こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

不倫小説。-【15】-

2019年03月07日 | 不倫小説。
【善きサマリア人】フィンセント・ファン・ゴッホ


 ええと、今回は何やら言い訳事項が色々ww(@_@;)。。。

 でも、あえて言い訳事項についてはそんなに書いたりせず、↓のようなことを書くきっかけになったことでも、と思います(^^;)

 あれはもう相当前のことになりますけども……某駅の階段下あたりに人が倒れてまして、すでに駅員さんなども駆けつけており、「誰か、医療関係者の方などいらっしゃいませんかーっ!」って呼びかけていたことがあったんですよね。

 んで、わたしの目の前をたぶん三十代くらいの背の高い男性と、その後ろを少し太めの中年の女性が歩いていて――女の人のほうが「先生、どうしますか?」って聞いて、先を歩いていた男の人のほうでは「触らぬ神に祟りなし」と言って、そのままスタスタ歩いていってしまったというか。。。

 もちろん、はっきりしたことはわかりませんけども、お医者さんと看護師さんだったのかなって思います。特に女の方のほうが「看護師さんっぽい」みたいな感じがしたんですよね(^^;)

 わたしも記憶曖昧なものの……確か夜の七時とかそのくらいじゃなかったかなって思います。なので、仕事帰りとかだったら、「その気持ちもわかるな」っていう気がするんですよね。

 ところで、<善きサマリア人の法>というのがあって、ウィキぺディアさんにはこうありますm(_ _)m


 >>善きサマリア人の法(よきサマリアびとのほう、英:Good Samaritan laws、良きサマリア人法、よきサマリア人法とも)は、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法である。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(バイスタンダー)による傷病者の救護を促進しよう、との意図がある。

 アメリカやカナダなどで施行されており、近年、日本でも立法化すべきか否かという議論がなされている。


 つまり、善意から人助けしようとしたにも関わらず、その過程で結局その方が亡くなるといったことがあった場合、あるいは病状や怪我等が悪化したといったことがあったとしても、状況から見て助けようとした人が最善を尽くそうと努力していたなら……そのような人をあとから罰したりしてはいけない、ということですよね。

 この法がないと最悪、善意で助けようとした方があとから訴えられる可能性というのがなきにしもあらずであり、特にその方が一般の人でなくお医者さんや看護師さんだった場合、医療従事者なのに何故こんなミスをした――といったように訴えられる事態もないわけではない……ということなのだと思います。

 その、確か赤十字だったですかね誰か人が倒れていて、サッと人がやって来て颯爽と救助をはじめる、みたいなCMがあったと思います。いえ、啓蒙活動的なこととしては正しいと思うのですが(特に若い人に向けてのアピールとして)、正直、自分としては直感的にあのCM、あんまり好きじゃないんですよ(^^;)

 なんていうか、人助けってあんなに格好いいものじゃない気がするというか、もちろん、自分の目の前で誰かが苦しみだしたり、あるいは倒れていたりしたら、助けようとするとは思います(というか、気持ちとしては誰でもそうですよね^^;)。でも本当、実際はドッキドキ☆だと思うんですよね。誰か他にお医者さんとか看護師さんでもいないだろうかと思って呼びかけるでしょうし、1分間に100回のペースで胸骨圧迫(心臓マッサージ)とか言われても、「え?これで正しいかどうかわからん」っていう感じの気がするし……。。。

 そのですね、もしかしたら間違ったこと書いてるかもしれませんが、昔、某アルバイトの研修で、突然倒れた人の中には、大体目見当で「心臓ってこのあたりなはず☆」っていうところを圧迫するだけで再び動きだす人もいるから、最悪なのはとにかく「恐れて何もしない」ということだと教えてもらったことがありました。

 でもやっぱり、「自分が何かしたことで、より事態が悪くなったらどうしよう」っていう不安のほうが絶対的に大きいと思うんですよね。AEDもほんと、AED自身がめっちゃ丁寧にしゃべってくれるので、そのガイド通りにやればいいとわかってはいるものの……いやいや、そんな医療ドラマみたいに「VF!」、「サイナス、戻りました!」みたいになるかいなwwという(^^;)

 ではでは、次回の前文はこの続きとなることを少し書いてみたいと思ってますm(_ _)m

 それではまた~!!



       不倫小説。-【15】-

 その後、さらに三か月が過ぎて、季節は六月の下旬、夏の入口に差し掛かった頃のことだった。奏汰はその前日、車を車検に出したのだが、翌日の夕方には戻してもらえるということで、代車を手配してもらわなかったのだ。

「俺、明日、明日香と一緒に出勤するよ」

 夕ごはんを食べていた時、とりとめのない病院の噂話が一段落すると、奏汰がそんなふうにポツリと言った。

「えっ!?駄目ですよ。たった今、言ったばかりじゃないですか。ほら、うちには病院のすぐ横に保育園があって、ママさん看護師同士の繋がりがあるんですよ。だから、子供を迎えにいった時なんかに少し話して、ちょっとした情報交換じゃないですけど、内科の病棟の看護師さんとうちの脳外の看護師さんが話したりして、お互いの人間関係がどうなってるかとか、そういうところからも話が洩れたり、色々あるんですからっ」

 実をいうと、『恐るべし、ブラックストーン白石』という噂話も、そのあたりから院内の看護師さんに知れ渡っていったのだ……という話を、明日香は今したばかりだった。

「いや、そりゃそうだけど、たったの一日だけだよ。ほら、地下鉄に向かう途中、偶然会ったということにすれば……俺、明日一日だけアシないからさ。明後日からはまた<他人のふたり>っていう振りをして別々に出勤したらいいさ」

「じゃあわたし、駅でたところのコンビニに寄りますから、先生は先に行ってくださいね」

「うん、そこはまあ、しょうがないな」

 ふたりが勤める病院までには、地下鉄駅を八つほども乗っていかなくてはならない。前まで明日香は、路線は別だが、ほんのふたつほど地下鉄に乗り、地上へ出て三分も歩けばそこが病院だった。ところが今は、人でぎゅうぎゅうの電車を八つも乗り過ごしていかなくてはならない。そして、地上に出ればすぐそこが病院であるため、ふたりで出勤することは出来ない以上、明日香はその前にコンビニで買い物をすると言ったのだ。

 この翌日、ふたりは七時半に家を出ると、同じ地下鉄に乗って出勤した。もちろん、朝のラッシュ時とはいえ――あるいはラッシュ時だからこそ、同じように病院へ出勤する職員の誰かと会う可能性がないではない。けれどその場合は、たまたま一緒に乗り合わせたということで、十分通用するだろう……それ以前にこんなこと、誰も気にも留めないだろう、と奏汰も明日香も思っていた。

 この日は金曜日で、奏汰は午後から長く時間のかかるオペが入っており、午前中に病棟回診を済ませたあとは、最低でも五時間はかかるだろう手術のほうに入らなくてはならない。ゆえに、そうした自分のスケジュールのことに思考が囚われていたせいもあったのだろう。

 たくさんの人々が車輌から出ていき、その人波の流れの途中に、まるで動脈瘤の瘤のように人だかりが出来ているのを見ても、まるで意に介さなかった。ただ、自分が毎日車で悠々と出勤しているのに比べ、明日香のほうではこんなに大変なのだなと思いながら――出口へ向かう階段のほうに歩いていったという、それだけだった。

 けれどこの時、「階段から落ちたんだ!」、「急に苦しみだして……」といった声が聞こえたかと思うと、駅員がバタバタと瘤のように人波を塞ぐ場所へと駆けつけたのだった。

「誰か、医療関係者の方などいませんか!?」

 その、若い男の駅員の声は、奏汰の耳にももちろん届いていた。けれど、彼は人だかりが出来ているのを見た時から、なんとなくそのような予感を覚えていながらも――いや、だからこそ、無意識のうちにもその可能性を無視しようとしたのかもしれない。

 だが、エスカレーターのステップに上がろうとする奏汰のコートの袖を、誰かが掴んだ。少し後ろのほうを歩いていたはずの、明日香だった。

「先生……だめです。どうか、お願いします」

(いや、そんなこと言ったって、俺だって病院での予定が……)というのが、一番最初に奏汰の脳裏に思い浮かんだことだった。けれど、明日香があんまり真摯に、どこか追いつめられたようにさえ見える眼差しで、自分を見ているのを見た瞬間――奏汰は彼女に手を引かれるがまま、問題の動脈瘤の中心にいた。

 患者はすでに意識がなく、奏汰は呼吸の有無を確認すると、すぐに胸骨圧迫(心臓マッサージ)を開始した。駅員に「あの……」と話しかけられ、「すぐそこの、総合病院の医師です!」と名乗りつつ、心臓マッサージをする手だけは休めない。

 明日香がAEDを持ってくると、「どきなさい!」という声とともに、こちらも出勤途中だった遠藤美里が人波をかき分けてやって来るところだった。明日香の手からAEDを引ったくるようにして奪いとり、除細動をかけるための準備を開始する。

「桐生先生、お願いします!」

 電極パッドの青いパックシートを剥がして右胸と左脇腹に貼ると、電気ショックが必要かどうか、心電図の解析をAEDが自動的に診断しはじめる。心室細動は不整脈の一種であり、通常、心臓のすべての筋肉は規則正しく同期して拍動している。それがバラバラに動き、心臓から血液を送りだすことが出来なくなった状態、それが心室細動である(正常な心臓の状態、あるいは完全な心停止状態にある場合、そのこともAEDが教えてくれるので心配ない)。

 そしてこの時、AEDが充電され、「電気ショックが必要です!」とコンピューターヴォイスが流れたことで、この六十台くらいの中年男性に電気ショックが必要であることがはっきりした。遠藤が「離れてください!」と大きく叫び、人垣の輪が下がるのを確かめてから、奏汰は電気ショックのボタンを押した。

 その後、再び胸骨圧迫を開始し、遠藤は人口呼吸に当たった。通行人のひとりが携帯から119に連絡してくれていたから、次期、救急隊が到着するはずである。日本の場合、連絡を受けた救急隊が現場まで駆けつける時間は平均して約8.5分ほどだと言われている。だが、その頃にようやく救命活動を開始したというのでは、救命率が格段に落ちるということになるだろう。

 実際、のちに川田伸之と名前が判明することになるこの男性は、偶然奏汰がその場に居合わせてラッキーだったということがわかることになる。

 古参の救急隊の隊長は、以前救急処置室にて遠藤と顔を合わせたことがあり、その時の強烈な印象から彼女のことをよく覚えていた。また、奏汰とは彼が当直の時に何度か会ったことがあり、彼のこともよく覚えていたのである。

「おや、桐生先生と遠藤さんじゃないですか。この時間帯にここにいるということは、出勤途中ってことですよね。難儀なことですが、こちらとしては助かりました。では、あとのことは我々のほうで引き継ぎますので……」

 救急隊長の態度に余裕があったのはもちろん、倒れていた男性の心臓が再び動きだし、自発呼吸のほうも回復していたそのせいである。なんにせよ、奏汰と遠藤は救急隊に引継ぎが済むと心底ほっとし、その場をあとにしようと思ったわけだが……。

「大変申し訳ありませんが、先生。一応、お名前とご連絡先のほうなど、教えていただけませんでしょうか?あ、そちらの看護師さんも……お時間のほうは取らせませんので」

 この時、まわりに集まっていた人々からわっと拍手が起きていたが、明日香はその後ろのほうで軽く奏汰に向け頭を下げると、そのまま階段のほうへ向かっていくところだった。

「先生、一体いつからあの子とつきあってるんですか?」

 地下鉄の駅事務室を出た時、時刻のほうはすでに八時五十分を差していた。急いで病院へ向かって着替えれば、病棟回診のほうは問題なくこなせるに違いない――奏汰は早足で歩きながらそんなことを考えていた。

「あの子って?」

 お互い、急いで歩きつつも、遠藤は追及の手を緩めない。エスカレーターを上がり、階段をさらに上ると、喫茶店や蕎麦屋や小さな雑貨店などが軒を連ねる小さな通りにでる。ふたりは横断歩道を渡っていくと、この日は職員専用ではなく、病院の正面口から中に入っていった。

 すぐ脇にある<救急搬送口>の文字が赤く光るゲートでは、救急車が赤色灯を点灯させて停車している。先ほどふたりが助けたばかりの男性がこちらへ搬送されてきたという、そのためだ。

「きーちゃんですよ。先生たちも随分大胆ですよね。それにあの子だって、院内のおしゃべりスズメどもがどれほどかまびすしいか、知らないわけじゃないでしょうに……」

「一体なんのことかわからないな、遠藤さん。あ、でも今日の午後のオペはよろしく。おそらく長丁場になるだろうから」

 奏汰はすっとぼけた顔をしていたが、エレベーターが上昇していく間、遠藤美里は溜息を着き、最後にこう言っていた。

「見つかった相手がわたしで良かったって感謝してくださいね。こう見えてわたし、結構口は堅いほうなんで!あと、今朝の先生、ちょっとヒーローチックで格好よかったですよ」

 そう言って、エレベーターが三階に到着すると同時、遠藤はスッと奏汰のそばを離れ、手術室のあるエリアのほうへ入っていった。奏汰は(やれやれ)と思いつつ、部長室のほうへ向かい、急いで白衣に着替えると、かなりの早歩きで七階の脳外科病棟へと向かった。

 たまたま病棟の廊下で偶然、車椅子の患者を検査室へ連れていく明日香とすれ違う。明日香がどこか申し訳なさそうな顔をしているように見えたため、奏汰はあとでその誤解を解くのが楽しみだと感じながら――駅でトラブルがあって遅れた旨を説明すると、701号室から順に回診していき、病棟回診が終わったあとは、術前カンファレンスに参加してから昼食をとり、手術室へ入った。

 グレードⅣのグリオーマで、今回仮に手術で腫瘍を完全に取りきれたとしても、再発の可能性が高かったが、奏汰はこの悪魔のような腫瘍と五時間かけて戦い抜き、患者には良い報告の出来る結果を残せたものの――その再発率の高さのことを思うと、手術のほうは成功でも、あまり明るい心持ちにはなれなかったものである。

「先生、お疲れのところ申し訳ないんですけど……このあと、ちょっとつきあっていただけませんか?」

 手術が終わったあと、遠藤は奏汰にズバリそう聞いていた。はっきりしたキツイ性格をした女性であるせいか、こんなことを直球で言っても、誰も変なようには勘繰らない。

「構わないけど……じゃあ、俺の部長室の場所なんてわかる?ジュース一本くらいなら驕るよ」

「ありがとうございます。それじゃ、こちらの仕事が終わり次第伺いますんで」

 奏汰は他のスタッフたちに「おつかれさまでした、先生」と声をかけられつつ、第三手術室をあとにし、手術記録のほうを済ませてから部長室のほうへ戻った。

 その前に、医局のほうで缶コーヒーを二本買い、机の上に今月号の<脳外科ジャーナル>や給料明細、病院宛てに届いた自分の郵便物が乗っているのを見る。大体のところ、給料としてどの程度の金額が振り込まれているかは想像がついたが、一応封を切って中を見てみた。そこに並んだ七桁の数字を見、奏汰は溜息を着く。

(こんなに身を粉にして働いているのに、こんな程度か)などと思っていたわけではない。実をいうと奏汰は、妻の小百合と別居して以降、そちらにはお金を渡していないのだ。もちろん彼は桐生家の貯蓄額を知っていたから、何も問題ないはずだとわかってはいる。

(だがまあ、離婚に応じてくれたら金を送金してやろうだなんて、俺もちょっと意地が悪いか……)

 他の郵便物は製薬会社や医療機器メーカーのパンフレットやダイレクトメールて、こちらには奏汰はほとんど用がない。そして彼が<脳外科ジャーナル>にぱらぱら目を通していると、兄、桐生聡一の寄稿記事を見つけ、思わずじっくり読んでいた時――コンコン、とノックする音がしたのだった。

「はいはい、どうぞ」

 相手のほうはもちろん遠藤美里で、彼女はまだ病院のナース服を着たままだった。約束の通り、テーブルの上にコーヒーがあるのを見、彼女は特に断りもなくそれを飲みはじめる。

「これがビールだったら、もっと良かったんですけどね、先生」

「そうだな。病院の自販にビールがあったら、俺も間違いなく買ってるところだよ」

 お互い、長丁場の手術で疲れていたため、気だるい疲弊しきった雰囲気が、ふたりの中年の男女からは漂ってきている。

「それで、先生もお疲れでしょうから、すぐ本題に入ろうと思うんですけど、先生、奥さんがいらっしゃいましたよね?」

「ああ、いるよ」

 いくら口が堅くても、『確かに俺は清宮明日香と不倫している』などと、そんなことを言うつもりは奏汰には毛頭ない。そんなことだけ聞きたいのなら、適当にお茶を濁して遠藤には帰ってもらおうと思っていた。

「なのに、あんな年下の若い子とつきあってるってことですか?申し訳ないんですけどね、先生。見ていてバレバレでしたよ。わたし、同じ車輌に乗ってたんですけど、先生、あの子の後ろのほうでしっかり守るみたいにガードしてて……で、わたしは何か興味本位でこんな話をしたいわけじゃないんです。わたしも不倫なんかして、結局向こうが奥さんと別れられなかったもんですから、そんなんで終わっちゃったんですよ。そういうつらい思いを、あんないい子にさせたくない。わたしの言いたいこと、わかります?」

「ああ。肝に命じておく……なんて言ったら、関係を認めたことになるか。そうだな。実は俺は今、妻と別居してるんだ。それで、妻が離婚を承知してくれるといいんだが、こっちがもう「絶対に別れないーっ!!」の一点張りでね。そのことは、彼女も知ってるよ」

 遠藤は、ごくごくと缶コーヒーを一気に飲むと、ぷはーっと息をつき、最後にこう言っていた。

「少なくとも、それを聞いて良かったです、先生。わたしにとって先生は、医師として尊敬できる人ですけど、プライヴェートは女癖が悪いなんて知ったら、ちょっとがっかりですからね。まあ、先生もお大変でしょうが、今の話はわたしは一切聞かなかったっていうことにしておきますんで、そういうことでよろしく」

 遠藤がそう言い残してあっさり去っていくのを見て、奏汰の中ではますます彼女に対する好感度が高まっていたかもしれない。そして、(自分は運が良かったのだろう)と、この時思った。あの場に現れたのが他の看護師だったら――おそらく、一番最悪なのが白石早苗――こうはいかなかっただろう。

(確かに、明日香の言うとおり、こういうことは気をつけなきゃダメなんだな……)

 奏汰は手術着を着たまま、書類仕事を少しばかりこなし、そのあと手術後の患者の様子をICUまで見にいった。心配されていた半身麻痺や半盲といった症状はなく、見当識のほうもしっかりしており、そのことだけは安心したが、奏汰の心持ちはやはり暗かった。患者の中年女性、それに夫とふたりの子供(小学五年生の男の子と小学三年生の女の子)とも、手術の成功を手放しに喜び、涙さえ流していたが――おそらく再発し、来年中には彼らの家庭には母親がいなくなるのだと思うと……奏汰としては何か、ぬか喜びだけさせているような罪悪感を、拭い去るということが出来なかったのである。


   *   *   *   *   *   *   *

 奏汰はいつも、マンションのオートロックは自分で開けない。

 1001と番号を押し、明日香が出るのを待つ。そして彼女が出ると、「帰ったよ、奥さん」とか、「今日はケーキ買ってきたよ。明日香の好きなやつ」と言ったりして、そのあと鍵を開けてもらうのだった。

「先生、ごめんなさい。わたし、今日……」

 ドアを開け、奏汰がどたどた廊下を歩いてくると、明日香は立ち上がって将来の夫となる人を迎えた。そして、この明日香の言葉と彼女の申し訳なさそうな眼差しとで、奏汰にはすぐわかってしまう。彼女が今日一日、仕事をしながら早くこのことを自分に言いたくて仕方なかっただろうことを……。

「何がだい?今朝のあのおじさん、あのあとすぐうちの救急に運ばれてきて、今は救急病棟のほうにいるよ。どうやらもともと、心臓に持病のほうがあったらしい。初期対応が良かったから、後遺症もほとんどなく経過も良好だってさ。明日香、思わないか?べつに俺、代車を手配してもらったって良かったんだ。でも、一日くらい明日香と一度地下鉄出勤してみるのもいいかな、なんて思ってね。そしたらあのあと、遠藤さんに叱られちゃったよ。俺は明日香が痴漢に合わないようにと思って後ろにいただけなのに……「バレバレですよ、先生」だってさ」

 ここで明日香の顔色がサッと変わるのを見て、奏汰は彼女のことを自分のほうに強く抱き寄せた。

「わかってるよ、明日香の言いたいことは。俺だって、あの人以外の人が相手だったら、信用なんか絶対できない。でも、遠藤さんは自分も不倫して痛い目にあったことがあるから、明日香のことが心配だったんだって。それより俺、今日地下鉄にして良かったよ。もしかしたらこのために神さまが俺に代車を借りさせなかったのかもしれないって思ったくらい」

「先生……わたし、心配だったんです。わたしがああ言ったことで、一日のスケジュールとか色々、狂ってしまう可能性だってあったし……」

 奏汰は明日香のことがますます可愛くなって、ぎゅっと抱きしめた。

「そんなことないって。明日香はやっぱり俺の天使だよ。昔、研修医だった頃、救急でしごかれた時のことを思いだした。まあ、病棟回診のほうは遅れちゃったけど、午後からあった手術のほうは成功したよ。ただ、再発する可能性が高いからね……そういう意味では、成功したといっても予断を許さないってところだけど」

「本当に!?ああ、よかった。わたし、自分は何もできないのに、朝のあんな時間に先生の手を煩わせてしまったりして……でも、あのおじさんも助かって、本当によかった……」

「ああ。俺もね、朝から少しばかりいいことした気になったもんだから、むしろ今日一日、なんか色々調子よかったよ。それも明日香のお陰だ」

「先生……」

 このあとふたりは、明日香の作ったシチューを食べ、食後には奏汰の買ってきた豆大福を食べた。そのあと、お風呂に入って就寝し――その日は手術があったので、例によって奏汰は明日香のことを求めた。けれどこの夜、激しく抱きあったあと……奏汰はいつもとは違い、夜半にひとり起きてくると、リビングで煙草を一本吸っていた。

 実は今日、奏汰は明日香に嘘をついた。今まで、奏汰は小百合との離婚の話しあいの内容についてなど、大体のところ正直にすべて話してきた。けれど、奏汰はあの人だかりの真ん中で倒れている中年の男性を助けるつもりは、実はまるでなかったのだ。

(先を急いでたっていうのもあるし、何より、触らぬ神に祟りなしというかな……下手に関わって、あとで訴訟云々ということになったりしたら面倒だし)

 そしてこの時、奏汰はかなり昔――娘の七海が生まれる前のことだから、十年以上も昔になる――小百合とハワイへ行った帰りの飛行機で、ドクター・コールがあったのを思いだしていた。だが、奏汰はすぐに名乗りでようとはしなかった。きっと、他に誰かもうひとりくらい医者がいるだろうと思ったのだ。

 この時、奏汰の隣に座っていた小百合は、「無理に行く必要ないわよ。それに、何かあって医療訴訟になったりしたら面倒じゃない」と言っていた。そして、奏汰は「そうだな」と思い、アイマスクをし直してそのまま眠った。医者のほうはすぐに見つかったらしく、その旨を伝えるアナウンスも流れており、小百合は奏汰の手を握ると「ほらね」と言っていたものだ。

(……俺たちはたぶん、似た者夫婦だっていうことなんだろうな、結局。俺は、小百合の欠点を強いてあげるなら、本当の意味での思いやりのないことだと明日香に言ったが、思いやりのないのは俺だって同じだ。あれほど妻を悲しませ、娘だって父親がいない寂しさを感じているのに、俺の頭にあるのは自分のことだけだ。確かに俺には、昔からある種のそうした利己的な冷たさがあった。人は鏡は愛せないだなんて、そんなドラマのセリフじみたことを言うつもりはないが……俺が明日香に惹かれるのは、何よりそうした理由からだ。あの娘は俺にないものを持ってる。だからこんなにも明日香のことを手放しがたいと感じるんだ)

 奏汰は煙草を灰皿に押しつけると、もう一度寝室へ戻り、ぐっすり眠っている明日香の隣で眠った。彼女のほうではちょっとやそっとでは目を覚ましそうにない様子だった。

「明日香、愛してる……」

 奏汰は明日香を起こさないように、彼女の耳許にそう囁き、それから明日香の額にもキスをして、彼女の隣で幸福な気持ちに満たされて眠った。そしてこの日、奏汰は何故か研修医時代、救命センターで働いていた頃の夢を見た。

 もっとも、奏汰が見た夢は極短いもので、救急の医師たちが休む休憩室で、例の指導医であるY医師のことを、彼が非番の時にあれこれ話すといった内容のもので――大体のところ、みんなY医師への反発心が薄れて、彼がよく飛ばす冗談に笑えるくらいの余裕が出てくる頃になると……今度はY医師に対し、まったく別の感慨を持つようになってくるのである。

『あの人さ、あのブルックナーから自分の消化器外科に欲しいみたいに言われてた人らしぜ』

 と、チリ半島。いかにもむさくるしい雰囲気の、男くさい部屋で、医療兵士たちは疲れきった薄汚い様子をしている。

『へえ。あのブルックナーがねえ。ブルックナーの手術前ってさ、手術室近くにあるトイレに行列ができるって噂じゃん。研修医なんかにビシバシ厳しい質問をしてくるもんで、なんかそのピリピリした緊張感に耐えられなくて、下痢になるって話』

 こう言ったのは藤原だった。かく言う彼も、ブルックナーこと、朝比奈教授の手術室では、いつ自分に詰問調の質問が飛んでくるかと、常にビクビクしていたものだ(そしてそれは奏汰にしても同じだったのである)。

 ちなみに、ブルックナーというあだ名は、朝比奈教授が手術中はいつもブルックナーの交響曲のいずれかをかけているそのせいだった。

『救急ってさ、言ってみれば医者の出世コースからは外れてるとかってよく言うじゃん。なんであの人、あの腕があってこんなとこに埋もれてんのかなあ』

『さあ。性格が悪いからじゃね?っていうのもあるだろうけど……ま、キョーミないんだろうな。そういう医者として出世してどうこうとか、そうしたことに』

『でもまあ、あの人も損な人だよなあ。あの腕があって、もうちょっとうまくやりさえすればメキメキ出世できそうなのに、変なところで純っていうか、見た目全然そう見えないけど、あの人のあれはようするにコドモなんだよな。メス使って手術で患者を治すのが好きっていうコドモ』

『そうなんだよなあ。最初はわかんないんだけどさ、あの人見てるとちょっと思っちゃうよな。世の中結局、「正しい者が割を食い、公平な者が損をする」みたいに』

 ――夢のほうはこれで終わりだった。確か、奏汰自身は夜勤で疲れきっており、みんながそんな話をするのを二段ベッドの上に寝転がりながら聞いていたのだった。

 この時、奏汰が思っていたのは、次のようなことだった。大学病院の院長とY医師の父親とが同大学の同期ということで、一度、「お父さんによろしく言っておいてくれ」と、肩を叩いているのを見たことがある。院長と父親が同期、そして、血も涙もない鬼と言われるブルックナーのお気に入り……出世しようという欲があって、それなりにうまく立ち回れば、確かにY医師は間違いなく出世できただろう。だが、本人が本当にそうしたことにまるで興味がないのだった。藤原が言っていたことはまさに当を得ている。あの人はメスというおもちゃを握って患者の手術をするのが好きな、そうした損得勘定のできない子供みたいな人なのだ。

 ――目が覚めた時、すでに明日香の姿は隣になかった。けれど奏汰はこの時、自分は何故あんな夢を見たのだろうと思い、頭をくしゃくしゃにしながら暫しの間考えた。何か、とても大切なことを自分は忘れていたのではないかと、そんな気がして。

(なんだろうな、この感覚。なんとかいう映画に出てたなんとかいう女優がっていう時、そのナントカが喉まで出掛かってるのに名前が思いだせないみたいな……)

「おはよう、明日香」

「おはようございます、先生」

 毎日のことながら、奏汰はここでまた笑った。恋人同士の会話というよりも、家政婦と教師のような会話のように思える。

 奏汰はキッチンで朝食の仕度をしている明日香にキスすると、玄関ドアのポストに挟まっている新聞を取り、対面キッチンの向こうで卵焼きを作る明日香のことを見ながら新聞を読んだ。

 朝食のメニューはフレンチトーストに卵焼き、ウィンナー、それにサラダだった。あとはコーヒーと、食後にはアボガドとヨーグルトを食べる。

「ほんと、明日香のフレンチトースト、すごく美味しいよな。明日香のマンションで会ってた時からずっと思ってたけど、これをもしこれから俺以外の男が食べるとしたら、嫉妬で気が狂いそうだなってよく思ってた」

「べつに、ただのフレンチトーストですってば。それにこれ、週に一回か二回でいいからって先生がおっしゃるから作るんですけど、前にも言ったとおり、毎日食べるのは絶対体によくないですからねっ」

 ふたりとも、ダイニングテーブルのほうに移ってくると、お互い、その日のスケジュールを確認しあう。

「わたし、先生がご自宅に戻られたら、ちょっと病院の人たちと飲みに行ってこようと思って。まあ、先生のいない夜は寂しいですからね、お酒で誤魔化して帰ってきますよ」

「そっか。そういえば俺たちって結構寂しいカップルだよな。愛はあるのに、休日にどっかでかけたりも出来ないっていう意味でさ。普通に何かのコンサートに行ったりも出来ないし、美味しい店って言っても、プライヴェートがちゃんと守られるとか、そういうところにしか行けないし。ほんと俺、明日香と晴れて夫婦になれたら、ふたりでやりたいことが山ほどあるよ。夏は山登りしたり、冬はスキーに行ったり、あとはスポーツクラブで一緒に泳いだりとか……」

「…………………」

 ここで一度明日香が黙りこんで俯いたため、奏汰は箸でサラダのアスパラときゅうりを摘みつつ、彼女のほうをじっと見た。

「どうした?」

「あのう……先生わたし、実はスキーってやったことありませんし、その上わたし、カナヅチっていうか……」

 明日香の声は大体、カナヅチ以降はほとんど聞き取れないくらいだった。これまでも奏汰は何度となく、似たようなセリフをずっと口にしてきた。けれど、そのたびに明日香はこのことを告白しようとして、ずっと出来ないままでいたらしい。

「べつに、そんなのどうでもいいだろ?スキーは俺が教えるし、水泳なんて、浮き輪でもしてたらいいんだし」

「でも、なんか……先生、きっとがっかりしそう。本当はひとりで颯爽と滑って楽しみたいのに、その後ろでわたしが雪だるまみたいにゴロゴロしてたり、ビーチ板使ってるのに半分溺れかけてるのを助けなきゃいけなかったり……」

(いや、それはそれで面白いんじゃないか?)

 そう奏汰は思うが、本人は深刻そうなので、とりあえず笑いはしない。

「そんなのもきっと新鮮で色々楽しいよ。そういえば明日香って、運動神経鈍いんだっけ?」

「ななな、何故それをっ……!!っていうのは嘘ですけど、いえね、先生。わたし、運動神経自体は普通だと思うんですよ。かけっこはいつも一番か二番で、逆上がりも割とすぐ出来たし。小・中・高と、体育の成績はずっと3でした。つまりは、大体そんな感じっていうか……」

「じゃあ、テニスは好き?」

「いえ、やったことありません。ウィンブルドンとか、見るのは大好きですけど」

「そっか。じゃあいつかそれもやろう。大丈夫だよ。テニスは俺も人に自慢できるほどの腕前じゃないから。というより、これもまた兄貴の奴がね、サッカー部のエースストライカーってやつで、それに比べたら俺、スポーツは大体全部十人並なんだ。ただ親の方針でさ、小さい頃に色々やらされて、でもそれよりは絶対に必ず勉学を優先させろよ的環境っていうか。で、中学以降はもうガリ勉系寄りになっていったからな。そうじゃなくて、文武両道で活躍してる兄貴のことが羨ましかった。俺、高校も兄貴と一緒だったから、一年の時は「君もサッカーうまいんでしょ?」みたいに言われてちょっと嫌だったかもな。大体、スポーツ全般十人並だったけど、その中て唯一サッカーだけちょっと苦手だったから。俺も、見るのは大好きなんだけどさ」

「そんな……水泳もテニスもスキーも十人並だなんて、十分ですよ、先生。いえ、十分すぎます。わたしなんて、そう考えたらほんと、取り柄なんて何もないなあ。学校の授業でなかったからスキーも出来ないし、貧乏だからゴルフなんてやろうと思ったこと自体ないし……」

 奏汰はここで、遠慮なく笑った。

「ああ、そうだ。俺が唯一兄貴に勝てるスポーツがあったよ。兄貴、運動神経はいいのに、唯一ゴルフは好きじゃないんだってさ。だからいつもラウンドを一緒にまわると必ず俺が勝つ」

「じゃ、いいじゃないですか。どこかで何かひとつお兄さんに優越感を持てるものがあるだけでも。わたし、そういう意味では特に人に勝てるものって何もない気がするなあ」

 明日香が溜息を着きつつ、ブロッコリーを口にするのを見て、奏汰はやはり笑った。(そういう、人に勝ちを譲れる人間のほうが……実は人生の他の点においては勝ってるんじゃないか?)なんて、朝からそんな話をするのも、何やら照れくさい。

 とはいえ、奏汰のこの明日香に対するベタベタしたりする感じや、思ってることをなんでもぺらぺらしゃべれてしまう雰囲気というのは、彼にとって小百合との間にはないものだった。それは、つきあいはじめた頃や新婚の時でさえそうだった気がする。もちろん、結婚前の恋人であった頃に物凄くドキドキしたり、新婚の時にはとても幸福だったという記憶は彼にもある。ただ、小百合は出会った頃から敷居の高い女性だったので、たとえば「彼女の許可した時のみ手を握ってもいい」とか、何かそうした御機嫌を伺いつつ、除々に関係を詰めていったというそんな感じだった。なんというのだろう、そうしたある種の壁が小百合にはあり、何か本音で話そうという場合には、一度その壁を「どっこらしょ」と乗り越えてからようやくしゃべれる……そんなところがあった。そして、奏汰は明日香に対して自分がこんなにも本音でしゃべるのは、彼女が年下だからだろうと思っていたが、(どうやらそればかりでもないらしい)と、この時初めて気づいたかもしれない。

 この日、奏汰は夕方頃<元自宅>のほうへ出かけるということしにし、それまでは明日香と一緒に部屋のインテリアのカタログを見たり、あるいは一緒にインターネットのサイトを見てショッピングを楽しんだりした。論文だの症例研究だのいうことは、元自宅の書斎のほうで集中的にこなすつもりでいたのである。

 自分が愛人の元にいても、離婚さえしないでくれたらそれでいい……もちろん、奏汰ははっきり言葉の上でそう小百合と約束したわけではない。けれど、今暫くはそれでも構わないと遠まわしに彼が口にしてからは、小百合の情緒不安定な様子は垣間見られなくなっていた。

 だが、やはり奏汰としては妻に関して少々――いや、実際には少々以上に心配なことがある。夫婦のカウンセリングは別として、これからも清水心療内科クリニックへ通い、自分に対する愚痴でも聞いてもらったらどうだと言ったところ……「清水ですってえ!?あんな精神科医、絶対ヤブよ、ヤブっ!!もうわたしの前であんな人のこと、絶対持ちださないでちょうだいっ」と物凄い剣幕だったのである。すぐ横にいた七海が「おかあさん、こわーい」と冗談のように言って、笑っていたほどだ。

 この時、奏汰は小百合の脳では一体何がどういうことになっているのだろうな、と少しばかり懸念を覚えていたかもしれない。何が懸念かというと、これはあくまで奏汰が直感的に思うに、ということなのだが、小百合はもしや、人を自分の敵か味方かで分類しているのではあるまいか……ということに、この時初めて気づいたのである。

 そして、自分の味方になってくれる人が「いい人」で、そうじゃない人は「悪い、よくない人」ということなのだろうという気がしたのである。つまり、今のところ奏汰は他に愛人がいようとも、実際に離婚が成立するまでは――どうにかかろうじて「いい人」のカテゴリーに入れられているのだろう。

(だが、俺も離婚が成立したとすれば、その瞬間に「悪い、よくない人」どころか、「極悪人」のカテゴリーに入れられてしまうのだろうな)と、そんな気のすることが、奏汰はなんとなく心配だったかもしれない。何分、これは実の親子でさえもそうであろうが、長年自分の味方と思ってきた人間が裏切った時こそ……人というのはどうなるかわからないものなのだから。

 しかしながら、そこまで踏みこむことさえしなければ、妻の小百合の様子というのは情緒が安定して見えた。と同時に、奏汰が離婚の「リ」ということを匂わせれば途端に機嫌が悪くなり、彼女の気に入らない人物である清水の「シ」という言葉でも口にすれば、「あーっ、もうその言葉は聞きたくないっ!!」といったように、かなりのところヒステリックになるのである。

 七海もまだ、今のところは父親が週に一度しか帰宅しなくても不審には思っていない様子で、奏汰は娘との時間については本当に純粋に大切にしていた。学校での仲のいい友達とのことや、その週にあった色々なことや、学校で今何が流行っているかについてなど……七海は蓄えておいた一週間分の情報を一生懸命しゃべりまくり、途中でママが何かネタばらししてしまうと――「そのことはナナがパパに言うのーっ!!」と癇癪を起こしそうになることさえあるほどだった。

 ただ、奏汰としても別れ際、「パパ、もっとたくさんいっぱい帰ってきてね!!」とか、「いつ前みたいに毎日おうちにいるの?」と聞かれたりする時だけ、胸の奥のほうが強く痛むのだったが。

 そして、清水心療内科クリニックでの、夫婦でのカウンセリングが頓挫して一月が経つ頃には、奏汰はあることに気づいていたかもしれない。つまり、こうして別居して週に一度だけ会うという関係を続けているうちに、奏汰が小百合の心情の変化を期待していたように――小百合は小百合で、とにかく「離婚」ということさえ回避し続けることが出来れば、自分たちは元の鞘に戻ることが出来るのではないか……と考えているらしい、ということに。

 結局のところ、話のほうはフリダシに戻ったのだと、奏汰はある時気づき、実際のところ困りきったものである。かといって周りを見渡してみても、いい相談相手になってくれそうな人物もおらず、奏汰は深い意味もなく、明日香とつきあいはじめるようになってからよく夢に出てくるようになった例のY医師に電話してみることを思いついていた。

 といっても、もう十何年も昔に大学病院付属の救命センターで教えてもらい、あとは結婚式に出席してもらったという以外、奏汰とY医師の間に何かつきあいがあったというわけではない。それに、奏汰のような研修医を何十人となく先生はしごいてきたのであるから、こちらで名前を名乗っても、覚えてさえいないかもしれない。だが、それでも、と奏汰は思った。

 彼の仲間内で飲みにいく時には、Y医師のことは一度ならず会話に上ったものだし、その後の消息についても知っていた。ハーバード大卒の脳外科医師と民間の救急病院を立ち上げたという記事を、かなり以前、新聞で見かけたことがあったのである。

(あとは、これだ……)

 自分でも、よくこんなものを取っておいたものだな、と感心しつつ、奏汰はY医師が呪いの年賀状と呼んでいた葉書を見返す。これは正月明けにY医師が、「俺に年賀状をくれたやつだけ持っていけ!」と言って配っていたもので、奏汰は実は彼に年賀状を出していなかったが、「余ったからやるよ」と言われ、白衣のポケットにねじこまれていたのである。

 ゆえに、表には奏汰の住所氏名といった表記はない。ただ裏面にハサミとメスを持ったチャッキーが印刷してあり、彼は吹き出しの中で「今年も嫌なこと、面倒な手術がいっぱいの、最悪な年でありますように!!」などと言っていた。

「ハハハ。今見ても十分笑えるな……」

 奏汰はY医師に関する例の記事を読み、そこに書き記されていた<鹿光救命救急センター>の電話番号にまずは電話してみることにした。ちなみに、この鹿光というのはろっこう、と読むものらしい。

(知らなかったら普通、しかびかりとしか読めないよな……)

 そんなことを思いつつ、奏汰は電話番号を押し、相手が出るのを待った。電話のほうは事務室のほうへ繋がり、感じのいい明るい女性の声が「ロッコー救命救急センターでえす!」と言っていた。

「あの、結城先生をお願いしたいんですが、もしお忙しいようでしたら、またのちほどかけ直しますんで……」

『結城先生今、ちょうど中休みなんですよー。どういった御用件だったでしょうか?』

「俺、結城先生の昔の教え子で……ちょっと先生に御相談したいことがあって電話しただけなんです。それも、大した用でもないので、お暇な時に話せればいいといった程度の用件ではあるんですが」

『そうですか。たぶん、それでしたら先生のご自宅の電話番号をお教えしても大丈夫かなとは思うんですけど、ほら、今はこういう何かと難しい時代なもので、もしよろしければお名前とお電話番号のほう、教えていただけないでしょうか?』

(まあ、そりゃそうだよな……)

 奏汰は自分の名前と電話番号を田中と名乗った女性に教え、その後、特になんの期待もせずにいたところ――意外にもすぐ携帯が鳴ったのである。

 この時、奏汰は明日香が買い物に出ていていなかったので電話したのだが、彼女がいる前では話せないことであったため、すぐに折り返してもらえて、実にほっとしたものである。

『おい、ボンクラの一兵卒、一体どうした?まさかとは思うが、今医者として自分の仕事がうまくいってないのは、十数年前、救命センターで教えていた指導医が悪かったせいだ……なんていう苦情を今更言いたいってわけじゃあるまい?』

 ストレートに、『おまえ一体誰?』と言われるかと思ったが、結城医師はどうやらかろうじて自分のことを覚えていてくれたらしい……奏汰はそのように判断していた。

「いえ、ほんとに俺が誰かわかってますか、先生。俺は先生が覚えてもいなかろうと思って今、電話したんですが」

『覚えてるさ。桐生奏汰。医療一族とか言われる桐生家の次男坊だろ?兄貴の出来があんまりよくて、僕なんて……うじうじって感じの典型的な良家のぼんぼんだ。まあ、違うんなら人違いってことで否定してくれ』

「いえ、その桐生です」

 ハハハ、と結城医師が快活に笑っていると、何故か自分が研修医時代の若かった頃に戻った気のするのが、奏汰も不思議だった。

『なんだ?俺にはそう大したツテはないからな、就職の口を世話してくれったって、大した口利きはできんぞ。それよりは、おまえの親父か兄貴にでも頼んで……』

「いえ、先生。今日は仕事の件じゃないんです。というか、逆にめっちゃプライヴェートな件で電話した的な……」

『ほうほう』

 ここで電話の向こうからバリバリという音が聞こえ、奏汰には結城医師がせんべいか何かを齧っているらしいとわかった。奥さんか誰かが茶を淹れてくれたのだろうか、「そこ置いといてくれ」と言う小さな声も聞こえる。

『なんだ?俺はまた夜の七時から仕事なもんでな。おまえ、ラッキーだぞ。今を逃したらたぶん俺は寝てるか何かして電話なんてかけ直すのは明日以降だったろうからな』

「ええ。実は妻と離婚しようと思ってまして……」

 ここで、あまりにも大きな声で『なぁにィ!?』という声が返ってきて、奏汰は驚いた。そのセリフに、ではない。十数年前の昔も今も、声だけ聞く分には結城医師がまるで変わっていないように思えることが、だ。

『今のは、北斗の拳のザコキャラの物真似じゃないぞ。奏汰、おまえ、今一体いくつだ?』

「恥ずかしながら、四十三にもなります。それで、俺のまわりでそうした方面で破天荒だった知り合いっていうのが誰もいなく……それで唯一思いだしたのが先生だったというか」

『おい、俺だってあのあとちゃんと結婚して、今じゃマトモな家庭人ってやつに収まってるんだ。人聞きの悪いことは言わないでもらいたいもんだねえ。ワイフもすぐそばにいるってのに……』

 そうなのだ。結城医師が結婚したのは結局、その大学の救命センター時代に一時いじめていたように見える看護師だった。その頃いたベテラン看護師のRは聞いたところによると、こう言っていたらしい。『あいつのあれは結局、小学生が好きな子のスカートめくりをするとか、そういうのだったんじゃないの?まったくガキなんだから!』と……。

「ええ。羽生さんとその後、別の総合病院で運命的な出会いを果たされたっていう話は俺も聞いて知ってます。でもまあ、先生の恋愛武勇伝は凄かったですから、ちょっと御相談にのってもらえないかと思いまして」

『で?妻と離婚したいんだろ?おまえみたいな品行方正な真面目バカがそこまで考えてるんだ。だったら、自分の思ったとおり離婚でもなんでもすればいいだろうが』

「いえ、妻のほうがどうしても承知してくれなくて。結局俺は今、家を出ていわゆる愛人の女性と同棲してるっていう状態なんです。それで、週に一度だけ妻と娘の元に戻るっていうような生活を送ってるんですが、妻は気違いのように叫んで、『絶対ぜっったいぜええったい離婚はしない!』って言ってて。それでちょっと途方にくれてるというか。何度話しあっても平行線で、同じところをぐるぐる回ってるといったような状態で……」

『じゃあ、家庭裁判所とか、そういうところに申し立てるしかないんじゃねえか?つかおまえ、その愛人の女、どんなの?結婚式で見たあの奥方のことは、話したことはないにしてもなんとなく性格のほうはわかる。俺の勘違いでなけりゃあな。だが、おまえはずっと真面目ちゃんのいい子の優等生くんだったからな。その愛人の体技があんまりすごくて貞淑な妻を捨てたくなったなんていうんじゃなければ、まあ、俺も真面目に相談に乗ってやってもいい』

「そんなんじゃありませんよ!」

 それでも、こういうところで赤くなってしまうというのが、やはり奏汰がずっと真面目な優等生だったゆえんなのだろう。

「その、いい年して恥ずかしいんですが、彼女は俺より十八も年下なんです。それで、ようするにそういうタイプの女性じゃないんですよ。どっちかっていうと、結城先生の奥さんの若い頃に似てます。だから、俺は……」

『ははーん。わかったぞ。おまえ、だから俺に電話してきたな?まあ、俺はおまえとは逆で、若い頃に遊びまくったあと最後の最後で落ち着いたってやつだ。でも、俺が結婚前にひとりかふたりくらいしか女を知らなかったら、たぶん絶対浮気してるな。そう仮定した場合、まあおまえの気持ちはわかる。女のほうじゃ一度医者って職業の奴と結婚したら、絶対離婚なんかしたくないだろう。それか、離婚するにしても、慰謝料をがっぽりふんだくってってところか。で、あの奥方の性格から見て、プライドが高そうだからな。それまで女友達にも医者と結婚した勝ち組みたいに見られてたんだろうし、そうした世間的な地位を失うっていうのも耐えられなかろうな』

 結婚式には確かに出席してもらったが、結城医師と奏汰の妻の小百合とは親しく話したことがあるというわけではない。だが、外見から見た彼の判断は確かに当たっていたといえる。

「そうなんです。だから、妻には俺は愛人のところに行ってていいけど、そういう世間体と、娘にはお医者さんのパパがいるっていうそうした部分だけは最低限守ってくれって言われてて……」

『ま、確かに正論だわな。けどまあ、それの何が悪い?愛人の女から一秒でも早く離婚しないともうセックスしないと言われてるわけでもないんだろ?じゃあ、いいじゃないか。そのうちそれで時間が経てば……物事はどっちかに転がるさ』

「どっちか、とは?」

 電話の向こうからは、ずずっという茶をすする音が聞こえる。

『つまり、普通に一般論でいったとすれば……今のその状態っていうのは、愛人に不利っていうことになるだろうな。だから、おまえがもしその愛人の女とどうしても結婚したいなら、前の奥さんには悪いが、断固とした決意を持って事には当たる必要があるんじゃねえか?ようするにそこらへんはおまえの胸三寸ってことさ』

「俺の胸三寸って、どういうことですか?俺はもうあす……じゃない。離婚したら彼女と間違いなく絶対結婚しようと思ってます。その俺の気持ちが揺らいだりすることは絶対ないと思うんですが」

『鉄は熱いうちに打てっていうだろ?結婚はタイミング、ともな。つまり、恋愛が盛り上がってるうちにチャチャッと結婚しちまわないと、いくら今は彼女を愛してるだのなんだの言ってても――現況、結婚してるほうが法的にも世間的な意味においても強いわけだ。それにおまえ、いいとこのお坊ちゃまだろ?そういう部分でも周囲からプレッシャーをかけられたりしたら負けちまうんじゃねえのか?』

「そんなことは……」

 ない、とは奏汰には言い切れなかった。何分、以前父から電話が来た時も、(なんの用件だろう)と奏汰は相当ドギマギした。だが奏汰は、仮に父や母が何かを言ってきても、親子関係が断絶したとしても――明日香のことだけは譲れないと思っていた。

 けれどそれでいて、奏汰の心には不安が残るのだった。妻の小百合は自分と離婚しないためなら、どんなことでもするだろう……という意味合いにおいて。

『まあ、もしその子がうちのワイフに似てるっていうんなら、俺も少しばかりマトモな忠告っていうのをしておいてやろうか。もしおまえが自分はこんなに彼女を愛しているのだからと思って、いずれ離婚するとか言いながらこのズルズルの状況を続けた場合……たぶん、何かがマズイことになるな。だって、一緒に暮らしてるってことは、その彼女とも喧嘩するってことがこれから先あるかもしれない。で、帰結するのは「そもそもあなたが早く離婚してくれないから」っていうことだろ?ところが奥さんはどうしても別れてくれない。苦しい板挟みだなあ、奏汰よ。それに、今世の中では不倫すると頭にゲスって言葉をつけるのが流行だ。だが、俺が思うにはな、一般社会のルールを破った場合、それ相応の報いっていうのはおそらくある。妻と愛人の板挟みでどんなに苦しかろうが、誰に話してもそんなことはわかっちゃもらえんさ。それこそ、自業自得のゲス不倫の結果がそれだ、みたいに言われて片付けられるのがオチだ』

「…………………」

 奏汰は黙りこんだ。明日香と喧嘩するところなど、奏汰には想像もつかない。けれど、そんな相手ともし一度喧嘩ということにでもなれば――一体どうなるのだろう、とは思う。

『あと、もうひとつ忠告しておこうか。おまえ、自分のことだけじゃなく、その子の気持ちをもっと考えてやれよ。早く離婚して欲しいと心の中で思っていても、あんまりせっつくわけにもいかんだろうからな。で、おまえは頭にクソが百個つくくらい忙しい医者なんて仕事をしてるから、あんまりやいのやいの色々言ったりすることも出来ない。きっと、おまえが思ってる以上にその子も色々思うところがあるだろうな。まあ、そんなことを言ったら奥さんだってそうか。といっても俺は、むしろ奏汰、おまえのことを褒めてやりたいと思ってるんだ。ただのお坊ちゃまのつまんない真面目くんかと思ったら、なかなかやるじゃないかっていう意味でな。俺は、大体あの頃から思ってたんだ。こいつは見てくれがちょっとばかりいいから、将来女のことでは一度か二度は必ず失敗するだろうってな』



 >>続く。





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