いのちの源

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仕事の人間関係-今後、私は同僚をとがめるのをやめます

2020-02-18 22:47:30 | 賛美の心

寄稿家:シンディ(米国)

 今朝、ケリーが私にこう言いました、「私の前の同僚のアラは職場で些細なことを気にして、小さな問題を詮索しているの。これが原因で彼女の同僚はみんな彼女と仕事をするのを恐れているわ。だから彼女はこれにすごく動揺してて、私にこの問題の解決方法を聞いてきたの。でも私には解決の仕方なんて分からないわ。何かいい解決策ないかしら?」

 ケリーの質問を聞いて私は落胆しました。私は、「何でアラの行動は私とこんなに似ているのかしら?私も職場でいつも些細なことを詮索しているわ」、と思いました。その瞬間、昨日の出来事のシーンが頭に浮かびました:支店にいる私の同僚のヴィッキーがチェックの必要な書類の最適化されたタイトルを私に3つ送ってきました。私はこれらの最適化されたタイトルは数字を欠いていて、その後には二重引用符が続いて元のタイトルを置き換えてしまっているのを目にしました。私はこれは見た目が良くないと感じました。こうして私は隣に座っていたケリーに大きな声でこう言いました、「ヴィッキーは働き方が本当にいい加減だわ。見てよ、彼女は最適化されたタイトルの前に番号を打ってないし、二重引用符で元のタイトルを置き換えることしかしてないのよ。これは見た目が全く良くないわ。彼女は本当にいい加減よ。」

 私の声が鎮まると、私たちの事務所にいる他の同僚が笑い声を上げ、ベイキーがこう言いました、「シンディ、あなたって本当によく詮索するわね。」彼女の言ったことを聞いた私は真剣な口調でこう言いました、「私は詮索してこういったことに気を付けないといけないのよ。ヴィッキーがこんな書き方をするのは無責任だし、見た目が悪いわ。彼女が残りを完成させるのを手伝って、綺麗に書き上げる方法を見せてあげる必要があるのよ。」そして、私は番号を1、2、3と元のタイトルを追加し始めました。こうした後、私はやっとこれら最適化したタイトルが適切であるかを確認する気分になりました。私はこれを読んでこう思いました:「ヴィッキー、あなたの仕事に対する姿勢は本当に酷いわ。もう何度もこんなことをしているわ。私の誠実な姿勢を見てみなさい。私はあなたみたいにふざけたことはしないわ。」

 これを今振り返ってみると、私はこうしながら誠実に慎重に仕事をしていたのではなく、ささいなことに注目していたのだと気が付きました。実際、これらの最適化されたタイトルは番号と元のタイトルがなくてもよかったのです。なぜなら、これには何の原則もなかったからです。ヴィッキーはタイトルは既に書かれていたので、最適化タイトルを書く時はそれを1つずつ書くことはしないと私に言っていました。しかも、タイトルの数は僅か3でした。それらには番号は付けられていませんでしたが、タイトルがいくつあるかは全員が分かっていたのです。なので、彼女は時間を節約して他の事ができていたのです。しかし、私はこれを心の中では受け入れられず、良く見せるために全てのアイテムを書くべきだと常に思っていました。従い、私はヴィッキーが何度もこのように最適化タイトルを書くのを見る度に、彼女は怠慢だとか仕事を真剣にしていないと文句を言って、怒りながら彼女の残りの仕事を完成させていました。

 この時、私は聖書のこの言葉が頭に浮かびました、「高ぶりおごる者を『あざける者』となづける、彼は高慢無礼な行いをするものである」(箴言 21:24)。この言葉には痛い所を打たれ、私は恥ずかしい思いをしました。私は小さなことに真剣になり、同僚のあら探しをし、彼女の書類にしつこく変更を加えようとしていたのです。さらに、これを理由に、私は自分が仕事に対して真剣で誠実であると思って自分を褒めていたのです。私は傲慢ではなかったでしょうか?

 振り返ってみると、私はいつも小さなことを詮索し、同僚たちのミスをほじくり出していました。例えば、私の同僚たちが書類の書式を調整していないと、私は彼らを叱りました。彼らの書類の活字書体が一致していない時も、私は彼らをとがめました。書類の中の文字を変更するかしないかということになれば、私はそれを変更していました⋯⋯私は常に極めて小さな詳細にこだわっていたため、私の同僚たちは言葉を失い、私のことを少し恐れていました。実際、私は時に、自分が注目していたこの小さな詳細は重要ではないのではないかと熟考することがありました。しかし、私はこれらの問題を見つけてそれを自分の意思通りに訂正したかったのです。今、私はこれは自分が傲慢過ぎていたことが原因だったと理解しました。そして、私は心の中で神にこう祈りを捧げました、「ああ、神様!私はもうこんなに傲慢になったり、些細なことを詮索したくはありません。どうか実践する道を見つけて、我執を捨て、同僚たちと普通の関係を取り戻せるよう私を御導きください。」

 祈りを捧げた後、私はこう思いました:「主イエス様は人間を罪から救うために天から地へと降臨されました。主は罪人たちの中で御座りになりながら謙虚に御自身を御隠しになられました。主は人間と共に生活され、人間に対する慈悲、愛情、そして寛容と忍耐で満ちておられました。主は決して人々をそれぞれの罪過に従って非難されることはありませんでした。神の寛大さは無限であり、私たち人間に対する愛で満ち溢れていました。私はサタンに堕落させられた、腐敗だらけの人間です。私は神の前では罪人であり、傲慢になれることは何一つありません。私は謙虚な人になって主の愛を貫くため、主の示された模範に見習うべきなのです。私は兄弟ペテロのこの言葉を覚えています、「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい」(ペテロの第一の手紙 3:8)。その通りです。私たちは他人と一緒に働く時は心を1つにし、お互いを理解し、愛し、尊重し合うべきなのです。私たちは他人の小さなミスを見つけて彼らを見下したり、自分たちの個人的な好みに従って他人に要求したりすべきではなく、まして自らを自慢したり自己顕示するべきではないのです。これが私の実践すべきことなのです。ヴィッキーが次回もあのようにタイトルを書いたとしたら、私は絶対に彼女のやり方を尊重して彼女に謝罪するべきです。

 私はある程度知識を得た後、心が大分軽くなりました。私は聖書のこの言葉について考えました、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙 8:28)。そして私は神にこの状況を作ってくださったことを感謝しました。私はケリーがアラの問題について述べたことを受けて自分自身の問題について反省しました。これが自分の傲慢さを解決し、他人と普通の関係を取り戻すための道だったのです。後に、私はケリーにこの記事を読ませて、自分の体験が彼女の同僚、アラ、の役に立つことを願いました。

 今後、私はもう同僚をとがめません。


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