聖堂の詩

俳句から読み解く聖書

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聖堂の詩その766―縄と綱(3)

2012-06-23 03:49:14 | Weblog
                祇園祭鉾の縄目に隙間なし       紅日2011年10月号

           (聖書の中の縄の巻別分布表)
 聖書には縄は全部で42回発見できる。聖書の中での頻出度は中位である。「聖堂の詩その516」の調査では綱が42回であった。縄は綱と頻出度は同じである。下記の縄に関する聖書からの引用は縄を明確にするために一部書き直している箇所もある。

●士師記に於いては「縄」は4回発見できる。その箇所は以下である。
・15-3には「縄二本でサムソンを縛った」とある。
 人を縛るには一本の縄では不充分であた。
・15-4には「縛った縄目は火がついて燃える亜麻糸のようになり解けた」とある。
 燃えやすさに関しての縄と亜麻糸の比較を描写している。
・16-11には「新しい縄で強く縛れば私は弱ります」とある。
 新しい縄の強靭さを描写している。人々には縄の新旧の違いは縄の強弱を決定するという認識があった。古い縄は時間経過と共に強靭さは劣化するとの認識があった。
・16-12には「サムソンは腕の縄をまるで糸の如く断ち切った」とある。
 サムソンは韓国の巨大企業名称でもあるが、それは韓国に籍を置くユダヤ系資本であり、韓国の民族資本ではない。日本にもトヨタのノア、東亞合成のアロンアルファ、アサヒカメラのペンテコステ由来のアサヒペンタックス、シオンという会社名称や商品名称、化粧品のララソロモンなどユダヤ人資本の命名したまたは教唆したヘブライ語商品名群が劇的に増加している。極東地方のユダヤ資本の進出と経済支配が急速に高まっている。
 本文はそのユダヤ教経典旧約聖書に登場するサムソンの力強さを描写している。サムソンを縛った新しい二本の縄をまるで糸を切るごとく簡単に縄を断ち切る場面である。人を縛る時、普通は一本の縄で縛っていたが、強い人間の場合は二本の縄で縛るのが一般的であった。縄は貴重品であり用途に応じて大切に使っていたことが読み取れる。

●サムエル記下に於いては「縄」は3回発見できる。その箇所は以下である。
・8-2には「新しい縄二本でサムソンを縛り」とある。
 サムエル記下はダビデ一家の近親相姦、強姦、兄弟殺しの三大罪をめぐる話。新しい二本の縄でなければ縛り上げても直ぐに逃げられる。サムソンは強靭屈強な人間だからだ。二本の新しい縄でなければならない。
・17-13には「父上がどこかの町に身を寄せるなら、全イスラエルでその町に縄をかけて引いていって川に放り込み、小石ひとつ残らなくしようではありませんか」とある。父上はダビデのこと。王位を狙うアブサロムを部下であるフシャイが逃げる父親を追い詰めて逮捕し川に投げ込もうではないかとアブサロムを教唆する場面。信じられない強烈な親への憎悪が満ちている。
 日本でも最近は親の子殺し子の親殺しが大流行している。私の長い人生でこんな経験は始めてである。それは日本社会におけるユダヤ教の影響であろうか。今の日本社会は企業の生き残りが最も尊重され、リストラも容認されている。それは学校教育にも見られる虐め社会でもあるが、全ての人間を孤立化させる考え方の影響であろうか。
 旧約聖書の生き残り至上主義サバイバリズムの影響であろうか。そのような死に物狂い競争社会が日本に展開しているのは旧約聖書の影響は考えられないことはない。世界金融を支配するユダヤ巨大資本が日本で推進した国際化や規制緩和を通じた自由化は日本人の心に残留していた儒教精神を一掃させ、日本人の生活や思想を一変させてしてしまったと思う。
 本文の「町に縄をかけて」は比喩的表現。「町を川に放り込む」というのは町の中の何もかも残さないで川に放り込もうとする行為であり、これも比ゆ的表現の連続。「川に小石ひとつ残さないようにしよう」というのもダビデが町に逃げ込んでいるならば、町の全てを川に放り込もう。その結果の川を描写している。川底に小石ひとつ残らない状態にしようというのである。それは比ゆ的表現の延長であり、町にあるもの全てを川に放り込み、川から何もかも溢れ出ることを描写している。聖書には比喩的表現が多い。比喩的表現で誤魔化されて分かったような気持ちで読み飛ばすととんでもない解釈をしている時が往々にしてあるものだ。比ゆ表現は騙されないように注意すべきだ。
 敵を捕らえたら直ちに縄で縛るというのは日本でも同じである。古今東西共通している。泥棒を捕まえてから縄を綯い用意することを日本では「泥縄」として、段取りの悪さを批判する諺として使われている。「泥縄」の諺は縄を用意しておき、直ちに縄で縛ることの重要性を説いている。
・22-6には「陰府の縄がめぐり、死の縄が仕掛けられている」とある。
 陰府は死後の世界のことで冥府や地獄のこと。死後の世界にも縄張りで囲まれた地獄があると考えられていた。また、死後の世界でも道を見失い地獄の縄張りを跨ぎ越えることがあると考えられていた。詩篇18-5にも同じ表現がある。「死の縄がからみつき奈落の激流が私を慄かせ、陰府の縄がめぐり死の縄が仕掛けられている」とある。縄で人を縛る場面が多い。縄は人間を拘束する一つの道具として人々は考えていた。

●列王記上に於いては「縄」は3回発見できる。その箇所は以下である。
・7-23には「周囲を縄で測ると」とある。
 列王記上1-1から11-43まではソロモン王の王位継承からソロモンの死までの物語である。その大半がエルサレム神殿と宮殿の建設を描写している。この場面は神殿建設の一場面。縄は当時の巻尺として利用されていた。縄は人を拘束する道具だけではなく計測道具として利用された。
・20-31には「腰に粗布を巻いて、首に縄をつけてイスラエルの王の下に行きましょう。貴方の命を助けてくれるかもしれない」とある。
 列王記上20章にはアハブとアラムの戦いの物語。ソロモンの死後ユダヤ王国の信仰は邪教に傾斜し国が乱れる。この箇所はアハブがアラムに打ち勝った情景である。アハブとアラムは兄弟であるが骨肉の争いを展開する。今の日本を見る心地である。東京都など首都圏では一世帯あたりの人数が1,9人である。一世帯の中に二人もいない。既に家や家庭が首都圏から消滅している。人類の社会最小単位である家庭が消滅している。日本でも壬申の乱は天智天皇の子供、兄と弟の戦いである。古代から洋の東西を問わず兄弟の間の権力と地位の継承を巡り骨肉の争いがあったが、家族崩壊は現代社会と酷似している。
 本文では縄に関して「首に縄をつけて」とあり人間を拘束するには縄で縛るだけでなく縄で繋ぎとめる方法もあった。縄を活用した人間の家畜化である。兄弟間の戦争の一場面である。
・20-32には「彼らは腰に粗布を巻き、首に縄をつけてイスラエルの王の前に出てこういった」とある。
 此の場面も人間の家畜化として縄が活用されている。

●列王記下に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・21-13には「測り綱」とある。
 この箇所は主の声の一部である。主はサマリアで測り綱を使った。測り綱とは今で言えば巻尺である。地面の長さを計測する縄のことである。聖書には「測り綱」は頻繁に出てくる。聖書には「縄」が42回出てくるがその内の14回が「測り綱」であった。聖書には人を縛る縄が目立ったが、それに肩を並べるのが測り綱だ。測り綱の聖書時代に於ける普及率が高かったことをも窺わせる。以下はその箇所である。
*サムエル記下では1回で、6-2に発見できる。
*列王記下では1回で、21-13に発見できる。
*ヨブ記では1回で、38-5に発見できる。
*詩篇では2回で、16-6,78-55に発見できる。
*イザヤ書では3回で、28-17,34-11,34-17に発見できる。
*エレミヤ書では1回で、31-39に発見できる。
*哀歌では1回で、2-8に発見できる。
*エゼキエル書では1回で、47-3に発見できる。
*アモス書では1回で、7-17に発見できる。
*ゼカリア書では2回で、1-16,2-5に発見できる。

●歴代誌下に於いては「縄」は1回発見できる。その箇所は以下である。
・4-2には「周囲を縄で測ると」とある。
 ソロモンが作った鋳物の海を計測している場面だ。これも測り縄である。

●ヨブ記に於いては「縄」は3回発見できる。その箇所は以下である。
・36-8には「苦悩の縄に縛られている人もあれば」とある。
 「苦悩の縄」としている。縄は人間に苦悩を与える物の象徴として名詞化している。縄は人を縛る為に存在していたことは明らかである。人々にとって縄は人を縛り上げる為に存在していた事が読み取れる。
・38-5には「誰がその上に測り縄を張ったのか」とある。
 これは主の言葉の一部である。「その」は大地の広がりを示している。
・40-25には「舌を縄で捕らえて屈服させることができる」とある。
「舌を縄で捕らえて」とあるが、これは舌を出させてそれを縄で縛り上げるという意味であるのか、それとも、縛り上げて人間を身動きできないようにする如く物を言わせないようにすることを意味する聖書独特の比喩的表現であるのか判断が難しい。いずれにしても縄は拘束し自由を与えない道具として考えられていた。

●詩篇に於いては「縄」は7回発見できる。その箇所は以下である。
・2-3には「我らは、枷を外して縄を切って投げ捨てよう」とある。拘束されていた人間は枷をはめられた上で縄で縛られていた。びくりと籾動きが出来ない状態にされていたことが推定出来る。ここでも縄は人間を拘束する為の道具であった。
・16-6には「測り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣業を受けた」とある。
 「測り縄は麗しい地を示し」は広大な土地を計測したという意味であろう。
・18-5には「死の縄が絡みつき、奈落の激流が私を慄かせる」とある。縄は死へ引きずり込む縄でもあった。拘束する縄、死へ引きずり込む縄、いずれの縄も人間には恐怖の縄である。
・18-6には「陰府の縄がめぐり死の縄が仕掛けられている」とある。
「陰府」はこの場合地獄である。「陰府の縄がめぐり」は地獄を囲む死の縄である。縄はここでも人間には恐怖の対象だ。
・78-55には「彼らの嗣業を測り縄で定め」とある。
 「嗣業」の「嗣」は字義としては後を次ぐの意味がある。漢和辞典に出ている熟語としては嗣子、嗣君、嗣語は発見できるが、「嗣業」は何処にも発見できない。漢和辞典にも嗣業は発見できないのであり、翻訳の時に使う単語として適切であるのかどうか吟味する必要があるのではないだろうか。日本語訳聖書は日本人が読むために翻訳された聖典である。翻訳は日本人に分からなければ意味がない。その目的が叶わなければ意味がない。そのように考えれば漢和辞典にも出ていない「嗣業」という単語の利用は翻訳作業として適切であるのだろうか疑念がある。尚、聖書にはこの「嗣業」が幾つもの箇所に発見できる。
 216回も発見できる。聖書に出てくる単語の頻出度としては中程度である。中程度であるだけに「嗣業」という単語が聖書翻訳に於いて適切であるかどうか検討されて良いのではないか。先代からの引き継いだ業のことを「嗣業」と翻訳しているのであろうが、漢和辞典にも記載されていない単語に無理を感じないではない。なお此処では先代から引き継いだ土地のことを示しており。計測用の縄である。先代からの引き継ぐ土地に関して旧約聖書には深い拘りがあるのは確実だ。土地に関する執着が強烈である。この財産引継ぎの土地への異様な拘りに関してはまた別の機会に触れることにしたい。
・116-16には「どうか主よ、私の縄目を解いてください」とある。「縄目を解いてください」は日本語として無理がある。「縄を解いてください」でよいのではないか。縄目は縄の結び目や土器の表面に押し付けた模様のことを指摘するのであり、「縄目を解く」より「縄を解く」とした方がはるかに明快で分かりやすい。難しい言葉を乱用すると読者は余計なことを考えてしまう。
・119-61には「神に逆らう者の縄が私を絡めとろうとしますが、私は律法を決して忘れません」とある。
 背信者が縄で私を縛ったとしても律法を守るとの決意を示している。この場合の縄も人間を拘束する為の縄。
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