こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

残酷な庭で遊ぶ子供たち。-【7】-

2021年07月06日 | 日記

【死の島】アルノルト・ベックリン

(※萩尾望都先生の漫画『残酷な神が支配する』のネタばれ☆を含みますので、閲覧の際は一応ご注意くださいm(_ _)m)。

 

 さて、今回ようやく最終巻の内容に入ることが出来ます(^^;)

 

 あと、前回書き忘れていたのですが、9巻の最後のほうで、ジェルミがイアンの例のマスクを外し、足の裏でパリンと割るところ……これ以上の愛の勝利はないなと、自分的にはそんなふうに思って読んでいました。本当に、素晴らしいですよね!

 

 こうして、かなりのところ――ジェルミの心の快復は進んできているわけですが、それはイアンとジェルミの関係が対等になってきていることからも見てとれます。また、ジェルミはイアンのことを、処罰の檻からグレッグが出てこないための番人としているわけですが、例のマスクが割れ、かなりのところ力を失いつつあるにしても……変態グレッグが力を失いつつあるにしても、彼がいなくなったらいなくなったで、今度はまったくといっていいほど手つかずの、サンドラの問題がまだ残っています。

 

 サンドラは、ジェルミがペネローぺ先生という心理療法家とセラピーの最中、ドアをバタンと開けて、突然入ってきます。取り乱し、錯乱した状態のまま、告白を続けるジェルミ。

 

 いえ、わたし、ここのシーン大好きなんですよ(^^;)

 

 事件直後は特に、「自分なんか死んだほうがいい」、「自分などどうなったってもう構いやしない」……ジェルミは罪悪感から、そんなふうに思う傾向が卑屈なまでに強かったと思うのですが、ここでサンドラに怒りを燃やしているということは、これこそジェルミの心がかなりのところ快復してきている証拠と思います。

 

「大切なサンドラなんかいない」、「ずっと気が狂いそうだった」……もちろんそれだけではなく、サンドラが母親として優しかったのも本当のことでしょう。でも、母性というものには、そもそもそうした二面性がある――というのは、今はかなりのところ一般的に知られるようになってきましたよね。ジェルミはイアンに対して、ペネローペと話していると「真綿で首を絞められているようで、二度とあの女に会いたくない」と言っていますが、実際のところ真綿で首を絞めてきたのはペネローペ先生ではなく、サンドラのほうだったでしょう(わかりやすいたとえで言えば、嫌がる子供にいくつも習いごとをさせ、「お母さんはあなたのためを思って……」と言いながら、真綿でぐいぐい首を絞めてくるという、母性の持つ悪い面のことです。ユングのグレート・マザーを御参照ください)。

 

 また、このペネローぺ先生とのセラピーのあと、ジェルミは例の仮面をつけたもうひとりの自分と正面から向きあっているわけですが……自分的にはここは、ル・グィンの「ゲド戦記」の第1巻、「影との戦い」のラストを思いだしました(このあたりについては、わかる方だけわかってくださいということで^^;)。

 

 わたし自身の個人的な読みとしては、ジェルミが抱えている処罰の檻はこの時点で解体され、鍵も必要なくなりました。ただ、ジェルミの心の快復の過程ということでいうと――まだ、サンドラの問題が残っているということの他に、何分あれほどの重いトラウマを抱えていたその部分が……心の中に暗い真空のような虚無の空間を形作っていると思うんですよね。

 

 わかりやすく言うとすれば、たとえば、処罰の檻という大きな、自分の体が押し潰されそうなほどの重いものを抱えていたでんでん虫が、その自分が背負っている<処罰という名の檻>が突然なくなってしまったようなものです。処罰の檻どころか、昔あった小さな殻さえ自分は今背負っていない。今度はまったくのゼロの状態から、そこに自分にとっての最適な殻を作って背負っていかなくてはならない……そうした生き直しの過程を、ジェルミは一からはじめなくてはならないのだと思います。

 

「あんな重い処罰の檻なんてものがなくなって、良かったじゃないか」というより――あれほど自分を責め苛み、苦しめたものであるにも関わらず、また別の意味でそれは「あまりにも見慣れた苦しみ」であるだけに、なくなったらなくなったで、今度は不安になるのです。

 

「自分は本当にもう苦しまなくていいのか?」、「いや、そんなうまい話があるもんか」、「また絶対別の苦しみが代わりにやってくるに決まってる」、「幸せになんかなったって、今度はそれはそれで、いつそれが失われるかと絶えず怯えてなくちゃいけないんだ」……などなど、「こんな自分が本当に幸せになんかなっていいのか?」という問題が、残っているわけですよね。

 

 以前よりも苦しみは軽減されつつあるかわり、今度はジェルミの心の中、処罰の檻のあった跡地に、不安が育ちはじめます。この頃、よくジェルミの背後には植物の蔓のようなものが表現されていますが、9巻ではこれはまだイバラの棘がついたものとして表現されていました。リン・フォレストの深い闇の森から伸びてくる魔手は、それだけ力を失ってきているのです。また、このようなただの緑の蔓であるならば、彼のことを傷つけるどころかむしろ、優しく彼の心を守り、癒してくれる緑ともなりうるのだということに、ジェルミ自身が気づいているのかどうか(自分的に、シューベルトの菩提樹が作中に出てくるのは、こうした意味なのかなと思いました。菩提樹というのは常緑樹ですから、言うまでもなく冬でも変わらず緑を茂らせていますし、他の季節であれば花を咲かせる植物に人の目はいきがちですが、冬には常緑樹の緑が寒い中にあって何よりの慰めとなってくれます。季節が夏でも冬でも……その人がそのことに気づくなら、常緑樹の緑のように救いといったものは案外すぐそばにあるものではないでしょうか)。

 

 その後、イアンとの旅行で、「今までのどんな時より遠くまで飛ぶ」ことの出来たジェルミでしたが、彼の心は自分に快楽を許すことや、人を愛すること、幸せになることなどを、今もやはり許すことが出来ません。

 

 

 >>「愛の中に、暴力も憎しみも含まれているんだ。だから愛は人を傷つけるんだ。だからぼくは愛がこわい」

 

「ジェルミ、愛はもっとプラス面を持つものだよ。受容とか、幸福感とか、育むこととか……暴力は破壊だ」

 

「ぼくは誰も傷つけたくない。そして、誰からも傷つけられたくない。だけど、人とかかわりあうと傷つけあうから……暴力が生じる。暴力にかかわりたくないと思ったら、誰も愛しちゃいけない。自分も誰かに愛されてはいけない。誰にもかかわってはいけない」

 

「ジェルミ、人間にかかわらずに生きることはできないだろ」

 

「できるよ。遠くへ行って誰とも会わなければいいんだ」

 

「……修道僧のように?」

 

「少なくとも、誰かを傷つけずにすむし、傷つけられることもない。一人なら、安心だ」

 

「一生?誰とも会わないのか?寂しいぞ、そんな人生。孤独で……」

 

(「残酷な神が支配する」第10巻/小学館文庫より)

 

 

 最後のほうにある、そう語るジェルミとイアンの対話シーンは、「残酷な神が支配する」の名シーンのひとつと思いますが、この時、イアンが「サクリファイス」という言葉を思い浮かべる背景には、おそらくタルコフスキー監督の同名の映画「犠牲(サクリファイス)」のことがあるのだろうと思います。

 

 簡単に言うとすればおそらくは――ジェルミが支払った恐ろしいばかりの犠牲は、グレッグが快楽を味わったという以外では、何も意味などなかったように思えます。けれど、意味などどこにもないように思える絶望の供物、苦しみの供物、悲しみの供物といったものは……もしかしたら、自分がその苦しみを骨の髄まで味わったことで、誰かがそのような目に遭わずにすんだかもしれない(つまり、この時点でジェルミは誰かひとりの人の命を救ったのかもしれない)、あるいはその犠牲という供物は無意味なものではなく、わたしたちが住む地球の裏側の人たちにとって、その人たちの内の誰かが救われるために捧げられたものかもしれない……そうした可能性だって、ないとは言えないわけですよね。

 

 そんなことを信じる奴は狂信者だ、ということになるとは思いますが、「そのような生贄が神に捧げられているからこそ」、「今もこの世界はかろうじてバランスを取り、存続し続けているのかもしれない」……そして、生贄が捧げられなくなったとしたら、その時こそこの世界は終わり、崩壊してしまうのかもしれません。

 

 この日、ジェルミは「行きたくない」と感じながらも、サンドラのお墓の前まで行き――そしてとうとう彼女に告白します。

 

「ぼくは……あの男と寝ていた。ぼくは……だから……そして、あなたを……あの男を殺しました」

 

 このあと、お墓の中からサンドラが出てきて、ジェルミに口接けます。彼女はずっと、最愛の息子が自分の元までやって来るのを待っていた。おそらく、サンドラは死を通して、ジェルミの苦しみを知り、自分の許されざる罪にも気づいただろうと思います。けれど、その重大な罪は、彼女自身が焼かれた生贄となることで、贖われたわけです。そして、彼女は本当にずっと待っていた……自分が死という名の贖いの力によって赦された、それとまったく同じ力によってジェルミのことを赦すことが出来る、この日がやって来るのを。

 

 7巻で、ジェルミは「あの人が呼んだんだ」と感じたことが、あんなに嫌なことのあったイギリスへ戻ることにした理由だとイアンに語っていますが、サンドラはこのためにこそ、最愛の息子が自分の元までやって来るのを、ずっとずっと待っていたのだと思います。

 

 人は死んだらどこへ行くのか?――このことについては、きっと様々な議論があるかもしれません。「グレッグ?あんな奴は死んだあと、地獄で悪魔にでも食われていればいい」というのは、読者の総意でしょうが、では、自殺したリリヤは?生前、教会へ通っていたらしいサンドラは?この三人は今、一体どこにいるのでしょう?

 

 とりあえずここでは、天国というよりも、擬似天国のような場所を創作してみたいと思います。そこを仮に、<贖い島>と書いてイニスフリーと呼ぶことにしてみましょう。あるいは、この場所を経て、その後人の魂は地上の気がかりがなくなってのち、天国へ行くというのでもいいかもしれません。

 

 この<贖い島>は、イギリスとフランスの間のドーバー海峡などにはありません。また、世界地図のどこにも存在していませんが、わたしたちの心の――魂の地図の中に、確かに存在しています。

 

 時々、生きたままこの<贖い島>へ行くことの出来る人も稀にいるのでしょうし、ここから死者たちの魂が再び地上を訪れることもある、そのような場所なのだと思います。

 

 なんにしても、サンドラから贖いのキスを受けたジェルミは、こののち、以前ほどグレッグのことやグレッグを殺した事件のことなどは、前ほど考えないで済むようになっていきます。サンドラのキスにはおそらくそうした力もあったのでしょう。簡単に言ったとすれば「悪いものはすべて、善いお母さんが持っていってくれた」、「そして、いまやすっかり魂の浄化された母なるサンドラは、それら悪いものを受けとっても、なんらの損害を受けることはない」のですから……。

 

 そしてイアン。グレッグのことも、サンドラが死んだ悲しい事件も、「忘れたほうがいい」、「忘れるのはいいことだ」と彼はジェルミに語ってくれます。これほどの力強い愛の支えが他にあるでしょうか。

 

 とはいえ、「愛はいくたびも生と死の間をいきつもどりつする」とあるように、ジェルミとイアンの関係も、磐石というわけではありません。イアンはガールフレンドを持つことがあるようだし、バレンタインだって、もしかしたらいつか、ジェルミの子供を生むことだってあるかもしれません。

 

 けれど、この12月だけは――この冬の祭典だけは、他の誰も入り込むことの出来ない、イアンとジェルミ、ふたりだけのものです。

 

 8巻のところで、リンドン・エドリンが、>>「傷のついたレコードが何度も同じところを歌い続ける」のと同じように、>>「傷ついたことを何度も繰り返すことがあるんです」と言っていたけれど、ジェルミはもう、このレコードの同じところに針を落としたりはしません。この世界のどんな出来事もきっと、永久に同じところがリピートされるということはないのでしょう。

 

 永遠に、同じところに針を落としてジェルミから快楽を得続けることが出来ると信じていたグレッグはもう死にました。また、そこから生じる苦しみが死後も続き、レコードの同じところばかり繰り返し聴き続けることで、気が狂いそうになっていたジェルミの人生も――今は、そもそもレコードの盤面自体が変わったのです。

 

 そして、そのレコードの表には、きっとこう書き記されているのではないでしょうか。「シューベルト、冬の歌・菩提樹他」といったように……。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 


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