ものすごぉぉく面白い、とっってもいい本です♪
わたしもまだ読んでる途中なのですが、このお話の連載をはじめて暫くした時に――脳外科関係のことを調べるのに密林さんで本を探していると、<関連書籍>として出てきて、買ってみることにしたのでした
何より、脳外科医の先生が書かれた本ということで、内容のほうはかなりのところリアルであり、とても読み応えがあります。ただ、書き終わったあとに読むことになってすごくよかったなーとか思ったりもして……というのも、もし先にヘンリー・マーシュ先生のこの本を読んでいたら、お話の中に出てくる脳外科手術について、もっと色々調べて書くということになっていたろうからです(そこらへんのことは薄っぺら~い描写で誤魔化して書いてあるのですが、マーシュ先生のこの本を参考にして、さらに色々調べることになったと思うので(@_@;))。
それはさておき、マーシュ先生はイギリスの脳神経外科の先生ということで、本のほうを読むとイギリスの医療システムのことなどがわかり、なかなか面白いと思いましたアメリカの医療ドラマを見て、「なるほど~。アメリカではそういうシステムなんだな」というのはぼんやりわかっていたものの、やっぱりイギリスはイギリスでまた違う……というのが、なんか面白いな~と思ったり。。。
で、ですね、わたしが今回何を書きたかったかというと――マーシュ先生も本の中で告白されているとおり、脳外科の先生というのは、おそらくその医師としての生活の中で、最善を尽くしたにも関わらず植物人間といった患者さんを作りだしてしまうことがあること、また、手術すべきか否か微妙なラインの患者さんというのがいて、僅かな可能性にかけて(患者さんや患者さんの家族の希望もあり)手術に踏み切ったものの……こんなことなら手術しないほうが良かった、という結果に終わることもあるということや――そのあたりの脳外科医としての苦悩といったことが、赤裸々に告白されている本でもあります。
もちろん、マーシュ先生のユーモアセンスの光る文章により、くすりと笑ったり、あるいは声に出して大笑いしたりする箇所もあるものの……やっぱり、脳外科医の先生の一番特殊な点というのは、他の外科の疾患であれば、良くなるか悪くなるか、そのあたりがかなりのころ術後はっきりしているものの、脳外科の手術では顔面麻痺や半身麻痺が後遺症として出たり、それのみでなく、植物状態や脳死といったような、他の疾患では見られない特殊な状況が生まれるということだと思うんですよね
わたし、脳下で一年くらい看護助手の仕事をしていたことがあるんですけど……なんていうか、やっぱり病棟自体が特殊だなっていうのはあったと思います。それで、そこにいた時にも「ひとつの病院に、これだけの寝たきりの方がいる、意識不明、昏睡状態のまま目覚めない患者さんがいる。ということは、これは日本全体、世界全体で見た場合、どういうことになるのだろうか」と思ったことがありました。
また、手術室のオペ看さんに、月一回だけの夜勤というのがありまして、たまたま術室勤務の看護師さんと夜勤で一緒になった時、こう話していたことがあったんですよね。
「いやー、○△さんの手術の時、某先生さあ、手順として△□を抜かした気がするんだよねー。で、それが○△さんの頭がおかしくなった原因じゃないかと思うんだけど、なんとも言えない問題だよねー。ほら、ドラマの「白い巨塔」でもあったけどさー、患者の家族に「手術ミスがあったんじゃないか」って詰め寄られたらそりゃ考えるけど、そうでもない限りはさー、とても自分から「某先生、手術中にミスした可能性があると思います」なんて、わざわざ言うべきことでもないしさー」
……いえ、何が衝撃といって、やっぱり手術前に見当識もしっかりしてて、どこもなんともなかった患者さんが、術後に豹変してしまったっていうのは、本当に驚きでした(^^;)
それで、最初は手術の失敗なんていうことは思ってもおらず(確かそれほど難しいレベルでないタイプの脳動脈瘤の手術でなかったかと思います。ちなみにその頃はまだコイル塞栓術ではなく、クリッピング術が主流だったので、そのくらい昔の話です^^;)、○△さんはどうしてこんなふうになってしまったんだろうと、とにかく不思議に感じつつ、身の回りのお世話をさせていただいていた……という感じでした。
でも、そのオペ患さんの話を聞いていて、「こういうことは実は他にもあるんじゃないかな」とはちらと思ったんですよね。というのも、その○△さん、手術後、術前まではとてもまともで穏やかで普通だったのが――精神病院に入るレベルなんじゃないかなっていうくらいの、「頭のおかしい狂った人」みたいになってしまったからなんですよね。。。
そのー、実際確かに間違いなくミスがあったかどうかというのはハッキリしませんけれども、お医者さんもひとりの人間であり、どんなに注意していても医師としての生涯の間に……あってはならないことだけれど、こうした手術ミスを犯すことがある、その前までは千人の人を仮に手術で救っていたにせよ、そうしたこととは別に、そのひとりの患者さんとは正面から向き合わなくてはならないって、実際相当キツいことだと思います。
マーシュ先生は、本の最初のほうで、そのことを「医者はみな、心の中に共同墓地を持っている」といった言い方をしています。つまり、お医者さんというのは時々その墓地へ行って祈りを捧げなければならないという、そうした職業である、と……(これはフランスの外科医、ルネ・ルリッシュの言葉で、正確には「外科医はだれしも自分のなかに小さな共同墓地を持っており、ときおりそこを訪れ、祈りを捧げる――そこは苦渋と悔恨の場所であり、外科医はそこで自分の犯してきた失敗の数々の言い訳をさがさなくてはならない」とのことでした(訳者様あとがきよりm(_ _)m))。
なんにしても、医療関係のお仕事をされてる方でも、わたしと同じように全然そうじゃなくても、最初の1ページ目から最後のページまで、どの章もとても面白い、買って損のない本だと思うので、超おススメです♪
それではまた~!!
不倫小説。-【17】-
奏汰はいつもとは違い、土曜も日曜も市立病院のほうで過ごし、月曜日は<元自宅>のほうから病院のほうへ出勤した。
「あなた。あなたはお仕事があるんだから、そんなに無理することないのよ。七海のことはわたしが毎日見て、出来る限りのことをするから」
「いや、仕事の帰りに必ずいくよ。おまえも、あんまり無理するなよ。お義母さんやお義父さんだって、一緒にいてくれるんだから」
一度、夫婦としては(もう終わった)とお互いに感じたふたりではあったが、今、奏汰と小百合の間には、夫婦としてかつてこれほど親密なことがあっただろうか……というくらい、優しくて穏やかな空気が流れていた。もっとも、奏汰は自分が愛人に走ったから娘が今こんな目に――といった気持ちはなかったにせよ、それでも後ろめたい気持ちから、暫くは<元自宅>へ戻るということにしていたのである。
そのあたりのことは、奏汰は明日香に電話で説明してあった。「娘が交通事故に遭って」と聞き、明日香にしても胸が痛んだ。どのくらい悪いのかといった説明は奏汰はしなかったのだが、とにかく「暫くはそちらへ戻れそうにない」ということだけは伝えておいた。
そしてこの月曜日、奏汰がすっかり憔悴しきっているのを見てとり、これは暫く自分は身を引いたほうがいいのだろう……と、明日香は直感的にそう感じていた。もちろん、奏汰の娘の七海がどのくらい悪いのかは明日香にもわからない。だが、軽い事故程度のものでも、この場合は奏汰の胸に相当堪えるだろうことは、彼女にもよくわかることだったから……。
七海の意識のほうはその後三週間しても戻らず、小百合も奏汰も気が気でない日々が続いた。奏汰は、娘のことで罪悪感に苦しみはじめていたから、自然、愛人との幸福な巣であるマンションの最上階へは、足が遠のいていたのである。
それでも、三週間も奏汰が戻らないとなると、明日香のほうでも心配になって、一度、仕事終わりに彼の部長室のほうを訪ねたということがあった。
「娘の状態がかなり悪くてね……何分、三週間しても意識のほうが戻ってこない。明日香と俺が同棲してることと、七海の事故の間にはもちろんなんの因果関係もない。だけど、やっぱり俺としては……」
「わかってます、先生。今はわたしのことは考えないで、七海ちゃんのことだけ考えてください。先生がマンションのほうに帰ってこられなくても、わたしは大丈夫ですから。それより、七海ちゃんの意識が戻って元気になることを、わたしも祈ってます」
この時、奏汰は結城医師の言っていたことを思いだし、胸が痛くなった。妻と離婚し、明日香と一緒に暮らすことを選んだ時、彼の中で優先順位はおそらく、妻や娘よりも彼女が上に来ていたのだ。けれど、その時にも彼にとって娘の七海は明日香と同じように大切で、かけがえのない特別な存在だった。けれど今こうなってみると……娘と明日香が仮に同時に溺れかけていて、どちらか一方しか助けられないとしたら、自分はどちらを選ぶのか――といった、例のホームレスと医者のどちらの命を、というのにも似た、苦しい立場に自分が立たされている気がしたのだ。
「明日香、君にはすまないと思ってる。自分の勝手できちんと離婚もしないうちから一緒に暮らしはじめたり、その他、色々なことで明日香には無理をさせてきたと思うから……ただ、とにかく今は娘のことと、娘の命が助かること以外、何も考えられないんだ」
「いいんです、先生。奥さまだって精神的にも体力的にも、おつらいと思いますから、出来るだけついていてあげてください。うちのICUだって、子供が来ることは少ないですけど、交通事故に遭ったそうした患者さんが運ばれてきて、ついている家族の姿も見てますから……先生はお医者さんとして色々なことがわかる分、より一層つらいだろうなってわかりますから」
「ごめん、明日香。そう言ってもらえると、俺としても……とにかく、娘の容態がよくなって、小百合のほうでも落ち着いたら、必ずまた君の元へ戻るから」
このあと、明日香は割とあっさり部長室のほうをあとにしていた。というのも、こうした話をする間、奏汰のほうではとても心苦しい様子をしており、今はただ自分と一緒にいるだけでも彼には心の負担になるだろうとわかっていたのである。
ただ、普段病棟でちらと見かけただけでも、奏汰の顔には疲労の色がありありと滲んでおり、明日香は自分のことなどよりも、彼のそうした状態のほうが遥かに心配だった。そして普段、一般病棟の横にあるICUでは、頭部外傷、あるいは脳梗塞などによって意識不明の患者がベッドに身を横たえており、最初に面会にやって来た家族が泣き崩れる姿というのを何度となく目にしてきた明日香としては……ただ、奏汰の娘の七海の意識が一日も早く戻ってくることを願うばかりだったのである。そして、三週間しても意識が戻らない、そうしたケースについても奏汰同様明日香は多数目にしていたため、「もしもこのままだったら……」と、その後がどうなるかわかっているだけに、その焦燥と不安も並以上のものがあるということも、彼女はよくよく理解していたといえる。
もっとも、幸いなことにその後、七海の意識は一月ほどして戻ってきていた。そしてこの間、奏汰は仕事をなるべく早く終えては(このことは上司である副院長にも話してあった)、足繁く市立病院のほうへ通い、ICUに出入りする医師や看護師らにとっては面倒な患者家族であり続けたといっていい。
高柳医師でない他の医師に対しても、治療方針について疑問を差し挟んだり、看護師の態度に熱心さが感じられないと、「いつもこんな感じで仕事してるんですか?」と嫌味を口にしたりもした。
だが、こうした奏汰の医療スタッフに対する刺々しい態度も、七海の意識が戻ってくるなり180度コロリと軟化していたといっていい。人当たりのほうもすっかり良くなり、まるで別人だったといえる。高柳医師をはじめたとした医師たちには顔を合わせるたび、それが廊下でもどこでも感謝の言葉を述べ、看護師たちにはお礼の差し入れをしたりもした。
だが、七海の意識が戻って以後……何より、奏汰の心を貫き通したのは、娘が自分のことを見かけたような気がして、赤信号であるにも関わらず道路を横断しようとしたと告白したことだったかもしれない。
意識が戻ったとはいえ、当初七海の意識は混濁しており、誰も彼女に事故のことは聞きもしなかったし、そんなことはもはやどうでもいいことであった。けれど、さらにその半月後、ICUから一般病棟のほうへ移った頃、例のトラック運転手が見舞いに来たあとで、そのことをポツリと洩らしていたのである。
「あのトラックのおじさん、七海が悪いのに、そんなことなんにも言わないで、ぬいぐるみとかいちごとかメロンとか……なんか色々持ってきてくれたもんね。悪いことしちゃったな」
このトラック運送会社の運転手とは、奏汰も小百合も最初から良好な関係にあった。何分、これでもし七海が青信号で渡ったにも関わらず轢かれたということであったとしたら――奏汰と小百合も彼をどうしていたかわからないほどであったが、何分事故の非のほうは自分たちのほうにあるわけである。
にも関わらず、この四十代ほどの中年男性は、週に一度は病院のほうへやって来て謝罪の言葉を述べ、UFOキャッチャーで取ったようなぬいぐるみを置いていったりしたのだった。
そのせいで今、七海のベッドや床頭台のまわりは、ぬいぐるみだらけだった。そして、七海は起き上がることも出来ず退屈な間、そのぬいぐるみのひとつひとつに名前をつけ、頭の中で色々と会話させては楽しむという遊びをずっと続けていたのである。
また、七海は看護師さんら、医療スタッフにも非常に受けがよく、奏汰は七海が一般病棟へ移ったあたりからは、娘の容態のことについては大分心配しなくなったかもしれない。それでも、右目の周辺については退院する前に形成手術が必要であり、その手術のことを七海は随分怖がっていたものだった。他に、頭のほうも髪がすっかりなくなっていたせいもあり――「ねえ、お父さん。七海の顔とか頭、元に戻る?学校へ行って友達に笑われない程度だったら、多少不細工でもいいんだけれど」と娘が言うのを聞いては、父親として胸を痛めていた。
だが、七海がいわゆる亜急性期と呼ばれる状態に入ってからは、七海の頭部がいずれは元通りになることや、形成外科医が必ず左右ともバランスの取れた目の状態にしてくれることを奏汰も信じることが出来ていた。右目部分のガーゼが取れた時、奏汰も小百合もその部分がどうなっているか、娘には決して見せようとしなかった。右目は誰が見ても明らかに左目の位置より下に下がっており、醜く歪んでいたからである。
その後、市立病院の救命救急室へ運ばれた三か月後に七海は退院したのだが……その頃には七海は怖がっていた形成手術のほうも無事成功し、「ねえお母さん、七海、前よりずっと綺麗くなったと思わない?」と自分で言うくらい、心身とも元気に回復していた。もちろんその間、泣いたり落ち込んだり色々なことがあったとはいえ――最終的に自宅で家族三人で過ごすようになると、実際奏汰にも七海は以前より生命力に溢れた、輝くばかりに美しい子供のように見えたものだった。
「ねえ、お父さん。七海、色々大変でとてもつらかったけど、色んなことが過ぎてみるとね、これはこれで良かったとも思うの。なんでって、お父さんが前と同じように家にいてくれるっていうことがね、七海にとっては何より嬉しいことだから!」
「…………………」
奏汰は、一度は<元自宅>と自分で呼んでいた場所に、毎日帰るようになった。娘の退院後、一月が過ぎて、七海が毎日元気に学校へ通うようになってからも、ずっとそうしていた。
小百合のほうでは、もう何も言わなかった。「離婚の話はもうなしってことでいいわよね?」とか、「愛人とはいつ手を切るつもり?」などと話して、嫌な女の役割を演じる必要すらない。
(夫は愛人と別れて、必ずここに帰ってくる。現に帰ってきている。わたしのためっていうことはなくても、娘の七海にとっていい父親であるために、この人は絶対に今度は家庭を守るわ。そういう人だって、わたしもわかってるもの)
もちろん、娘が事故に遭ったからこそ、結局すべてが丸く収まりつつありそうだったとはいえ――娘が事故に遭って良かったのだとは、小百合も絶対に思わない。けれど、ここまでのことがなければ、夫が家庭に戻ってくることはなかったと思うと……娘の七海のためには(また自分のためにも)、最終的に色々なことがこれで良かったのだとは思っていたかもしれない。
彼女自身、娘の事故のことを通して、自分も、また夫の奏汰も以前よりいい人間というのか、いい父親、そしていい母親になったと感じていた。奏汰は、娘がリビングやダイニングにいない時でも小百合に対して以前のように優しく、「俺はもうおまえに興味などない」といった顔や態度を取ることもなくなった。
すべては元の通り――いや、前以上にすべてが良くなった。何より、娘の七海が生きているだけでなく、元気であること……そのことを思えば、今の小百合にとっては、他のどんな事柄も大して影響力を持たず、力を失ってさえいるかのようだった。
そしてこの、(娘のためなら、他のすべてを犠牲にしてもいい)という親心……この気持ちによって小百合は奏汰と強く結びついており、ここに愛人の入り込む余地は一ミリ足りともないと思うと、小百合は奏汰がいずれ愛人と別れるだろうことをはっきり確信できたのである。
* * * * * * *
明日香は、奏汰の娘の七海の意識が戻って以降――彼のそれまでの態度が180度まるきり変わるのを感じていた。これは何も、彼女に対する態度が変わったという意味ではなく、病棟で見かける限りにおいて、突然顔色が変わったのである。
奏汰は七海の事故後も、仕事自体においては、以前と同じく態度は変わらなかった。患者に対しても明るく爽やかに接していたわけだが、それでも患者が目の前にいない限りにおいて、心ここにあらずというのか、何かそうした様子なのは、普段から接している看護師らにはよくわかっていたのである。
「桐生先生、娘さんが事故にあって重態ですって」
「ああ、それでだったのね……この間、峰元さんの意識レベルが悪くなったから、食箋のほうどうしますかって聞いたら、『それじゃ、ごはんのほうをいっぱい食べないとな』なんて、変なこと言うんだもの。それで、「先生、峰元さんですよ?」って聞き返したら、『あー、峰元さんか。食箋止めないとな』ってぼんやりしたまま言ったりして」
「無理ないわよ。なんか外来の看護師さんも言ってたもの。患者さんの前ではニコニコしてるけど、患者さんがいなくなった途端、もう疲れきった欝病患者みたいな顔してるって」
――これはナースの休憩室で、明日香が耳にした看護師同士の会話である。実際、廊下ですれ違っても、奏汰が罪悪感を感じているように目を逸らすため、彼が精神的に相当参っているのだろうとは、明日香にもわかっていることではあった。
けれど、娘の七海の意識が戻ってからは、奏汰は打って変わって別人のようになっていたのだ。一度、ナースステーションの前を通りすぎる時に、奏汰がスキップさえしていることがあったため――彼の姿が病棟からいなくなった途端、看護師たちは笑っていたものだ。
「桐生先生、一体どうしちゃったの?」
「ああいうキャラの人じゃないのにねえ」
「ほら、あれじゃない?娘さんの意識が戻ったとかで、この間、先生が月に一度の夜勤の時……ナースの休憩室に来たことがあるのよ。なんか高級菓子店の菓子折り持って、『自分の様子は近ごろおかしかったと思うけど、娘も良くなってきたから、これからは大丈夫だと思う』なんて言ってたわ」
「えっ!?あれ、桐生先生が持ってきたお菓子だったのお?やだもー、誰か退院した患者のお菓子かと思ってたわ。言ってくんなきゃわかんないじゃない」
「そうよー。知ってたらわたしも桐生先生に、『お菓子ごちそうさまでした』くらいのこと、絶対言ったのに!」
――明日香は、奏汰が部屋に戻らなくなってから、もちろん寂しくなかったわけではない。また、娘の七海の意識が戻り、奏汰が病院でも元の様子に戻ってからは、「マンションのほう、解約したほうがよくないですか?」とも、彼女は聞いていた。
「いや、明日香はもう少しそこで待っててくれ。七海はあとはもう快復していく一方だと思うから……もちろん、退院してからも暫くは見守る必要があるとはいえ、あと、本当にもう少しだから」
この時奏汰は、良心の棘のようものにチクリと刺されるのを感じていた。七海が事故に遭った原因のことを思うと……もはや明日香とあのマンションで会うことは、いわゆる「不適切な関係」というのを続けることではないのかと、奏汰は悩みはじめるようになっていたのである。
「でも先生、子供って敏感ですから……もう以前のように、週に一度だけおうちに戻るとか、そういうことも出来ないってわたしもわかってますし……」
「いや、あのあと、結城先生とも話したんだ。もちろん、娘の事故のことも話した。そしたら、向こうでは『来てくれることは歓迎するが、総合病院での年収と比較して、待遇がいいかどうかはわからんぞ』っていうことだった。時間はかかると思うけど、もう少し待っていてほしい」
奏汰は結城医師に彼が言ったことは当たっていたことや、今の自分の苦しい立場についても実は相談していたのである。
『結局、俺は奏汰の愛人に会ったこともなければ、娘さんに会ったこともないからな。だが、仮に愛人のほうを取りたくても、娘のことを思えばそうも出来ないおまえの気持ちはわかる。うちにも子供がふたりいるからな……それも結局、時が来れば石が転がって流れがどっちへ行くかがわかる時が来るんじゃないか?』
(石が転がって、流れがどちらへ行くかが、か……)
七海が退院した二週間後、奏汰は妻や娘と一緒に、S市の郊外にある自然豊かな山のほうにまで、親子三人でピクニックをしにいった。彼にしても、釣りなどするのは本当に久方ぶりのことだったが、この日、七海は父親が七匹ばかりも山女や虹鱒を釣っていたため、実に喜んでいたものだった。
そして、奏汰は川をじっと見つめるうちに、流れが少し脇へ逸れ、もう一度ひとつの流れに戻る地点を眺め……思ったのである。(これはもう、そういうことなのだろうな)と。小百合も以前までは、こうした場所へ来ると「日に焼ける」だのなんだのうるさかったものだが、七海と一緒に蝶を捕まえてみたりして、そんな様子を眺めているだけでも――自分はもう、明日香の元へは戻れないだろうと、奏汰はそう感じていた。
(もちろんこれは、彼女への気持ちが冷めてしまったとか、そういうことじゃない。むしろ、情熱ということで言うなら、今もそれはとても熱い状態のまま胸の奥にある。ただ、もうこの流れを俺に変えるだけの力はない……そういうことなんだ)
奏汰は、彼が一度は<元自宅>と呼んだ場所へ、週に一度だけのみならず、毎日帰るようになり、今度は逆に明日香の元へは週に一度も行ければよいほうになった。それにもう、彼はその部屋に泊まって翌日に帰るということもなく――このことで、明日香は悩んだ。(自分から別れを切りだしたほうが、先生は楽になれるのだろうか?)と思いもし、また、彼と別れたくない、このまま待っていれば、いずれまた何かが変わってくるはず……と期待する気持ちもあり、この時明日香は奏汰とつきあいはじめるようになってから、初めて彼の本心を掴みかねていたかもしれない。
(きっと、わたしが先生と会っている間、奥さまも今のわたしと同じか、それ以上に苦しかっただろうな。もしかして、これが因果応報ということだろうか……)
実をいうと別れの予感のほうは、奏汰の娘の七海が交通事故に遭った、それも相当重いらしい……と聞いた時からあった。何より、病院の廊下で自分とすれ違う時、奏汰が後ろめたいように目を逸らしてきたあの瞬間から。
明日香は奏汰の帰ってこない部屋で、ひとり鬱々と過ごす時間が増えていたかもしれない。もっとも、その精神状態が仕事に影響することはあまりなかったといえる。むしろ、毎日忙しく働いている時はそうしたことは忘れており――ひとりひとりの患者さんと向き合っていると、その瞬間瞬間は相手が一番どうして欲しいかにだけ意識を集中することが出来た。
けれど、今明日香には自分の愛する人が「本当はどうしたいか」がわからなかった。もちろん、明日香は何がどうあっても奏汰と一緒にいたかった。結婚したいとまでは望まない。ただ、このまま時々でもいいから奏汰と会って繋がっていたかった。
(でも、もう家庭を留守にも出来ないし、娘さんのことを第一に考えるなら、わたしとは別れるしかない……だけど、流石に先生もそんなことはわたしに言いにくだろうな。それに、このことばかりはわたしのほうからだってなんにも言えないもの)
ふたりで会っている間、奏汰も明日香も、(自分たちの関係は何も変わってなどいない)という振りをする。それに、週に一度ほどしか部屋では会わないから、話題も決して尽きるということがない。そしてふたりで美味しいものを食べ、その週病院であったことや患者さんのこと、あるいは職員同士の噂話などについて話し、盛り上がる。
奏汰も、会える時間が減っても、これからも明日香との関係を続けていきたかった。もちろん、娘のことを思うと以前は感じていなかった罪悪感が胸にのしかかってはいた。けれど、明日香とは会うたびに、家庭では得られないまったく別の癒しがあるのだった。奏汰は娘のことを愛していたし、それは明日香との間にあるのにも似たこの世で唯一といっていい強い絆だった。また、彼は娘の七海と明日香、どちらかを選ばなければならないとしたら――娘が事故に遭うまでは考えられもしないことだったが、今は奏汰にはわかっていた。自分は明日香よりも娘のことを選ばなければならないのだと……。
かといって、明日香とも関係を切れないままの日々が続いていたある日のこと――奏汰は院長室のほうへ呼びだしを受けた。そのような形での呼びだしというのは経験したことがなかったため、奏汰としても理由のほうはまるで見当がつかなかったといえる。
それで微かに不安を覚えつつ、午後からあった脳動脈瘤手術終了後(コイル塞栓術の適応外となる動脈瘤であった)、一応術着から白衣に着替え、身仕舞いを整えてから、奏汰は院長室のほうへ向かった。総務課や事務局長室、それに総師長室、副院長室の前を通り過ぎ、その奥にある院長室のドアの前へ立ち、ノックする。
「桐生です。先ほど、手術が終わったら来るようにとのことでしたので……」
「ああ、入りたまえ。桐生君」
実をいうと、先ほど手術室に突然院長が現れて、奏汰もびっくりしていた。しかも、研修医が助手についていたのだが、奏汰は彼のことを叱りつけているところだったため――そのことをまるで見透かしたように院長が入ってきた時には罰が悪かったものだ。
(もしかして、そのことかな。後進の育成ということも考えて、叱る時にももう少し考えなくちゃいかんとか……)
院長室のほうは、早坂院長が机のほうで事務仕事をする場所と、その脇にある応接室とに分かれていた。奏汰は早坂院長に促されるまま、革張りのソファに座り、院長が自分の向かい側に座るのを待った。
「その……先ほどは……」
「ああ、あのボンクラの一兵卒な。ありゃあいつが悪いんじゃないかね。しっかり前準備しておけと言っておいたのに、桐生先生がやり直さねばならんかったのじゃろ?まさか、わしがそんなちみっちゃいことで先生を呼びだしたとでも思ったのかね?」
早坂院長は、すでに術場からは引退したとはいえ、いかにも老獪という言葉の似合う心臓外科医であった。髪のほうは一部を残してすべて白髪、目つき鋭く、全体の印象としてどこか<妖怪>といった印象すら受ける。だが、一度話してみると「背の低い可愛い好々爺」といったイメージもあり、全体として<ただ者ではないジジイ>というのが、奏汰の抱いている早坂院長の人物像であった。
「いえ……まあ、ただ同じ叱りつけるにしても、言い方とか、そうしたことをもう少し考えるべきだったかなとも思いまして」
「いやいや、桐生先生もまだまだですな」
早坂院長は、喉の奥のほうでくっくと独特の笑い方をしながら言った。
「あのくらいならばまだ、全然優しい叱り方ですよ。わしが若かった頃なんぞはもう、今以上に先輩・後輩、オーベン・ネーベンの関係性というのは絶対的なものがありましたからな。今時の……なんでしたかな。ゆとり世代の子らというのは大変かもしれませんな。相手のためを思って叱った場合でも、変にいじけて、桐生先生からパワハラを受けただのなんだの言いかねませんからな」
「いや、緑川君はまあ、そこまでひどくはないですよ。それに、なんにしても手術は成功しましたし……次からしっかりやってくれれば、それでいいんです」
ここで医療秘書がお茶を運んできた。そして、彼女が茶を置いて去っていくと、早坂院長はテーブルの上の栗入り最中を奏汰に勧めた。
「まあ、そろそろ本題に入りますとな。桐生先生、東京の本院のほうで副院長の椅子に就くつもりはありませんかな?」
「えっ。ええっ!?」
奏汰は驚くあまり、最中の外装フィルムを剥がす手を止めた。
「そう驚かれることもないでしょう。桐生先生も当病院に勤めはじめて十数年……まあ、いずれ御自身で開業する予定なので昇進は控えたいというのでない限り、就いて悪いポストではないと思いますがな」
「いえ、もし仮にいずれそんな日が来るのだとしても、もっとずっとあとのことだと思ってましたし、もし副院長というポストをいただけるのだとしても、東京の本院ではなく……どこかもっと地方の田舎の病院ではないかと想像してました」
奏汰はそう言ってから、某老舗菓子店の栗入り最中をぱくりと食べた。それから、茶をずずっと飲んで喉を潤す。(たぶん、玉露だな)と思う。
「まあ、副院長などというと、楽な業務を想像する者もおるようですがな、給料は上がっても、それ以上に何かと大変ですよ。そういえば、桐生先生はお父さまが有名私立大病院の院長先生でしたな。となれば、大体想像がつくでしょう?」
「ええ、まあ。父は今は手術室には入っておりませんが、でも後藤副院長の今の仕事ぶりを見ていてもわかります。脳外科のトップとして手術もこなせば外来にも入り、あとは事務的な書類仕事含め、そうしたすべてに責任がある……あと、これは父がそうなのでわかるのですが、ほとんど休日などないようなものですね。病院内外のつきあいとか、チャリティーイベントへの参加や講演会だのなんだの。私如き若輩者にそんな大役が務まるかどうか甚だ不安と言いますか」
(それにしても、何故東京なのだろう?)
奏汰はそう疑問に思いつつ、いつだったか父から小百合の姉とよもや体の関係など持っておるまいな……といった旨の電話が来ていたのを思いだしていた。何分、彼の父は某有名医大の教授職に長くあったこともあり、医学界においてはおそろしく顔が広い。奏汰はもしやそのあたりの後押しがあってのことなのだろうかと、この時あやしんでいた。何故といって、もしこれまでの自分の真面目な働きぶり等が認められてということならともかく、有力筋への父の推薦云々などということが影にあったのだとすれば、奏汰はこの話は断るべきだと即座に判断していたからである。
「まあ、一度副院長の椅子に座りさえすれば、あとはのことはなんとでもなりますよ。桐生先生のお父さんと、本院の景山院長は同期のゴルフ仲間らしく……あ、誤解しないでくださいよ。これは桐生先生のお父さんと景山院長がゴルフのラウンドをまわりながらそんな話をしたといったようなことではないんですからな。ただの政治的な問題とでも言ったらいいか」
「そんなことだろうと思いましたよ」
奏汰は溜息を着いて言った。これはあくまで仮の想像ではあるが、父は間違いなくゴルフのラウンドでも回りながら、こんな話をしたに違いない。『実はうちの息子が、そちらで脳外科医としてお世話になってまして。もし何かあった時にはよろしくお願いしますわ』……景山院長は旧友の頼みというので純粋に奏汰を取り立ててやろうというよりも、おそらくはそうすることで父に貸しを作りたいのだ。そして何かの際にはそのことを匂わせて貸しを返してもらいたい――あるいはその逆だろうか?すでに父のほうで景山院長に貸しがあり、『うちの息子をひとつよろしく』と言うことで、貸しを返してもらおうとしたのだろうか?
「もし、そういうことなら、私としてはお断りする以外にありません。べつに、地位的なことで言うなら、今の役職に私は十分満足しているつもりです。一般のヒラの医局員であれば、医局に他の科の先生たちと机を並べてそこを仕事場にしなくちゃなりませんが、部長室という個室もありますし、正直、今の私としては副院長という役職に上がるよりも、外科部長になれた時のほうが、喜びは大きかったと思います」
「何故ですか?桐生先生のお父さんと本院の景山院長が同期なのは確かですが、それはたまたまという話であって――もしかしたら、言い方を変えたほうが良かったかもしれませんな。景山院長が本院の院長になったのが、二年くらい前の話なのですよ。それで、今まで本院の副院長先生だった方が、肺腺がんで亡くなったのです。そこで、どこかから副院長のポストに相応しい人物を引っ張ってこなくてはならないとなったら……景山院長は、わたしと同じく心臓外科が専門ですからな、よく知る同じ心外の後輩などをその役職に据えるわけにもいかない。院長と副院長というのは、それぞれが違う科を率いていることで影響力のバランスが取れるものですからな。まあ、景山院長としては人選に心当たりはあるにしても、「これ」といったほどに強く推したい人物はいなかった。横並びの実力の医師の中で、残り何が決め手になるかといえば――縁故、ということがこの場合は決め手になったというだけの話です」
「そうですか。あの父の息子ということであれば、コントロールしやすいとか、そういった事情もあるということなんでしょうね」
ここで早坂院長は、テーブルの上のレーズンバターサンドに手をかけて笑った。もうひとつくらいいかがですかな、というように、奏汰にも菓子を勧める。
「桐生先生のほうで、そう卑屈になられる必要はありませんよ。むしろこれを大きなチャンスと捉えられてはいかがですかな?景山院長からそのようにお電話いただいた時、一応桐生先生のことはわしのほうでもベタ褒めしておきました。本院の脳外科医たちにも引けを取らない腕前だし、人格的にも何も問題はない、とね。で、この話をした十日後くらいに、今回の昇進話が来たというわけですよ」
「…………………」
このあと結局奏汰は、「少し、考えさせてください」と答えてから、院長室のほうを辞去していた。もちろん、悪い話ではない。だが、まずは父に電話し、どの程度の影響力を父の総一郎が行使したのかを知りたかった。もちろん、妻の小百合はこのことを手放しで喜ぶだろう。給料は今まで以上に上がるだけでなく、地方病院の副院長ではなく本院の副院長と来た日には……だが、部長室に戻って何よりも真っ先に奏汰が考えたのは、明日香のことだった。
もし、娘の七海の交通事故のことがなかったら、奏汰はこの本院の副院長昇進の話を魅力的とも思わず、結城医師が副院長を務める民間の救命センターのほうへ彼女と一緒に向かっていただろう。だが、七海の事故があって以来、あまりにも彼の中で色々なことが変わってしまった。そして、結城医師が言っていたとおり、「そのうち石がどちらかに転がって流れが変わるんじゃねえのか?」という、その瞬間が奏汰の上にも訪れたというわけである。
こうして、奏汰は自分で「生涯一度の本当の恋人」と思っていた女性と、別れるべきか否かの岐路に立たされる……ということになったのである。
>>続く。