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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

救われることと、完全な救いを獲得することの違い

2019-06-07 20:54:35 | 賛美の心

        救われることと、完全な救いを獲得することの違いに触れるとき、兄弟姉妹の中にはこのように言う人がいるかもしれません。「救われることと、完全な救いを獲得することの間に、何か違いがあるのでしょうか。救われることは、完全な救いを獲得することを意味するのではないでしょうか。私たちは主イエスへの信仰を通じて救われてきたのですから、完全な救いを獲得してはいないのでしょうか。主が来られるとき、私たちはすぐに天国へと引き上げられます」しかし本当に話はそれほど単純でしょうか?この件を探求し、一緒に考えましょう。

1.救われるとは何を意味するのか?私たちは救われたあと、罪を持たないのか?

  最初に神様の御言葉を読みましょう。「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである」神様の御言葉から、私たちが主への信仰を通じて救われるのは、主イエスが贖いの働きをなさったからだということがわかります。主は罪の生け贄としてご自身を捧げ、十字架にかけられ、それによって私たちを罪から贖われました。ゆえに、主を信じることで私たちはもはや罪人ではなく、律法に縛られることもありません。私たちは罪を犯したとき、神の御前に直接出向いて祈り、私たちをお赦しになるよう主に求めることができます。これが救われることの意味なのです。

 

  では、私たちは救われたあと、罪を持たないでしょうか。たとえ大いに苦労し働いたとしても、また外面的なよい行いをしたとしても、それでもなお頻繁に罪を犯し得ること、そして罪の絆を断ち切れないことを、私たちは自分自身の経験から知ることができます。私たちのいのちの性質は以前と変わることがなく、自分の観念と一致しないこと、または自分の利益を害することに遭遇した瞬間、多くの堕落した性質をあらわにし、結果として神様に背き反抗します。例を挙げると、自分よりも優れた才能の持ち主であることを示す説教を他の人が教会でしたとき、その人に嫉妬するか、密かに貶めようとする。他の誰かが自分の利益を害したとき、その人を憎み、深刻な場合には腹を立ててその人に復讐する。主の働きの中で何かを捨てるとき、あるいはいくばくかを費やすとき、自分の成果を見せびらかしたり、神様に条件を突きつけたり、または他人を見下してけなしたりする。働きや説教において聖霊の啓きを得、その成果を刈り取るとき、自分自身に満足しきって神様の栄光を奪う。苦しみ、代価を支払ったにもかかわらず、代わりに何も得られず個人的な利益が満たされないとき、神様が自分を守らず祝福なさっていないと信じ込み、神様を責めたり誤解したりする。神様の戒めを犯すことをするとき、他人に見つかるのを恐れ、他人と神様を騙すために嘘をつく。長年にわたって神様を信じながら、神様はまだ自分に十分なお恵みをお授けになっていないと考えるとき、この世のやり方に従い神様を裏切る、などなど。こうした行動や態度は、私たちがいまだ罪の中で暮らし、サタンの支配下で生きていることを証明するのに十分です。私たちの本性がいまだサタン的であること、私たちの考えや物の見方がこの世界に付随していること、そして自分の考えと一致しない状況のせいで、私たちが勝手気ままに神様を裏切り、世俗的な生活に戻り得ることを、それらは証明しているのです。

2.完全な救いを獲得するとは何を意味するのか?完全な救いを獲得する人はどのような行動をとるのか?

  最初に神様の御言葉の一節を読みましょう。「人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。…サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう」

  神様の御言葉から、完全な救いを獲得することは、罪を振り払い、清められることを意味しているのがわかります。つまり、完全な救いを獲得する人は外面的なよい行いをするだけでなく、傲慢で、自分勝手で、嘘と悪意に満ちた内なる本性が変化を遂げており、神様の御言葉によって生き、神様の指揮と采配に完全に従えるだけでなく、差し迫る死の脅威に直面したときも神様を畏れ悪を避けることができます。そうした人達はサタンの支配下で生きる状態に戻るよりも、むしろ死ぬことを選び、決して神様に背いたり反抗したりしません。そうした人たちだけが、神様によって完全に得られた人々です。神様の完全な救いを獲得するのは、真理を理解し、神様を知り、神様に従うことができる人たちです。完全な救いを獲得するのは、サタンのいかなる誘惑にあっても証しをし、真理によって生きることができ、神様を畏れ悪を避ける人たちです。完全な救いを獲得するのは、神様の御心に理解があり、正直かつ誠実に話し、温かい心を持ち、神様を愛し満足させることができ、神様の御言葉を自分の活動や行為の規範とし、真の人間らしさを生き、自分が行なうあらゆることにおいて神様を讃え現すことができる人たちです。

3.救われることと、完全な救いを獲得することの違い

  ここまで、救われることは何を意味しているのか、私たちは救われたあと罪を持っているかどうかを話し合い、また完全な救いを獲得することは何を意味しているのか、完全な救いを獲得する人たちによって表現される行動はどのようなものかも話し合いました。救われることと完全な救いを獲得することの違いについて、誰もが何らかの区別をするようになると私は信じています。救われるということは、私たちがこれ以上律法によって罰せられないこと、もはや罪人でないこと、神様によって贖われたこと、そして神様の御前に出向く資格があることを意味しますが、たとえ外面的なよい行いをしたとしても、罪深い本性が私たちに深く根ざしたままであることも意味します。一方、完全な救いを獲得することは、私たちのいのちの性質が変化を遂げたこと、真理を実践に移せること、これ以上何の罪も犯さないこと、心から神様の御言葉に注意を払い神様に服従できること、神様の御言葉の現実を生きられること、そしてサタンの影響から完全に逃れて自由な人間になったことを意味します。

  対照的に、主のうちにいる兄弟姉妹としての私たちは、いまだに様々な堕落した性質の中で生き、日中に罪を犯して夜に罪を告白する生活を送っているのが現状です。私たちはサタンのそそのかしや誘惑にまったく耐えることができず、いまだに神様に背き、反抗し、非難し、誤解する可能性をはらんでいます。私たちが生きている人生は、神様を讃え現すことがまったくできません。それで、私たちはどうして完全な救いを獲得したと言えるでしょうか。神は言われます「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(ペテロの第一の手紙1:16)「サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう」神様の本質は聖にして義です。神様は私たちの内側にある、あらゆる種類の罪を憎み、あらゆる種類の汚れをお嫌いになります。私たちのような汚らしい堕落した人間は、神の国へ入るに値しません。主への信仰の中で、こうした汚らしい堕落した物事を残らず振り払い、清められることでのみ、私たちは神様のお褒めを得て、神様によって美しい終着点へと導かれるのです。ゆえに、救われることは完全な救いを獲得することを意味しておらず、主がお戻りになるとき、私たちがすぐに天国へと引き上げられることはありません。

4.完全な救いを獲得する道を探す

  では、完全な救いを獲得する道はどこにあるでしょうか。実を言うと、主イエスははるか昔、完全な救いを獲得する道について私たちにお話しになりました。聖書の聖句をいくつか見ましょう。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:12-13)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2-17)「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう」(ヨハネの黙示録21:6)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書12-48)主は私たちに、完全な救いを獲得して天国に入る方法をお示しになりました。つまり、主イエスはすべての真理を表わすため、終わりの日に再び戻ってこられます。そして神様の出現を切望し、探し求めるすべての人に、いのちの水の泉から価なしに飲ませ、それによって私たちは新しいいのちの生ける水を神様から得られ、私たちの霊のいのちは食糧を得られます。その後、神様の御言葉の裁きと刑罰を経験することで、堕落した性質が清められ、罪の足かせを振り払い、サタン的な悪しき影響を残らず取り除き、神様の御言葉によって生きるようになります。神様の試練が降りかかるときも、証しをする中でしっかり立ち、神様に服従し讃える人、自分が行なうすべてのことにおいて神様を現す人になれます。このようにして、私たちは真に完全な救いを獲得し、神の国に入る資格を得るのです。

  兄弟姉妹よ、救われることと完全な救いを獲得することの違いがはっきりわかるように、そして私たちが自分の観念や想像にとらわれ、天国に入るという偉大な出来事を決して遅らせることのないように、主が私たちをお啓きにならんことを。私たちは賢い乙女となり、開かれた心で真理を追い求めなければなりません。そうしてはじめて、私たちは花婿の出現を喜んで迎え、子羊の婚宴に出席し、いのちの水に浴することができるからです。終わりの日の神様の裁きと刑罰の働きを経験し、自分の堕落した性質を一掃したうえで、神様の御言葉の現実を生きているならば、私たちは最後に完全な救いを獲得して天国に入るでしょう。


なぜ主がわたしの祈りを聞き入れないのか

2019-06-06 22:15:30 | 賛美の心

  祈りは、クリスチャンが神との正常な関係を維持する手段の一つです。特に早祷と晩祷はクリスチャンにとって不可欠なことです。内山さんは毎日必ず祈ることにしていますが、しかし主が自分の祈りを聞き入れないといつも感じ、主の臨在さえ感じられません。彼はインターネットで自分の感じを書いた後、すぐ多くの兄弟姉妹の共感を呼びました。

  内山さんの言葉が真実であることを証明するために、一部の兄弟姉妹はまた皆さんに打ち明け話をしました。彼らは次のように言っています。「毎回の祈りの中で多くの言葉を言ったが、多くの時、独り言を言い、或いは空気に対して話すように感じ、主が自分の祈りを聞き入れなかったとはっきり感じました。そのため、自分が主に捨てられたのではないかと疑っています」。

  なぜ主がわたしたちの祈りを聞き入れないのですか。そこには、いくつかの原因があります。


第一番目の原因は、誠実な心によって主に祈ることをせず、神をごまかし、欺くことです。

  主イエスはこう言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハ4:23)。だが、わたしたちは神に祈る時、いつも心を落ち着かせて心から神に祈ることをしません。祈る時、わたしたちの口が動いているが、心の中で家のことや、仕事のことを考えていて、心が乱れています。ある時、誠実な態度で祈り、心から祈ることをせず、口先だけで祈り、形式的に祈り、二言三言言っていいかげんにごまかしてしまいました。しかも、わたしたちが祈る時、いつも大きな話をし、無意味な言葉、尾ひれの付いた言葉を言います。例えば、わたしたちは主より自分の父母や事業を愛しますが、「神よ、わたしはあなたを愛します!」と祈り、家の中で気にくわぬことが起こると、消極的になって主を怨みますが、祈りの中で、主に感謝し、主を賛美するような言葉を言います。……心からの祈りをしないなら、そして祈るばかりで実際の行動が伴わず、祈りの中で大きな話をし、無意味な言葉、心にもない言葉を言ったとしたら、神をごまかし、欺いてしまうことになります。そのような祈りを、神は絶対に聞き入れません。

第二番目の原因は、祈りの意図、目的が正しくなく、いつも神が自分に何かを与えることを要求し、神に対する従順がないことです。

  わたしたちは多くの時、祈りの中で本当のことを言うのだが、しかしいつも神に何かを要求します。例えば、仕事を持っていない者は、神に仕事を準備してくださるようにと祈り、子供を持っていない者は、神に子供を与えてくださるようにと祈り、商人は自分が神の祝福を得て、もっと多くのお金を稼ぐことができるように祈り、学生は神に賢しさ、知恵を与えてくださるようにと祈り、若者は神によい仕事を与えてくださるようにと祈り、老人は神の守りを得て、病気にもならず災難にも遭わず、無事に晩年を送るために祈ります。しかも、わたしたちは病気にかかったら、神に自分の病気をいやしてくださるようにと祈り、家に困難があったら、神に助けてくださるようにと祈ります。平安がある時、わたしたちは祈って主に感謝し、主を賛美し、しかも心の中に、主の守りを得て、いつまでも平安のうちに生きたいという欲望が生じます。患難に遭った時も、試練を受けた時も、わたしたちは神の支配、按配に従うことができず、神は苦杯をわたしたちから取り去って、わたしたちがもはや苦しみを受けないようにすると望んでいました。その上、わたしたちはいつも間違った位置に立って神に要求し、神がわたしたちの意志によって行うことを要求します。……こうして、わたしたちはそのように祈れば祈るほど、神からますます遠ざかります。なぜなら、そのように祈るのは、神と取り引きし、神を利用して自分の目的を達成するのであり、その中に、神に対する本当の信仰がなく、神に対する真の愛もないからです。神が言われたように、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マタ15:8)。こういうわけで、そのような祈りを、神は全然聞き入れません。

第三番目の原因は、わたしたちの教会の中に聖霊の働きがなくて、主がわたしたちの祈りを聞かなくなることです。

  これは最も重要な原因です。律法の時代の初期を思い出してください。あの時、神殿の中で聖霊の働きがありました。人が罪を犯したら、聖霊の懲らしめを受け、神に仕える祭司が律法を犯したら、天から火が下って来て、彼らを焼き殺しました。そのため、人々は神を怖がっていて、神を畏れる心を持っていました。だが、律法の時代の後期、すなわち主イエスが働き始めた時、ユダヤ人が神殿の中で両替したり、牛や羊や鳩を売ったりして、神殿を強盗の巣にしてしまったとしても、聖霊は彼らを懲らしめませんでした。こういう時、聖霊はもう神殿を離れて、主イエスの働きを守り始めました。それなら、人が神殿の中で律法を守っても、ヤーウェ神の御名によって祈っても、聖霊の働きを得られませんでした。こうして、ヤーウェ神に仕える神殿は徹底的に宗教的な場所になりました。

  またわたしたちの教会を見てみましょう。わたしたちの今の教会は律法の時代の後期の教会と全く同じではありませんか。わたしたちは毎回欠かさずに集会に参加し、また教会の復興のために懸命に祈りますが、でも道を説く時、新しい光がありません。そのため、信徒たちも本当の供給を得られません。わたしたちは毎日聖書を読み、祈りますが、しかし聖書を読んだ後、字句の表面上の意味しか理解できず、主の言葉の真意が分かりません。その上、わたしたちは自分の霊の中が干からびて暗いとますます感じ、聖霊の臨在を感じられなくなり、たとえ酒食遊楽にふけり、地位、権勢をむさぼり、絶えず罪を犯すとしても、聖霊の懲らしめを受けません。同労者たちも腹を探り合って暗闘しますが、でも聖霊は彼らを懲らしめません。今、わたしたちは常に罪に征服されても、神に負い目があると感じず、わたしたちは異邦人のようになりました。……そのため、わたしたちはわたしたちの教会の中に聖霊の働きがないとはっきり感じました。

  以上のいくつかの原因のほかに、また別の原因がありますが、ここではもう列挙しません。では、どのような祈りは主に聞き入れられますか。


あなたと神との関係はどのようなものか

2019-06-06 21:34:32 | 賛美の心

   神の信仰においては、少なくとも神と正常な関係を持つという問題を解決する必要がある。神との正常な関係がなければ、神を信仰する意義は失われる。神との正常な関係の確立は、神の存在によって心を鎮めることによって完全に実現される。クリスチャン,悔い改める,神に祈り神との正常な関係というのは、神のいかなる業をも疑ったり否定したりせずに従えるということ、そしてさらに、神の前で善意を持ち、自分を顧みず、何をしている時も、神の家族の利益をもっとも重視し、神の監視を受け入れ、神の采配に従うということを意味する。あなたは何をするときにも、神の前で自分の心を鎮めることができる。たとえあなたが神の心を理解していなくても、本分を尽くし、責任を果たすために全力を尽くす必要がある。神の心が明らかになるまで待ってから、それを実践しても遅くはない。あなたと神との関係が正常になったときには、あなたと人々との関係も正常になるだろう。すべては神の言葉という基礎の上に確立される。神の言葉を飲食することにより、神の求めに応じて行動し、自らの見解を正し、神に逆らったり教会の邪魔になるようなことをしたりしないようにしなさい。兄弟姉妹のいのちに役立たないことはせず、他の人々の役に立たないことを言わず、恥ずべきことをしないようにしなさい。何をする時にも、公正かつ高潔に、神に見られても恥ずかしくないようにしなさい。時として肉体が弱いことがあるとしても、あなたは自己の利益に固執することなく、神の家族に恩恵を与えることを最優先し、義を行う。あなたがこように行動できるなら、あなたと神との関係は正常になる。

 

  

  あなたが何かをするときには、常に動機が正しいかどうかを吟味する必要がある。あなたが神の求めにしたがって行動できるなら、あなたと神との関係は正常である。これが最低限の基準である。自分の動機を吟味した結果、間違った動機が出てきた場合でも、そのような動機に背を向けて、神の言葉に従って行動できるなら、あなたは神の前で正しい者になるだろう。それは、あなたと神との関係が正常であることを示し、あなたのすることのすべてが、自己のためではなく神のためであることを示すだろう。何かをしたり言ったりするときには、常に心を正して義にかなうようにし、感情に流されたり、自分の意志で行動したりしないようにしなさい。これが神の信徒が自らを律する原則である。人の動機や背丈は小さなことの中に現れる。したがって、神によって全きものとされる道を進むためには、人はまず自分自身の動機や神との関係をはっきりさせる必要がある。あなたと神との関係が正常になって初めて、あなたは神により全きものとなり、そうして初めて、あなたに対する神の取り扱い、刈り込み、訓練、鍛錬が望ましい効果を達成することができる。それはつまり、人々が自分の心の中に神を抱いて、個人の利益を追求せず、個人の将来を考えず(これは肉の思いを意味する)、いのちに入るための重荷を背負って、真理の追求に最善を尽くし、神の業に従うということだ。そうすれば、あなたの追求する目標は正しく、あなたと神との関係は正常である。神との関係を正すことは、霊的な旅を始めるための第一段階であると言える。人の運命は神の手の中にあり、神によってあらかじめ決められており、自分で変えることはできないが、あなたが神により全き者とされるかどうか、神のものとされるかどうかは、あなたと神との関係が正常かどうかによって決まる。おそらく、あなたには弱い部分や従順でない部分がある。しかし、あなたの見解や動機が正しい限り、そして、あなたが神との関係を正して正常な関係にしている限り、あなたには神によって全きものとされる資格がある。あなたが神と正しい関係を持たず、肉のためや自分の家族のために行動するなら、どんなに一生懸命に働いても、何の役にもたたない。あなたの神との関係が正常であれば、すべてがあるべきところに落ち着く。神が見ているのは、あなたの神の信仰についての見解が正しいかどうかだけで、それ以外は何も見ていない。あなたが誰を信じ、誰のために信じ、なぜ信じるか。あなたがこのようなことをはっきり認識し、自分の見識や実践を正すことができれば、あなたのいのちは成長し、あなたはきっと正しい道に進むことができるだろう。あなたと神との関係が正常ではなく、あなたの神の信仰についての見解が逸脱したものであるなら、それによってそれ以外のすべては台無しになるだろう。あなたがどのように神を信仰しても、何も得られないだろう。あなたと神との関係が正常な場合にのみ、あなたが肉に背を向けて、祈り、苦しみ、耐え、従い、兄弟姉妹を助けて、神により多く献身したとき、あなたは神に認められるだろう。あなたのやることが価値や意義を持つかどうかは、あなたの意図が正しいかどうかや、あなたの見解が正しいかどうかによって決まる。近頃の多くの人の神への信仰は、首を捻じ曲げて時計を見るようなもので、その視点はねじ曲がっている。ここを突破できれば、万事が好転する。これが解決されれば万事落着するが、解決されなければ、万事が無に帰す。神の前では行儀よく振る舞うが、見えないところでは逆らってばかりいる人もいる。これはねじ曲がった偽りの現れである。この種の人はサタンの奴隷であり、神を試す典型的なサタンの化身である。わたしの業と言葉にしたがうことができて初めて、あなたは正しい人となる。あなたが神の言葉を飲食し、神に見られても恥ずかしくないことしかせず、公正かつ高潔なことしかせず、恥ずべきことをせず、人々のいのちに害のあることをせず、光の中で生き、サタンに利用されなければ、あなたの神との関係は正常化される。

  神を信じるにあたり、あなたは正しい意図と見解を正さなければならない。あなたは、神の言葉、神の業、神によって作られた環境、神によって証しされた人間、そして実践の神を正しく理解し、正しく扱う必要がある。あなたは、あなた個人の考えにしたがって行動したり、自分でささやかな計画を立てたりしてはならない。あなたは、あらゆることにおいて真理を求め、神の被造物の立場に立って、神のあらゆる業にしたがわなければならない。あなたが神によって全きものとなることを求め、いのちの正しい道に進みたいなら、あなたの心は常に神の前で生きなくてはならず、放蕩せず、サタンにしたがったり、サタンが働く機会を与えたり、自分を利用させたりしてはならない。あなたはあなた自身を完全に神にゆだね、神に支配してもらう必要がある。

  あなたはサタンの奴隷になりたいか。あなたはサタンに利用されたいか。神によって全きものとされるために、あなたは神を信じ、神を追求しているか。それとも、神の業において引き立て役になるのか。あなたは神のものとされて、意味のある人生を生きたいか、それとも、価値のないからっぽの人生を生きたいか。あなたは神に使ってもらいたいか、それともサタンに利用されたいか。あなたは神の言葉と真理で満たされたいか、それとも、罪とサタンで満たされたいか。これを考えて、選り分けよ。あなたは日々の暮らし中で、自分の言った事やした事の中から、神との関係を異常にするようなものを把握し、自らを正し、正しい生き方を選ばなければならない。常に自分の言葉、行動、やることなすこと、考えや思い付きを吟味せよ。自分の真の状態を把握し、聖霊の業の道へ入ること。このようにすることによってのみ、神との正常な関係を持つことができる。自分と神との関係が正常かどうかを測ることにより、あなたは自らの意図を正し、人の本質を理解し、自分自身を理解することができるだろう。これを通して、あなたは実体験に入り、真に自分自身を捨てて、心から委ねることができる。神との関係が正常であるかどうかを経験するような問題において、神によって全きものとされる機会を見出し、聖霊が働いているような状況を理解し、サタンの策略や陰謀の多くを見抜くことができるだろう。このようにしてのみ、あなたは神によって全きものとなることができる。神との関係を正して、神の采配に全て従うべきである。そうすればあなたは、実体験により深く入り、聖霊の業をもっと多く受け取るだろう。あなたが神と正常な関係を持つことを実践しようとするとき、肉を捨てて、神に真に協力することを通じて実践可能になることが多い。あなたは「協力の心なしでは、神の業を受け取ることは難しい。肉の試練を経ない限り、神からの祝福はない。霊が葛藤しない限り、サタンが恥じることはない」ということを理解する必要がある。このような原則を実践しはっきりと理解すれば、あなたの神の信仰についての見識は正されるだろう。あなたがたは現在の実践において、「飢えを満たすために、パンを探す」という見方や、「すべては聖霊によって成され、人が介入することはできない」という見方を捨てる必要がある。このように話す人々はみな、「人はなんでもやりたいことができ、時が来れば、聖霊が働いて、人は肉を克服する必要も協力する必要もなくなり、必要なのは聖霊に人を動かしてもらうことだけである」と考えている。このような見解はすべてばかげている。このような状況では、聖霊が働くことはできない。聖霊の業に対する大きな障害になるのは、この種の見方である。多くの場合、聖霊の業は、人の協力を通して実現される。協力や決意もなく、人の性質を変え、聖霊の業を受け、神から啓示や啓蒙を得たいと思うのは、まったく虫の良い考えである。このような態度を、「自分を甘やかし、サタンを大目に見る」と言うのだ。このような人々は、神と正常な関係を持っていない。あなたは自分自身の中にサタンの現れをたくさん見つけた。そしてあなたの過去の行動の中には、神の現在の要求に反することがたくさんあった。あなたはそれらを今捨てることができるか。神との正常な関係を獲得し、神の意図にしたがって行動し、新たな人となって新たないのちを得、過去の罪を振り返らず、後悔しすぎず、立ち上がって神と協力することができる、そして、やるべき本分を果たす。このようにすれば、あなたと神との関係は正常になるだろう。

 

  

  あなたがこのような言葉を読んだ後に、それを単に言葉通り受け止めるだけで、心を動かされなかったら、また、あなたが真剣に神と正常な関係を持とうとしていないなら、それはあなたが神との関係を重視していない証拠であり、あなたの見解はまだ正されておらず、あなたの意図は神のものとされることや神に栄光を帰すことに向けられておらず、むしろサタンの陰謀が蔓延ることや、あなたの個人的な目的を達成することを認める方向に向けられている。クリスチャン,悔い改める,神に祈りこの種の人々は、全て間違った意図や見解を持っている。彼らは、神が何をどのように言おうが無関心であり、何の変化も見られない。彼らの心はまったく畏れを感じないし、恥じることもない。この種の人は、霊のない混乱した人である。あなたは、神のいかなる発言でも、読んで理解したら、実践に移すべきである。あなたがかつてどのように実践しようが(かつてあなたの肉は弱かったかもしれないし、反抗的だったかもしれず、反逆していたかもしれないが)、それは大きな問題ではなく、あなたのいのちが今成長することを妨げることはない。あなたが今日神と正常な関係を持つことができるなら、そこには希望がある。あなたが神の言葉を読むたびに、あなたが変わり、あなたの生活がよい方向に変わったと他の人々も認めるなら、それはあなたが神と正常な関係を持っていること、関係が正されたことを示している。神は、人々の罪を基準にして扱ったりしない。あなたが理解し認識した後、二度と反抗したり逆らったりしなければ、あなたにはまだ神の慈悲がある。あなたがこのことを理解し、神により全きものとなることを求める意志があるならば、あなたの神の前での状態は正常である。何をするときにも、必ずこう考えよ。「私がこれをやったら、神はどう思うか。それは兄弟姉妹にどのような影響を与えるか。」あなたの祈り、交わり、発言、仕事、人々との接触の意図を吟味し、あなたと神との関係が正常であるかどうかを吟味せよ。もしあなたが意図と意見がどのようなものであるか見分けることができないとすれば、あなたには判断力がないということであり、それはあなたが真理を知らなすぎるということを証明している。神の行うあらゆることを明確に理解し、神の言葉にしたがって物事を見て、神の側に立って物事を見ること。このようにすれば、あなたの見解は正されるだろう。したがって、神と良好な関係を築くことは、神を信仰する誰にとっても、最優先事項になる。これは誰もが、最も重要な課題として、また、人生における重要な項目として扱うべきである。あなたのやることはすべて、神との関係が正常であるかどうかに照らして判断する必要がある。あなたの神との関係が正常であり、あなたの意図が正しいならば、それをしなさい。神との正常な関係を維持するには、個人的な利益を失うことを怖れてはならず、サタンが蔓延ることを許してはならず、サタンが自分を操ることを許してはならず、サタンがあなたを笑いものにすることを許してはならない。このようなことを避けようとすることは、あなたと神との関係が正常であることの現れである。それは肉のためではなく、むしろ、魂の平安のためであり、聖霊の業を得るためであり、神の心を満たすためである。あなたが正しい状態になろうとするなら、神と良好な関係を築く必要があり、神の信仰についての自分の見解を正す必要がある。それは、自分を神のものとされ、神の言葉の実をあなたの中に示し、あなたをさらに啓発し啓蒙することを可能にする。このようにすれば、あなたは正しい道に進むだろう。神の現在の言葉を飲食し続けて、聖霊の業の現状に溶け込み、神の現在の求めに従って行動し、古臭い慣習に従う事を止め、物事の古いやり方にしがみつくのをやめ、現在の仕事のやり方に素早く溶け込むようにしなさい。このようにすれば、あなたと神との関係は完全に正常になり、神を信仰するための正しい道に進むだろう。

 

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二つの石の運命

2019-06-05 20:25:08 | 賛美の心

  わたしはこういう物語を読んだことがあります。ある山には、二つの石が並び立っていました。ある日、一つ目の石は二つ目の石に「わたしは外の世界に行っていろいろと経験し、見聞を広めたいんだ」と言いました。二つ目の石はこれを聞いて、「ここの安逸な生活をあきらめない方がいいじゃないか」と勧めました。

  しかし、一つ目の石はすでに、離れることを決めました。それで、彼は川の流れに沿って走り始めました。彼は途中で多くの苦難を経験しましたが、自分の選択を後悔しませんでした。

  二つ目の石は彼が多くの挫折や不幸に遭ったのを見て、彼に早くあきらめるように勧めました。だが、一つ目の石は決意を変えず、依然として自分の理想を堅持していました。

  長年たった後、幾多の試練に耐えてきた一つ目の石は世界の珍品、奇石になり、博物館に収蔵されていて、人々の称賛の的となりました。

  二つ目の石も一つ目の石に倣いたいが、途中の苦難をこわがるため、あきらめました。その後、彼は人に打ち砕かれて、家を建てるのに使われました。

 

  同じく石ではあるが、違う運命があります。一つの石は安逸に日を送るが、もう一つの石は険しい苦難の道を選び、苦難をなめ尽くして世界の珍品、奇石になり、多くの人に賛美され、称賛されました。明らかに、一つ目の石の選択は成功しました。二つ目の石は苦難をこわがるため、一時的な享受、安逸を選びました。最終的に、彼は人に打ち砕かれました。明らかに、二つ目の石の選択は失敗しました。

  この物語にはわたしは考えさせられました。神を信じる過程の中で、クリスチャンとしてのわたしたちもこの二つの石と同じように選択に直面しなければなりませんか。もし一つ目の石のようになりたくて、真理を追い求め、神を認識する道を歩むなら、わたしたちはいくらかの苦しみを受け、名利や地位や金銭や世的な享受や世にある前途などを捨てなければならず、また、さまざまな環境によってもたらされる苦難、例えば世の人の迫害、誹謗、あざ笑い、侮辱などを経験しなければなりません。精錬された愛こそ強いです。人は精錬されてこそ、きよくなることができます。これらの苦難、試練を経験せず、安逸をむさぼるなら、絶対に真理を得られず、また神に良しとされることができません。これらの苦難、試練は、神が人を完全にするのに絶対に必要なものです。神に重用された人はみな多くの苦難を受けました。神に祝福された人も苦難、試練の中で神のために証しをしました。ペテロはわずか七年の間に数百回の試練を受けました。そのため、神に完全にされました。この数百回の試練の中で、ペテロは多くの苦しみを受けました。その結果、彼は神を認識する人になりました。これで分かるように、苦難、試練はわたしたちの命における富であり、わたしたちに命、希望、祝福をもたらすことができます。それは聖書に書かれているとおりです。「……。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(申8:17)。

  ヨブのことを例にあげましょう。ヨブは非常に大きな苦難、試練を受けた後、神に祝福されました。彼は満山の牛や羊、巨万の財産を失い、全身に重い皮膚病ができ、また彼の三人の友達と妻に誹謗されました。彼はこんなに多くの苦しみを受けたが、神に従順で、神を怨まず、神のために証しをしました。こうして、サタンは恥を受け、失敗しました。ヨブは以前神のことをうわさで聞いていましたが、このような苦難を受けた後、神の存在を感じ、しかも神に良しとされ、倍にして祝福されました。ヨブが神を信じる上で歩む道は、わたしたちが見習うべきです。神を信じる上でこのような道を歩むなら、多くの苦しみを受けなければならないが、神を満足させ、造物主の称賛と祝福を得ることができます。それは最も価値のあること、最も意義のあることです。一つ目の石の場合もそうでした。彼は苦難をなめ尽くし、幾多の試練を経た後、世界の珍品になり、多くの人に賛美され、称賛され、成功の喜びを味わいました。

  神を認識するという目的を達成しようと追い求める一部の兄弟姉妹は、肉体の享受を捨てて、神のために費やします。彼らは入獄しても気にせず、どんな苦しみを受けても、どんな苦難をなめても、神を離れません。彼らはさまざまな苦難や試練を受けたことによって、神を愛する人、神と心を一つにする人になり、真の人らしさを持つようになりました。これは次のような聖書の言葉を成就しました。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリ二4:17-18)。

  もし、わたしたちが二つ目の石のようになりたくて、真理を追い求めず、現状に満足し、肉体を思いやり、安逸をむさぼり、肉体が享受できるだけで満足し、集会に参加したり、祈ったり、神の言葉を読んだりするだけで満足し、時をつぶしたり、心の空白を埋めたり、家庭の平安を得るために神を信じていて、神を認識し、神を満足させることを追い求めず、神の道を行わないとすれば、わたしたちは神に良しとされることができず、きっと安逸のゆえに自分の命を失います。失敗への道を歩むなら、祝福を得ようという人の夢は二つ目の石のように粉々に砕かれます。神を信じるすべての人は、神が準備してくださる良い最終的な落ち着き先を得ようとします。だが、人が成功するどうかは、人の歩む道にかかっています。

 

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クリスチャン必読の試練―神様からの別の祝福

2019-06-04 22:39:31 | 賛美の心

  クリスチャンである私たちは誰一人として試練と無関係ではありません。聖書にはこう記されています。

  「わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『ヤーウェはわが神である』と言う」(ゼカリヤ書13:9)

  聖書にはこうも記されています。

  「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」(ヤコブの手紙1:2)

  このことから、神様はご自身の選民に精錬と試練をお与えになり、それを通じて私たちの信仰と神様への愛を完全にし、私たちの堕落した性質や信仰における汚れを解消し、私たちの誤った見方を矯正するとともに、私たちが清めていただけるようになることを望んでおられることがわかります。それゆえ、私たちは自分の観念に反する様々な環境に遭遇する可能性があります。そうした環境の例として、病気の精錬に遭遇するというものがあるかもしれません。また親戚の苦難や自宅に盗人が入るなど、家族が不運に見舞われることもあれば、仕事で困難に出会ったり、人生において自分の望まない状況に遭遇することもあるでしょう。また別の例として、自分の肉体的な利益が教会の利益と衝突するとき、何をしようと決断するか、ということが挙げられます。これらの例はいずれも疑いの余地なく私たちにとっての試練です。では、神様が私たちのために用意される試練に対して、どのように対応するべきでしょうか。そして私たちに試練が降りかかるとき、神様の御心はどのようなものでしょうか。

  最近、私は聖書について深く考えてきましたが、試練が降りかかったときのヨブとアブラハムの経験に啓発されました。それをみなさんと分かち合いたいと思います。

ヨブの試練

  初めに、ヨブという名で知られる聖書の登場人物に触れなければなりません。ヨブは生涯にわたって神様を畏れ悪を避け、しばしば神様に捧げ物を行なったため、神様は山のような牛と羊、そして巨大な富を与えて彼を祝福なさいました。聖書に記されていることから、ヨブがいかに祝福されたかを見ることができます。

  「彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」(ヨブ記1:2-3)

  しかしその後、試練がヨブに降りかかります。牛と羊とらくだは強盗に残らず奪われた上に燃やされ、しもべは殺され、子どもたちは崩れ落ちる家の下敷きになりました。災難と呼ぶことのできるこのような出来事が立て続けにヨブを襲ったのです。では、それらのすべてにヨブはどのように対応したでしょうか。そのとき、ヨブはそれでもなお神様の聖なる御名を讃え、こう言ったのです。

  「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

  その後、ヨブの全身は痛みを伴う腫れ物に苛まれ、灰の中に座って素焼きのかけらで腫れ物をかきむしりました。東で最も豊かだったこの人は物乞いとなりました。ヨブに降りかかったこれらの試練は、きっと私たちには耐えがたいものだったでしょう。しかしヨブは決して神様を責めず、その代わりに神様への信仰に満ちたまま神様を讃えたので、サタンは恥をかき逃げ出しました。

  ヨブは強く響くような神様の証しを行ない、神様の試練を難なく通過しました。それらの試練に続いたのは、神様からのさらなる祝福でした。富と牛は二倍に増え、子どもたちは一人ひとりがひときわ美しくなりました。しかも神様はヨブがさらに140年生きることをお許しになり、そのため210歳まで生きました。神様の試練を経験したあと、ヨブは人々に試練をお与えになる神様の御心をより深く理解するようになったのですが、それは次の言葉からもわかります。

  「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう」(ヨブ記23-10)

  こうした試練のあいだ、ヨブはしっかりと証しを行ない、その証しはサタンを恥辱にまみれさせ、他人からの大いなる賛美をもたらしました。その後、サタンは再びヨブを誘惑しようとせず、ヨブは真に自由な人間となり、神様の称賛を得たのです。

  さらに、ヨブが試練を耐えたあとで受け取ったより大きな祝福として、嵐の中神様がヨブのもとに現われ、彼に話しかけ、ご自身の全能と統治についての深い認識をお与えになりました。ヨブはこう言いました。

  「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42:5)

  神様の出現を見ることができる被造物になることは、かくも偉大な祝福なのです。

  ヨブの経験から、神様の称賛を得る彼の能力は、試練が降りかかったときの行動と不可分であることがわかります。自分自身の観念にまったく反する試練のあいだ、私たち一般人が有していない理性をヨブは有していました。まず何より、ヨブは神様を責めず、強盗から富を取り戻すために人間的な手段を一切使いませんでした。その代わりに神様の御前で自分自身を静めることができ、私たち人間は神様から祝福を得るが、まったく同様に災難にも苦しむと信じました。自分に降りかかった状況がどれだけ自分の観念に反していても、ヨブは神の御名を讃え続けたのです。

アブラハムの試練

  ここでもう一人聖書に登場する人物、信仰の父アブラハムについてお話ししたいと思います。アブラハムが百歳の時に神様から息子を授けられ、そのイサクを深く愛したことを、兄弟姉妹はみんな知っています。しかしある日、神様の試練がアブラハムに降りかかります。神様はこう言われました。

  「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」(創世記22:2)
  考えてみてください。このような試練は誰にとっても耐えがたいものであり、それゆえ中には神様に対抗したり、観念で一杯になったりする人もいるかもしれません。では、アブラハムはどのように対応したでしょうか。大きな悩みと痛みを感じながらも神様に従い、口論することも条件を主張することもなかったのです。一人でイサクを山に連れて行き、彼を殺そうと刃物を振りあげたまさにその時、神様は天使を遣わしてアブラハムの手を止めさせ、それで試練は終わりました。さらに、神様は誓いをなされ、大いなる祝福をアブラハムに授けられました。神様はこう言われました。

  「わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」(創世記22:17-18)

  私は別の本のこの一節も読みました。

  「人間にとって、神のする多くのことは理解しがたいものであり、信じられないようなものですらある。神が誰かの指揮を取ろうとするとき、その指揮はしばしば人間の観念とかみ合わず、生まれた不協和音と理解不能なものごとが人間に対する神からの試練となる。アブラハムはその点、自身の神への従順を示すことができた。そしてそれこそが、神の要求を満たすための最も基本的な条件だったのである。アブラハムが神の命令に従いイサクを捧げることができた時になってはじめて、神は自分が選んだ人間であるアブラハムに対して真の確信を得た。この時はじめて、神は自身が選んだこの人が、自身の約束とその後の経営(救いの)計画になくてはならないリーダーとなることを確信するのである」

  この文章から、神様は私たちを試すために環境を整えていらっしゃることがわかります。外側から見ると、そうした試練は私たちの観念に反していて理解しがたいものであり、そのせいでそのような環境では痛みや苦しみを感じますが、それらの試練には神様の丹念な努力が満ちあふれています。試練においてアブラハムがしっかりと証しを行なったとき、神様はアブラハムの誠実さをご覧になり、息子をお取りにならなかっただけでなく、子孫が浜辺の砂粒と同じくらい、あるいは天の星と同じくらいに増えるようにアブラハムを祝福なさいました。その背後で、神様の御心はさらに深い段階に達しました。人類を経営する働きのリーダーとしてアブラハムをお選びになったからです。神様はアブラハムの子孫を通じて人類を経営する働きを行なおうとお決めになり、これらの人々を通じてご自身の行ない、知恵、権威、力を示されることになりました。旧約聖書を読むと、律法の時代における神様の働きが、おもにイスラエルで行なわれたことが容易にわかります。つまり律法をお示しになり、人々を地上での暮らしにおいてお導きになったのです。イスラエルは、地上における神様の救いの働きが試され、生まれた地でした。また神様の最初の受肉もイスラエルでその働きを行ないました。神様はユダヤ人の姿をおとりになり、人類を贖われましたが、その結果、人類を贖う主イエスの福音が恵みの時代においてユダヤの地から全世界へと広まることになりました。

  このことから、アブラハムの受け取った祝福の偉大さがわかります。アブラハムが多くの国々の父となれたこと、そして彼の子孫が神様に祝福されていることは、初期の時代に降りかかった神様の試練につながっていると言えるのです。

  これらの経験から得られた啓発

  アブラハムとヨブに降りかかった試練から、私たちが遭遇する試練はどれも神様のよき御心を含んでいることが容易にわかります。それらによって神様の祝福が得られるだけでなく、さらに重要なことに、私たちの霊的ないのちが飛躍的に成長し、神様についての認識をさらに得て、さらに勇敢に安定して神様を信じる道を辿れるのです。アブラハムとヨブに降りかかった試練は、私たち一般人が経験するようなものではありません。それは私たちが二人のような霊的背丈を持っておらず、またこのような試練に耐える資格もないからですが、それでも人生において大小問わず様々な難しい試練に遭遇することがあります。ある姉妹が病気のために痛みに苦しみ、命が危機に瀕しているのを私は見たことがありますが、それでも彼女は神様への信仰に満ち、自分の生死を神様の御手に委ねることを望みました。自分の病気が回復するかどうかに関係なく、それでも神様の采配と指揮に喜んで従う覚悟だったのです。そしてついに神様の行ないを目撃し、病気は奇跡的に回復しました。この過程のさなか、神様への彼女の信仰はさらに増し、神様の全能性と統治についてさらに現実的な認識を持つようになりました。職業において万事が良好に進んでいるときは神様の祝福に感謝するけれど、仕事が困難だらけになったり、家族のお金が足りなくなったりすると、心の中に不満が持ちあがり、祝福してくださらないことで神様を責めるような兄弟姉妹がいます。ところがその後、神様の御言葉の啓示を通じて、神様への自分の信仰が単に神様との取引に過ぎないこと、また神様を豊饒の角と見なしていることに気づきます。そうして神様への信仰の裏にある誤った動機を理解するようになり、かくして信仰への誤った見方を正し、被造物として正しい場所を占めるようになります。正しい動機をもって経験するとき、いのちが成長するだけでなく、仕事も再びうまくいきます。兄弟姉妹がこうした試練に直面するとき、彼らの肉体は様々な程度に苦しみますが、これらの試練からさらに貴重なことを得ます。つまり人間をお救いになる神様の御心をさらに理解し、神様についての認識が現実的になり、さらに多くの真理を得るのです。ゆえに、試練は私たちクリスチャンにとって神様からの別の種類の祝福であり、私たちのいのちが成長し、私たちが神様の称賛を得るために通らなければならない道だと言えるかもしれません。

  クリスチャン一人ひとりにとって試練はこのように有益なのですから、試練や苦難が降りかかったからといって文句を言うどんな理由があるでしょうか。友のみなさん、そう思いませんか。