いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

ぶどう園の労働者のたとえー私は主の御心を理解している

2019-11-05 23:14:16 | 賛美の心

 ある晩、私は神様に祈ってから机に向かい、イエス様が(マタイによる福音書20:1~16)で語られたたとえ話を読みました。その話では、天の御国が労働者を雇うぶどう園の主人にたとえられています。労働者たちがぶどう園に入るのが朝一番であれ、午後であれ、晩であれ、賃銀は同じであり、最初に来た労働者たちはこのことを知ると主人に不平を言いますが、主人はこう答えます。「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」(マタイによる福音書20:15-16)。聖書のこれらの行を読んで、私は眉をひそめ、こう思わずにはいられませんでした。「神様への信仰を長いあいだ実践し、主のために多くのものを捨てて費やし、長年骨折って働いている者たちは、あとに来た者たちよりも多く報われるべきだと言うのは理に適っている。しかし聖書には、先に来る者も後から来る者も賃銀は同じだと記されている。これは神様が後から来る者たちを意図的にえこひいきされているのではないか」。私はこれらの御言葉にとても混乱しました。これらの御言葉を語られた主の御旨がどういうものか分からなかったのです。

 ある日、私は同じ教会の信者とばったり出会い、話す中で、自分が長年困惑していた疑問について語りました。すると彼はこう言いました。「私もそのように誤解していたんだ。最近まで神様の御心を理解していなかったけれど、ある本を読んで真理のこの側面が分かるようになった」彼はそう言いながらその本を鞄から出し、私にある一節を読んでくれました。「あなたが神の言葉をどれほど聞き、真理をどれほど受け入れることができて理解し、現実をどれほど生き、どれほど多くの成果を得ていようと、一つの事実がある。神の真理と道といのちは一人ひとりに進んで授けられ、それは誰にとっても公平である。ある人が長く神を信じ、別の人がそれより短い期間しか神を信じていないからといって、神が前者をひいきすることはなく、年齢、外見、性別、生まれた家庭、家庭環境などのために、違う接し方をすることもない。誰もが神から同じものを得る。神は誰かがより少ないものしか得られないようにしたり、より多くのものを得られるようにしたりはしない。神は誰に対しても公平で公正である。神は適切なときに適切な分だけ人間に糧を与え、彼らが飢えたり、寒い思いをしたり、喉が渇いたりしないようにして、人間の心が必要とするものをすべて満足させる」(「人間は神の経営計画における最大の受益者である」より)

 読み終わると、彼はこう続けました。「長いあいだ主を信じ、主のために自分をもっと費やした人たちが、それより短い期間しか主を信じず、主のために自分を費やすのがより少ない人たちと同じ報いしか受け取らないのであれば、神様はえこひいきをされているのではないかと、私も昔は思った。しかしその一節を読んで、ようやく神様についての誤解が解けたんだ。実際のところ、神様は一人ひとりを公平に扱っておられ、新しい信者であろうと長年神様を信じてきた者であろうと、家庭環境がどうであろうと、がいけんがどうであろうと、誰一人えこひいきなさることはない。神様はいつも各人の必要に応じて糧を与えてくださる。神様が人類を救う働きをなさりながら人に授けてくださる真理も同じで、また同様に、神様は私たち一人ひとりのために環境と機会を采配してくださる。私たちが最終的に真理を獲得できるか否かは、私たち自身が真理を愛して求めているか、主の御言葉を実践できるか否か、そして主の御心とお求め通りに本分を尽くせるかどうかにかかっている。もし真理を愛さず、真理を求めなければ、私たちは神様に託されたことを御心通りに行うことができないし、自分の観念に合致しない事柄に遭遇すると神様の御心をじっくり考えようとも探し求めようともせず、自分の頭で物事を分析して、おそらく神様を誤解して責めさえするだろう。そのようなことをする者は、たとえ長年神様を信じて大いに骨折って働いても、結局は何も得られず、真理を獲得するために神様から授かる機会を失いさえするだろう。神様の目から見て、このような人々は悪を行う人であり、神様に淘汰され懲罰されるしかない。一方、神様を信じてきた期間がまだ短くても、真理を渇望して探し求める心の持ち主もいる。彼らは自分に何かが起きたとしても、常に神様に祈って真理を求めることができ、ひとたび神様の御心を理解すれば、御言葉に従って実践することができる。このような人は神様に従っているから、堕落した性質が少しずつ変わり、真理を獲得し、正常な人間性を生きる。このような人が良き終着点を得るんだ。

 私は、神様がイスラエル人をエジプトからカナンに向かって荒野へと導かれたとき、人々に尊敬されていたあの強壮な男たちと背の高い『戦士たち』が、神様の御心を求めるどころか神様を責めたこと、そして結局は荒野で死んだことを思い出した。しかし一方、まったく従順で、神様の御言葉に従って実践し、神様の指揮と采配に従った女と子供たちは、最後には良きカナンの地に入った。また、ユダヤ教の祭司長や律法学者やパリサイ人は聖書に精通し、律法を熟知しており、中には福音を広めるために地の果てまで旅をし、自分たちは誰よりも長く神様を信じ、骨折って働いてきたとか、誰よりもメシアを迎えて神様に選ばれる資格があるのだとか思い込む者もいた。しかし、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、彼らは主イエスの御言葉に権威と力があることを知っていたが、頑固で傲慢だった。自分たちの立場を捨てて真理を求めるのを拒み、神様の新しい働きを受け入れず、自分たちの聖書の知識を駆使して主の新しい働きを断罪し、それに反抗しようとさえした。挙句の果てには、自分たちの立場と生活を守るために主を十字架に釘付けにし、その結果、主に呪われ懲罰されることになった。しかし、主によって選ばれた弟子たちや、主に従ったユダヤの人々や、イスラエル以外の諸国民は、パリサイ人よりも神様を信じてきたが短く、聖書の知識も彼らと同じほどはなく、パリサイ人のように骨折って働いた経験も、地の果てまで旅をして福音を伝えた経験もなかったが、皆それでも神様を畏れる心があった。そして真理を渇望して探し求めたため、主の救いを受けた。

 以上のことから、誰がもっとも長く神様を信じたか、あるいは誰が最も費やし、骨折り、働いたかに基づくことで、神様の報いと祝福を得る資格が誰にあるのかを判断できる、という見方は真理と合致しないことがわかる。これは誤った考え方なんだ。神様がこれらの外面的な要素に基づいて報いと懲罰を与えたり、人々の結末を決めたりされることは絶対にない。むしろ、私たちが神様を信じることで真理を得たか否か、私たちが神様の御心を行なう者であるか否かをご覧になる。それはこの本で言われている通りだ。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない」(「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)「人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も義であるから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な條件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。」(「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)

 これらの二節は、神様が人間を判断なさる基準と、神様の人間に対する態度をはっきり説明している。神様は義にして聖なる性質をおもちであり、一人ひとりに対して公明正大でいらっしゃる。人を地位の高低や年功、信じてきた期間の長さや、受けてきた苦しみの大きさをご覧にはならない。むしろ、人が真理を求めているか否か、神様を愛し、神様に従う心があるか否か、万事において神様の御心を考慮し満足させられるか否か、そして神様への信仰によって最終的に真理を獲得するか否かを見ておられる。神様を信じる私たちのうち、牧師であれ長老であれ一般信者であれ、真理を渇望して探し求める謙虚で従順な者は、その一人ひとりが神様の啓きを受け、後からぶどう園に来た者たちのように神様の祝福を受けることができる。長いあいだ神様を信じていても真理を求めるどころか邪説にしがみつき、自分の観念や想像の中で生き、自分の年功や資格を誇示する者は、どれほど苦しみを受け、どれほど自分を費やし、どれほど資格があっても、結局は真理を得られず、皆淘汰されるだろう。これは不変の事実であり、神様の義なる性質によって決められたことだ。

 彼の交わりを聞いた私は、神様の働きがいかに自分の観念と合致しなくても、神様は依然として義であって、私たちは神様がなさることに選り好みをしたり疑念をもったりしてはならず、自分の観念を捨て、求め、従うべきなのだと理解するようになりました。それはまさにヤーウェ神がおっしゃったとおりです。「ヤーウェであるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」(エレミヤ書17:10)また箴言15章3節には「ヤーウェの目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている」とあります。神様は私たちの心と思いを見ておられ、私たちを徹底的に理解されており、誰が真に神様を信じ、誰が真理を愛し、誰が偽善者で真理を憎むかを一番よくご存知です。神様が私たちの結末を決められる基準は、私たちがどれほど長く神様を信じてきたかや、どれほど多く働きを行ってきたかではなく、むしろ私たちが本質的に真理を愛するか否か、また神様への信仰を通して最終的に真理を獲得するか否かなのです。これは実に適切です。いまや私は、神様はぶどう園に先に来る者も後から来る者も賃銀を同じにすることで、後から来る者をえこひいきなさったという自分の観念が誤りだったことを知っています。

 私の心にあったこの謎を解いてくださった神様に感謝いたします。神様にすべての栄光あれ!


あなたがたは自分の行いを考慮すべきである

2019-11-05 16:58:18 | 賛美の心

 あなたがたの生活における行いから判断すると、あなたがたは皆、あなたがたに与え、あなたがたを満たしてくれる言葉の一章を毎日必要としている。というのは、あなたがには欠けているものが余りにも多く、あなたがたの認識と受け取る能力はあまりにも乏しいからである。あなたがたは日常生活の中で、真理も良い理性もない雰囲気と環境の中で生きている。あなたがたには生存するための資質に欠けおり、わたしや真理を知る基盤もない。あなたがたの信仰は、ただ漠然とした自信、あるいは教義のみに基づく宗教的儀式や認識の上に築き上げられている。毎日、わたしはあなたがたの動きを見守り、あなたがたの意図や悪い実を吟味する。わたしは、決して動かされたことのないわたしの祭壇の上に、心と霊を本当に捧げた人を見つけたことは一度もなかった。だから、わたしはそのような人間の上に、わたしが表現したいすべての言葉を無駄に注ぐようなことはしたくはないと思っている。わたしは心の中では、まだ終わっていない仕事を完成し、わたしがまだ救っていない人類に救いをもたらすことだけを計画している。にもかかわらず、わたしに従う人たちがみな、わたしの救いとわたしの言葉によって人に授けられる真理を受け入れてくれるよう、わたしは願っている。わたしは、あなたがいつの日か目を閉じるとき、黒々とした雲が空に浮かび、うめき声が決して止まることのない、荒れた冷たい世界ではなく、芳香が空気を満たし、生ける水が小川となって流れる領域を見るよう望んでいる。

 毎日、すべての人の行いや思いは神に注目されており、それらは同時に、彼ら自身の明日への準備となる。これはすべての生ける者が歩かなければならない道であり、わたしがすべての者に予め定めた道である。誰もこれを逃れることはできないし、誰にも例外はない。わたしは数えきれないほどの言葉を語り、さらには、測り知れないほどの量の働きを行ってきた。わたしは一人ひとりが、その生来の本性、およびそれがどのように進化するかに応じて、その人が為すべき全てのことを自然に遂行している様子を毎日見ている。知らないうちに、多くの人たちはすでに、あらゆる種類の人たちが露わにされるためにわたしが定めた「正しい軌道」に乗った。わたしはすでにあらゆる種類の人間を違った環境に置いており、その場所で、一人一人が生まれ持った特性を表現し続けている。彼らを縛る者は誰もいないし、彼らを誘惑する者もいない。彼らはすべてにおいて自由であり、彼らが表現するものは自然に出てくる。彼らを抑制するものが唯一あるが、それはわたしの言葉である。だから、ただ死を避けるためにわたしの言葉をしぶしぶ読み、決して実践しない者もいれば、自分を導き糧を施すわたしの言葉なしでは日々耐え難いことに気づき、自然とわたしの言葉をいつも手放さない者もいる。時が経つにつれて、彼らはやっと人生の奥義、人類の終着点、人間であることの価値を発見する。人類はわたしの言葉の前では、このような有様でしかない。そしてわたしは、ただ事を自然の成り行きに任せる。わたしは、人がわたしの言葉を彼らの生存の基盤として生きるように強制するようなことは一切しない。だから、良心や自分の存在価値のない人たちは、静かに事の成り行きを観察し、大胆にわたしの言葉を投げ捨て、自分の好きなようにする。彼らは真理や、わたしから出るすべてのものにうんざりする。さらに彼らはわたしの家にいることにもうんざりする。このような人たちは、たとえ奉仕をしていても、彼らの終着点のために、またわたしの懲罰を逃れるために、わたしの家に一時的に留まる。しかし、彼らの意図は決して変わることはないし、彼らの行動も変わることはない。このことは彼らの、祝福への願望を助長し、また、ただ一度で神の国に入り、そこに永久に留まることができ、さらに永久の天の国に入る欲求までも助長する。わたしの日がいつかすぐに来るのを彼らが待ち焦がれれば焦がれるほど、ますます彼らは、真理が彼らの道の障害物となり、躓きの石となっていると感じる。彼らは、真理を追求することなく、裁きも刑罰も受け入れることなく、とりわけ、わたしの家に従属的に留まり、わたしの命令どおりに従うことなどなく、ただ天の国の祝福を永久に楽しむために、神の国に足を踏み入れるのを待ち切れないでいる。これらの人々がわたしの家に入るのは、真理を求める心を満たすためでも、わたしの経営の下で共に働くためでもない。彼らの目的は、ただ次の時代に滅ぼされない人たちの一人になることだけである。よって、彼らの心は、真理とは何か、あるいは真理をどのように受け入れるかなど全く知っていない。これが、そのような人たちが真理を実践したことがまったくなく、自らがどれだけ極端なほどひどく堕落しているかを悟ることがないにもかかわらず、最後まで「しもべ」としてわたしの家に留まった理由である。彼らは「忍耐強く」わたしの日が来るのを待ち、わたしの働きの仕方に翻弄されても疲れを知らない。彼らがどんなに努力しても、彼らがどんな代価を支払っても、彼らが真理のために苦しみ、わたしのために犠牲を払ったことなど誰ひとり認めないだろう。心の中では彼らは、わたしによって古い時代が終わる日を見るのを待ちきれず、さらに、彼らはわたしの力と権威がいかに偉大であるかを知りたいと切に願っている。彼らが決して急いで行おうとしなかったこと、それは、自らを変え、真理を追求することである。彼らは、わたしがうんざりしているものを愛し、わたしが愛しているものにうんざりしている。彼らはわたしが憎むものを慕い、同時に、わたしの忌み嫌うものを失うことを恐れている。彼らはこの邪悪な世に生きているが、それを一度も憎んだことはなく、この世がわたしによって滅ぼされるのを心底恐れている。彼らが持っている目的は矛盾している。彼らはわたしが忌み嫌うこの世を喜んでいるが、また同時に、わたしがこの世をまもなく滅ぼすことを切望している。こうして、彼らは、真理の道から外れてしまう前に、破滅の災難を免れ、次の時代の主人へと変えられるというのである。これは彼らが真理を愛さず、わたしから出る全てのものにうんざりしているからである。おそらく、彼らは祝福を失わないように、しばらくは「従順なる人たち」になるだろうが、彼らの「祝福切望意識」や滅びと燃える火の池に入ることへの恐怖が覆い隠されることは決してないだろう。わたしの日が近づくにつれ、彼らの願望は着実に強くなる。そして災いが大きければ大きいほど、わたしを喜ばせるにはどうしたらよいのか、彼らが長い間切望してきた祝福を失うのを避けるためには何をどうしたらよいのかが分からなくなり、彼らはますます無力になる。一旦わたしの手がその働きを始めると、このような人たちは先駆者として仕えるために熱心に行動する。彼らはわたしが彼らに気づかないことを深く恐れ、軍隊の前線に突入することだけを考える。彼らは自分たちの行為や行動が全く真理に沿っておらず、わたしの計画をただ妨害し、干渉するだけであるということを知らないで、自分が正しいと思うことを言ったり行ったりする。彼らは大いに努力するかもしれないし、困難に耐えようとする意志や意図は真実かもしれないが、彼らがすることすべてがわたしとは関係がない。なぜなら、わたしは彼らの行いが良い心がけから出ているのを一度も見たことはないし、ましてや彼らがわたしの祭壇に何か置くのを見たことは一度もないからだ。これが、彼らが長年わたしの前でしてきた行いである。

 本来、わたしはあなたがたにもっと真理を与えたいと願ったが、あなたがたの真理に対する態度があまりにも冷たく無関心であるため、わたしは遠慮せざるをえなかった。わたしは自分の努力が無駄になることは望まないし、人々がわたしの言葉を抱えながら、万事においてわたしに逆らうことを行い、わたしを中傷し、冒涜するのを見たくはない。あなたがたの態度と人間性の故に、わたしはあなたがたにとって非常に大切な言葉のごく一部分だけを、人類の中でのテストとしてあなたがたに与える。わたしが下した決断や計画があなたがたの必要とするものと合致していることをわたしが本当に確証し、さらに、わたしの人類に対する態度は正しいものであると確証するのは、今が初めてである。あなたがたが長年にわたってわたしの前でしてきた行動から、これまで一度も受け取ったことのない答えが得られた。そして、このような答えに対する問いは、「真理と真の神の前における人の態度とは、どのようなものだろうか」である。わたしが人間に注いできた努力は、人間を愛することがわたしの本質であることを証明している。また、わたしの前で人が為す行動や行為は、真理を憎みわたしに反抗する人間の本質を証明した。わたしはわたしに従ってきたすべての人たちのことをいかなる時にも気にかけているが、わたしに従う人たちはわたしの言葉をいつも受け入れようとしない。彼らはわたしから出る提案でさえ、ひとつとして受け取ることがまったくできない。これがわたしをもっとも悲しませることである。たとえわたしの態度が誠実で、わたしの言葉がやさしくても、誰もわたしを理解することなどないし、その上、誰もわたしを受け入れることができない。誰もが、わたしから託された働きを、自分本来の考えに従って行おうとする。彼らはわたしの意図を求めることもなく、ましてや、わたしの要望など尋ねることなどない。みなわたしに逆らっているのに、彼らは依然としてわたしに忠実に仕えていると主張している。多くの人たちは、自分が受け入れられない真理、あるいは自分が実践できない真理は、真理ではないと信じている。そのような人たちにとって、わたしの真理は否定され、投げ捨てられるものになっている。それと同時に、わたしは言葉においてのみ神として人間に認められる者となったが、また真理でも、道でも、いのちでもない部外者とみなされるようになった。次の真実を知るものは一人もいない:わたしの言葉は永遠に変わらない真理である。わたしは人間にとっては、いのちを与える者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の本質によって決定される。たとえこの地上でだれひとりわたしの言葉を受け入れることができないとしても、わたしの言葉の価値と、どれだけそれが人類の助けになるかは、人には計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉を全く軽蔑している人たちに直面するとき、わたしの変わらない姿勢はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が確かに真理であり、道であり、いのちであることを示させよう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしはわたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れることができない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れることができない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らから離れることはない。

2003年4月16日