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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

あなたはどのように真のキリストと偽キリストを見分けるかを知っているのか

2019-06-20 21:02:36 | 賛美の心

  皆さんが知っているように、今はもう世の終わりの末期であり、月が四回血に変わるということも完全に実現し、さまざまな災難は日一日と全人類に迫ってきます。今はちょうど主の再来の日です。では、わたしたちがインターネットで主イエスが再来されたという福音を見る時、或いは身の周りの親戚や友人がわたしたちに主イエスが再来されたという福音を伝える時、わたしたちはどうすべきですか。主イエスはこう言われたことがあります。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」(マタ24:23-24)。多くの兄弟姉妹は主イエスのこの言葉の真意が分からないため、毎回主の再来に関する知らせを聞く時、偽キリストに惑わされはしまいかと心配し、主が再来されたという福音を聞く勇気がなく、福音を宣べ伝える人を受け入れる勇気もありません。彼らはどうしたらよいか迷っていて、「偽キリストを警戒するがゆえに、真のキリストを拒んでしまうとしたら、自分が神を見捨てる人になったのではないか、自分の長年の追求も徒労に終わるのではないか」と思っています。だから、真の神の到来を迎えたいなら、わたしたちは受動的に避け、警戒し、拒んではならず、真のキリストと偽キリストを見分ける原則を把握すべきです。真のキリストと偽キリストを見分けることに関する真理を理解したら、偽キリストに惑わされることはなくなり、真の神の現れを見る機会を取り逃すこともなくなります。では、真のキリストと偽キリストを見分ける原則は何ですか。

 

 

  第一に、偽キリストがしるしや不思議な業を行うことを通して見分けるべきです。聖書のこの箇所で、主イエスはわたしたちに「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い……」とはっきり教えられました。この言葉から、わたしたちはこういうことが分かりました。偽キリスト、偽預言者の人を惑わす手段は、しるしや不思議な業を行うことです。つまり、世の終わりに、偽キリストはおもに主イエスの働きをまねて、しるしや不思議な業を行うという方式によって人を惑わします。それは、人が彼の行うしるしや不思議な業を見て、彼は再来された主イエスだと誤って考えるためです。偽キリストはそうすることによって神の選民を惑わします。これは偽キリストの人を惑わすおもな手段です。例えば、今や一部の宗教のリーダたちは主イエスのなさった仕事をまねて、病気をいやしたり悪霊を追い出たりというような小さな奇跡を行って人を惑わします。それは聖書の二テサ第2章9節に、「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い」と書かれているとおりです。偽キリスト、偽預言者は全然真理を持たず、彼らの本性の本質から言えば、彼らは神を装う邪悪な霊です。だから、彼らは神が以前なさった仕事をまねて、取るに足りない奇跡を行うことしかできません。しかし、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させたり、死人を復活させたり、風と海を静めたりといった、主イエスのしるしと不思議な業は、偽キリストが全然行うことができません。これで分かりますが、世の終わりに、しるしと不思議な業を行うことができ、悪霊を追い出し、病気をいやし、多くの奇跡を行うこともできる、イエスと自称する人が現れれば、彼はきっと偽キリストであり、神を装う邪悪な霊です。これは、主イエスが聖書のこの箇所の言葉を通してわたしたちに与えられる啓示であり、また偽キリストを見分ける原則の一つです。

  第二に、キリストの本質を通して見分けるべきです。わたしたちが知っているように、主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終わらせ、しかも十字架刑を受けるという仕事を成し遂げ、また人の罪を赦し、人に恵みと祝福を得させました。これらすべての仕事は神自身だけがすることができます。主イエスは聖霊として受肉した神です。彼はへりくだって人の間で働いている間に、全然自分を表現せず、むしろこの世のすべての苦しみを体験していました。人類をサタンの権威の下から贖い出すためには、彼は何の不平も言わずに、進んで十字架に行かれました。イエス・キリストは全然自分をひけらかさず、しかも高い地位に立たず、独りよがりではありませんでした。彼は慈しみ、憐れみという性質を発表し、また寛容、忍耐というような、彼の持っているもの、彼であるものを発表されました。これらは、すべての腐敗した人類が持っていないものです。だから、キリストであれば、神自身の性質を発表でき、また神自身の仕事をすることができます。受肉した神の肉体は見た目は普通で正常ですが、しかしこの普通の肉体は神自身の仕事をすることができます。だが、偽キリストの働きはキリストの働きとは全く逆です。偽キリストは人を救う仕事をすることができません。彼はしるしを少し行って人を惑わすことしかできず、しかも極力大きなことを言い、自分をひけらかします。彼の言動から流露されるものは、傲慢さ、邪悪さ、狡猾さといったサタン的性質であって、人々に嫌われます。

  第三に、真理を発表できるかどうかによって見分けるべきです。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。……」(ヨハ14:6)と言われました。神だけが真理、道、命です。神を除いて、どの被造物や非被造物も真理、道、命を持っていません。だから、真のキリストと偽キリストを見分けるには、彼が真理を持っているかどうか、彼が神の言葉、真理、神の性質、神の持っているもの、神であるものを発表できるかどうかを見るだけでいいです。神が働く時に発表される真理の言葉は、人に実行の方向を指し示し、人に歩むべき道を得させることができます。わたしたちが知っているように、ヤーウェ神は働かれた時に律法、戒めを発布して人に守らせ、人にどのように地上で生活すべきか、どのように人とつき合うべきか、罪とは何か、どのように神を礼拝すれば神に良しとされることができるかを分からせました。生まれたばかりの人類が神の戒め、おきてを守ったため、彼らの生活は秩序正しくなり、彼らの以前の乱れた生活も変わりました。主イエスは来て働かれた時、真理を発表して人に新しい実行をもたらし、人に隣人を自分のように愛しなさいとか、寛容で忍耐すべきだとか、人を赦すべきだなどと教え、人がますます人性を持つようにされました。このことから分かるように、神の仕事は重複せず、神の仕事の中にいつも新しい実行の道があります。当時主イエスにつき従ったペテロ、ヨハネたちは主の言葉を聞いて、主イエスの発表されたものがみな真理であるのを見たため、それは神の声だと分かり、またキリストの現れを見ました。しかし偽キリスト、邪悪な霊はキリストと自称するが、全然キリストの本質を持っていません。彼らはただ自分をひけらかし、証しすることができるだけで、全然真理を発表できず、ただ主イエスの働きの基礎の上でまね、追随し、いくらかの奇跡を行って人を惑わすことができるだけで、人に少しの実行の道も指し示すことができません。最後に、だれにも知られないうちにだめになります。中には神に呪われて死んだ者もあります。彼らの追随者たちはなんらの真理、命も得ていません。ある人は邪悪な霊にとりつかわれ、同様に懲罰されました。このようなことはキリスト教の多くの宗派の中で存在しています。だから、真のキリストと偽キリストを見分けるには、キリストだけが真理、道、命であり、偽キリストが絶対に真理を持たないことをはっきり認識するだけでいいです。これも真のキリストと偽キリストを見分ける原則の一つです。

  以上述べられた、真のキリストと偽キリストを見分けることに関する真理、原則によって、わたしはこういうことが分かりました。主イエスのこの預言は、世の終わりに彼が再来される時、偽キリスト、偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業によって神の選民を惑わすこと、すなわち、偽キリスト、偽預言者が世界各地で現れて人を惑わす時は、真のキリストが現れて働く時であり、わたしたちがすでに現れた神を求め、神の足跡に従うべき時でもあることを、わたしたちに教えています。わたしたちが真のキリストと偽キリストを見分けることに関する真理を装備すれば、キリストの本質、および偽キリストの人を惑わす手段を認識し、弁別することができます。そうなってこそ、主イエスの再来――世の終わりのキリストの出現を迎えることができます! 真のキリストと偽キリストを見分ける原則を理解したら、わたしたちは主イエスが再来されたという福音を受動的に警戒し、避け、或いは盲目的に逆らい、拒絶することがなくなり、神を畏れる心をもって探究し、調べ、弁別し、真理、原則によって主イエスが戻られたかどうかを判断するはずです。世の終わりに、主イエスは再来される時、声を発し、言葉を言い、真理を発表されます。主イエスは彼の再来についてこのように預言されました。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハ16:13)。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:11)。もしわたしたちがいろいろなルートを通じて、再来される主イエスの声、言葉を聞いた時、渇仰し、探求する心をもって真理を求めるなら、神はきっとわたしたちに啓き、わたしたちを導き、わたしたちに優れた洞察力を与えて、どのように弁別するか分からせます。こうして、わたしたちは世の終わりに現れるキリストを迎えることができ、世の終わりに再来される主イエスがわたしたちを救うという機会を取り逃すこともなくなります!

 

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イエスとサマリアの女

2019-06-19 20:37:00 | 賛美の心

  イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった) ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。

 

  ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。 すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。 イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。 女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。


  そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。 その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。 ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。 そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。 イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。 あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。 そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。 わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。

  さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。 そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。 そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。

 

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神様が人類の運命を支配されている事実をどうのように認識し、扱うのか


子供ダンス「教会生活の何という喜び」

2019-06-18 22:53:04 | 賛美の心

 

スペイン語賛美歌「教会生活の何という喜び」子供ダンス
I
兄弟姉妹よ、私たちは神の御前に来た
御言葉を飲み食いすることは何という喜び
神は、私たちがどれほど深く真理を理解するかは気にかけず
私たちの真の言葉を喜ばれる
私たちは経験と認識したことを分かち合い
互いに支え合い、手をつないで進む
私たちは真理を理解し、自分自身を顧み
私たちの堕落と欠点を見る
私たちのいのちは私たちが感じること
私たちは心から神に話す
御言葉について交わるほど
私たちは御言葉と真理をより理解する
私たちは神の愛を味わった
教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす
そして、私たちのいのちは少しずつ成長する
キリストの国は実に私たちの家
神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する
全能神にすべての栄光があるように!


兄弟姉妹よ、私たちは神の御前に来た
御言葉を飲み食いすることは何という喜び
御言葉について交わるとき
体験し認識したことを分かち合い
聖霊から啓きを得る
神の光は私たちの上に輝く
教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす
そして、私たちのいのちは少しずつ成長する
キリストの国は実に私たちの家
神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する
全能神にすべての栄光があるように!


神は私たちのためにすべてのことを采配し
それらは私たちが完全にされるのに役立つ
今、私たちは神の御旨と心を知る
それはすべて私たちが真理を得るため
神の真理と御言葉を実行することで
より真理と現実を得る
教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす
そして、私たちのいのちは少しずつ成長する
キリストの国は実に私たちの家
神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する
全能神にすべての栄光があるように!
そして、私たちのいのちは少しずつ成長する
キリストの国は実に私たちの家
神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する
全能神にすべての栄光があるように!
誠意をもって本分を尽くし
神の御心にかなうよう証しよう
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

 

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あなたはどのように真のキリストと偽キリストを見分けるかを知っているのか

2019-06-17 22:27:19 | 賛美の心

  皆さんが知っているように、今はもう世の終わりの末期であり、月が四回血に変わるということも完全に実現し、さまざまな災難は日一日と全人類に迫ってきます。今はちょうど主の再来の日です。では、わたしたちがインターネットで主イエスが再来されたという福音を見る時、或いは身の周りの親戚や友人がわたしたちに主イエスが再来されたという福音を伝える時、わたしたちはどうすべきですか。主イエスはこう言われたことがあります。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」(マタ24:23-24)。多くの兄弟姉妹は主イエスのこの言葉の真意が分からないため、毎回主の再来に関する知らせを聞く時、偽キリストに惑わされはしまいかと心配し、主が再来されたという福音を聞く勇気がなく、福音を宣べ伝える人を受け入れる勇気もありません。彼らはどうしたらよいか迷っていて、「偽キリストを警戒するがゆえに、真のキリストを拒んでしまうとしたら、自分が神を見捨てる人になったのではないか、自分の長年の追求も徒労に終わるのではないか」と思っています。だから、真の神の到来を迎えたいなら、わたしたちは受動的に避け、警戒し、拒んではならず、真のキリストと偽キリストを見分ける原則を把握すべきです。真のキリストと偽キリストを見分けることに関する真理を理解したら、偽キリストに惑わされることはなくなり、真の神の現れを見る機会を取り逃すこともなくなります。では、真のキリストと偽キリストを見分ける原則は何ですか。

 

 

  第一に、偽キリストがしるしや不思議な業を行うことを通して見分けるべきです。聖書のこの箇所で、主イエスはわたしたちに「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い……」とはっきり教えられました。この言葉から、わたしたちはこういうことが分かりました。偽キリスト、偽預言者の人を惑わす手段は、しるしや不思議な業を行うことです。つまり、世の終わりに、偽キリストはおもに主イエスの働きをまねて、しるしや不思議な業を行うという方式によって人を惑わします。それは、人が彼の行うしるしや不思議な業を見て、彼は再来された主イエスだと誤って考えるためです。偽キリストはそうすることによって神の選民を惑わします。これは偽キリストの人を惑わすおもな手段です。例えば、今や一部の宗教のリーダたちは主イエスのなさった仕事をまねて、病気をいやしたり悪霊を追い出たりというような小さな奇跡を行って人を惑わします。それは聖書の二テサ第2章9節に、「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い」と書かれているとおりです。偽キリスト、偽預言者は全然真理を持たず、彼らの本性の本質から言えば、彼らは神を装う邪悪な霊です。だから、彼らは神が以前なさった仕事をまねて、取るに足りない奇跡を行うことしかできません。しかし、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させたり、死人を復活させたり、風と海を静めたりといった、主イエスのしるしと不思議な業は、偽キリストが全然行うことができません。これで分かりますが、世の終わりに、しるしと不思議な業を行うことができ、悪霊を追い出し、病気をいやし、多くの奇跡を行うこともできる、イエスと自称する人が現れれば、彼はきっと偽キリストであり、神を装う邪悪な霊です。これは、主イエスが聖書のこの箇所の言葉を通してわたしたちに与えられる啓示であり、また偽キリストを見分ける原則の一つです。

  第二に、キリストの本質を通して見分けるべきです。わたしたちが知っているように、主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終わらせ、しかも十字架刑を受けるという仕事を成し遂げ、また人の罪を赦し、人に恵みと祝福を得させました。これらすべての仕事は神自身だけがすることができます。主イエスは聖霊として受肉した神です。彼はへりくだって人の間で働いている間に、全然自分を表現せず、むしろこの世のすべての苦しみを体験していました。人類をサタンの権威の下から贖い出すためには、彼は何の不平も言わずに、進んで十字架に行かれました。イエス・キリストは全然自分をひけらかさず、しかも高い地位に立たず、独りよがりではありませんでした。彼は慈しみ、憐れみという性質を発表し、また寛容、忍耐というような、彼の持っているもの、彼であるものを発表されました。これらは、すべての腐敗した人類が持っていないものです。だから、キリストであれば、神自身の性質を発表でき、また神自身の仕事をすることができます。受肉した神の肉体は見た目は普通で正常ですが、しかしこの普通の肉体は神自身の仕事をすることができます。だが、偽キリストの働きはキリストの働きとは全く逆です。偽キリストは人を救う仕事をすることができません。彼はしるしを少し行って人を惑わすことしかできず、しかも極力大きなことを言い、自分をひけらかします。彼の言動から流露されるものは、傲慢さ、邪悪さ、狡猾さといったサタン的性質であって、人々に嫌われます。

  第三に、真理を発表できるかどうかによって見分けるべきです。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。……」(ヨハ14:6)と言われました。神だけが真理、道、命です。神を除いて、どの被造物や非被造物も真理、道、命を持っていません。だから、真のキリストと偽キリストを見分けるには、彼が真理を持っているかどうか、彼が神の言葉、真理、神の性質、神の持っているもの、神であるものを発表できるかどうかを見るだけでいいです。神が働く時に発表される真理の言葉は、人に実行の方向を指し示し、人に歩むべき道を得させることができます。わたしたちが知っているように、ヤーウェ神は働かれた時に律法、戒めを発布して人に守らせ、人にどのように地上で生活すべきか、どのように人とつき合うべきか、罪とは何か、どのように神を礼拝すれば神に良しとされることができるかを分からせました。生まれたばかりの人類が神の戒め、おきてを守ったため、彼らの生活は秩序正しくなり、彼らの以前の乱れた生活も変わりました。主イエスは来て働かれた時、真理を発表して人に新しい実行をもたらし、人に隣人を自分のように愛しなさいとか、寛容で忍耐すべきだとか、人を赦すべきだなどと教え、人がますます人性を持つようにされました。このことから分かるように、神の仕事は重複せず、神の仕事の中にいつも新しい実行の道があります。当時主イエスにつき従ったペテロ、ヨハネたちは主の言葉を聞いて、主イエスの発表されたものがみな真理であるのを見たため、それは神の声だと分かり、またキリストの現れを見ました。しかし偽キリスト、邪悪な霊はキリストと自称するが、全然キリストの本質を持っていません。彼らはただ自分をひけらかし、証しすることができるだけで、全然真理を発表できず、ただ主イエスの働きの基礎の上でまね、追随し、いくらかの奇跡を行って人を惑わすことができるだけで、人に少しの実行の道も指し示すことができません。最後に、だれにも知られないうちにだめになります。中には神に呪われて死んだ者もあります。彼らの追随者たちはなんらの真理、命も得ていません。ある人は邪悪な霊にとりつかわれ、同様に懲罰されました。このようなことはキリスト教の多くの宗派の中で存在しています。だから、真のキリストと偽キリストを見分けるには、キリストだけが真理、道、命であり、偽キリストが絶対に真理を持たないことをはっきり認識するだけでいいです。これも真のキリストと偽キリストを見分ける原則の一つです。

  以上述べられた、真のキリストと偽キリストを見分けることに関する真理、原則によって、わたしはこういうことが分かりました。主イエスのこの預言は、世の終わりに彼が再来される時、偽キリスト、偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業によって神の選民を惑わすこと、すなわち、偽キリスト、偽預言者が世界各地で現れて人を惑わす時は、真のキリストが現れて働く時であり、わたしたちがすでに現れた神を求め、神の足跡に従うべき時でもあることを、わたしたちに教えています。わたしたちが真のキリストと偽キリストを見分けることに関する真理を装備すれば、キリストの本質、および偽キリストの人を惑わす手段を認識し、弁別することができます。そうなってこそ、主イエスの再来――世の終わりのキリストの出現を迎えることができます! 真のキリストと偽キリストを見分ける原則を理解したら、わたしたちは主イエスが再来されたという福音を受動的に警戒し、避け、或いは盲目的に逆らい、拒絶することがなくなり、神を畏れる心をもって探究し、調べ、弁別し、真理、原則によって主イエスが戻られたかどうかを判断するはずです。世の終わりに、主イエスは再来される時、声を発し、言葉を言い、真理を発表されます。主イエスは彼の再来についてこのように預言されました。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハ16:13)。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:11)。もしわたしたちがいろいろなルートを通じて、再来される主イエスの声、言葉を聞いた時、渇仰し、探求する心をもって真理を求めるなら、神はきっとわたしたちに啓き、わたしたちを導き、わたしたちに優れた洞察力を与えて、どのように弁別するか分からせます。こうして、わたしたちは世の終わりに現れるキリストを迎えることができ、世の終わりに再来される主イエスがわたしたちを救うという機会を取り逃すこともなくなります!


人を識別するとは何か、人を裁くとは何か。

2019-06-16 20:39:14 | 賛美の心

  信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

  私は昨日、教会の仲間に偶然会いました。彼女は私が知らなかった聖書の奥義をたくさん語ってくれたので、私は彼女の話しから多くを学びました。しかし、彼女が牧師と長老たちの行動と行為を暴露して、彼らが現代のパリサイ人だと言った時、私はそれに賛成できませんでした。私は彼女が牧師と長老たちを裁いていると思いました。それは主の非難を受ける行動であり、なぜなら主イエス様は、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」(マタイによる福音書7章1節) 、と仰せられているからです。しかし、それは彼らを裁いているのではなく、識別しているのだと彼女は言いました。彼女は、「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」(マタイによる福音書7章15節)、という主イエス様の御言葉を参考にして、主は私たちが識別することを学ぶよう望んでおられるがために、「にせ預言者を警戒せよ」と仰せられているのだと言った上に、私たちは普段、他人の外見を見るだけで、その人たちの本質を完全に理解することはできないのだとも言いました。彼女の言ったことを聞いた後、私は当惑しました。私は人々を識別することと、裁くことの意味が分かりません。これらの疑問について、ご教示お願い致します。

  惠子

 

  惠子姉妹へ:

  お手紙ありがとうございます。人々を識別すること、そして人々を裁くということについて、私の個人的な理解をお話しさせていただきたいと思います。お互いから学び合いましょう。

  第1に、識別することを学ぶということは、主から私たちへの要求であるということを知っておかなければなりません。主イエス様はこう仰せられました、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。」(ルカによる福音書12章1節)。2000年前を振り返ってみましょう。当時のユダヤ人はパリサイ人を識別することができなかったため、むやみにパリサイ人の言ったことを信じ、最終的に主イエス様を十字架に釘付けにするという最も重大な罪を犯しました。彼らの犯した過ちの教訓から、私たちは識別力がないと、人々に従い、人々の言うことを聞くばかりで、気付かないうちに神に背いてしまうということが分かります。私たちは神を信仰する道を歩むにあたって、偽善者たちを警戒する必要があり、それは私たちがいのちに入る上で大いなる助けとなるということは明らかです。さらに、聖書の中には麦と毒麦を分ける話や、忠実なしもべと悪いしもべの話といった、主イエス様が語られるたとえ話がたくさんあり、それらは私たちが真信者と偽信者、真羊飼いと偽羊飼いを識別することを修得するのに役立てるためのものです。こうすることで、私たちはいずれの人にも誤った道に導かれたり、利用されたり、悪用されたり、操られることなく、心から神に従い、神の御言葉を心に掛けることができるのです。主イエス様はこう仰りました、「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう。」(マタイによる福音書15章14節)。私たちは人々を識別する方法を知らないと、誤まった道を進みやすくなってしまい、知らぬ内に神を信仰しながら人々に従い、人々を崇拝する信者になってしまうことが分かります。最終的に、私たちは穴に落ち、私たちの信仰は無駄になってしまいます。これ故に、私たちの信仰において、神に救っていただくためには、識別することを学ぶことが極めて重要になります。これについて、神はこう仰りました、「 神を信じ、神に関する認識を追求するのは、容易なことではない。それは、ただ寄り集まって説教を聞くだけでは達成されないし、熱情だけでは完全になれない。あなたは、経験し、知り、原則に基づいて行動し、聖霊の働きを獲得しなければいけない。経験を積めば、多くのことを判別できるようになる──善悪、正邪、何が血肉によるもので何が真理によるものであるかを区別できるようになるだろう。あなたは、こうしたことの区別ができなければいけない。そうすれば、どういう状況にあっても、迷うことはないだろう。これのみが、あなたの真の基盤なのだ。」

  さて、人々を識別するとは実際に何を意味するのでしょうか?それは、真理を用いて人の状態と行為を詳細に吟味することを意味します。そして、さらに、それは真理に従っている、事実と一致している、そして何の動機や目的も抱いていないことを意味します。このような交流は人々を識別することができ、信者たちが真理を理解し、欺かれないようにすることに役立てることができます。これは神の御旨に完全に即していることであります。

  主イエス様はパリサイ人を暴露してこう仰りました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」(マタイによる福音書23章27-28節)。 パリサイ人は貧しい者に与えたり、多くの善良な行いをするなど、表面的には善良な振る舞いを見せていました。そして、神に対して敬虔の念を表すため、彼らは衣服の房に聖句を書いてさえいました。しかし、彼らは主イエス様の御言葉と働きを探求することも、調査することもなく、多くの信者たちが主イエス様に従っているのを見た時、自分たちの地位と生活が危うくなると考えたのです。この結果、彼らは主イエス様の働きが律法の範囲を超えていたことを理由に主イエス様をローマ政府に引き渡し、十字架に張り付けるよう激しく要求したのです。パリサイ人の行動から、彼らは間違いなく偽善的であったことが分かります。主イエス様がパリサイ人を暴露されたのは、人々を裁くということの例であったと言えるでしょうか?いいえ、なぜなら神が表されるものは全て真実であり、それは裁きとは異なる分類のものだからです。今日の牧師と長老を見てみましょう。彼らは表面的にはとても謙虚に見えます。彼らは貧しい者に与え、信者たちに寛容になり、耐え忍び、そして弱気な信者たちを支えるようにと教えます。しかし、彼らは主の再臨の福音を耳にした時、それを探求して学ぶことにはほんの僅かの努力も費やそうとしません。そして、信者たちが真の道を求め、それを調べに行く様子を目撃した彼らは、各々の教会で信者たちをしっかりと操るために、そして自分たちの地位を守るために、ありとあらゆる手段で虚偽を広め、信者たちを怖がらせ、脅し、彼らが真の道を求めて調査するのを妨げます。彼らは主の再臨の福音を伝導する兄弟姉妹に対して軽率な結論を出し、非難し、中には中国共産党政府と手を組んで福音の伝道活動をする兄弟姉妹を逮捕させたり、自らの手で彼らを中国共産党政府に引き渡してしまう者までいます。牧師と長老のこういった振る舞いから判断して、彼らが神の目に善良な人々として映るはずがありません。神は彼らが犯したこと全てを褒め称えることなどおできになるでしょうか?彼らの行動とパリサイ人の行動に何の違いがあるというのでしょう?従って、現代の牧師と長老をパリサイ人と呼ぶことは主イエス様の御言葉に完全に準じることであり、私たちが困惑させられるのを避けるために彼らを神の御言葉に従って識別するのは正しいことなのです。神の御言葉は現実的で、正確で、適切であり、その中に人々を裁くものは一切ありません。これ故に、神の御言葉に従って人々の行動と行為を識別することは紛れもなく正しいことであり、その理由は真理が全ての人々と物事を判断する基準であるからです。

  ならば、人々を裁くとはどういうことなのでしょうか?それは人が各々の卑しむべき目的を果たすという意図をもって喋るということです。彼らの言うことは神の御言葉や真実には一致していません。彼らは大げさに喋り、主義として他人を非難し、各々の観念と想像を用いて結論を出し、他人に濡れ衣を着せるために真実をゆがめ、証拠を捏造すらします。その結果として、彼らの攻撃は他人に苦しみと害をもたらしているのです。例えば、ヨブが試練を受けていた時、3人の友人が神の御心を探求する前に好き勝手な判断をしました。それはヨブ4:6–9にこう記録されています、「 あなたが神を恐れていることは、あなたのよりどころではないか。あなたの道の全きことは、あなたの望みではないか。考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」 この言葉は、ヨブが災いを被った理由は、間違いなく彼が罪を犯して神に抵抗したためであり、彼は急いで神の御前に行ってそれを告白し、悔い改める必要があるということを示唆しています。しかし、人類を試して精錬するという神の御心を理解していなかった彼らは、自分たちの観念と想像まかせに神の働きを判断し、好き勝手にヨブを裁き、そして非難し、結果的に神に嫌われ、捨てられてしまいました。最後に、ヨブは神の御前に行き、彼らのために祈りを捧げました。そしてその時初めて、彼らは神の許しを得たのです。聖書にはこの記録があります、「ヤーウェはこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである』。」(ヨブ記42章07-08節)。
これより、神の御心を理解していなければ、神の御旨を推測するべきではないということ、そして他人を好き勝手に非難したり、盲目な判断をしたり、神に自分たちの個人的な考えを押し付けるべきでもない。そんなことをしてしまうと、神に嫌われ、捨てられてしまうということが分かります。私たちは、口で一切の罪を犯さず、神の御心を求めること、そしてそれが自分に明らかにされるのを待つことを学んだヨブの例を模範にするべきです。ヨブは神を畏れる心を持っていたため、最終的には試練の最中に神の証しを立て、神の称賛を得たのです。

  今、この終わりの日の中で、私たちは裁きと中傷に満ちた環境の中を生きています。私たちは神を怒らせたり、神に抵抗してしまわないように、何かが降りかかってくることがあれば、大衆に従うのではなく、先ずは真実を詳しく調べ、事態を明確に理解し、それから結論を出す必要があります。このようにする人々のみが神を畏れる心を持っているのです。

  惠子姉妹、私のこの話があなたのお役に立つことを願っています。他にもご質問がありましたら、私たちまでご連絡ください。

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