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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

「待ち焦がれて」NO.3主がお見えになった時、誰が真っ先に引き上げられるのでしょう

2019-06-15 12:56:18 | 賛美の心

 

  主の信者の多くは、犠牲を払い努力して奉仕に励めば、一番先に引き上げられると考えています。しかしそれは主の御言葉にあることですか?主イエスは言われました。「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」(マタイによる福音書 19:30)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。」(ヨハネによる福音書 10:27)天国に引き上げられるかどうかは、神様の御声を聞く事ができるかどうかで決まるのです。神様の御声を聞き、神様の出現と御働きを一番先に受け入れた者が賢いおとめであり、真っ先に引き上げられるのです。

 

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  携挙の本当の意味



罪から逃れる道を見つけた

2019-06-14 21:06:07 | 賛美の心

  何年も主を信じてきたクリスチャンである私は、牧師が説教でこのように言うのをしばしば聞いてきました。「私たち信者はすでに罪を贖われ、赦されています。主はお戻りになるとき、私たちを天の国へと直接引き上げてくださいます」しかし主イエスがお戻りになって私たちを天の国へと引き上げてくださるのを辛抱強く待つ間、とりわけ苦しく、私を戸惑わせることが起きたのです。

  私は信者になったあと、頻繁に聖書を読み、祈り、集会に出席したものの、日常生活で主の教えを守れていないことにしばしば気づき、当惑していました。自分を愛するように隣人を愛し、他人を七十七回赦すよう、主が私たちに命じられたことはよく知っていましたが、夫が私の言うことを聞かなかったり、周りの誰かが私の気に入らないことをしたりするたび、私はどうしても腹を立てずにはいられませんでした。罪の意識を感じて後悔し、頻繁に主に祈って告白するものの、別の状況に出会うといつも自分を制御できなくなってしまうのです。さらに、世間の流行に魅了され、引き込まれる誘惑を乗り越えることができませんでした。私はいつも世間の流行を追い求めていたのです。美しい服や化粧に夢中になり、物を買ったりウインドウショッピングしたりすることをいつも考えていました。私の心は物質的な喜びにすっかり取り憑かれ、ディボーションや聖書を読むことよりもそうしたことのほうにより多くの時間を費やしていました。しばらくすると、ますます聖書を読もうと思わず、教会の礼拝にもまったく行きたくなくなるまでになってしまいました。そのような振る舞いを主が好まれないのは知っていたので、私は堕落への道をこのまま進んでいかないよう努力する中で、聖書を読みインターネットで説教を探すことを自分に課しました。しかし自分の計画をきちんと守ってはいても、心からそれを楽しんでいたわけではなく、私の生活は主のお言葉からどんどん離れていきました。教会の友人に連絡をとってこのことを話しもしたのですが、もっと祈る限り主はご慈悲と愛を見せてくださるとか、主は私たちの罪を赦してくださるなどと言うばかりでした。私はそうした答えから何の安堵も感じませんでした。聖書にはっきりとこう書かれているからです。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」(ヘブル人への手紙10:26)。みんなが言うように主が私たちを限りなく赦してくださるなら、主に祈る限り私たちの罪は赦されます。それなら、「真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」と聖書には書かれているのでしょう。罪のためのいけにえがなければ、私たちはどうして天の国に入れるでしょうか。私は心の中でこれらの疑問が理解できませんでした。しばしばこのことで悩み、主に祈りました。「ああ主よ、私は罪を犯しては、その罪を告白する状態の中で暮らしています。とても困っています。罪から逃れるために何ができるでしょうか。どこで答えを見つけられるでしょうか。主よ、このことについての御心をお教えください。アーメン」

 

  その後2018年1月、私はインターネットで中国の姉妹二人と出会い、チャットを通じて彼女たちがとても敬虔なクリスチャンであることを知りました。私たちは信仰についてあらゆることを話し合ったのですが、交流がしばらく続いたあと、私は二人と本当に近づいたような気がして、互いに心を打ち明けられると感じ始めました。二人は生活においても実に信心深く、聖書について独自の理解と洞察を有していました。彼女たちとの交わりは本当に光に満ちていて楽しく、二人と聖書を掘り下げるのが心から好きでした。

  一度、スーザン姉妹がとても真剣にこう言ったことがあります。「主はすでにお戻りになっていて、人類を裁き、清め、救うという終わりの日の働きをなさっています」

  それを聞いて私は驚き、こう言いました。「主イエスはもう十字架にかけられて私たちの罪を贖われ、ご自分の働きを終わらせたのよ。主はお戻りになるとき、私たちを直接天の国へお連れになるんじゃないかしら。どうして裁きの働きもなさるの。主の働きはまだ終わっていないということなの」
姉妹ルーシーはその返事として次の話をしてくれました。「十字架にかけられるという主イエスの働きが終わり、私たちが罪を贖われ赦されたというのは確かに本当です。でも贖いというのは、私たちが天の国に入れることを意味しているのでしょうか。神様の御言葉の一節を読みましょう。そうすれば理解できます。『罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。』」

  これら神様の御言葉を読んだあと、姉妹スーザンはこう語りました。「神様の御言葉から、主イエスがなされたのは贖いの働きだということがわかります。主は私たちの罪を贖われ、私たちを罪から救ってくださいました。救われるということは、私たちが律法を守れないからといってもはや罪に定められることがなく、主の救いのお恵みを受け入れることを指しているに過ぎません。それは、主の御前に出て祈り、告白して悔い改め、主が私たちに授けられたお恵みと祝福を享受できるようになったことを指しています。ですが、私たちの罪深い本性は取り除かれていません。私たちはいまだに罪を犯しては告白するという状態の中で暮らしているのです。例えば、私たちは日常生活において他人と交わる中で、しばしば傲慢な性質を露わにし、他人が自分の言うことに耳を傾け、従うようになってほしいといつも願っています。私たちが主を信じているとしても、主は私たちの心に居場所を持っておられないのです。私たちはいつものようにこの世のものをむやみに欲しがり、世俗の流行を追いかけます。中にはこの世の栄光と富、そして肉の喜びを求めて神を完全に見捨てる人さえいます。罪の中で暮らす私たちのような人間に、どうして神様の国に入る価値があるでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書8:34-35)。主の御言葉はとてもはっきりしていました。罪の奴隷は神様の国にいることができません。だから、私たちは今なお頻繁に罪を犯しているので、神様の国に入る資格がないのです。私たちが罪を清められ、神様と相容れることができるようになるために、神様の救いの働きがいまだにもう一段階必要なのは、それが理由です。さもなければ、私たちは天の国に入る神様の承認を得られません」

  神様の御言葉の一言一言と、姉妹が語ってくれたこの話は、私に深く鳴り響きました。つまり主イエスの働きは、主が私たちの罪を赦す贖いの働きに他ならず、もはや私たちのことを罪人として見ないという、私たちに対する主のご慈悲だったのです。けれどそれは、私たちに罪がなく、汚されていないことを意味していたのではありません。私たちは今なお自分の意思に反して頻繁に罪を犯しますし、それは私たちが今も罪深い本性を持っているからに他なりません。私は夫にどう接していたかを思い浮かべました。何事においても夫が耳を傾けてくれるよう望み、そうしなければ腹を立てていました。また世俗の流行を追いかけ、心は物質的な物事で占められていました。そのうえ集会にちゃんと出席したり聖書を読んだりすることすらできませんでした。何度も主に祈り、告白したものの、止まることなく罪を犯し続けたのです。それはすべて、自分のサタン的な本性に支配されているからでした。パウロがこのように言ったのも不思議ではありません。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである』(ローマ人への手紙7:18)。私たちの中には罪深い本性が深く根を下ろしており、真理を実践して神様に満足していただきたいと思っても、罪を犯して神様に抵抗せずにはいられません。私たちは汚れで満ちており、神様の国に入る価値はまったくありません。それに気づいたとき、私は急いでこう尋ねました。「主イエスは贖いの働きをなさり、終わりの日に来られたとき、私たちから罪を取り除く働きの一段階をなさるだろうと、あなたは言っています。それなら、主はどのようにしてその働きをなさるのでしょうか」

  姉妹スーザンは微笑んでこう言いました。「姉妹、あなたはとても大事な質問をしました。事実、聖書にはこの点について書かれた次のような預言があります。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:47-48)。『さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか』(ペテロの第一の手紙4:17)。これらの聖句から、主は終わりの日に来られるとき、私たちが真理を理解して入れるようにするため、必要とするすべての真理を表現なさることがわかります。それは主イエスによる贖いの働きの続きであり、人間を清め完全にするための、神様の家から始まる裁きの働きの一段階です。全能神の御言葉に関する次の二つの文章を読めば、それがはっきりするでしょう。神様の御言葉はこうおっしゃっています。『神がこの時代に実行する働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の本性の実質と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的観念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことである。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならない。』『終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。』」

  姉妹スーザンは話を続けました。「終わりの日、神様は言葉を用いて裁きの働きをなさると、神様の御言葉は私たちに示しています。神様によって表現された言葉のすべてには、神様の義なる性質とともに、神様が所有するものと神様そのもの、神様の経営計画の奥義、そして人類の救いにおける神様の意図と御心が含まれています。それに加えて、それらは人々の罪深さと神様への反抗の根源、人間の堕落の真相、そして人類の最終的な終着点と結末を表現しています。真理のそうした側面がすべて含まれているのです。それらはいずれも、私たちのいのちに糧を提供する言葉です。終わりの日における神様の裁きと刑罰の働きを経た人はみな、自分の心の奥深くで神様の吟味を体験します。神様の御言葉は鋭い剣であり、神様を裏切るという私たちのサタン的な本性や、私たちの心に潜む卑劣な動機を切り裂き、露わにします。それは私たちの心の奥底に隠れた誰も知らないサタン的な考えさえも暴露します。そのことは、生活における振る舞いや他人の扱いといった小さなことから、信仰に対する視点、あるいは私たちが歩んでいる道はサタンの世俗的な哲学と生存法則にすっかり依存しているという事実といった大きなことに至るまで、私たちがどれだけサタンによって堕落させられてきたかを示しています。私たちは神様の御言葉を通じて、自分が本質的に傲慢、不正、欺瞞、貪欲、邪悪、自己中心、そして卑劣に満ちていること、また私たちのうち神様を信じる者でさえも祝福を得て報われるためにそうするのだということがわかります。それが真理を追求するためでも、いのちを獲得するためでも、本当の人間らしさを生きるためでもまったくなく、神様の御前で生きる価値がこれっぽっちもないことに私たちは気づきます。そうして心の中から悔い改め、自分を憎むことを始めるのです。それと同時に、私たちは神様の御言葉の権威と力だけでなく、神様の正しく聖なる性質、侵すことのできない性質について、とても深く経験しています。私たちは神様の御前でひれ伏し、神様に悔い改めて自分の方法を変え、自分自身のサタン的な本性を憎まずにはいられません。このようにして、私たちは喜んで神様の裁きと刑罰を受け入れるようになり、真理を実践に移し、神様に満足していただく新しい人になることを決意するのです」

  姉妹ルーシーは感動してこう言いました。「本当ね!神様の御言葉による暴きと裁きがなければ、私たちは自分自身の堕落した性質、本性、そして本質を本当に知ることはないでしょう。私たちは明らかに堕落しきっているけれど、それでも自分を立派だと思っているし、主によって天の国に引き上げられる資格があると考えています。私も以前は、自分のことを温かく優しい人間だといつも考えていて、誰かと口論することは絶対にありませんでした。それに、信者になってからは本当に行儀がよく、多くのよいことをしたから、自分はよい人で、主が来られたとき天の国に直接引き上げられるだろうと考えていました。でも終わりの日における全能神の働きを受け入れてからは、神様の御言葉が暴露することを通じて、自分が『よい」というのは単なる見せかけで、本当はよくないのだということがはっきりわかりました。それらのことを行なったのは、他人の賞賛を得て、人々が自分を見上げるようにすることが動機でした。私は、他人の目に完璧な像を見せるように振る舞っていたんです。しかも、事あるごとに主の教えを破り、神に反抗的で苦痛をもたらしただけでなく、傲慢で、人の言うことに耳を傾けるのが嫌でした。そのうえ嘘をつき、自分の利益のために不正なことをしました。頻繁に自分を讃え、自分の証をし、人々の心の中の地位を求めて神様と争いました。私は大天使の道を歩いていたのです。そのことを考えたとき、心から恥ずかしくなって罪の意識を感じました。私は自分を嫌い憎みました。それからはもう、自分がどれだけ優れているかを自慢することはなく、神の国に入る資格があるとも考えませんでした。その代わりに、神様の御言葉の裁きと刑罰を心から本当に受け入れ、自分の堕落した性質を捨て去ったんです。私を自分の観念や想像から目覚めさせ、自分の本当の状態に気づかせ、真理と性質の変化を追い求める道に踏み出させてくれたのは、神様の御言葉です。それはすべて、終わりの日における神様の働きの果実なんです」

  私は姉妹の話に心から感動しました。私が自分自身の観念と想像にしがみつき、いつも明らかに罪を犯しながらも、主がお戻りになって自分を天の国へ引き上げてくださるのを待っていたことを、その話は示していたのです。それは本当に現実からかけ離れています。神様の裁きの働きに関する姉妹たちの証言と、彼女たち自身の経験を通じて、罪を振り払う実際の道を示してくださったことに対し、私は神様に感謝します。私はもはや、罪から逃れられないせいで苦しんだり無力に感じたりしなくても済むようになりました。神様の裁きの働きを受け入れて経験する限り、罪深さから解放され、神の国に入る機会を得られるのだと、私は信じています。

  私は嬉しくてこう言いました。「主に感謝します。私はまだ全能神による裁きの働きを経験していませんが、あなたの経験を通じて私たちに対する神様の愛と救いを実感できます。これからはあなたたちお二人ともっと交流して、全能神の働きや、あなたたちの経験と証言をもっと理解できるようになりたいと思います」二人はそれを聞いて感激しました。

  しばらくの間、探し求めたり、調べたり、二人の姉妹たちと集まったりして、私は真理をさらに理解するようになりました。全能神は実はお戻りになった主イエスだと確信し、終わりの日の働きを喜んで受け入れました。心の中がとても暖まるのを感じました。神様は私にとても優しくしてくださったと、私は信じています。神様は私の祈りにお答えになっただけでなく、その御声を聞いて賢い乙女の一人になるよう、私を導いてくださったのです。ありがとうございます、神様!すべての栄光は全能神にあれ!アーメン!


聖書の教え-真のキリスト様と偽のキリストを見分ける方法

2019-06-13 21:01:40 | 賛美の心

  私は主の信仰を始めて以降、兄弟姉妹たちと一緒にいる時はお互いを大家族のように愛し、助け合いました。私は長年さまよい続けた末にやっと実家を見つけた子供のように心の中が温かく感じました。私のいのちはついに方向性と意欲を見つけたのです。こうして私は積極的に教会の集会に参加しました。

  ある日、説教師が真剣な口調で私たちにこういいました、「さて、全能神教会の人たちは主イエスさまが再臨されたと言っています。これは不可能でしょう!なぜなら、聖書にはこう書かれています、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書 24:23–24)。この2節は主イエス様ご自身が私たちに仰ってくださったことです。主イエスのふりをして人々を欺こうとする者たちが現れるため、神は私たちが騙されてしまうことを懸念しておられます。それ故に、主はこの御言葉を前もって私たちに仰られたのです。私たちは主の道に従い、誤った道を決して歩まずにいる必要があるのです。そうでなければ、私たちは一生後悔することになるのです。」私は説教者のこの言葉を固く信じました。そうです!この2節が意味することを疑う余地はありません。私は全能神教会を説き勧める人に出会うことがあっても、決してその人の言葉を受け入れてはならないのです。私は長年に渡って主を信仰してきたのだから、主の道に従い続ける必要があるのです。それ以降、多くの兄弟姉妹たちが私に全能神の御国の福音を説き勧めてきましたが、私はその全てを拒否しました。

  ある日、私の近所の人が彼女の親戚である姉妹チャンにフロントハウスを賃貸してくれないかと私に聞いてきました。私はそれを承諾しました。姉妹チャンは穏やかで愛想のよい方でした。彼女は朝早くに出掛けて、夜遅くに帰ってくる人でした。やがて、姉妹が何人か彼女の家に来た時、彼女たちは私の家をきれいに整頓してくれました。後に、彼女たちは私に福音を説いてくれたのですが、その時初めて、私は彼女たちが全能神教会から来ていたことを知りました。こうして、私は彼女たちを白い目で見て、時には彼女たちから隠れたりもしました。しかし、私が彼女たちをどのように扱っても、彼女たちは私の家に来ては私の家事を手伝い、私に福音を説いてくれたのです。私は秘かに彼女たちの言葉、行い、そして物事の仕方を観察しました。私は彼女たちの貫いていることは敬けんなことであると知りました。私は彼女たちは主イエス様の御要求を貫いていたのだとも分かりました。彼女たちは他人に対して辛抱強く、寛容であり、自分たちを愛するように他人を愛していました。その一方で、私は神の御要求を貫くことができていませんでした。これを踏まえ、私は心の中で頻繁にこのように熟考しました:「主の愛がなければ、彼女たちは主の御要求を貫くことはなかったでしょう。彼女たちが信じる全能神教会は本当に主の来臨なのでしょうか?それに、積極的に真理を追い求める兄弟姉妹たちの中にはどうして全能神教会を信じている人たちがいるんでしょうか?主は本当に再臨されているのでしょうか?次回は姉妹の言葉をもっと聞いて、それがどういったものなのか確認することにしましょう。」

 

  その数日後、姉妹バイが私の自宅にやってきました。その時、私は聖書を読んでいました。彼女は私にこう聞いてきました、「姉妹シャオ、私たちはもうあなたに何度も説教していますが、それでもあなたは受け入れてくれません。私たちはあなたが神の新しい働きについてどう考えているのか分かりません。考えていることを話してください。一緒に話し合いましょう。」私は反抗的な口調で彼女にこう言いました、「あなたたちは全員が主イエス様は新しい働きをするための御言葉を発するために肉として再臨された言っています。しかし、マタイ24:23–24にはこう記されています、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」だからこそ私はあなたが主イエス様のふりをして来ると思っているんです。私は主を信仰しているので主の道に従うべきであり、あなたに従うことはできないのです。」姉妹バイは笑みを浮かべながらこう言いました、「私たちの主への信仰において、偽のキリストに騙されることを恐れるのはよくあることです。なぜなら、主イエス様は世の終わりに偽のキリストと偽の預言者たちが神に選ばれた人々を欺くために現れるから私たちに慎重になって欲しいと仰られたからです。しかし、主は私たちに偽のキリストと偽の預言者の特徴も伝えてくださっておられます。彼らは人々を欺くために主イエス様の成された働きを真似たり、偉大なしるしや不思議な業を見せることもできるのです。主イエス様が私たちにこれを予めお伝えくださった理由は、私たちが慎重に主の再臨に対応することを望んでおられるからです。しかし、私たちは騙されることを恐れているので、主の再臨に対応する際には聞く耳を持たず、読みもせず、連絡も取らず、孤独にかつやみくもに待機してしまい、世の終わりの神の御救いを受け入れないという結果になってしまうのです。これら全ては間違いなく主の御意図とは違っています。私たちが昼夜待ち焦がれた主イエス様は再臨されておられるのです。それは紛れもない真実なのです。私たちが盲目に主の再臨を説く全ての知らせは過ちだと考えてしまうと、私たちは真の神を締め出すことになってしまうのです。すると、私たちは神を知らずに信仰し、神に抵抗する者と化したパリサイ人のようになってしまうのです。」私はこう言いました、「私たちは神を知らずに神を十字架に張り付けたパリサイ人たちのことを毎日のように話し、彼らを使って自分たちを警告しているのに、どうやったら自分たち自身が神に抵抗するパリサイ人のようになれると言うんですか?」姉妹はこう言いました、「パリサイ人の犯したミスを繰り返したくなかったら、私たちは真のキリスト様と偽のキリストを見分けるする方法を知っておく必要があります。私たちが真のキリストと偽のキリストを見分ける方法に関する真理を理解し、彼らの本質に関する知識を手にした後、私たちは初めて自分たちの方向性を失わない方法、そして主の御救いを逃さない方法を知り得るのです。欺かれることを防ぐには、先ずキリスト様はどういう御方であられるかを知る必要があります。シスター、キリスト様はどういう御方であられるか言ってくれますか?」私は心の中でこう思いました:「この質問の答えは誰でも知ってるでしょう。主イエス様がキリスト様ですよ。私はこんな質問には引っかかりませんよ。」そして私は躊躇せずこう答えました、「主イエス様がキリスト様です。」

  姉妹バイは笑みを浮かべながらこう言いました、「神はこれについてどう仰られているか確認してみましょう、『神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。』これらの御言葉から、キリスト様は神の魂にまとわれた肉であられ、受肉された神がキリスト様と呼ばれておられることが分かります。なので、キリスト様は天国おられる神の御子でなければ、神が神の働きをさせるためにお育てになる地上の人間でもなく、むしろ、肉として現実化した神の魂であられ、神御自信の肉であられるのです。そして、この肉は誰とも取って代えることができないのです。すなわち、神の魂が人となるために肉をまとわれる時は、神がどの国にお生まれになろうとも、性別が何であられようとも、神はキリスト様であられるのです。神の肉と魂は1つとなられ、切り離すことはできないのです。この肉こそが地上における神の魂の働きの発現体であられます。神がお持ちであるもの、そして神が何であられるかはこの肉を通して発現されます。私たちは神のお示しを通じてキリスト様の本質を知ることができ、それによって真のキリスト様と偽のキリストを見分けるのです。」私は彼女がこう言ったのを聞いて、「そうか!私は長年に渡って神を信仰してきたけど、主イエス様がキリスト様と呼ばれていることしか知らなかった。肉をまとった神の魂のみがキリスト様と呼ばれるのか。彼女たちの説教は本当に高度だ。私はこれにもっと耳を傾けた方がいいな」と思いました。

  黙っていた私を見た姉妹は、続けてこう言いました、「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真理の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。」この神の御言葉から、神は御自信をキリスト様として受肉されるため、真理が具現され、謎が開示され、古い時代を完結させ新し時代を始める働きが成されるということが分かります。そしてもちろん、神が明らかにされる真理は無尽蔵に存在します。神が世の終わりに受肉されることが明らかにする真理を通して、神は6000年の人類救済の経営計画、知られざる詳細、真実、働きの施行方法、神の経営の働き全体の目的、受肉にまつわる謎等を明らかにされます。それと同時に、神はまた、神の全能さ、御知恵、義、神聖さ、人類の罪を容認されない性質も公表なされます。 神が具現なさる真理は私たちが神に対して抱くありとあらゆる観念、私たちの逸脱した、かつ誤った知識と実践をより好適に解決することができ、それによって私たちは神に対する純粋な受け入れと知識、そして神に対するより新しく、より正確な知識を取得できるようにしてくださるのです。さらに、神は神の御言葉を用いて人類に新しい時代の方向性とい新しい実践方法をもたらすことで人類を完全を救い、適切な終着点へと導くことがおできになるのです。なぜなら、神は真理、道、いのちであられるからです。真の神がなさる働きは他の誰かが有したり、取り替えることはできないのです。

  姉妹の交流を聞いた私はこう言いました、「姉妹バイの言っておられることは筋が通っているわ。聖書にはこう記録されています、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」 (ヨハネによる福音書1:1–2)。あなたが言われたとおり、神の本質は真理であり、道であり、いのちなのです。そしてこの「御言葉」とは何を指しているのでしょう?この節からすると、「御言葉」は神の御言葉を指しており、‘御言葉は神であり、御言葉は神と共にあられる’とこの節に記されています。そうすると、神が肉となられる時、すなわち、御言葉が肉となられる時、神は御言葉を発せられ、働きを成されるはずなのです。それは神が私たちにキリスト様と神の働きの本質について、そしてキリスト様が何をお持ちで、キリスト様がどういう御方であられるかについて教示される御言葉を発せられることで成されているのです。そして、神のみが新しい時代を開いて古い時代を完結することがおできになります。主は世の終わりにおいてこの御言葉の働きを間違いなく成されたことが分かります。」

  姉妹バイは幸せそうにこう言ってくれました、「上出来だわ、シスター。神の御言葉の他の節も読んでみましょう。」 彼女はこの節を読んでくれました。「あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたがどれほど繰り返し神であると主張しても意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神を認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神の視点からは、その人は神の霊の受肉である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。あなたは新しい時代のために道を切り開くことはできないし、古い時代を終わらせて新しい時代へと導いたり、新しい働きをすることはできない。だからあなたは神と呼ばれることはできない。」 「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪魔を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を予言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、今の神はまったくの別物である。」

  そして姉妹はこう話しました、「この神の御言葉から、偽のキリストたちは神の働きを全くこなせないことが分かります。彼らは古い時代を完結させたり、新しい時代を開くことができず、病人を治し、悪霊を追い出し、沢山の奇跡を起こすいった主イエスの成さる働きの真似をすることしかできないのです。彼らは人類を救うために真理を語ることはできないのです。聖書にはこう記録されています、「先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、」 ( 使徒行伝5:36–39)。これら偽のキリストたちは自分たちが神であると断言し続けていますが、聖霊を彼らを支持していません。従って、偽のキリストたちがどのようにして自分たちが神であると断言しようとも、人から成るものやサタンから成るものは耐え抜くことができなければ、長続きもしないので何の効果もないのです。世の終わりの全能神の働きが中国で始まって以来、Spirit-Spirit派のフア・シエハ(Ling-ling Jiaoの拙訳)、Established King派のウー・ヤンミン、Third Redemption派のジィ・ヂョンジエ等、自らを主イエス様の来臨であると言い張る偽のキリストが人々を欺くために多く出現しています。彼らは主イエス様になったふりをして現れ、人々を欺くために神を真似して奇跡を起こそうとするのです。彼らの行いは、 ‘偽のキリストたちは人々を欺くために奇跡を起こす’という主イエス様の預言を現実化しています。彼らは主の信仰者ではありますが、自らをキリスト様であると断言し、彼らがこのような不合理なでたらめを口にするのは、彼ら自身が本質的に邪悪な霊に取り付かれていることが理由です。彼らは全く真理を抱いていないため、神の御言葉を語ることができず、人類の観念と想像を満たす知識と理論について話す、または神秘を誤解したり、人々を欺くために超自然的なことを行ったりすることしかできないのです。これ故に、彼らは遅かれ早かれ挫折するのです。これにより、真理が虚偽となること、そして虚偽が真理となることは決してありえないということが分かります。この全ては私たちが心から求めることができるかどうかにかかっているのです。」姉妹バイの交流を聞いて、私はこう思いました:「彼女の交流には真理が込められていて、私が簡単に理解できるようにしてくれる。私の説教師と牧師ですら偽のキリストの出現を明確に説明することはもちろん、それを説明することすらできないのに。これはもっと慎重に調査した方がよさそうだ。結局のところ、主の来臨はささいなことではないみたいだ。これは見逃せないぞ。私の生死にも影響することだ。」こう考えた時、私はこう言いました、「姉妹バイ、あなたの言葉は正しいと思います。でも私はこれを調べる必要があります。この本は私が預かっていても宜しいでしょうか?是非読みたいのですが。」姉妹は嬉しそうにこう言ってくれました、「いいわよ!後で読んでみて、分からないことがあったら一緒に交流し合いましょう。

  私はしばらく追求し調査した後、以前理解できなかった真理と謎の多くを理解することができました。これらの御言葉は人間が話せるものではないのです。私は、神の御言葉を読めば読むほど増々感動し、神が私のすぐ側で私に語りかけてくださっているような気がしました。私は大喜びして、これが主イエス様の再臨なのだと確信しました。私はついに神を迎え入れることができました!


80歳のクリスチャンが洪水の中で神様に守れた奇妙な経験

2019-06-09 08:26:16 | 賛美の心

  私の妻と私は今年で共に80歳を超え、山の中腹で暮らしております。神への信仰を初めて以来、私たち年寄りは神の御恵みと御加護を受けながら健康に過ごせています。私たちは神の愛にお応えするために、聖書を保護するという本分を尽くしています。聖書が湿らないよう、地面から150センチの高さで厚板の上に置いています。

  2014年7月の末、小雨がもう10日以上も続けて降っていました。最初は地面に水たまりができない程度にパラパラと降っていただけでしたが、8月7日の午前9時頃、土砂降りの雨が降り始めたのです。その僅か30分後には地面に水たまりができていたように見えました。その時でした、雨水が我が家の壁の角にあった隙間から家の中へと流れ込んできたのです。その瞬間、私は不安になりこう考えました、「一体どうしたらいいのだ?このまま続いたら家が危なくなってしまう。」動揺して落ち着きを失った私は部屋の中で右往左往しました。「私の命などどうでもよい。しかし、聖書は傷つけるわけにはいかん。一体どうすればいいんだ?」私は聖書を見つめながら、どうしてよいのか分からず途方に暮れてしまいました。後に、私は洗面器とバケツを見つけて妻と一緒に雨水をかき出すしかありませんでした。そしてその時、私の甥が私たちを助けにやってきました(しつこい雨で屋根が雨漏りしていたので、彼は修理しに来てくれたのです)。しかし、外の水は我が家の中に入り続け、しばらくすると家の中で溜まっていた水は深さが既に10センチほどになっていました。このような状況の中で、私は更に心配になり、どうすればよいのか分かりませんでした。その時、この神の御言葉が突然私の頭に浮かんだのです、「わたしはあなたの強固な岩である。わたしに拠り頼みなさい。」「その通りだ!神は私たちの頑丈な岩であり、唯一なる避け所なのだ。神の存在を忘れてはならない」神の御言葉が気持を落ち着かせてくださったので、私は静かに神に祈りを捧げました、「ああ、神よ!外は土砂降りで、家の中では水位がどんどん上がってきています。我が家には聖書が沢山ありますが、私たち年寄り二人では対応できませんし、それらを保管する場所を見つけることもできません。聖書はあなたに託すしかありません。どうかこれらの聖書をお守りください。」30分以上経った後、部屋の中の水はおよそ20センチまで深くなっていました。午前11時頃、空は灰色になり、雨が激しく降り始め、その様子はとても恐ろしいものでした。その後すぐ、前後の山から雨水が我が家に向って流れ落ちてきたのです。この状況に直面した私は非常に不安になりこう考えました、「雨がこのまま振り続けたら、私の泥壁の家は確実に倒壊してしまう。そうなったら、聖書は間違いなく損傷してしまう。」私はこう考えるのを止め、心の中で切羽詰まった私は神に助けを請い、これらの聖書を神に託すしかありませんでした。

 

  この暴風雨は続けてその激しい猛威を振るい、雨水も我が家に入り続け、室内の水位は増々高くなり、その深さはすぐに40センチを超えました。靴、洗面器、テーブル、そして椅子等、これら全てが家の中で水に浮かんだ状態となり、水位はすぐに私たちの膝を超えました。その瞬間、私の妻と私は聖書を見たまま、パニックと恐怖のあまり体全体が震えました。その時、私の甥が私たちにこう言いました、「もうこれ以上家の中にいては駄目だ。泥壁の家はいつ崩れる分からない。そうなったら、死んでしまう。急いで!お金と貴重品を持って山を上がるんだ。」甥の言葉を聞いた私は混乱しながら増々動揺してこう考えました、「家が本当に倒壊したらどうしよう?妻と私は共に80歳、逃げたくても逃げられない。それに、聖書はまだ家の中にあるのに、置いて逃げるわけにはいかない。」その時、神のこの御言葉が頭に浮かびました、「世界で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか。わたしの言うことはすべてその通りに進み⋯」「そうだ!全世界にあるもの全てが神の御手の中にあるはずだ。家が崩れるかどうかもまた神の御手の中にあって、神がお決めになることだ。」こう考えた私は甥に言いました、「他に行ける場所はあるか?私たちはもう走れるような年じゃない、だからここに残る。」これを聞いた甥はびっくりして、脱出するのを止めました。私たちが中に残っているのを見た彼は私たちを置いて逃げようとはしませんでした。しかし、今にでも家が倒壊することを恐れた彼は軒の下に立って私たちを見守っていました。

  その後、豪雨は更に激しさを増し、我が家の中の水かさはどんどん上がっていきました。これを見た私は又しても不安になり、心の中で神の助けを求め続けることしかできませんでした。その時、私は神のこの御言葉を思い出したのです、「信仰とは一本の丸太橋のようものである。卑屈になって命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが…」神の御言葉は私に力を与えてくださりました。神は私の神への信仰を完全なものにするために、この状況を使われたのだと私は理解しました。私の生死は神の御手の中にあり、それ故に私は命を捨てる覚悟で神に頼るべきなのです。こう考えた私は、危険を顧みず、家から20メートル離れた脱穀上まで水の中をやっとの思いで進み、そこで地面に跪き、大声で神に祈りを捧げました、「ああ、神様!この事態にはあなたの善良な御旨が込められています。私が生きるか死ぬかはあなた次第です。あなたが何をなさろうと、私はあなたに従います。しかし、聖書はまだ私の家の中にあり、傷がつくことがとても心配です。ああ、神様、私は今これらの聖書をあなたに託すこと以外は何もできません。」

  私が地面に跪き、続けて神に助けを求めていると、私の甥がこう叫びました、「伯父さん、戻ってきて!どうしてそこで跪いてるの?大雨の中で風邪を引くよ!」その時、私は甥の言うことは気にせず、続けて神に祈りを捧げました。その間、私の妻も軒の下の水の中で跪いて神に祈りを捧げていました。30分以上祈りを捧げた後、突然、連続で雷が鳴るのが聞こえ、その後に家の裏でドスンと何かが倒れる音がしました。私が様子を見に行ってみると、我が家から6メートル離れた所に直径が大きなどんぶりの厚さほどある油桐が山から流れ落ちてきた雨水によって倒されており、そこの地面には直径160センチの穴ができていました。これ故に、雨水が全てその穴に流れ込み始めていたのです。これは神が私の祈りを聞いてくださった故のことだと、私は明確に分かりました。私は心の中で神に感謝し続けました:「神は本当に全能であられる!雨水が絶えず家の中に流れ込んでいたら、間違いなく倒壊していたことでしょう。しかも、我が家の前には幅10フィートほどの溝ができており、雨水がその溝を通って山のふもとに流れ出ていたことも私は発見しました。

  私はこの様子を見て、神はずっと私の側にいてくださったのだと感じて興奮しました。私たちが絶望に陥り、行き場を失った時、神は逃げ道を開いてくださりました、すなわち、雨水が流れ出る場所を設けてくださったのです。これは神から私への憐みだったのです。以前、私はとても無知でした。私は神の御言葉を文字通りに、そして教義上の意味で理解しているだけで満足し、神の御言葉真理として実践してはいませんでした。これ故に、何らか出来事に直面すると、それが自分の個人的な生活に関するものであれ、または教会での本分に関するものであれ、私は自らの手段で対応していたのです。しかし、今回私は物事と出来事はその全てが神の御手の中になり、災害は神によってより一層細かく計画されているということを自ら知りました。神は正に真なる、そして生気に満ちた神であります。私は誠実な心で神を頼りにした時、神の御業を目撃し、この世界にある全ては神の御旨に従って動くということを実際に体験したのです。これについて神はこう仰りました、「人の心と霊は神の手の中に掌握され、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。」

  その後、豪風雨は徐々に勢いが収まり、家の外の水は中に流れ込んでこなくなりました。しかし、まだ深さ2フィート近くの水が家の中に残っていたのを見た時、私はまたとても心配になりました、なぜなら泥壁の家が長い間水に浸っていたら、そこにいるのは危険だからです。こうして、私の妻と私は慌てて洗面器で水をかき出しました。しかし、水位はとても高く、いつになったら全部流しだせるのか全く分かりませんでした。心配で動揺しながら、私は休まず心の中から神に助けを求めました、「ああ、神様、室内の水を早く流し出さないと、長時間水に浸っているこの泥壁の家はすぐにでも倒壊してしまいます。神様、雨は収まりましたが、聖書は依然として損傷する危険性があります。どうか私たちに解決策をお与えください。」こう祈りを捧げると、すぐに水が流れる音が聞こえてきました。様子を見に行ってみると、奔流により横の部屋にある地下貯蔵庫に洗面器ほどの大きさの穴ができていたのです(貯蔵庫の外は急なスロープになっており、貯蔵庫は石材の破片で舗装されていました)。これにより、雨水は貯蔵庫を抜けて流れ出ていたのです。この時、私は角に穴を開ければ水がもっと速く流れ出るとひらめきました。こう思った私は急いで鉄棒を見つけてきて、石材を2つこじり出しました(家の礎は石材でてきていました)。すると水はすぐさま穴を通って流れ出てゆき、地面が見えてきました。これを見た私はやっと安堵を感じ、心の中で神に感謝し続けました。これは全て神の驚くべき御業であったのです。すると、私の甥が私にこう言いました、「伯父さんと叔母さんが信じている神は本当に善良ですね。さっきは外が大雨で、水が家の中に入り続けたから、深さがすぐに20フィートにもなって。そんな状況だったから、僕は凄く怖かったんだ。でも、2人が逃げないから、僕も一緒に残ることにしたよ。家が崩れて圧死するのが怖かったから、僕は外に出て軒の下で立っていることにしたけどね。その時、2人は水の中で跪いて、空を見上げながら祈りを捧げていたよね。しばらくしたら暴風雨が次第に収まっていくからビックリしたよ。裏の山から押し寄せてきた雨水が油桐を押し倒して、それで穴ができたから、水が家の代わりにその穴の中に流れていくなんて。もう50年以上も生きてるけど、こんな奇跡は見たことがないよ。しかも、さらにビックリしたのは2人とも80歳で、1時間以上も水の中で跪いていたのに、風邪は引いてないし、まだ水をかけ出す元気があるなんて。これは本当に素晴らしいよ。」彼の言葉を聞いた私の妻と私は共に笑顔でこう言いました、「その通り!これは全て神の御加護のおかげなんだ。神に感謝します!」

  その時、誰かが外で私の家の隣の2軒が倒壊したと大声で叫び、その後に近所の人たちの泣き声が聞こえてきました。これを聞いた私はこう思いました、「私は幼い頃からこの泥壁の家に住んできて、今はもうかなり古くなっている。隣の家はここよりも高い立地に建っているから、雨水はいつも私の家に向かって流れてくる。にもかかわらず、彼らの家が倒壊して、私の家は無事だなんて。これは正に神の偉大な御力だ。」

  豪風雨が去った後、村の幹事とリーダーが我が家にやってきました。私たちと我が家が無事であるのを見た彼らは笑顔でこう言いました、あなた方2人は本当に運がいい。天が助けてくださったのですよ!」そして、彼らは我が家の裏に行き、そこにあった穴を見てこう言いました、あなたの家の裏にある溝は山から押し寄せてきた泥と砂で詰まっている。しかも、雨水は上に建っている家々からあなたの家に向かって流れている。この穴のおかげで、雨水は流れ出ることができたんです。これがなかったら、あなたの家は間違いなく倒壊していたでしょう。」その後、彼らはドアの所に行き、幅10フィートの溝があるのを見て驚きました。幹事は驚きのあまりこう言いました、「天は本当にあなたを助けておられる。私の家々は高い位置にあるから浸水しなかったけど、新しいれんが造りの家2軒は吹き倒された木がぶつかってで損傷したんですよ。なのに、あなたの泥壁の家は全く損傷していないとは。天があなたをお守りくださったんですよ。」彼の言葉を聞いた私は心の中で神に感謝し続けました。私たちは神を信仰しているがために、拠り所を持つことができ、私たち2人と我が家は神の御加護を授かりました。未信者たちには拠り所がなく、災害を前に何もすることができなかったのです。これにより、私は神のこの御言葉の内容をより強く確信しました、「わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。」

  神は存在する全てのものの主権者であり、万物のいのちは神から生まれます。神は私たち人間を育て、私たちに備えてくださります。神は常時私たち人間に気を配り、私たちをお守りくださります。私たち人間は、神から離れると大災害の被害に見舞われてしまいます。私たちは誠実な心を持って神の前に行き、神に頼り、そして神を崇拝する場合に限り、良い運命と終着点に至ることができるのです。私は今回の暴風雨を経験し、私たち人間は災害の前ではとても小さく、そして僅かな強風にすら耐えられないと心から感じました。政府官僚は私たちを救うことはできませんし、私たちの親戚や友人たちもそれはできません。神のみが私たちの贖い主であり、私たちの避け所なのです。神は災害を通じて人間の義なる行動を大切にされていること、そして人間の悪行はお嫌いであることを私たちに警告されます。ロトを例に考えてみましょう。彼は2人の天使を守るために自分の2人の娘を指し出そうとしました。この彼の義なる行動のおかげで、彼の家族は神がソドムの街を破滅させた時に神の救いを受けることができました。同様に、私たちは災害が頻繁に起こる終わりの日には、神を信仰するだけでなく、ありとあらゆる善行を行うべきです。私たちはこうしてのみ災害の中で神の御加護を授かることができるのです。

  従って、私は、「今後神を信仰していく上で、もっと神を頼りにし、自らを神の御手に委ね、神に私を管理そして支配いただくようにします。私はもっと神の御言葉を読み、神の御心を和められるようにしっかりと自分の本分を尽くしていきます」、と決心しました。全ての栄光、神にあれ!

 

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真の父の御旨を行なうこととは何か

2019-06-08 21:12:33 | 賛美の心

    「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)父の御旨を行なうのはどのような人でしょうか。なぜ主イエスは神の名において預言し、悪魔を追い払い、素晴らしい働きを行なった人々に「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われたのでしょうか。チャットの記録を通じて、キリスト教徒のイェチーがついに理解するようになった経緯を確かめましょう!

      朝食を終えたあと、イェチーはコンピューターを立ち上げてフェイスブックにログインしました。それから友達のリナのページを開き、キーボードを指で叩きながら尋ねました。

  「ログインしてますか?質問したいことがあります。今朝、ディヴォーショナルを読んでたら、こんな一節が目に入りました。

  『その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」』(マタイによる福音書7:22-23)。

  それから主のお言葉をずっと考えていたんですが、少し混乱しています。主はどうして、神様の御名において祈り、教えを説き、悪魔を追い払い、素晴らしい働きを行なった人たちには主の承認がないどころか、彼らを不法を働く者と呼ぶとおっしゃったの?いったい何のことなんでしょう?考えてみると、私も以前はこの人たちのように、風雨の中、福音を広めるために旅をしたり、主のために熱心に費やしたり、収入の十分の一を献金したりしていました。これが神様の御心を行なうことだと思っていたし、最後には主の承認を得られるはずだと考えていたんです。だけど今はこういう問題について心から確信を持てません。この件をどうとらえればいいのかわからないんです。」

  すぐにコンピューターの通知音が鳴って、イェチーはリナがメッセージを送ったことに気づきました。急いでメッセージを開くと、そこにはこう書かれていました。

 

  「たったいまログインしてメッセージを見ました。とても大事な質問で、私たちが主の承認を得て天の国に入れるかどうかに直接関係しています。でも私の理解はとても限られているから、ここでは自分の見方について少しのことしか伝えられません。その後、二人で話し合いましょう。

  「主のうちにいる多くの兄弟姉妹たちは、主に費やすためにすべてを捨てることができ、主の福音を広めるために苦しみ犠牲を払い、最後までこれらのことを貫けるならば自分達は主の承認を得て、主が戻ってこられるときに引き上げられて天の国に入るという見方をしています。でも、この見方は主の御心にかなっているでしょうか。ファリサイ人は福音を広めるために地の果てまで旅をし、季節や暑さや寒さにかかわらず神殿で神様に仕え、多くのよい行ないをしたことを思い出しましょう。彼らは主の承認を受けたでしょうか。そうは思えません!ファリサイ人が神様の福音を広めるためにひどく苦しみ、高い代価を払ったように見えたかもしれません。でも、神様が主イエスの形をとって受肉し、人類を贖う働きをするために来られたとき、ファリサイ人は自分達の観念と想像に寄りかかり、神様に反抗、非難し、そのうえ自分たちの地位と収入を守るため、主イエスを十字架にかけるように大衆を扇動さえしました。これで、たとえ苦しみ、代価を払い、よい行ないをしたように見えても、その人が神の御旨を行なったわけではないこと、そして神様を知っているわけでも、神様に従っているわけでもないことが証明されます!

  「次に、神様の信者である今日の私たちを見てみましょう。私たちの多くは自分の家と職業を捨て、苦労して働き、風雨の中を旅し、大いに苦しんでいますが、本当に神の御心を追い求め、神様への愛からこういうことを行なっているでしょうか。主のために働けば、主は自分に平和と喜びを授け、家族が安全で裕福であることを保証してくださると信じている人々がいます。彼らの意図は祝福を得ることなので、困難や試練や災害に見舞われると、誤解して主を責めたり、ひどい場合には神様のもとを離れ神様を裏切ります。また、神様のために費やしながらも、同時に自分の肉体的な欲求を満足させたり、自分自身の利益のために嘘をついたり騙したり、兄弟姉妹の前で自分のよい面しか語らず、自分の本当の状態を誰にも話さず、自分について他人を混乱させ惑わせるような虚像を見せる人々もいます。さらに自分の印象と地位を向上させるために働き、説教をする人もいます。彼らは他人に自分を尊敬させることを追い求め、結果として他人を自分の前に連れてきても、兄弟姉妹は心の中に神様の居場所を持たないままで、彼らを崇めることになるのです……このような人がどうして神様の御心にかなっているでしょうか。私たちの中にはこれほど多くの不純なものがあるのに、それでも神様の御心を行なっていると言い張ります。これは偽善ではないでしょうか。神様を騙し冒涜しているのではないでしょうか。だから、主イエスはこう言われました。

  「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書7:22-23)。

  主はこの言葉によって、神様の御心を私たちにはっきり告げようとなさっています。つまり、あらゆる種類の誤った意図や不純なものを含みながら、費やし代価を払うように見せかけることを、神はお嫌いになるのです」

  リナの言葉を読んでイェチーは深く感動しました。内側に多くの不純なものや誤った意図を持ちながら、主のために費やし、代価を払い、大いに苦しんでいるように見せかける。これが私たちの本当の状態なのです!彼女は、自分がどれだけ主のために熱心に費やし、どれだけ多くの苦しみを背負ったか、思い返しましたが、そうしたのは主の祝福を受けるためであり、それによって家族が安全であることや自分の仕事がうまくいくことを主が保証してくださり、そして主がお戻りになったとき、自分が天の国に引き上げられるためだったのです。自分の望みに反することが起きたとき、あるいは家族が困難に見舞われたとき、彼女は主に異議を唱え、主を責め、主に反抗するために以前に払った代価を元手として使いました。このように代価を払い、費やしても、主の承認を得られることはありません!主が非難されたのは、私たちが外面的に払った代価ではなく、心にある誤った意図だったのです。神が嫌っておられるのは、それなのです。

  イェチーは少し考えてからリナにメッセージを送りました。

  「お返事を読んでとても感動しました。主のために教えを説いたり働いたりすることがなぜ主の嫌悪と呪いだけをもたらしたのか、今ようやく理解しました。それは、あまりに多くの誤った意図や不純なものが私たちの中にあるからです。私たちが誤った意図や不純なものを抱えたまま神様に仕えると、神様はそれを嫌悪なさり、またそれは神様の御心にまったくかなっていません。では、主の承認を得るために、私たちはどのように実践するべきでしょうか。」
リナはこう答えました。

  「この問題に関連する聖句をいくつか見てみましょう。主イエスはこう言われました。

  『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』(マタイによる福音書7:21)。

  『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである』(ヨハネによる福音書8:31)。

  『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない』(ヨハネによる福音書14:23-24)。

  『「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである』(マタイによる福音書22:37-38)。

  主のお言葉から、父の御旨を行なう人だけが神の国に入れることがわかります。真に父の御旨を行なうことは、主のお言葉を実践し、主の掟を実行し、主の求めに従って費やし働き、すべてのことにおいて神様の愛を追い求め、神様に満足していただくことを意味します。真に父の御旨を行なう人は、神様の働きとお言葉が自分の観念と一致しているかどうかに関係なく、完全に神様に服従し、神様のお言葉通りに実践し、神様から託されていることを成し遂げるために忠実を捧げることができ、神様と自分の個人的な利益を伸ばすことを求めたり、取引しようと試みたりせず、神様の証しをするために自分の命さえも危険にさらすことができます。このような人が神の御旨にかなっていて、神の承認を得る人なのです。

  それはまさに、神様がアブラハムに愛する息子を生け贄として捧げるようお求めになったとき、この要求が自分の観念と一致していないにもかかわらず、アブラハムはそれでも神様のお言葉に従い、異議を唱えず、イサクを神様に返すと誠実に申し出たのと似ています。アブラハムはまったく神に従順でした。また、日常生活において神を畏れ悪を避けるだけの人物ではなかったヨブとも似ています。試練のさなか、財産と子どもたちを奪われ、神様の御心を理解できなかったときも、ヨブは神様を責めるのではなく自分の生まれた日を呪い、神様の聖なる御名を讃えました。神様へのヨブの崇拝には、取引や交換はありませんでした。神様が何をお与えになろうと、何を奪い去ろうと、ヨブは神様を畏れ悪を避けるという神様の教えを実行し続けることができたのです。さらに、生涯にわたって主イエスに従い、主が託されたことを実行したペテロがいます。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか……わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネによる福音書21:16)。ペテロは主イエスの言葉を心にとめる、あらゆることにおいて神様の愛と神様を満足させることを追い求め、主の御心と求めに従って教会を牧するという働きを厳格に行ない、ついには逆さに十字架にかけられながら、死ぬまで従い、極限まで神を愛しました。彼らはみな、真に神様を畏れ、神様に従った人であり、こうした人々が真に父の御旨を行なう人なのです。だから、父の御旨を行なうことは、神様のために何かをあきらめたり費やしたりしているように見せかけることを指すのではなく、すべての物事において神様のお言葉通りに実践し、神様の愛と神様を満足させることを追い求め、神様に絶対的に従順かつ忠実であることを意味します。これが私たちが実践すべきことであり、入っていくべきことなのです。」

  イェチーはモニターを見つめながら、しばらく考え込みました。何年にも及ぶ信仰にもかかわらず、父の御旨を行なうことが何を意味するのか今日になってようやくわかるとは、これまで想像していなかったのです。真理のこの側面を理解できたことで彼女はうれしくなりましたが、同時に主のための自分の働きにはあまりにも多くの不純なものがあることにも気づきました。彼女は自分の誤った意図を捨て、ヨブとペテロの例にならい、すべての物事において神様の御心を探し求め、神様のお言葉通りに実践し、神様への服従と神様の愛を追い求め、父の御旨を行なう人になることを望んでいます。この考えが頭に浮かんだとき、彼女は大きな笑顔の絵文字をリナに送信しました……