高天原(たかあまはら)三丁目

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乃木 希典 大将 其の一

2015-07-12 11:15:38 | 歴史


乃木希典大将にはその功績以上に人を惹きつける魅力があります



決して華々しい人生ではありませんでした

性格上なのか、立場上なのか、その時代に生まれたからなのか、常に苦しみを抱え込まれ、大正元年に明治天皇の後を自らの手で追われました


明治の後半、乃木希典大将は明治天皇との関わりもあり学習院 院長に就任されました

当時の裕仁親王(昭和天皇)も乃木希典大将と関わりがあり裕仁親王は乃木希典大将の事を

「院長閣下」と呼ぶに至りました


話が少しずれましたが今回は乃木希典大将の生きた時代、生きた道、その生涯を紹介する為にwikipediaを参考としてまとめてみました


*以下から敬称略します



乃木 希典

(所属組織) 日本帝国陸軍

(軍歴) 1871年 - 1912年

(最終階級) 帝國陸軍の階級、陸軍大将

長州長府藩士(山口県)


嘉永2年11月11日( 1849年12月25日)~大正元年(1912年9月13日)乃木は江戸の長府藩上屋敷(東京都港区六本木)に生まれた

幼少時、泣き虫だった又、幼少の頃、左目を負傷して失明している

安政5年11月(1858年12月)に父・希次の藩主跡目相続紛争に巻き込まれ長府(山口県下関市)へ転居

漢籍、詩文、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術などを学ぶ

元治元年3月(1864年4月)学者となることを志し萩(現・同県萩市)まで赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた

玉木 文之進は吉田 松陰の叔父でもあり玉木 文之進、吉田 松陰は親戚関係






元治元年(1864年)から萩藩の藩校「明倫館」に通い一刀流剣術も学ぶ

慶応元年(1865年)、第二次長州征討に対し小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わった

この時、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い小倉城一番乗りの武功を挙げたが、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)、長府藩の命令に従い、明倫館に入学(復学)した

慶応4年(1868年)藩命により、伏見御親兵兵営に入営しフランス式訓練法を学び、明治4年(1872年)、大日本帝国陸軍の少佐に任官した。22歳での大抜擢だった

明治4年12月(1872年1月)名を希典と改めた


「秋月の乱、萩の乱」

1875年(明治8年)12月、熊本鎮台1連隊長心得に任じられ小倉に赴任した

実弟の玉木正誼(玉木文之進の養子)が度々訪問し、前原に同調するよう説得を試みたがこれに賛同せず逆に山縣に事の次第を通報した

1876年(明治9年)福岡県秋月藩士による秋月の乱が起き、秋月の乱の直後、山口県萩では萩の乱が起こった

この乱の最中、弟の正誼(玉木文之進の養子でこの頃乃木は玉木文之進の養子であった)は反乱軍に与して戦死し、師である文之進は自らの門弟の多くが反乱軍に参加したことに対する責任をとるため自刃した

「西南戦争」




1877年(明治10年)西南戦争が勃発し第14連隊を率いて福岡県久留米に入りその後、熊本県植木町(熊本市植木町)付近において西郷軍との戦闘に入った

第14連隊は200名程、対する西郷軍は400名程で第14連隊はよく応戦したが退却する事にした
その際に西郷軍に連隊旗を奪われた



連隊旗喪失を受けて山縣有朋に対し「待罪書」を送り厳しい処分を求めたが山縣からは不問に付す旨の指令書が返信された

しかし乃木は自責の念を抱いて幾度も自殺を図った

熊本鎮台参謀副長として共に戦っていた児玉源太郎(当時は乃木と同じ陸軍少佐)は自殺しようとする乃木を見つけ乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めたと言っている

その後、部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負って野戦病院に入院したにもかかわらず、なお脱走して戦地に赴こうとしたために「脱走将校」の異名をとった

この時の負傷により、左足がやや不自由となった

放蕩生活と結婚

秋月の乱、西南戦争に至る一連の士族反乱は乃木にとって辛い戦争だった

連隊旗を失うという恥辱もさることながら、萩の乱では実弟・玉木正誼が敵対する反乱軍について戦死し、師でもある正誼の養父・玉木文之進がその責任を取り切腹した為だ

西南戦争の後は放蕩が尋常でなくなり、自宅よりも東京の柳橋や新橋、両国の料亭にいる時間の方が長くなる程だった

その辛さを酒で紛らわせていたのだと思う


1878年(明治11年)旧薩摩藩藩医の娘・お七(結婚後に「静子」と改名)と結婚した


「少将への出世」

1879年(明治12年)正六位に叙され、翌1880年(明治13年)に大佐へと昇進した

1883年(明治16年)に東京鎮台参謀長に任じられ、1885年(明治18年)には少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた

この間、長男の勝典および次男の保典が誕生している

「独へ留学」

1887年(明治20年)政府の命令によって陸軍少将の川上操六とともにドイツ帝国へ留学し、ドイツ陸軍の全貌を学び帰国後、復命書を大山巌陸軍大臣に提出した

その内容は「軍紀の確保」と厳正な軍紀を維持する為の「綱紀粛正」、軍人の「教育、道徳、徳義、軍服着用の重要性」説いたものであった

その後は、復命書の記述を体現するかのように振る舞うようになった


「日清戦争」

1894年(明治27年)日清戦争が始まると大山巌司令官が率いる第2軍の下で出征し、そして旅順要塞をわずか1日で陥落させた


「台湾総督」

1896年(明治29年)に台湾総督に任じられ台湾の治安確立にあたった
教育勅語の漢文訳を作成して台湾島民の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用することで現地の旧慣を施政に組み込むよう努力した
また日本人に対しては、現地人の陵虐および商取引の不正を戒め、台湾総督府の官吏についても厳正さを求めた


「日露戦争」





日露戦争開戦の直前である1904年(明治37年)動員令が下り留守近衛師団長として復職し第3軍司令官に任命された

そして広島県の宇品港を出航したがその直前に長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した事を知った

広島で勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報電報で

「名誉の戦死を喜べ」

と記載したと言われている


「旅順での戦い」

1904年(明治37年)遼東半島の塩大澳に上陸し第3軍は白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した

この戦いは犠牲覚悟の強襲作戦となったが櫻井忠温は

「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」

と後年述べた

乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となったがその批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた

同年、総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した保典の戦死を知り

「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」

と述べた

また出征前に

父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように

と夫人に話をしていた

1905年(明治38年)要塞正面が突破され抵抗は不可能になったロシア旅順要塞司令官ステッセリは、乃木に対し、降伏書を送付し、これを受けて戦闘が停止され旅順要塞は陥落した


「水師営の会見」



旅順要塞を陥落させた後の1905年(明治38年)露ステッセリと会見し極めて紳士的に接した

通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、帯剣を許し、酒を酌み交わし
露軍人の武人としての名誉を重んじた

そして同年に旅順要塞に入城し、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した

その姿は、日本語が分からない観戦武官および従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の抄訳を求めた


「奉天会戦」

第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加しロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが露のクロパトキン軍は退却し日本軍は奉天会戦に勝利した

アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォシュバンは
「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」
と述べた


「凱旋」

1906年(明治39年)1東京・新橋駅に凱旋した

その歓迎ムードは高まっていたが、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から

「戦死して骨となって帰国したい」

「日本へ帰りたくない」

「守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい」

「蓑でも笠でもかぶって帰りたい」


などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った

東京に戻ると直ちに宮中に参内し明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読したその内容は

「第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威(みいつ)」

「上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるもの」

「将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む」


との内容である

又、復命書を読み上げるうち、涙声となり、さらに明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した

しかし明治天皇は

「今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」

という趣旨のことを述べられた


「学習院院長就任」

1907年(明治40年)学習院院長を兼任することになった

この人事には明治天皇が大きく関与された
明治天皇は、乃木の学習院院長就任に際して、次のような和歌を詠まれた

「いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ」





また明治天皇は

「自身の子供を亡くした分、生徒らを自分の子供だと思って育てるように」

と述べて院長への就任を命じた


「乃木式教育」





当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、6棟の寄宿舎を建て、学生と寝食を共にして生活の細部にわたって指導した

また剣道の教育を最重要視し、時には日頃の成果を見せよと言って生徒に日本刀を持たせ、生きた豚を斬らせることもあった

当時、学習院中等部に在籍した近衛文麿(後の内閣総理大臣)は、幼少期には大変な怖がりで一人で出歩くこともままならず、これを見かねた乃木が自ら竹刀を持ち近衛に打ち込んだ

近衛は

「乃木さんのメンは本当に痛かった」

とのちに回想している

こうした乃木の教育方針は「乃木式」と呼ばれた


「生徒からの評判」


乃木は、自宅へは月に1、2回帰宅するが、それ以外の日は学習院中等科および高等科の全生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にした


乃木は、生徒に親しく声をかけ、よく駄洒落を飛ばして生徒を笑わせた


学習院の生徒は乃木を

「うちのおやじ」

と言い合って敬愛した


他方で、そうした乃木の教育方針に反発した生徒たちもいた

彼らは同人雑誌『白樺』を軸に「白樺派」を結成し、乃木の教育方針を非文明的であると嘲笑した

白樺派の主な同人は、作家では有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎等

*だから私は白樺派作家は嫌いです


「昭和天皇の養育」



1908年(明治41年)裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した

当時、裕仁親王は、赤坂の東宮御所から車で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した

裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという

また、後に中曽根康弘が運輸大臣であった時に昭和天皇への内奏で、司馬遼太郎の小説『殉死』に書かれている逸話は本当かと尋ねたところ

「おおむねその通りである」

と答えられたという


1912年(明治45年)7月に明治天皇が崩御し乃木が殉死するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は、乃木を

「院長閣下」

と呼んだ

これは、明治天皇の遺言によるものである
昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ


「殉死」



1912年(大正元年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の
『中朝事実』
三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた


当時11歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き

「閣下はどこかへ行かれるのですか」

と聞いたという



「自刃」


1912年(大正元年)9月13日、乃木は明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった

当時警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している


「乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し日本軍刀によって、まず十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した」

あらかじめ自刃を覚悟し12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世などを作成し、心静かに自刃を断行した

夫人は、乃木が割腹するのと、ほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり乃木にやや遅れて絶命した

乃木は、いくつかの遺書を残した

そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他、乃木の遺産の取扱に関しても述べていた

乃木は、以下の辞世を残した


「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」


「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」




また、妻の静子は、

「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」


という辞世を詠んだ


「乃木自刃に対する反応」

乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった

乃木を慕っていた裕仁親王は、乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ

「ああ、残念なことである」

と述べて大きくため息をつかれた


一方で上記の乃木の教育方針に批判的だった白樺派の志賀直哉や芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を
「前近代的行為」
として冷笑的で批判的な態度をとった

*だから私は志賀直哉、芥川龍之介が嫌いです


乃木夫妻の葬儀は、1912年(大正元年)9月18日に行われた

葬儀には十数万の民衆が自発的に参列しその様子は
「権威の命令なくして行われたる国民葬」

と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された

乃木の死去を受け、読売新聞のコラム「銀座より」では、乃木神社建立、乃木邸の保存、
「新坂」の「乃木坂」への改称などを希望するとの意見が示された

その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された









以上、乃木希典 大将の生涯ついて概略を述べました

この時代の軍人は国体護持が基本的な考えであったと思いますが乃木希典大将は中でもその気概が高かったように思います


乃木希典大将について評価(名将か否か)をする人がいますが私は、その事自体が邪道だと思っています

上記に述べた通り志賀直哉や芥川龍之介は乃木希典大将の死に方を「時代にそぐわない」と言う様な表現で批判をしています

また司馬遼太郎は愚将的な発言をしています

名将か愚将かと言う問いかけに対しての発言だったかも知れませんが私はその事自体が邪道な表現だと思っています

今回 は一般的に表現されている乃木希典大将の生涯をwikipedia参考にし、まとめましたが
次回からはもう少し踏み込んだ内容で乃木希典大将の魅力を伝えたいと思います


「乃木希典大将」其の一を終わります


( 続く )








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