いのちの源

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人間の人生における6つの節目-子孫:第5の節目

2019-11-04 15:56:02 | 賛美の心

 結婚後、人間は次の世代の養育を開始する。どのような子どもが何人生まれるかについて、人間は干渉する余地が無く、それもまた、創造主が予め定めた、その者の運命により決定される。これが、人間が経験しなければならない第5の節目である。

 一人の人間が子の役割を果たすために生まれた場合、その者は、別の子の親としての役割を果たすため、次の世代を養育する。こうした役割の変化により、その者は人生の様々な段階を、様々な立場で経験する。またこれにより、その者に様々な人生経験が与えられ、そうした様々な経験において、その者はそうした経験に共通する創造主による統治、そして創造主の定めを逸脱したり変更したり出来る者はいないという事実を知るようになる。

1.人間は自分の子孫がどうなるかを制御出来ない

 出生、成育、結婚は全て、様々な種類と程度の失望感を人間に与える。家族や容姿に不満がある者もいれば、両親が嫌いな者や、成育環境に対して憤慨したり、沢山不服を持ったりする者もいる。そして大部分の人々にとって、こうした失望感のなかでも、結婚が最も大きな不満となる。出生や成長、結婚にどれほど不服であるかを問わず、そうした節目を既に経験した者は、自分の出生地や出生期日、自分の容姿、自分の両親、自分の配偶者を選ぶことは出来ず、天の意を受け入れるほか無いことを知っている。しかし、人間が次の世代を養育する時になると、人間は自分の半生で叶わなかった願望を子孫に期待し、自分が経験した失望感が、子孫により埋め合わせられることを願う。そうしたわけで、自分の娘は息を呑むような美女に育つ、自分の息子はさっそうとした紳士に育つ、自分の娘は教養が高く才能に溢れている、自分の息子は優等生になり、卓越したスポーツ選手になる、自分の娘は優しくて気立てが良く、感情が豊かになる、自分の息子は聡明で能力が高く、気配りの利く者になるなど、人々は自分の子に関して様々な幻想にふける。人間は、自分の娘であれ息子であれ、年長者を敬い、両親に配慮し、皆に愛され、称賛される者となることを願う。この時点では、人生の新たな希望が膨らみ、心の中で新たな情熱に火が点く。人間は、自分の人生においては自分が無力であり、絶望的であること、何かに卓越する機会や希望は二度と無いこと、自分の運命を受け入れるほか無いことを知っている。そうしたわけで、人間は自分の希望や、叶わなかった願望や理想を、次の世代に期待し、自分の子孫が自分の夢を叶え、願望を実現する助けとなること、そして自分の娘や息子が家の名に栄誉をもたらし、重要人物や富豪、有名人となることを望む。つまり、人間は自分の子が幸運に恵まれることを願う。人間の計画や幻想は完璧であるが、自分の子の人数や自分の子の容姿、能力などは自分で決められず、自分の子の運命は自分の掌中には無いということを知らないであろうか。人間は、自分が自分自身の運命の主では無いにもかかわらず、若い世代の運命を変えることを願い、自分自身の運命から逃れる力が全く無いにもかかわらず、自分の娘や息子の運命を制御しようとする。人間は、自己を過信していないだろうか。これは人間の愚かさと無知さではなかろうか。人間は、自分の子孫のために一切努力を惜しまないが、最終的には、自分がもうける子の人数や、その子がどのような子であるかは、その者の計画や願望通りにはならない。貧しいながら多くの子を授かる者もいれば、裕福ながら子を授からない者もいる。娘を欲しがっていてもその願いが叶わない者や、息子を欲しがっても息子が出来ない者もいる。自分にとって子が祝福となっている者もいれば、自分にとって子が呪いとなっている者もいる。自分達は聡明であるが、知能の発達が遅い子を授かる夫婦や、自分達は勤勉で誠実であるが、育てている子が怠惰な両親もいる。自分達は親切で正義感があるが、悪賢く残忍な子を授かる両親もいる。自分達は心身共に健全であるが、障害を持つ子を授かる両親もいる。自分達は平凡で出世できないが、偉業を成し遂げる子を授かる両親もいる。自分達は低い身分であるが、授かった子の身分が高くなる両親もいる。

2.人間は、次の世代を養育した後、運命に関する新たな認識を得る

 結婚する者は、大部分が30歳前後で結婚するが、その時点において、そうした者には人間の宿命に関する認識が全く無い。しかし、子育てを始めると、子が育つにつれ、人間は新たな世代がその前の世代と同様に人生を送り、同様の経験をするのを目の当たりにし、そうした状況に自分の過去が反映されているのを見て、自分達の道と同様に、若い世代が進む道も、計画したり選択したりすることが出来ないことに気付く。人間は、そうした事実に直面すると、あらゆる人間の運命はあらかじめ決められていると認めざるを得ない。そして人間は、自分の願望を、それほど意識せずに捨て去り、心に秘めた情熱は冷めてゆく。そうしている間に、人間は人生における重要な節目をほぼ全て通り越し、人生に関する新たな認識を得て、新たな姿勢をとるようになる。その年齢の人間は、将来にどの程度期待し、どのような物事を見込むことが出来るであろうか。王子が現れるのを夢見続けている50歳の女性はいるであろうか。白雪姫を夢見続けている50歳の男性はいるであろうか。醜いアヒルの子から白鳥へと生まれ変わることを願い続けている中年女性はいるであろうか。高齢男性には、若い男性と同じ昇進の道が開かれているであろうか。要するに、男性か女性かを問わず、この年齢に達した者は、結婚、家族、子について比較的合理的かつ実践的な姿勢になる可能性が高い。そうした者には、基本的に選択肢が無く、運命への挑戦へと駆り立てられる事も無い。人間の経験に関しては、人間がこの年齢に達すると、自然と「運命を受け止める必要がある。子どもには独自の運命があり、人間の運命は天により定められたものである」という姿勢になる。真理を理解しない人々の大部分は、この世の栄枯盛衰や挫折、苦難を経験してきた後、人生に関する識見を「それが運命である」というひと言で表現する。このひと言は、人間の運命が世俗的結論と理解で要約されたものであり、また人類の無力さを表現し、当を得ている、正しいと言える。しかしながら、それは創造主による統治に関する認識からは遠くかけ離れたものであり、創造主の権威に関する認識に代わるものでは無い。

3.運命を信じることは、創造主による統治に関する認識に代わるものでは無い

 運命に関する認識について、長年にわたり神に付き従って来たあなたがたの認識と俗世人の認識には大きな違いがあるであろうか。あなたがたは、創造主による定めを真に理解し、創造主による統治を真に知ったであろうか。「それが運命である」という言葉について深い思いのこもった認識がある者もいるが、そうした者は神による統治や、人間の運命は神により定められ、指揮されているということを一切信じず、神による統治に服従したがらない。そうした者は、あたかも大海原に漂流し、波にもまれ、潮に流されるように、受け身で運命に身を委ねるほか無い。しかし、人間の運命は神による統治下にあることをそうした者は気づかない。彼らは人間の自発性への神の統治に気づくことができず、ゆえに、神の権威を認識し、神の采配や計画に従い、運命に逆らうのを止め、神の慈しみと保護、導きの下で生きることが出来ない。換言すると、運命を受け入れることは、創造主による統治に従うこととは異なり、運命を信じる事は、神による統治を受け入れ、認め、知ることではなく、単にその事実と外的現象を認めることである。それは、創造主が人間の運命をどのように支配するかを知る事、神が万物の運命を支配する元であることを認める事、さらには創造主による人間の運命に対する采配と計画に服従する事とは、異なるものである。ある者が運命のみを信じ、それについて深く理解しているが、それにより人間の運命の創造主による統治を知り、認め、それに服従し、それを受け入れることが出来なければ、その者の人生は悲惨なものとなり、虚無のうちに生きる人生となり、創造主による統治に服従する者となることも、造られた人間という言葉が真に意味するところの存在となることも、創造主の是認を享受することも出来ない。創造主による統治を本当に知り、経験する者は、受動的でも絶望的でもなく、能動的であるべきだ。その者は、全てが運命であることを認めると同時に、全てのいのちは創造主による統治下にあるという人生と運命の正確な定義を知っている必要がある。ある者が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、その者は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知る。その者が気付かぬうちにその者を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画である。創造主による統治を受け入れ、神の救いを得ることが出来るということは、何と幸運なことであろうか。ある者の自分の運命に対する姿勢が受動的である場合、それは、神がその者のために用意したあらゆる物事をその者が拒否し、従順な姿勢ではないということを意味する。神による人間の運命統治に対するその者の姿勢が能動的である場合、その者が自分の旅路を回顧し、神による統治を真に把握するようになった時、その者は神が用意した物事の全てに従うことを一層強く望むようになり、その者の運命において神が指揮すること、それ以上神に反抗しないことに、一層強い決断と確信を得るであろう。運命や神による統治を理解せず、霧の中を敢えて手探りでよろめきながらさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かる。したがって、人間の運命の神による統治を人間が認めた時、賢明な者は、それを知り、受け入れて、引き続き運命に逆らい、いわゆる人生の目標を自分のやり方で追究する代わりに、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別する。ある者にとって神が存在せず、神が見えず、神による統治を明確に認められない場合、毎日は無意味であり、無価値であり、悲惨である。その者がいる場所、その者の職業を問わず、その者の生業やその者の目標追求は、その者に終わりなき悲嘆と癒やされることのない苦痛をもたらすだけで、顧みるに耐えがたいものである。その者が創造主による統治を受け入れ、創造主の指揮と采配に従い、真の人間生活を求めた時のみ、その者はそうした悲嘆や苦痛から徐々に解放され、人生のあらゆる空虚感が払拭されるであろう。

4.創造主による統治に従う者のみが真の自由を得ることができる

 人間は神の指揮と統治を認めないので、常に反抗的な姿勢で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを望み、現状と運命を変えようとする。しかし、人間は決してそれに成功することは無く、あらゆる行動が妨害される。その者の魂の奥深い所で発生するそうした葛藤は苦痛であり、その苦痛は忘れられないものであり、その者は常に自分の人生を浪費する。こうした痛みの原因は何であろうか。神による統治が原因であろうか、それともその者が生まれた時から不運であったことが原因であろうか。あきらかに、そのいずれも原因ではない。根底にある、人間が進む道、人間が選択する生活方法が原因となっている。こうした物事に気付かない者もいる。しかし、神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定した物事の全てが大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放される。大部分の人々の状態から判断すると、主観的には、従前のような生活を望まず、苦痛から解放されることを望んでいるが、客観的には、創造主による人間の運命統治の実際の価値や意義を真に把握出来ず、創造主による統治を認め、それに従う事も出来ず、まして創造主の指揮や采配を求め、受け入れる方法を知ることなど出来ない。そうしたわけで、ある者が、創造主が人間の運命と、人類のあらゆる物事を統治しているという事実を真に認められず、創造主による統治に真に服従できない場合、その者にとって、「人間の運命は自分の掌中にある」という観念に駆られたり捕らわれたりすることを避けること、運命や神の権威に対抗する厳しい葛藤による痛みを払拭するのは困難であろう。またその者にとって、真に解放されて自由になり、神を礼拝する者となることも困難であるのは、言うまでもない。こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法がある。それは、自分の従前の生活様式や、従前における人生の目標と訣別し、従前の生活様式、哲学、追究、願望、理想を概括し、分析して、それを神の旨や人間に対する要求と比較し、そうした従前の物事すべてが、神の旨や要求と矛盾していないか、人生の適切な価値をもたらすか、自分を一層深い真理の理解へと導くものであるか、人間性と人間らしさによって生きるようにさせるものかを確認することである。人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。これは簡単に思えるが、行うのは困難である。苦痛を感じるものと、感じない者がいるであろう。喜んで従うものと、そうでないものがいる。喜んで従わない者は、それを行う事を望む気持ちと決意が不足している。つまり、そうした者は、神による統治を明確に認識し、人間の運命を計画し、采配を行われるのは神であることを完全に知っているが、それでもなお反抗しようとあがき、自分の運命を神の掌中に委ねることを許さず、神の統治に従わず、神の指揮と采配に立腹している。そうしたわけで、自分の能力を知りたい者が常に存在する。そうした者は自分の運命を自らの手で変えること、自分の力で幸福になること、神の権威の範囲を出て、神による統治を超えることが出来るかどうかを試すことを望む。人間の悲しみは、人間が幸せな人生を望むことや、富や名声を望むこと、霧の中で自分の運命に立ち向かうことではなく、創造主の存在を知り、創造主が人間の運命を統治しているという事実を知ってなお、自分自身のあり方を正し、泥沼から抜けられずに、自分の過ちを頑固に押し通そうとすることである。人間は、全く悔い改めることなく、泥の中で戦い続け、頑固に創造主による統治に反抗し続け、悲惨な結末を見るまで拒否を続ける方が良いと考え、うちひしがれ、負傷して倒れた時、やっと諦めて戦いを止める。これが、人間の真の悲しみである。そうしたわけで、服従した者は賢者であり、逃れようとしたものは意固地になっていると言える。