし、わたしの全土征服のための唯一の「参考物」としたおかげで、あなた方は幸運にもわたしに接し、今わたしと共に集ってきたのである。あなた方の身分の低さゆえに、わたしの征服の働きの見本、ひな形となるようわたしはあなた方を選んだ。わたしが働き、あなた方の間にあって語り、わたしが生きてあなた方と留まるのは、それのみが理由である。わたしがあなた方の間にあって語っているのは、糞の山の蛆虫であるあなた方に対するわたしの経営であり、わたしのあなた方に対する憤るほどの極度の嫌悪ゆえのみであることを、あなた方は知るべきである。わたしがあなた方の間にあって働いているのは、ヤーウェがイスラエルで働いているのとは全く違い、イエスがユダヤで働いているのとは殊更に違う。わたしは非常な忍耐を持って語りかつ働き、裁きと共に怒りをもってこうした堕落した者どもを征服する。それはヤーウェがイスラエルでその民を導くのとは全く違う。イスラエルにおけるヤーウェの働きは、食べ物と生ける水を授けるためであり、ヤーウェはその民に施すに当たり、民への憐みと愛に満ちていた。今日の働きは選ばれていない、呪われた国において為される。食べ物は豊富になく、渇きを鎮めるための生ける水もない。さらに、物質的な品物も十分にない。裁き、呪い、刑罰の供給が十分にあるだけである。そうした糞の山の蛆虫は、わたしがイスラエルに与えたような牛や羊のいる丘や巨大な富、国中で最も美しい子供らを得られるだけの価値は全くない。現代のイスラエルは、わたしが与える牛や羊、そして金銀の品を、律法の下でヤーウェにより定められた十分の一よりも多く祭壇に捧げる。そこでわたしは彼らにさらに多く、律法の下でイスラエルが得る百倍以上を与えた。わたしがイスラエルを養うための物は、アブラハムやイサクが得た物を超える。わたしはイスラエルの家族を豊穣にして増やし、わたしのイスラエルの民を全世界に広げる。わたしが祝福し労る者は、未だにイスラエルの選ばれし民、つまり、わたしにすべてを捧げ、わたしからすべてを得る民である。それは、彼らがわたしを心に留め、わたしが戻ってくることを心待ちにしてわたしの聖なる祭壇に生まれたての子牛と子羊を生贄として捧げ、わたしの前に持てる物すべて、生まれたての長男でさえをも捧げるからである。しかし、あなた方はどうであろうか。あなた方はわたしの怒りを呼び起こし、わたしに対して要求し、わたしに捧げものをする人々の生贄を盗んでいるにもかかわらず、わたしを怒らせていることを知らない。ゆえに、あなた方が得るのは暗黒の中での嘆きであり刑罰である。あなた方は何回もわたしの怒りを呼び起こし、わたしは燃え盛る火を降らせたので、多くの者が悲劇的な結末を迎え、その幸福な家庭は荒れ果てた墓となった。そうした蛆虫に対し、わたしは終わりのない怒りしか持たず、祝福を与える気は全くない。わたしが例外としてあなた方を引き上げ、あなた方の間で働くという大いなる屈辱に耐えてきたのは、わたしの働きのためだけである。もし父の旨のためでなかったならば、どうして糞の山の中で転げまわる蛆虫と同じ家で生きられたであろうか。わたしはあなた方のあらゆる行いや言葉に対し極めて嫌悪を感じるが、いずれにせよあなた方の汚れと反抗にいくらかの「関心」があるため、それはわたしの言葉の偉大なコレクションとなった。さもなければ、わたしは決してあなた方の間にかくも長い間留まらなかったであろう。そこで、あなた方に対するわたしの態度は同情と憐みに過ぎず、全く愛のない、忍耐だけであることをあなた方は知るべきである。なぜなら、わたしはそれをわたしの働きのためだけに行っているからである。そして、あなた方にわたしの行いが見えたのは、わたしが汚れと反抗を「原材料」として選んだために過ぎない。さもなければ、そうした蛆虫にわたしの行いを見せることは決してない。わたしは嫌々ながらあなた方の間で働いているだけであり、わたしが喜び進んでイスラエルで働いたのとは全く違うのである。わたしは怒りをこらえて、嫌々あなた方の間で語っているのである。わたしのより大きな働きのためでなかったら、そうした蛆虫を見続けることにどうして耐えられようか。わたしの名のためでなければ、とうの昔に最高の高みに昇り、そうした蛆虫と糞の山を完全に焼き尽くしていたであろう。わたしの栄光のためでなければ、そうした邪悪な悪魔がわたしの前で頭を揺らしながらわたしに公然と反抗するのを、どうして許せたであろうか。わたしの働きが何の障害もなくスムーズに実行されるためでなかったら、そうした蛆虫のような者らが気の向くままにわたしを虐待するのを、どうして許せたであろうか。もしイスラエルで百人の村人らがそのように立ち上がり、わたしに反抗したならば、例え彼らがわたしに生贄を捧げていようと、彼らを地の割れ目の下へと消し去り、他の都市の人々がそれ以上抵抗することのないようにしていたことであろう。わたしは燃えつくす火であり、侮辱に耐えることはしない。人間はすべてわたしから作られたのであるから、わたしのすべての言葉や行いに人々は従わなければならず、抵抗してはならない。人々はわたしの働きに干渉する権利はなく、特にわたしの働きや言葉の何が正しく何が間違っているかを分析する資格はない。わたしは創造の神であり、被造物はわたしに対し畏敬の念を持って、わたしが求めるすべての事を成し遂げるべきである。また、わたしに対し理を説くべきでもないし、抵抗はなおさらするべきではない。わたしは自らの権威をもって我が民を統べ、わたしの創造の一部を成す者はすべてわたしの権威に従うべきである。今日あなた方はわたしの前にあって大胆で厚かましく、わたしがあなた方を教えるのに用いる言葉に従わず、恐れを知らないが、わたしはただあなた方の反抗に耐えているだけである。取るに足らない蛆虫が糞の山で汚物を掘り返しているからといって、わたしは怒りを爆発させてわたしの働きに影響を及ぼすようなことはしない。わたしは父の旨のために、わたしが言葉を発し終えてわたしの最後が来るまで、忌み嫌うものすべてが存在し続けるのに耐える。だが、心配することはない。わたしは名もない蛆虫と同じ程度に成り下がることはできず、あなたと技を比べ合うこともない。わたしはあなたを心から嫌うが、耐えることができる。あなたはわたしに従わないが、父がわたしに約束したあなたへの刑罰の日を逃れることはできない。創造された蛆虫は、万物を創造した神と比べ得るであろうか。秋には、落ち葉は土に還り、あなたは「父」の家に帰り、わたしは父の傍らに戻る。わたしは父の優しい愛と共にあり、あなたは父に踏みにじられる。わたしは父の栄光を手にし、あなたは父の辱めを受ける。わたしはあなたに向けるのをずっと控えてきた刑罰を用い、あなたは既に何万年も腐敗し続けている悪臭を放つ肉体をもってわたしの刑罰を受け止める。わたしはあなたの内にあって忍耐を伴ったわたしの言葉の働きを終え、あなたはわたしの言葉により苦悩の災いを受ける役割を果たし始める。わたしはイスラエルにあって大いに喜び、働くが、あなたは悲嘆にくれて歯噛みをし、泥の中に生きて死ぬ。わたしは元の姿を取り始め、もはやあなたと共に汚れの中に留まることはないが、あなたは元の醜い姿のままであり、糞の山の中でうごめき続ける。わたしの働きと言葉が完了する時、わたしには喜びの日が訪れる。あなたの抵抗と反抗が終わる時、あなたには悲嘆の日が訪れる。わたしはあなたに同情することはなく、あなたがわたしを見ることは二度とないであろう。わたしはもはやあなたと言葉を交わすことはなく、あなたはもはやわたしに出会うことはないであろう。わたしはあなたの反抗を憎み、あなたはわたしの愛を懐かしむであろう。わたしはあなたを打ち、あなたはわたしを懐かしむであろう。わたしは喜んであなたから離れ、あなたはわたしに対する負い目に気付くであろう。わたしはあなたに二度と会うことはないが、あなたは常にわたしを待ち望むであろう。あなたが今わたしに抵抗するので、わたしはあなたを憎むであろうが、わたしが今あなたに刑罰を与えるので、あなたはわたしを懐かしむであろう。わたしはあなたと共に生きるのに気が進まないが、あなたはわたしにしたすべての事を悔やむので、わたしがあなたと共に生きるのを激しく切望し、永遠に悲嘆にくれるであろう。あなたは自分の抵抗と反抗を後悔し、後悔のあまりその顔を地に伏せ、わたしの前に身を投げ出して、これ以上わたしに逆らわないと誓うであろう。しかし、あなたは心の内でわたしを愛するだけで、わたしの声を二度と聞くことはできない。なぜなら、わたしはあなたを辱めるからである。

 今、わたしを欺くあなたの束縛のない肉体を見るに当たり、あなたに対してはささやかな警告しかない。わたしは決してあなたに「仕える」ために刑罰を通じて行動を起こすのではない。あなたはわたしの働きにおける自分の役割を知っているべきである。そうすれば、わたしは満足するであろう。さらに、あなたがわたしに抵抗しわたしの金銭を費やし、わたし、ヤーウェの生贄を食べるのであれば、蛆虫であるあなた方は互いに噛みつき合ったり、犬のような被造物であるあなた方の間には対立や暴行が起こったりする─しかし、わたしはそのような事には一切関心を持たない。あなた方は、ただ自分がどのような者であるのか知ればよい。それでわたしは満足するであろう。こうした事を別として、あなた方が剣や槍でお互いを突いたり、言葉によって争い合ったりするのは構わない。わたしはそうした事に一切干渉したくないし、人間の事に一切関わりはしない。あなた方の間の対立を気に掛けないわけではないが、わたしはあなた方とは同じではなく、それ故にあなた方の間の事には加わらないのである。わたし自身は被造物ではなく、この世界の者ではない。そこで、わたしは人々の騒々しい生活と人々の厄介で不適切な関係を心から嫌うのである。わたしは特に騒々しい群衆を心から嫌う。しかし、わたしはそれぞれの被造物の心の内にある不純を深く知っており、あなた方を創造する前に、人間の心の内に深く存在する不義を既に知っており、偽りと不正も全て知っていた。それ故に、人々が不義を行う時にその痕跡が全くなくとも、あなた方の心の内に秘められた不義はわたしが創造したすべての物の豊かさを超えることを知っているのである。あなた方一人ひとりは、群衆の最高の高みに昇りつめた。あなた方は昇りつめて群衆の祖先となった。あなた方は極めて身勝手であり、蛆虫の間で暴れまわりながら、安らぎの場所を求め、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなた方は海底に沈んだ幽霊にも増して心の内に悪意と邪悪を持っている。あなた方は糞の最下層に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して心穏やかにさせないようにし、争い合っているかと思えば静かになっている。あなた方は自分の身分も知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのであろうか。あなた方がわたしに対し真に畏敬の念を持っているならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどんなに高くても、あなたは糞の中にいる臭く取るに足らない虫であることに変わりはないではないか。あなたは、羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか。臭く取るに足らない虫であるあなた方は、わたし、ヤーウェの祭壇から生贄を盗む。そうする中で、堕落し、衰えている自らの名を回復して、イスラエルの選民になることができようか。あなた方は恥知らずの哀れな存在である。祭壇の生贄は人々がわたしにささげた物であり、わたしを恐れる人々の情け深さを表している。それらはわたしが支配するためのものであり、わたしが用いるためのものであるのに、人々が捧げた小さなキジバトをどうしてわたしから奪うことができようか。あなたはユダになることを恐れないのであろうか。あなたの地が血に染まった荒野となることを恐れないのであろうか。恥知らずな者よ。あなたは、人々が捧げたキジバトが蛆虫であるあなたの腹を養うためだけの物であると思っているのか。わたしがあなたに与えた物は、わたしが喜んで与えた物である。わたしがあなたに与えなかった物はわたしが好きなようにできるのであって、あなたがわたしへの捧げ物をただ盗むことはできない。働く者はわたし、ヤーウェ─創造の神であり、人々が生贄を捧げるのは、わたしのためである。あなたは、それがあくせくしているあなたへの報酬であると思うのか。あなたは本当に恥知らずである。あなたがあくせくするのは、誰のためであるか。自分のためではないか。なぜわたしの生贄を盗むのか。なぜわたしの金袋から金を盗むのか。あなたはユダ・イスカリオテの息子ではないか。わたし、ヤーウェの生贄は、祭司が享受するものである。あなたは祭司であるのか。あなたは、うぬぼれてわたしの生贄を食べ、食卓に並べさえするのか。あなたには何の価値もない。あなたは何の価値もない、哀れな存在である。わたし、ヤーウェの火は、あなたを燃えつくすであろう。

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東方閃電が真の道であるなら、なぜ抑圧されるのか

2020-02-16 20:51:57 | 賛美の心

信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ、

 私はしばらく前から東方閃電の道について調べています。全能神の御言葉を読み、全能神教会の福音映画やビデオを見ることで、神の三段階の働きの目的、神の受肉の奥義、神が各時代に異なる名をおもちになることの意義、聖書の内幕、賢いおとめとは何か、愚かなおとめとは何か、真に携挙されるとはどういうことか、終わりの日の神の裁きの働きがいかに人々を清め、変え、完全にするのか、そして人々の終着点と結末は何かについて学びました。それまで理解していなかった真理を多く理解するようになり、神への信仰と愛を取り戻しました。霊的な喜びをたくさん得ました。全能神の御言葉が真理であると知ったのです。それには権威と力があり、人間には発せられるはずがありません。聖霊から来る発言です。東方閃電が真の道に違いないと私は感じます。しかし宗教界の牧師や長老の中には、「もしそれが真の道ならば、なぜ中共にあれほど抑圧され、迫害され、非難されるのか」と言う人がいます。この点がよくわからないので、もっと探求したいと思います。

陽(ヤン)光(グアン)

陽(ヤン)光(グアン)さんへ

 全能神の御言葉を読むことであなたが得た理解と経験はすべて聖霊の啓きと導きです。神に感謝!けれど、中国共産党政府の神に抵抗し、真理の敵である本質を見抜けなければ、牧師や長老たちがそうしたことを言うのを聞くと混乱してしまいます。それはまったく当然のことです。主イエスはかつて、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」とおっしゃいました(マタイ福音書7:7)。神は信実な方ですから、純粋に求める限り、私たちが真理を理解することができるように神は啓いて導いてくださり、問題は解決できます。以下にはあなたの経験している混乱を私たちがどのように理解しているかを記しました。お役に立てれば幸いです。

真の道は昔から迫害されてきた
 宗教界のほとんどの牧師や長老は、「もし東方閃電が真の道ならば、なぜ中共政府にあれほど抑圧され、迫害され、非難されるのか」などと言います。彼らが言わんとするのは、真の道なら中国政府はこうしたことをしないだろう、ということです。この観点は真理に沿い、神の働きの事実に沿っているでしょうか。主イエスがこの世に降誕されたばかりの時を思い起こしてください。ヘロデ王は東方の三賢人から、ユダヤ人の王が生まれたと聞きました。ヘロデ王は自らの王位が奪われるのではないかととても恐れて不安になったので、ベツレヘム周辺にいる二歳未満の男子を皆殺しにせよと命じました。そして主イエスが出現なさり働き始められたとき、パリサイ人は主イエスに付き従うユダヤ教徒が増えていくのを見て、自分たちの地位と生活のことを懸念したため、主イエスが逮捕されてローマの総督ピラトに引き渡されるように仕向けました。ピラトは主イエスが何の罪も犯していないことを知っていましたが、自らの支配と地位を維持したいがために、パリサイ人と協力して、主イエスを十字架に付けさせたのです。明らかに、権力者たちは身分と権力だけを尊び、真理への愛がありません。彼らの本質は神と真理への憎しみです。主イエスは誕生された時から正式に働きを始められた時まで、支配層とユダヤ教指導者たちの非難と抑圧を絶えず受けられました。主の使徒と弟子たちでさえ、天国の福音を広めていたとき、支配者やパリサイ人に激しく非難され、逮捕され、迫害され、さらには殉教させられました。しかし今、主イエスは真の神ではなかった、その働きは真の道ではなかったなどと大胆にも誰が言うでしょうか。宗教の牧師や長老たちの見方に基づくなら、主イエスの働きもまた非難されるべきではありませんか。ですから、彼らのこの推論は少しも筋が通らず、人間的な観念と想像に過ぎません。真理と神の働きに完全に反しており、馬鹿げた見解です。


 それでは、東方閃電が真の道であるなら、なぜ中共政府にこれほど非難され、迫害されるのでしょうか。これは中共の「神に逆らう」という悪魔的本質と直接関わっています。中共政府が最も真理を憎み、神に逆らうサタン的政権であることは周知の事実です。中共政府は自らを、ヨーロッパに出没し、後に邪悪な理論である共産主義に発展した幽霊とさえ称しています。党によって惑わされ堕落した人々に神を否定させ、神に抵抗させ、「天と戦い、地と戦い、人と戦う」という悪しき道をたどらせます。中共政府が本物の悪魔であることは明白です。サタンなのです。1949年に政権に就いて以来、中共の行動は明らかにその悪魔的本質を露呈しています。教科書や有名人の思想や言論によって人々にじわじわと影響を与え、その結果、中国人民は無神論、唯物論、進化論、マルクス・レーニン主義といった異端と邪説を植え付けられています。中共は人々を強引に洗脳することで、神の存在や人が神に創造されたことを信じなくさせ、特に神が常に人類を養って育ててくださり、私たちの運命を支配されていることを信じなくさせます。代わりに、党を崇拝させ、従わせ、その賛美を歌わせます。その上、その無神論的な独裁体制を強化するために、宗教信仰を迫害し、狂ったようにキリスト教徒を抑圧して逮捕することに手段を選びません。その政権の初期から、中共は宗教信仰を厳しく取り締まり、教会を禁止して閉鎖し、キリスト教を邪教と指定してきました。無数の聖書が没収されて廃棄され、多くの欧米の宣教師が国から追放されたり、さらには逮捕されたり、死ぬまで迫害されたりしました。たくさんの家庭教会の指導者たちが投獄され、「更生」を余儀なくされました。1970年代後半になると、中共は民主主義諸国の援助と支持を得るために、もはや信仰に反対しないと国際社会に約束しました。憲法に中国人民は「信仰の自由を享受する」と書き加え、全国に三自愛教会を建て始めました。外部の目をごまかすために信仰の自由の旗を振りながら、その裏では家庭教会への狂乱した攻撃と弾圧を決してやめませんでした。信者を逮捕し迫害し続けたのです。この間、数え切れないほどのキリスト教徒が逮捕され、拘留され、過酷な労働を強いられ、刑を宣告されました。障害や死亡に至るほど残忍に拷問された人さえいます。これは中国国内でも海外でも一般に認知された事実であり、検証可能な事例があります。

 特に、終わりの日のキリスト、全能神が中国に出現し働き始められた1991年以来、神を純粋に信じて真理を愛し神の出現を待ち焦がれる人のあいだで、全能神の御言葉を読み、「御言葉には権威と力があり、すべて真理の表現で、神の御声だ」と断定する人が増え続けています。彼らは次々に終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の御座の前に戻りました。終わりの日の全能神の福音は中国本土全体に伝えられ、海外の多くの国と地域にも広がっています。全能神教会は世界中の多くの国で設立されました。全能神教会の急速な発展と成長を目にすることは中共にとって恐ろしいことでした。全能神の御言葉が全人類に広まり、万人が全能神に立ち返り、御言葉から真理を理解し、中共の邪悪で反動的な本質を見抜くことをとても恐れたのです。中共の真理を憎み、神に逆らう悪魔的な素顔が完全に白日の下にさらされ、全人類が党を拒み、踏みつけるでしょう。中国での足場がなくなるばかりか、他国の人々に嘘をついて害を加え続けることは特に不可能になります。そうなると、世界を完全に制覇するという中共の野望は消し去られます。中共が全能神が表されたすべての真理に対してこれほど極端な憎しみを抱いているのは、このためです。中共が全能神を憎むのは、このためです。ここ数年にわたって、中共は全能神教会を一掃するという目的で、宗教高級会議を開き、キリスト教の抑圧と撲滅を党内の主要な政治的課題としています。特に習近平が政権を握って以来、「キリスト教中国化」と「キリスト教共産化」が推進されています。全国各地で、家庭教会が容赦なく弾圧され、取り締まられてきました。至る所で教会が取り壊され、公認の三自愛国教会さえもほとんどが潰され、聖書が公の場で販売できなくなりました。宗教信仰が目に余る程ほど蹂躙されています。特に全能神教会に属すキリスト教徒には、「取締が終わるまで兵は撤収させない」、「まとめて捕らえ、まとめて抹殺」という政策が厳しく適用されています。それによりキリスト教の弾圧は史上かつてない域に達しています。全能神に対する中共の反対と非難はヘロデ王すら凌駕しています。中共は中国に無神論区域を確立することを意図し、神の働きを一掃することを空しくも夢見ています。その目的は、自らの赤い政権を維持し、中国人民を永久に支配し、虐げ、搾取し、害を加えることです。挙句の果てには中国人民を死ぬまで拷問し、地獄に引きずり落とします。神と真理をこれほど憎む国で働かれている全能神が中共政府の弾圧、非難、中傷、冒涜の対象となられているのは不思議ではありません。主イエスははるか以前に「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである」(ヨハネ福音書3:19)とおっしゃいました。またヨハネの第一の手紙第5章19節には「全世界は悪しき者の配下にある」とあります。

 ですから、真の道であるか否かは、ある国の政府がそれを非難したり抑圧したりするかに応じて考えることはできません。そうではなく、神が表された真理と行われた働きに基づいて判断されるべきであり、これが正しいやり方です。中共には真理がなく、中共が語ること、なすことはすべて天に反し、神に背いています。中共は真理を憎み、神に抵抗し、神の義なる罰を受ける運命にある悪魔サタンです。私たちを愚か者にする中共の噂と嘘に耳を傾ければ、私たちは主の出現と働きを受け入れることができなくなるばかりか、中共と一緒に悪事を犯したことになり、そのため最終的には神の罰を受けることになります。

真の道か判断するための原則
 神の御言葉に述べられています。「真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、この道に聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。そして、受肉した神への信仰でさえ、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より)「このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 全能神の御言葉は、真の道と偽りの道を識別するための基準を私たちに与えてくれます。真の道には聖霊の働きと真理の表現があります。神によって表された真理は、私たちが命において必要とする糧を施してくれます。それにより私たちは万事において実践の道を得られ、加えて、堕落した性質を変えていただくことができ、神が私たちに要求なさる現実を生きることができます。

 終わりの日のキリスト、全能神が出現なさり、働かれています。全能神は数百万語もの言葉、すべて真理であり、人類を救うための神の六千年の経営計画の奥義を完全に明かした言葉を発せられました。御言葉のおかげで私たちは神がいかに律法の時代に人々の生活を導かれたのか、主イエスがいかに恵みの時代に人間の贖いの働きをなさったのか、そして今、神の国の時代において神がいかに人々を裁き、罰し、清め、変えられるかを理解することができます。御言葉はまた、私たちがこれまで理解できなかった真理の奥義をすべて明らかにし、神がなぜ救いの働きをするために肉となられたのか、なぜ異なる名をおもちになるのかを教えてくれます。サタンがいかに人々を堕落させ、そして神がいかに人々をお救いになり、神が誰を救い、誰を排除なさるか、人類の将来の終着点と結末は何か、人々が完全な救いを得て天国に入ることをいかに求めるべきかなど、あらゆる真理を御言葉は教えてくれます。これらの真理は人々を徹底的に清めて、変えることができるのであり、私たち堕落した人として必要としているすべてです。それらを通して私たちは神に完全に救われることができるのです。終わりの日の全能神の働きと御言葉は、聖書の預言を完全に成就します「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロ第一の手紙4:17)「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」(ヨハネ福音書5:22)「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ福音書16:12-13)

 加えて、もし真の道であれば、それには聖霊の働きがあります。堕落した人間や悪しき勢力がいかに抵抗、非難しても、神の働きの進みを止めることはできません。それは主イエスがユダヤで働かれていた時と同じです。主イエスはローマ政府とユダヤ教による非難と抑圧を受けられましたが、主の福音はそれでも宇宙の隅々まで広がり、キリスト教の教会は世界中に設立されました。今や主イエスの御名を誰が知らないでしょうか。同様に、現在の全能神の働きも中共政府の狂ったような非難と抑圧の対象となっていますが、神の福音はそれでも中国本土全体に広がっています。これは輝かしく空前絶後であり、何百万もの人々が全能神の御名のもとに来ており、神はご自身と心を一つにした人々の集まりを得られました。全能神教会の福音サイトは全世界に公開されています。全能神の御言葉は二十数言語に翻訳され、インターネット上に掲載されており、世界中で真の道を求め学んでいる人々が読むことができます。全能神の御名への賛美はますます増えています。全能神の御言葉にあるとおりです。「誰も神の全能性を推し量ることはできない。神を敵と見なす国、中国で、神は決してその働きをやめてはいない。それどころか、ますます多くの人々が神の働きと言葉を受け入れている。神は人類の一人一人を救うためにできる限りのことをしているからである。……神の働きは強く打ち寄せる大波のようなものである。誰も神を引き留めることはできないし、誰も神の歩みを停止させることはできない。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)

 ひとたび真の道と偽りの道を見分ける原則を理解し、中共の真理を憎み、神に抵抗する悪魔的本質をはっきり見極めれば、もはや中共の噂と嘘に惑わされることはありません。ですから、サタンの噂と邪説を前にしても、神への崇敬の心を保ち、神に頼り、神に目を向け、真理を求める限り、神は私たちが真理を理解してサタンの策略を見破れるように啓き、照らし、導いてくださいます。

 陽(ヤン)光(グアン)さん、以上が本日の交わりです。あなたにとって有益であったならば幸いです。他に何かご質問があれば、いつでもご連絡ください。一緒に探求し、話し合いましょう。神のお導きに感謝!

信仰ステーション


神を知る者だけが神に証しを立てることができる

2020-02-15 17:49:25 | 賛美の心

 神を信じ、神を知ることは、天の法則であり地上の原則である。そして、今日、つまり受肉した神がその働きを自ら行なっている時代は、神を知るのに特に良い時である。神を満足させることは、神の心についての理解という基盤の上に築くことにより達成されるものである。そして、神の心を理解するためには、神についての何らかの認識をもつことが必要である。この神に関する認識とは、神を信じる者がもつべきビジョンである。それは人間の神への信仰の基礎である。この認識の不在においては、人間の神への信仰は曖昧な状態に、空っぽの理論の只中に存在するであろう。神に従うことが、たとえこのような人々の決心であっても、彼らは何も獲得しない。この流れのにおいて何も得ることのない人々は皆、排除される者である。彼らは皆、たかり屋である。神の働きのどの歩みを経験するのであろうと、強力なビジョンを携えていなくてはならない。さもなければ、新しい働きのそれぞれの歩みを受け入れることは困難となるであろう。神の新しい働きは人間の想像力を超えて存在し、人間の観念の範囲外にあるからである。だから、人間の世話をする羊飼いなしには、ビジョンについての話し合いに関わる羊飼いなしには、人はこの新しい働きを受け入れることはできない。もし人がビジョンを受けることができなければ、神の新しい働きを受けることはできず、また人が神の新しい働きに従うことができなければ、神の心を理解することはできず、そうなれば、人の神についての認識は結果的に無となるであろう。神の言葉を実行する前に、人は神の言葉を知らなければならない。つまり神の心を理解しなければならない。こうしてのみ、神の言葉は正確に、神の心にかなって実行されることができる。これは真理を求める者が皆、所有するべきものであり、それはまた神を知ろうとする者が皆、経なければならない過程でもある。神の言葉を知るようになる過程は、神を知るようになる過程であり、神の働きを知るようになる過程でもある。だから、ビジョンを知ることは、受肉した神の人間性を知るだけではなく、神の言葉と働きを知ることも含んでいる。神の言葉から人々は神の心を理解するようになり、神の働きから人々は神の性質を知り、神であるものを知るようになる。神への信仰とは神を知ることへの第一歩である。この初期の神への信仰から最深の信仰へと前進する過程は、神を知るようになる過程であり、神の働きを経験する過程である。もし神を信じるためだけに神を信じ、神を知るようになるためでないのであれば、あなたの信仰には現実性がなく、その信仰が純粋であることはあり得ない。このことに疑いはない。もし神の働きを経験する過程において、人が徐々に神を知るようになると、人の性質は次第に変化し、その信仰はますます真実なものになる。このようにして、神への信仰において成功するとき、人は完全に神を得ている。神が自らその働きを行なうために、これほどの大変な苦労をして再び肉となった理由は、人間が神を知ることができ、神を見ることができるようになるためであった。神を知ること[a]は、神の働きの結末において達成される最後の成果である。それは神の人類への最後の要求である。神がこれを行なう理由は、神の最終的な証のためである。神がこの働きを行なうのは、人がついに完全に神に向かうようにである。神を知ることによってのみ、人は神を愛するようになることができ、神を愛するためには人は神を知らなければならない。人がどのように求めようと、何を得ようと求めようと、人は神についての認識を達成できなければならない。こうしてのみ、人は神の心を満足させることができる。神を知ることによってのみ、人は神への真の信仰をもつことができ、そして神を知ることによってのみ、神を真に畏れ神に従うことができる。神を知らない人々は、神への真の服従と畏敬に決して到達することはない。神を知ることには、神の性質を知り、神の心を理解し、神であるものを理解することが含まれる。しかし、どの側面を知るようになるにせよ、それぞれが人に代価を払うこと、従う意思を要求する。それなしには誰も最後まで従い続けることはできないであろう。神の働きは、人の観念とはあまりにも相容れないものであり、神の性質と神であるものは、人が知るには難解過ぎ、神が言い行うこともすべて、人には理解不可能である。もし人が神に従いたいと思いながらも、神に服従しようとしないならば、人は何も得ることはない。天地創造から今日に至るまで、神は人には理解不可能で、受け入れ難いたくさんの働きを行い、人の観念がおさまりにくくなるほど多くを語ってきた。しかし、人が多すぎる困難をかかえているからといって、神はその働きを中断したことはない。それどころか、神は働き語り続け、多数の「戦士たち」が道端に倒れてしまっても、神は働きをまだ行っており、神の新しい働きに服従する覚悟のある人々の集団を次から次へと中断せずに選び続けている。神は倒れた「英雄たち」への憐れみはもたず、その代わりに神の新しい働きと言葉を受け入れる人々を大切にしている。しかし神は何の目的に向かってこのように段階的に働くのだろうか。なぜ神は常に何人かを排除しては別の何人かを選別しているのだろうか。神が常にこのような方法を用いるのはなぜだろうか。神の働きの目的は、人が神を知り、それゆえ神に得られることができるようにすることである。神の働きの原則は、神が現在行なう働きに従うことのできる人々に対して働くことであり、神が今日行なう働きに反対しつつ過去に行なった働きに従う人々に対して働くことではない。ここに神が多数の人々を排除してきた理由がある。

 神を知るようになる課業の成果は、一日や二日で達成できるものではない。人は経験を重ね、苦しみを経て、そして真の服従を達成しなければならない。まず、神の働きと神の言葉から始めなさい。神についての認識には何が含まれており、その認識にいかに到達するのか、そして自分の経験の中にいかに神を見るべきかを理解することが必須である。これは神を知ろうとする人が皆しなければならないことである。誰も神の働きと言葉を一挙に把握できないし、誰も短期間に神の全体についての認識を得ることはできない。経験という必要な過程があり、それなしには誰も神を知ることも、神に真摯に従うこともできない。神が働きをすればするほど、人は神についてさらに知ることになる。神の働きが人の観念と異なれば異なるほど、人の神についての認識はさらに新しく、深くなる。もし神の働きが永遠に固定され不変であれば、人の神についての認識はあまりないことであろう。天地創造から現在まで、神が律法の時代に行ったこと、恵みの時代に行ったこと、神の国の時代に行うことについて、あなたがたはこれらのビジョンについてこの上なくはっきりしていなくてはならない。あなたがたは神の働きを知っていなくてはならない。ペテロはイエスに従った後ではじめて、霊がイエスの中で行なった働きの多くについて徐々に知るようになった。ペテロは「完全な認識に到達するには、人間の経験に頼ることは不十分である。わたしたちが神を知るようにしてくれる神の働きから来る多くの新しいものがなくてはならない」と言った。当初、ペテロはイエスのことを使徒のように神から遣わされた人だと思い、イエスをキリストとして見なかった。ペテロがイエスに従い始めたとき、イエスはペテロに「ヨナの息子シモンよ。わたしについて来るか」と尋ねた。ペテロは「私は天の父から遣わされたお方に従わなくてはなりません。私は聖霊によって選ばれたお方を認めなければなりません。私はあなたに従います」と言った。ペテロの言葉から、ペテロがイエスに関して何も知らなかったことが分かる。ペテロは神の言葉を経験し、自らを取り扱い、神のために苦労をしたが、それでもペテロは神の働きについて何も知らなかった。一時期の経験の後、ペテロはイエスに神の業の多くを見、神の美しさを見、神であるものの多くをイエスに見た。ペテロはまたイエスの話した言葉は人には話せるはずのないものであると知り、イエスが行なった働きは人には行えるはずのないものであると知った。さらに、イエスの言葉と働きの中に、ペテロは神の知恵と、神性の働きの多くを見た。これら経験のあいだ、ペテロはただ自らを知るようになっただけでなく、イエスの行動のすべてに注目し、そこに多くの新しいことを発見した。すなわち、イエスを通して神が行った働きの中に実際の神の多くの表現があるということ、イエスは話した言葉や取った行動において、また教会を牧した方法や実行した働きにおいて、普通の人とは異るということである。それでペテロは学ぶべき多くの課業をイエスから学び、まさにイエスが十字架に釘打たれそうになる時には、イエスについてのある程度の認識を獲得していた。この認識はペテロのイエスへの生涯を通しての忠実と、主のための逆十字架刑の基盤となった。当初ペテロはいくつかの観念にとりつかれ、イエスについての明確な認識はなかったものの、これは堕落した人間の一部として避けられないことである。イエスは今にも去らんという時、十字架にかけられることが自分が行なうために来た働きであり、時代にイエスが見捨てられなくてはならず、この不純で古い時代はイエスを十字架に釘付けにせねばならず、イエスは贖いの働きを完するために来たのであり、その働きを終えたので自分の職分は終わりにある、とペテロに告げた。これを聞くとペテロは悲しみに襲われ、ますますイエスに傾倒するようになった。イエスが十字架に釘付けにされたとき、ペテロは密かにひどく泣いた。この前に、ペテロはイエスに、「主よ。あなたは、ご自分が十字架に付けられるとおっしゃいます。あなたが去られた後、私たちはいつあなたに再びお会いできますか」と尋ねていた。ペテロが語った言葉には不純な要素がなかったであろうか。それらには観念が混ざっていなかったであろうか。心の中では、ペテロはイエスが神の働きの一部を完成させるために来たのであり、イエスが去った後は霊が自分と共にあるであろうこと、たとえイエスが十字架に付けられ天に昇ったとしても、神の霊が自分と共にあるであろうことを知っていた。当時、ペテロにはイエスについてのある程度の認識があった。すなわち、ペテロはイエスが神の霊により遣わされたこと、神の霊がイエスの中にあること、イエスは神そのものであること、イエスはキリストであることを知っていた。しかし、ペテロのイエスへの愛ゆえに、人間としての弱さゆえに、ペテロはこのような言葉を語ったのである。もし、神の働きの歩みの一つひとつにおいて、人が観察し労を惜しまず経験することができるならば、神の美しさを発見することが徐々にできるようになる。ではパウロは何を自分のビジョンとしたであろうか。イエスがパウロに現れたとき、パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と言った。イエスは「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えた。これがパウロのビジョンであった。ペテロはイエスの復活、四十日間にわたり現れたこと、イエスの生涯にわたる教えを、その旅路の終わりまで自分のビジョンとした。

 人は神の働きを経験し、自らを知るようになり、自分の堕落した性質を取り除き、いのちにおける成長を求める。これらはすべて神を知るためである。もし自らを知り、自らの堕落した性質を取り扱うことだけを求めるが、神が人に行なう働きが何であるか、神の救いがいかに偉大であるか、あるいはいかに神の働きを経験し、神の業を目撃するのかを一切知らないのであれば、この経験は実体のないものである。真理を実践でき忍耐できるのだから、いのちが成熟したと考えるのであれば、これはいのちの真の意味、あるいは神が人に対して働くことの目的をまだ把握していないということである。ある日、あなたが宗教的な教会で悔い改めの教会やいのちの教会のメンバーと一緒にいると、多くの敬虔な人々に出会うことであろう。彼らの祈りには「ビジョン」が含まれており、彼らはいのちを求める過程において感動し言葉によって導かれているように感じる。さらに、彼らは多くのことにおいて忍耐し、自分を捨て、肉に操られないでいることができる。その時、あなたには違いが分からないであろう。あなたは彼らがすることはすべて正しく、それがいのちの自然な表出であり、彼らが信じるものの名前が間違っているのはなんと残念なことだと思うであろう。このような見方は愚かではないであろうか。なぜ多くの人にはいのちがないと言われるのであろうか。それは彼らが神を知らず、従って彼らの心には神はなく、いのちがないと言われるのである。もしあなたの神への信仰がある点に到達し、神の業、神の現実性、神の働きの各段階を周到に知ることができるようになれば、あなたは真理を備えているのである。もしあなたが神の働きと性質を知らなければ、あなたの経験にはいまだに不適切な何かがある。イエスがその働きの段階をいかに行ったのか、この段階がいかに実行されているのか、神が恵みの時代にその働きをいかに行い、何の働きがなされたのか、この段階では何がなされているのか、これらのことについて周到な認識がないのであれば、あなたは決して確信することはなく、いつも不安定に感じるであろう。もし、ある期間の経験の後、神による働きと神の働きの各段階を知ることができ、そして神がその言葉を語る目的を、またなぜ神の語った言葉のこれほど多くが成就していないのかについて完全な認識を得たならば、あなたは心配や鍛錬から自由になり、大胆に、またためらうことなく目の前の道を進むことができる。あなたがたは、神がどのような手段によりそれほど多くの働きを達成するのかを知るべきである。神は自身が語る言葉を用い、多くのさまざまな言葉を手段として、人を鍛錬し人の観念を変革する。あなたがたが耐えてきた苦難のすべて、経験してきた鍛錬のすべて、内面において受け入れてきた取り扱い、経験してきた啓発、それらはすべて神が語った言葉という手段により達成されてきた。人は何ゆえに神に従うのであろうか。それは神の言葉ゆえである。神の言葉は非常に神秘的であり、さらに人の心を動かし、人の心の奥深くに潜んでいることがらを明らかにし、過去に起きたことを人に知らしめ、人に未来を洞察させることができる。だから人は神の言葉ゆえに苦難に耐え、また神の言葉ゆえに完全にされる。このときに初めて人は神に従うのである。この段階において人がすべきことは、神の言葉を受け入れることであり、人が完全にされているか否か、あるいは鍛錬を受けているか否かに関わらず、神の言葉が鍵である。これが神の働きであり、人が今日知るべきビジョンである。

 いかにして神は人を完全にするのか。神の性質とは何であろうか。そして神の性質の内部には何が含まれているのか。これら全てのことを明確に述べることは、神の名を広めることであり、神を証することであり、また神を高めることである。神を知るという基盤の上に、人は最終的にいのちの性質において変革される。人は取り扱いと鍛錬を受ければ受けるほど、活気を得、神の働きの歩みが多ければ多いほど、人はますます完全にされる。今日、人の経験において、神の働きの歩みの一つひとつが人の観念に反撃し、すべての歩みは、人の知性を超越し、人の予想の枠外にある。神は人が必要とするすべてを与えるが、それはあらゆる点で人の観念と食い違う。神はあなたの弱い時に言葉を発する。こうすることによってのみ、神はあなたにいのちを与える。神はあなたの観念に反撃すること、神による取り扱いをあなたに受け入れさせ、こうすることによってのみ、あなたは自己の堕落を排除することができる。受肉した神は今日、ある面においては神性の状態において働くが、別の面では普通の人間性の状態において働く。あなたがいかなる神の働きも否定することができなくなるとき、神が正常な人間性の状態において何を言おうと何をしようと、それに服従することができるようになるとき、神がどのような正常性を表明しようと服従し理解できるようになるとき、実際の経験を得たとき、そのとき初めてあなたはその方が神であると確信でき、そのとき初めて観念を作り出すことを止め、そのとき初めて最後まで神に従うことができるようになるのである。神の働きには知恵があり、神は人間がいかに神の証人として確固としていられるかを知っている。また人の急所がどこにあるかを知っており、神が語る言葉はあなたの急所を攻撃することができるが、神はまたその威厳と知恵に満ちた言葉を用いてあなたを神の証人として確固と立たせる。これは神の奇跡的な業である。神が行なう働きは人の知性には想像不可能である。肉である人間がいかなる種類の堕落にとりつかれているか、そして何が人間の本質を形成しているか、これらのことはすべて神の裁きを通して明らかにされ、それにより人間には自分の恥から隠れる場所はどこにも残されなくなる。

 神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、さまざまな種類の神の働きを通して成し遂げられる。このような性質の変化なしには、人は神の証しを立てることはできず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化とは、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本であり標本、神の証人、神の心にかなう者になったことを意味する。今日、受肉した神がその働きを地上で行なうために来たが、神は人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなること、すなわち、神の実際的で正常な働きを知り、人の観念とは合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと、また神が人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをたてること、を要求している。神を証す人々は神の認識をもたなければならない。この種の証しのみが正確であり現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入りらせることができる。神の裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を、神はその証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた人々をその証人として用い、また性質が変わり、それにより神の祝福を得た人々をその証人として用いる。神は口先で賞賛するための人を必要とせず、神に救われていないサタンの種類の称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しを立てる資格があり、性質において変革させられた人々だけが神への証しとなる資格がある。神は人が意図的に神の名に恥をもたらすことを許さない。