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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

勝利者であるための基準とは

2019-06-25 19:50:12 | 賛美の心

  【編集者メモ】主イエスの御名を守り続け、一生懸命働き、主のためにすべてを捨てて自分自身を費やし、迫害や苦難のさなかに退くことがなければ、勝利者になれると多くのクリスチャンは信じています。しかし、この視点は正しいでしょうか。聖書に記された勝利者とは何を指しているのでしょうか。勝利者であるための基準とは何でしょうか。

  勝利者という言葉を聞くと、私たちはヨハネの黙示録に記された預言を思い浮かべます。

  「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」(黙示録14:1)

  「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(黙示録7:14)

  この聖書で預言された十四万四千という数字は、神様が作ろうと望まれる勝利者を示しています。彼らは大きな患難のさなかに証しを行ない、神様に認められて天の国へ入る資格がある人たちです。勝利者になることは、主を信じる人全員が切望することであり、私たちが探し求める目標でもあります。多くの兄弟姉妹はこのように信じています。「私たちは何年も主に従い、そのあいだに苦労して働き、いろいろなことをあきらめて、自分自身を費やし、福音を説き、教会を牧してきた。そしてそのあいだずっと、世間の人々による嘲りや中傷、それに親族からの誤解に苦しんできた。また自国の政府に迫害され逮捕されても、私たちは決して退かない。このようにして最後まで主に従う限り、私たちは勝利者になるだろう」。

 

  事実、苦難を甘受する私たちの信仰と意志は素晴らしいものですが、「主の御名を守り続け、すべてを捨て、自分自身を費やし、主のために一生懸命働けば、私たちは最後には勝利者になる」という視点は、私たちの理解に照らして本当に正しいでしょうか。この疑問に答えるには、神様の御言葉が述べていることに目を向けなければなりません。黙示録にはこう預言されています。

  「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」(黙示録14:4-5)

  「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」(黙示録7:14-5)

  神様の御言葉はこう述べています。

  「神が勝利者と呼ぶ者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中にいる時でも、神の証しに立ち、神への確信と献身を維持できる者である。何があっても、あなたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたが神の前で証しに立っているということであり、それは神が言うところの勝利者となることである。……災害の前に完全にされる者たちは神に従順である。彼らはキリストに拠り頼んで生き、キリストを証しし、キリストを崇める。彼らは勝利した男児たちであり、キリストの良き兵士たちである。」

  これらの預言と神様の御言葉から、真の勝利者は嘘をつかず、心に裏切りを抱かず、堕落した性質が清められた人だということがわかります。さらに、彼らは子羊の足跡をぴったりと追い、真理を理解し神様を知る人でもあります。キリストが何とおっしゃろうと、またどのように働かれようと、彼らはキリストを追いキリストに従い、神様を讃えてあらゆることにおいて神様への証しをします。また彼らの神様への忠実は絶対にして完全です。サタンが人々を容赦なく迫害し、捕らえるという恐るべき状況に直面しても、彼らは真理を実践に移し、神様の被造物として本分を尽くし、死に至るまで神様に従い続けることができ、美しく完壁な神様への証しをします。これらの基準を満たすことでのみ、言葉の真の意味での勝利者になれます。それは単に、苦労して働き、主のためにいろいろなことをあきらめて自分自身を費やす人、迫害や患難においても退かない人を指しているだけではありません。

  ここで私たち自身に目を向けてみましょう。私たちは何年も主に従い、そのあいだに多くのことをあきらめて自分自身を費やし、主のために苦しみ代価を払ってきましたが、いまだに自分自身の堕落した性質から逃れておらず、清められてもいないことは否定できません。例えば、主のために骨を折って働きながら、しばしば罪を犯し、神様に従わず抵抗することがあります。主の御言葉を実践することに注意を払わず、自分自身の思いつきや欲望に従って物事を行ないます。名声や富や地位をむやみに欲しがり、兄弟姉妹が自分を尊敬して見上げてくれるようにと自分自身を讃えて証しを行ない、信者たちを自分の前に連れてくることもあります。また他人と交わるとき、自分の個人的な利益を守るために嘘をついたり騙したりすることを止められず、自分の名声や富や地位が関わるときには、兄弟姉妹を妬んだりたくらみを仕掛けたりすることさえできてしまいます。私たちが働いたり苦しんだりするのは神様を愛し満足していただくためではなく、栄誉と報いを得るためなので、いくらかの働きを行ない、いくらかの苦難を耐えたあと、自分が先輩であることを誇示し、自分勝手にもその見返りとして天の国での分け前を神様に求めます。神様の試練が降りかかるとき、私たちは神様を誤解して責め、裏切りさえします。また誰かが終わりの日における私たちのための神様の働きを証しするとき、自分の中に観念が生じ、神様の働きを軽率に評価して非難することがあります。私たちは今なお頻繁に罪を犯し、自分の罪深い本性に操られ支配されることがあり、神様に抵抗して裏切ることもあります。変化しておらず、また清められてもいないこのような人間が、どうして勝利者と呼ばれることがありえるのでしょうか。

  すると、「自分の振る舞いを考えると、私たちが勝利者になる基準を満たしていないのは本当だ。では勝利者になるためには一体何をするべきなのか」と尋ねる人がいるかもしれません。聖書には、こう記されています。

  「わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する」(ゼカリヤ書13:9)
またペテロの第一の手紙四章十七節はこう述べています。

  「さばきが神の家から始められる時がきた」

  さらに神様の御言葉はこう述べています。

  「わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉の意味は何だろうか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順だったということを意味する。そのような人々の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。」

  神様の御言葉から、真の勝利者は神様の裁きと刑罰に加え、あらゆる種類の試練や精錬に耐えた人、そして神様についていくらかの認識を有している人であることがわかります。そうした人はまた自分自身の堕落した本性についてもいくらかの認識があり、真の服従に到達し、いかなる試練や患難が降りかかろうとも、神様に従いその御言葉による裁きと刑罰を受け入れることができ、最終的に彼らのサタン的な堕落した性質は変化し清められます。サタンの誘惑に遭ったとき、彼らは神様の証しをし、サタンの包囲に打ち勝ち、その影響から自由になることができます。もはや自分の堕落した性質によって生きるのではなく、その行動と振る舞いはすべて神様の御言葉に基づいており、神様の御言葉の現実を生きます。このような人だけが真の勝利者です。彼らが神様の働きを経験すると、傲慢、自惚れ、利己心、下劣さ、嘘や欺瞞といった自分のサタン的な堕落した本性について徐々に認識を得て、サタンによって自分が芯まで堕落させられてきたこと、いつでも神様に抵抗し神様を裏切ってしまう可能性があることの真理を認識します。また自分が完全にサタンの姿で生きていること、神様の御前で生きる価値がないことを認識します。それと同時に、神様の性質はいかなる背きも許さないことをよく理解し、そのため神様を畏れる心を育み、神様に従いその御言葉によって生きることができるようになります。さらに、彼らは真理を理解し神様を知っているので、悪しき物事についての識別力を持つようになり、サタンの計略を見破れると同時に、サタンのいかなる誘惑に遭遇しても、神様の証しをします。彼らは神様を真に愛し、従い、畏れる人になり、そのサタン的な堕落した性質はすっかり清められ、変化し、彼らは完全に神様のものになります。そうした人たちだけが、勝利者になる基準を満たす人です。それはまさに、聖書に記録されたヨブと同じです。多数の羊と牛だけでなく巨大な富をも失わせる、全身を腫れ物で覆わせる、友人に嫌がらせをさせる、あるいは妻を通じてその高潔さを攻撃させるなど、サタンがヨブを苦しめるためにいかなる残酷な手段を用いようと、ヨブはサタンに屈服することも、また神様に対する不満を一言たりとも漏らすこともなく、代わりにこう言いました。

  「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

  「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)

  ヨブはこれらの試練に直面しても神様の証しをし、神様を畏れ悪を避けるという神様の道に従うことができました。よって、苦難と試練から立ち上がった勝利者だったのです。もう一つの例としてペテロが挙げられます。彼は生涯を通じて主イエスに従い、イエスを自分の模範とし、神様の至上の愛を追い求め、神様のために逆さ十字架にかけられながらも、死ぬまで神様に従順であり、かくして完全かつ美しい証しをしました。ペテロはまた、苦難を生き抜いた真の勝利者でもあり、神様によって完全にされた最初の果実、神様の国に入って永遠の命を得た人でもあるのです。

  黙示録ではこうも預言されています。

  「わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」(黙示録3:11-12)

  「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある」(黙示録2:17)

  「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」(黙示録7:17)

  これらの聖句から、勝利者の集団を完全にすることは、主イエスがそれを行なうために再び来られた働きだということが簡単にわかります。よって、私たちがこれらの勝利者の一人になりたければ、主の第二の到来を受け入れ、神様の足跡に従い、神様の御言葉による裁きと刑罰の働きを経験しなければなりません。私たちを清め救う働きをなさるために、神様はその御言葉を自らお語りになるからです。神様のお声に耳を傾ける賢い乙女となることができれば、私たちは子羊の婚姻の宴に出席して、神様から真理といのちを得られます。そして最後には、終わりの日の神様の働きを経験することになるので、神様についての真の認識を持つだけでなく、自分の堕落した性質も、度合いは異なるものの、清められます。その時はじめて、私たちは本当の意味で、大いなる苦難を乗り越えた勝利者の集団となるのです。


断食と祈りでは教会の荒廃を解決できない理由

2019-06-24 20:00:00 | 賛美の心

  ここ数年の間、リン・ケは教会を活気付けて兄弟姉妹ならびに自分自身の信仰を強めるために数えきれないほど断食を行い、そして祈りを捧げました。にもかかわらず、彼女は主の存在と御導きをずっと実感できずにいます。彼女はどうして神が彼女の祈りを聞いてくださらないのか理解できませんでした。彼女の断食と祈りに敬虔さが足らないということでしょうか?

  リン・ケはこの断食と祈りの問題について困惑したまま、川岸のパビリオンの中に座ってぼんやりと空を見つめていました。彼女は同僚のシャオ・ジンに2回呼ばれてやっと気が付きました。

  心配するシャオ・ジンに対し、リン・ケは苦笑して答えました、「ここ数年、私の通う教会の状態が悪化しているんです。私自身もとても弱気になっています。今回なんて断食と祈りを4日も続けて行ったんですよ。にもかからわず、私の状態は全く改善していません。私には神の御旨を感じることができないと、常に感じています。私の断食は敬虔さに欠けているのでしょうか、それとも主は私の信仰を試しておられるのでしょうか。今、私は心弱く、間違いなく主の期待に応えることができていないのです。」

  シャオ・ジンはこう答えました、「リン・ケさん、私たちが断食をして、祈りを捧げて、教会を活気づけてくださるよう誠実な気持で神にお願いしても、どうして神は聞いてくださらないのか疑問に思ったことはないですか?神の御心は何をお望みなのでしょう?神が頼もしい御方であることは誰もが知っています。神の御旨に従って祈りを捧げ、かつ神の定めを全うしてさえいれば、神は御耳を傾けてくださります。しかし、神の御旨に従って祈りを捧げるということが必須条件となっています。これができないと、どれだけ断食して祈りを捧げるかに関わらず、私たちが誠実であったとしても、苦しんだとしても、神は御耳を傾けてはくださりません。今現在、教会の荒廃は1箇所や2箇所だけで起こっているわけではありません。むしろ、宗教界全体がこの問題に直面しているのです。これはそれに神の御旨があることを示しています。第一に、私たちは教会が荒廃する根源を明確に突き止める必要があります。神の御旨は何なのか?そうしなければ、私たちは絶えず断食したり、祈りを捧げていても、答えが見つからず、最終的には霊的に窶れてしまうでしょう。」

  リン・ケは困惑した様子で聞きました、「教会の荒廃についてですが、どうやって神の御旨を求めればよいのですか?」

 

  シャオ・ジンは答えました、「その点に関しては、聖書を読んでいた時にこの御言葉を見つけたんですよ、『また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。』(マタイによる福音書 24:12)。『主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。」』(アモス書8:11)。『「わたしはまた、あなたがたのすべての町であなたがたの歯を清くし、あなたがたのすべての所でパンを乏しくした。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」』(アモス書4:6-7)。今現在、窃盗や不倫といった無法な出来事の発生が増えつつあります。牧師、長老、そして著名な説教師でさえ戒律を守れていません。彼らは自分たちの地位を上げようと聖書の知識について説教するだけであり、兄弟姉妹たちから尊敬されようと自分たちの証言をするのです。彼らは基本的に神の称賛も、証言もしません。彼らは神に仕えるふりをして、実際にはただ単に私たちの兄弟姉妹に対して権力を振るっているだけなのです。彼らはかなり以前から主の道を逸脱しており、神から拒絶されています。このような人々が神に仕えていて、教会が荒廃しないはずがないのです。更に、私たちは今現在終わりの日を生きています。これは主が再臨なさる重大な時期です。神が既にまた新たな働きをされ、聖霊の働きが移行し、私たちが神の足跡を辿れていないために暗闇に取り残されてしまったということはあり得る話しです。これは律法の時代末期に似ています。ユダヤ教の指導者たちはヤ―ウェの律法に従わず、神を崇める心を持っていませんでした。彼らは人間の仕来りにのみ従っていたのです。彼らは神の戒律さえも捨て去ってしまい、完全に神の道を逸脱してしまいました。彼らは神殿を家畜の売買やお金の両替を頻繁に行う ‘盗人の巣’ としてしまったのです。これは次第に神殿の荒廃を引き起こしました。これが、教会が聖霊の働きを失った一番の理由でした。そして、主イエス様が新たな働きをしに来られました。当時の人々は、再度聖霊の働きを得て、かつその平安、喜び、そして素晴らしさを授かるために、神殿を去りイエス様の働きを受ける必要があったのです。」

  リン・ケは驚いて言いました、「あなたは、現在起っている教会の荒廃は律法の時代末期に起こったことに似ていると仰っているんですね。主の道を逸脱した牧師と長老たちは、ずっと前に神から拒絶され、聖霊の働きを失ってしまったと。さらに、神は新たな働きをするために既に来臨されているということはあり得ますか?」

  シャオ・ジンは言いました、「そうですね、はい。それは間違いなくあり得ます。私たちは教会の最近の状況を良く認識しています。教壇の上では牧師たちがいつも陳腐な説教ばかりをして、教壇の下では信者たちが絶えず噂話しをしています。これでは兄弟姉妹たちがただ単にのんびりと談話しているようなものです。若者たちは時計を気にしてばかりで、年寄りは居眠りをしながらいびきをかいています。集会は夜の7時に予定されているのに、人々は8時まで来ません。9時になってもまだ遅れてくる人たちがいて、集会が終わると可能な限り早々と帰って行きます。聖霊がまだ教会で働いていたとしたら、このような状況が起るでしょうか?牧師と長老たちはパリサイ人の道を歩んでいるのです。彼らは神に抵抗する道を兄弟姉妹たちに歩ませようとしています。最終的に、彼らは神に見捨てられ、排除されてしまうでしょう。神が働きをされなければ、私たちがどれだけ断食をして、祈りを捧げても、全く効果がないのです。」

  シャオ・ジンはこう言った後、タブレットを開いて次の言葉を読みました:「『神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。』(「千年神の国は訪れた」より)。この節より、宗教界は現在深刻な霊的飢餓状態にあることが分かります。神の御旨は私たちが神の現在の御言葉と働きを積極的に求めることであります。そうすれば、私たちはいのちの生ける水の泉を見つけることができ、こうしてのみ聖霊の働きを得ることができます。私たちは現在、預言の中で説明されている水なき状態にあるのです。私たちの最優先事項は聖霊の働きが宿る教会を見つけることであり、そうせずに消極的に待機したら、私たちはしなびて滅びてしまうでしょう。」

  リン・ケは溜息まじりに言いました、「あなたの仰っていることは聖書の内容と合致しています。これを聞いて、ヨハネの黙示録に記されたこの節を思い出しました、『小羊の行く所へは、どこへでもついて行く』(ヨハネの黙示録14:4)。教会の荒廃には実に神の御旨が込められているように思えます。現在、娑婆世界は不穏で不安定な状態にあります。災害の発生がどんどん増えています。様々なしるしにより、主の来臨の預言が成就していることが分かります。これが事実であるなら、聖霊の働きが宿る教会を積極的に探し、調査することを最優先すべきです。しかし、子羊の足跡はどうやって探せばいいのでしょうか?」

  シャオ・ジンはこう答えました、「ヨハネの黙示録に書かれたこの節を覚えていますか?『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』(ヨハネの黙示録 2:7)。そして、ヨハネによる福音書にはこう記録されています、『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネによる福音書 16:12-13)。この節から、主がついに再臨される時、主は教会に語りかけられ、私たちが救いを得て堕落から抜け出せるようにしてくれる真理の全てを私たちにお話しくださることが分かります。主はまた、全ての奥義、預言、そして人類の終着点を明らかにされるでしょう。神の足跡を求めて主の再臨をお迎えすることを望むのであれば、私たちは聖霊の最新の御言葉がある場所を探し、終わりの日の神の働きについて行く必要があります。その時初めて、私たちは終わりの日に神が表してくださる真理の糧を手にすることができるでしょう。教会が荒廃する根源はこのようにして解消されるのです。」

  リン・ケは嬉しそうに言いました、「ああ!私は人生の大半を通して聖書を読んできているのに、どうしてこの奥義について読んだことがなかったんでしょう?神は再臨なさる際には私たちを養うために更なる真理を表すと、かなり前から仰っておられたことが分かりました。これはヨハネの黙示録に書かれたこの預言を成就しているのではないでしょうか:『彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう』(ヨハネの黙示録 7:16-17)。神の御座から生まれるいのちの川から流れ出る水だけが教会の荒廃と私たちの霊的な飢えを完全に解消してくれるように思われます。これらの問題は祈りや断食では解消できないのです。主に感謝します!」

  リン・ケはやっと問題の解決策を手にしました。彼女は沢山苦しむほどに断食をし、祈りを捧げていましたが、それでも神の御心を把握できずにいました。しかしその辛い日々はやっと終わりを告げたのです。薄明が彼女の体を照らし、全てが美しく見えました。


神は様々な地理環境の境界を定めました

2019-06-23 21:01:10 | 賛美の心

  本日は、こうした神が人間と万物に与えた律法により、どのようにして人類が育まれているかについて話をする。それでは、この主題はどのようなものであろうか。この主題は、こうした神が万物に対して与えた律法が、どのようにして人間を育んでいるか、ということである。これは極めて大きな主題なので、いくつかの部分に分け、それらの各部分をあなたがたに分かりやすく説明するため、ひとつずつ話をする。この方法であれば、あなたがたにとって把握しやすくなり、徐々に理解できるであろう。

  まず、神は、万物創造時に、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めた。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在するが、これらは何であろうか。これらは地形ではなかろうか。神は、様々な地形全ての間に、境界を定めた。境界の設定といった場合、それは何を意味するだろうか。それは、山や平野、砂漠、丘にはそれぞれ領域、範囲ないし一定の面積がある。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量がある。つまり、神が万物を造った時、神は全てを明確に分割した。神は、ある山の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかを、既に決めていた。また神は、ある平野の半径が何キロメートルであるか、その範囲はどのようなものかも決めていた。様々な物を造った時も、神は砂漠の範囲、丘の範囲やその割合、そしてそれらの境界が何により定められるかなどの事柄を、全て決めていた。神は、河川や湖沼を造った時に、それらの範囲を決めた。それらの物には、全て境界が存在する。それでは「境界」とは何を意味するであろうか。つい先ほど、万物に対する律法が、いかにして万物に対する神の支配により定められているかに関して話をした。たとえば、山の範囲と境界は地球の回転や時間の経過により広がることも狭くなることも無い。山の範囲と境界は固定されている。この「固定されている」というのが神の支配である。平野に関する範囲や、何がその境界となっているかについては、神により固定されている。平野には境界があり、平野の中央に、勝手に土が盛り上がることは無い。突如として平野が山になることは無い。ここで言う律法と境界は、このことを指す。砂漠に関しては、その役割や地形、位置などについては、ここでは話をせず、境界のみについて話をする。神の支配の下では、砂漠の範囲もまた拡大することは無い。なぜなら、神は砂漠にその律法と範囲を与えたからである。砂漠の面積、役割、砂漠の境界にある物、所在地などは、神によって既に定められている。砂漠はその範囲を超えることも、移動することも、勝手に面積が広がることも無い。河川や湖沼の水流には秩序があり、水流は継続しているものの、河川や湖沼の水はその範囲から出たり、境界を越えたりすることは、嘗て無かった。河川や湖沼は、すべて秩序をもって、それぞれ流れるべき単一の方向に流れている。神の支配の律法下において、勝手に干上がったり、あるいは地球の回転や時間の経過が原因で方向を変えたり、流量を変えたりする河川や湖沼は存在しない。こうした事柄は、全て神が掌握しており、神の支配下にある。つまり、神によって造られ、人間の世界にある万物には、それぞれ固定された場所、地域、そして範囲がある。すなわち、神が万物を造った時に、万物の境界が定められ、その境界は勝手に変えたり、更新したり出来ない。ここで「勝手に」、とは何を意味するであろうか。それは、天候や気温、地球の回転速度などが原因で、こうした境界がやみくもに移動したり、拡大したり、変形したりすることは無い、ということである。ある山を例に挙げると、その山には、特定の高さ、特定の裾野の面積、特定の標高、特定の植生がある。これは全て神により計画され、計算されたものであり、高さや面積は勝手に変わることが無い。平野については、人類の大部分が平野に住んでおり、気候の変化により平野の面積やその存在価値が変わることは無い。こうした様々な地形や地理環境に含まれている物事は神が造ったものであり、そうした物事でさえも、勝手に変わることは無い。たとえば、砂漠の構成要素、その下にある鉱床の種類、砂漠の砂の量、色、厚さなどは、勝手に変わることが無い。こうした物事が勝手に変わらないのは、何故であろうか。その理由は、神の支配と管理である。こうした神が造った様々な地形や地理的環境の中では、あらゆる物事を、計画された秩序ある方法で神が管理している。そうしたわけで、これら全ての地理的環境は、それを神が造ってから数千年、数万年後の現在も依然として存在する。こうした地理的環境は、依然としてそれぞれの役割を果たしている。ある期間に火山が噴火したり、地震が発生したり、地面が大きく動くことがあるが、それでもなお神は地形がその機能を喪失することを許さない。人間が享受し、見ることのできるこれら全てが地球上で秩序をもって存在することができるのは、ひとえにこのような神の管理とそれらのものに対する神の支配、そして律法を掌握しているからである。それでは、神はなぜ、地上にある全ての地形を、このような方法で管理するのであろうか。その目的は、様々な地理的環境で生存している生き物全てが安定した環境を得られること、それらの生き物全てが安定した環境の中で継続して生活し、増えることが出来るようにすることである。移動出来るものと出来ないもの、鼻孔で呼吸するものとそうでないものなど、こうした全ての生き物が、人間の生存のための、独自の環境を構成している。何世代にもわたって人間を育むことが可能であり、また人間が何世代にもわたり継続して平和に生存することが出来るのは、こうした環境のみである。

  今わたしが話した事から分かったことは何であろうか。神の万物支配における神の律法は、極めて重要である、ということである。この律法に従って育つ全ての生き物の前提条件は何であろうか。その前提条件は、神による支配である。全ての生き物がこの支配に従って、それぞれの役割を果たしているのは、神の支配があるからである。たとえば、山は森を育む。そして森はその森に棲む様々な鳥や獣を育み、守る。平野は人間が作物を栽培するために用意された場所であり、また様々な鳥や獣のために用意された場所でもある。平野では、大部分の人間が平らな地面で生活することができるので、人間生活に便宜がもたらされる。また、平野には、広大な草原が含まれる。草原は地球の植生である。草原は土を守り、草原に棲む牛、羊、馬を育む。砂漠もまた、その役割を果たす。砂漠は人間の住む場所では無く、その役割は多湿な気候を乾燥させることである。河川や湖沼の水流は、人間の飲料水として便利であり、またあらゆる生き物の水の需要のために存在する。人間は、水が流れている所であれば、どこでも飲料水を得ることができる。様々な地形に対して神が定めた境界は、こうしたものである。こうした神が定めた境界のため、様々な地形により様々な生存環境があり、そうした生存環境は様々な鳥や獣にとって好都合であり、鳥や獣に生存空間を与える。このようにして、様々な生き物の生存環境の境界が発展した。次に話をするのは、このことである。

 

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「船」という字の由来と奥義

2019-06-22 19:41:43 | 賛美の心

  わたしたちが知っているように、「船」は現代で航海し、遠出するのに欠かせない一種の乗り物であり、科学研究を行なったり、戦ったりするための一種の武器でもあります。ところが、「船」という字の由来と「船」という字の奥義を知っている人は少ないです。実は、「船」という字の構造には意味があるのです。どの字の背後にも一つの物語があります。今日、わたしたちは一緒に「船」という字の由来と奥義を探究しましょう。

  一、皆さんは世界の初めての船がだれによって造られたのかを知っていますか。

  多数の人はこの問題が分からないかもしれません。だが、クリスチャンのわたしたちは自信を持ってこの問題に答えることができます。「世界の初めての船はノアによって造られたのです。聖書の創世記第6章14節では、『あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい』と、神はノアに命じられたからです」と。実は、ノアがあの時造った初めての船は箱舟と呼ばれます。それはゴフェルの木で造られたのです。

 

 

  二、皆さんは、ノアが箱舟を造った目的と意義が何かを知っていますか。

  多くの人はこう言うでしょう。「船を造るのは、人の便利を図ったり、交通機関として貨物を運送したり、海で旅客を運んだりするためであり、また各国間の軍備拡張競争のためだ」と。しかし、クリスチャンのわたしたちはこのことで異なる観点があります。わたしたちが知っているように、あの時ノアが箱舟を造ったのはこれらのためではなく、神の命令に従い、大洪水に襲われるのを避けるためでした。四千年も前に、人類はかなり堕落していて邪悪で、この地は不法と殺戮に満ちていました。人々は世界の邪悪な潮流に従い、酒食遊楽にふけて、無為な日々を送り、悪事の限りを尽くし、そのため神の怒りに触れました。神は極みまで堕落したこの人類をもう見たくなくなって、洪水によってこの汚れた古い世界を滅ぼそうと計画しました。そのため、義人ノアを召して箱舟を造らせました。神はそうすることによって人を救われるのでした。しかし、当時ノア以外にいかなる人も神が洪水によってこの世を滅ぼすことを信じず、ノア一人だけが神の言葉に聞き従い、息子たちと一緒に箱舟を造りました。大洪水が起こった時、ノアの一家八人だけが箱舟に入って神の救いを得ました。これは、神がノアに箱舟を造ることを命じた目的と意義です。

  三、皆さんは箱舟の大きさがどのくらいか、「船」という字の由来にどんな意義が含められるかを知っていますか。

  箱舟の大きさがどのくらいかという問題には、多くの人はとっさには答えられないかもしれません。だが、クリスチャンのわたしたちはこの問題は難しくないと思います。聖書の創世記第6章15-16節はすでにわたしたちにこう告げているからです。「次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい」。これは、神が造るよう命じた箱舟のサイズと構造でした。

  ノアは神の召しを聞いた後、箱舟を造り始め、しかも当時の人々に福音を宣べ伝えました。百年あまり後に、箱舟が造り上げられました。にもかかわらず、神が洪水によってこの世を滅ぼすことを信じる人は一人もいませんでした。最終的に、ノアの一家八人、そして生き残るように定められた地上の鳥や獣などの生き物は箱舟に入りました。箱舟の門が閉められた後、神は洪水を地に下されました。雨は四十日四十夜降り続きました。とうとう、いちばん高い山でさえ、水をかぶってしまい、水面から三メートルも下に沈みました。地上のすべての生き物とその時代の邪悪で堕落した人類はこのようにして滅ぼされました。洪水がこの世を滅ぼした時、ノア夫婦、および彼らの三人の息子、三人の嫁、すなわちノアの一家八人は箱舟に入り、神に救われて生き残りました。こうして、「船」という字は次のように形成されました。舟+八+口=船。これは「船」という字の由来です。

  これで分かるように、箱舟は神の救いを予表しています。ノア一家は神を信じ、神に従ったため、箱舟に入り、あの時の洪水の中で生き残った唯一の人類になりました。それに引き換え、神が洪水によってこの世を滅ぼすことを信じず、また箱舟に入れなかった人たち、すなわち神の救いを得ていなかった人たちは滅ぼされました。

  「船」という字は、かつて人類が罪悪のゆえに、洪水をもって神によって滅ぼされたことを、常にわたしたちに思い出させます。

  世の終わりの今日、わたしたち人類の堕落した程度は、ノアの時代の人類のそれをはるかに超えています。これはだれの目にも明らかな事実です。だから、主イエスは世の終わりに大きな苦難があると預言されました。それについて、彼はこう言われました、「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」(マタ24:21)。また、わたしたちが知っているように、月が四回血に変わるという預言はすでに実現しました。そのため、大きな災難がもうすぐわたしたちに臨みます。では、わたしたちがどのように追い求めれば、神の世の終わりの救いを得、世の終わりの箱舟に入ることができるでしょうか。

  四、わたしたちは世の終わりの箱舟とは何かを知っていますか。

  ヨハネの黙示録にはこう預言されています。「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」(黙2:7)。主イエスがこう言われました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。その中から分かりますが、神は世の終わりに再来される時、声を発し、言葉を言って、わたしたち人類に真理を与えられます。賢い乙女は神の声を聞いたら、神が世の終わりに発表される真理を受け入れ、それに従うことができます。こうして、神の御座の前に携え上げられて、神と共に宴席に着くことになります。そうなれば、「世の終わりの箱舟」に入りました。だから、世の終わりの「箱舟」に入りたいなら、わたしたちは聖霊の声、言葉を探し、世の終わりのキリストの発表される真理を命として受け入れなければならず、ノアの一家八人のように神の言葉を聞き、神に従い、神を畏れ、悪を避けなければなりません。そうすれば、大災難の中で神に守られて生き残ることができます。


私は神様の性別に対して、新たな認識がありました

2019-06-21 21:14:42 | 賛美の心

   【編集者メモ】神は男性か、女性か。神には固定された性別があるのでしょうか。これは多くのキリスト教徒を混乱させる問題ですが、誰もそれをはっきり説明できません。本稿は神の性別の奥義を明らかにします。

寄稿家:シンユアン(オーストラリア)

  神には果たして固定された性別があるのか。主イエスは男性として肉となられましたが、それは神が男性であることを示しているのでしょうか。これは誰もそれをはっきり説明できないという問題です。そして、私は神についての認識がなく、神の性別について多くの観念を抱いていたので、主をお迎えする機会を逃すところでした。そこで、皆さんのお役に立てればと思い、これから自分の体験をお話します。

  東方閃電が私たちの観念に準拠していないからといって学ぶのを拒むべきではない

 

  私は幼い頃、母と共に地元の家庭教会に通って集会に出ていました。私たちが神の性別に関する真理を語っていたとき、おじである牧師がよく聖書のこれらの節について私たちに説教しました。「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(ヨハネによる福音書17:1)「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」(コリント人への第一の手紙11:3)

  おじは言いました、「主イエスは天の神を父と呼ばれ、天の神は主イエスを息子と呼ばれた。御二方は父と息子だった。ということは神は男性だということだ。それに、女は人類の罪の源であり、呪われている。女のかしらは男だ。だから神は男性だ。」

  そのため私は心の中で、神は男性であり、男性として戻られると確信していましたが、それはある日、姉妹の李さんと出会うまでのことでした。…

  2018年4月のある日、私はフェイスブックで王さんと李さんという姉妹と知り合いました。私たちは頻繁にネット上で集会を開きました。ある時李さんが、主イエスがすでに全能神として受肉として戻られ、私たちの間で暮らしておられると証ししました。この知らせを聞いて、私は驚きつつ喜びました。喜んだのは主イエスが戻って来られたからで、驚いたのは、私が主の再臨をお迎えする準備ができる前に戻られたからでした。

  その晩、集会の後、私はベッドに横になりましたが、興奮のあまり眠れなかったので、起きてインターネットで全能神教会について調べました。その結果、李さんが説いたのは東方閃電の教えであることがわかりました。私は唖然としました。というのも、子供の頃におじから「東方閃電は主の再臨のお姿が女性だなどと証しするが、信じてはいけない」と聞かされたのを思い出したからです。

  その時、私は心に葛藤を抱え、こう考えました。「ここ数日間、李さんの説教を聞いて、私は真のキリストと偽キリストとの区別や、人類がサタンに堕落させられている実態、主の到来の預言の成就や、どうすれば主の再臨をお迎えする賢いおとめになれるかなど、多くの真理を理解した。これらの真理のおかげで、神の働きについて新しい認識を持ち、聖書イエスの再臨の中の奥義も多く理解することができた。このまま学び続けるべきなの、それとも李さんとまた集まるのを断るべきなのかしら。」一晩中何度も何度もこのことを考えていました。

  ついに朝が来ました。ヨーロッパにいて一緒に学んでくれている王さんに、私はすぐに電話して、自分の混乱について話しました。私の話を聞くと、彼女は言いました。「私も疑問をいくつか抱えていますが、私たちは学び始めたからには、問題をはっきり理解すべきです。李さんの説教が真理と一致するなら、学び続けましょう。一致しないなら、今学ぶのをやめても遅くありません。」 私はしばらく考えて、彼女の言う通りだと感じました。それで私たちは一緒に主に祈り、「正しいことと間違ったことを区別できるように、知恵をお与えください」とお願いしたのです。

  神は女性として受肉することもできる。

  皆で集まった夜、私は李さんに自分の混乱を打ち明けました。「夕べネットで『全能神』という名前を検索すると、神がまた肉となられたという話や、神は女性であるという話を見つけました。でも私は神が主イエスのように男性だと信じています。聖書には、主イエスがこう仰ったと記されています、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(ヨハネによる福音書17:1)と。 主イエスは天の神を父と呼ばれ、天の神はイエス・キリストを息子と呼ばれました。御二方は父と息子です。ということは神は男性ではないでしょうか。なので私は、神は戻られたときは男性であるはずだと思います。どうして女性でありえるのでしょう。」

  これを聞いて、李さんは根気よく教えてくれました。「シンユアンさん、主イエスが発せられたこの文章をどう理解すべきかに関しては、全能神の御言葉を見てみましょう。全能神はこう仰せられます、「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な肉を着て、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした」

  これらの御言葉から、主イエスは祈りの際に天の神を父と呼ばれたとき、創造物の視点からそうされたことが分かります。それは私たちが主の祈りを唱えるとき、天の神を父と呼ぶのと同じです。これは主イエスの謙虚さと従順を明らかにしますが、神が男性であることを意味しません。創世記第1章27節を思い出してください。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあります。

  ここから、神が男と女をご自身のかたちに創造されたことがわかります。もし私たちが自分の観念に固執して、神が男として受肉しなければならないと考えるなら、神が女をご自身の形に造られたことはどう説明するのですか。創世記と矛盾していませんか。実のところ、神は男だけでなく女もご自身のかたちに創造することができます。それゆえに神は男と女のどちらかに受肉できるのです。ですから、神が男性だと断定することはできません。」

  彼女の説教を聞いた後、私の心を縛っていた枷がいくつか解かれました。主イエスが祈りの際に天の神を父と呼ばれたとき、創造物の視点からそうされたということを知りました。しかし、だからといって神が男性であるわけではないのです。さらに、神は男と女をご自身のかたちに造られました。したがって、神は男と女のどちらかに受肉できるのです。

  「女のかしらは男」という言葉は、神が男であることを証明しているか。

  寝る前に、私はベッドに横になって、李さんが説教したことを思い出しす。それが十分に根拠があると感じましたが、聖書の次の節のことを考えるとまた疑問を抱きました。「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)、「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(コリント人への第一の手紙11:3)。

  私はこう考えました。「これらの聖句では、女性が呪われているとはっきり述べられている。受肉された神が女性なら、どうして権威を持つことができるでのかしら。それに、過去において、主の弟子のほとんどは男性だった。今では、基本的に説教者や牧師も皆男性だわ。それでどうして神の再臨のお姿が女性でありえるのかしら。」またこれらの問いを何度も思案し始め、その夜は眠りにつけませんでした。

  翌晩、私は李さんから電話を受けたので、自分の疑問を伝えました。その話を聞いた後、彼女はこう言います。「実際には、ヤーウェ神がエバに『それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう』と仰せられたのは彼女が善悪の知識の木の実を食べた後でした。神の目的は人類を調和の中に生かすことです。これは、地上に住む全ての創造された人類に対する神の要求ですから、私たちが従うべきものではありますが、受肉された神とは全く関係ありません。それは律法の時代に、ヤーウェ神が人類に安息日を守るように求められたのと同じです。こうした要求を遵守しなければならなかったのは人類であって、神ではありません。ですから私たちは、主イエスにはそれに従えと言うことはできません。また、マルコによる福音書第2章27節と28節で、主イエスは、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである』と仰いました。同様に、『女のかしらは男』という言葉は、罪を犯した人類に向けられていました。ですから私たちはこの聖句を使って、神が女性として受肉することはできないと決めつけることはできません。」

  私は神様の性別に対して、新たな認識がありました

  神が女性として人々の前に出現される意義とは

 

  彼女の説教を聞いて、私はこれらの言葉が私たち人間を対象としているのであり、これらの聖句を使って神の受肉の性別を限定すべきではないことを知りました。しかし、なぜ神が今私たちに女性として出現されたのか私にはまだわかりませんでした。もし神が男性として出現されたら、それは私たちにとってもっと受け入れやすくないでしょうか。それに神の働きがもっと行いやすくないでしょうか。それで私はこの疑問を述べました。すると李さんは私に全能神の言葉の二つの節を読んでくれたのです。

  「イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。」「もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。それで男たちは神は自分たちと同じ性別であり、神は男たちの長であると信じるであろう。では女たちにとっては何になるのか。これは不公平である。これはえこひいきではないであろうか。もしそうであれば、神が救ったあらゆる人々は神と同じ男ということになり、女たちには救いがないということになる。神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。」

  神の言葉を読んだ後、彼女は私にこう説教してくれました。「神は本質的に霊であり、性別がありません。肉となられて私たちに男か女として出現されるのは、働きの必要条件のために過ぎません。受肉された神の働きが終わったとき、神は霊の領域に戻られます。その時点では性別の区別はありません。ですから、神の受肉が男性であろうと女性であろうと、神はなおも人類の救いの働きを行うことができます。終わりの日の間には、神が女性として働きに来られるのには、実際的な意味があります。主イエスが当時男性として働きをしに来られたので、人々は皆、神が男性だと信じていました。もし神が今度は女として働きをしに来られなければ、人々は神が男性だといつまで思い込み、神が男たちの神であり、男はいつまでも女よりも偉いと考えるでしょう。神が終わりの日に女性として受肉されたのは、私たちの観念や想像に対抗し、『神は男としてしか受肉できない』という誤った考えを覆し、『神が全人類の神であり、男と女のどちらかに受肉できる』ことが私たちに分かるようにするためだったのです。

  神の言葉と姉妹の説教を聞いた後、私は何らかの啓きを感じました。結局のところ、神には性別がないのです。神の受肉が男であっても女であっても、神はご自身の霊がまとう肉体である限り、神ご自身であられます。終わりの日に神が女性として出現して働かれているのは、私たちの神に対する観念を覆し、「神が公正で義であり、男と女が神の前で平等であり、神は男だけでなく女も救われる」ことが私たちに分かるようにするためです。

  もし神がそうなさらなければ、私たちは神に対して真の認識を持たないでしょう。神がなさることはとても意味があります。私は自分がいつも自分の観念や想像で生きて、神を男性に限定していたことを思い出しました。神が女性として出現して働きを行われていると聞いたとき、私は疑ってばかりいました。もし全能神の言葉によって私の混乱が少しずつ解消されなければ、私は確実に全能神の働きを拒み、主を迎える機会を逃したでしょう。そう思うと鼻が引きつって涙が止まりませんでした。神の恵みと救いに心から感謝しました。

  兄弟姉妹の皆さん、以上が私の体験です。終わりの日の全能神の働きを学んだ時期のことを思い起こすと、いつも深く感動します。私は神に対する認識がなかったため、主を迎える機会を逃すところでした。しかし、神は私に憐れみをかけてくださったのです。姉妹を采配して私に説教させ、御言葉で啓いて導いてくださったおかげで、私は神の性別についての真理を理解し神の御前に立ち返ることができました。神に感謝します。