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こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ぼくの大好きなソフィおばさん。-【1】-

2017年06月13日 | ぼくの大好きなソフィおばさん。


「ぼくの大好きなソフィおばさん」――っていうことは、主人公(らしい)ソフィが誰かからいずれ「おばさん」と呼ばれるようになる……っていうことだと思うんですけど、物語のはじまりから暫くの間はソフィもまだ「おばさん」と呼ばれる歳じゃなかったりします(^^;)

 でも、今回した分までだと、たぶん14~17歳くらいでしょうか。

 それで、ソフィが勤めてる喫茶店の名前がル・アルビだということで、今回のトップ画は「ゲド戦記」にしてみたんですけど、個人的にはアニメよりも原作のほうが百億倍素晴らしいと感じていたり(笑)



 そしてこれが、ゲド戦記の舞台となっているアースシーの地図なんですけど、わたしと同じくファンタジー好きな方はきっと、こうした架空の地図を見ただけでも血湧き肉踊る(?)のではないでしょうか♪(^^)

 で、わたしもこのお話、まったくの架空世界を舞台にしようかなって思わなくもなかったんですけど……やっぱりのちのち映画名とか俳優の方の名前が出てくるということで、ヨーロッパとアメリカの間の北大西洋のどこかに大体インドくらいの大きさのユトランド共和国という国がある――というイメージの場所を脳内に設定してみました(笑)

 そして、↓の本文に出てくるル・アルビのマスターが何故自分の経営する喫茶店をル・アルビにしたかというと、これ、「ゲド戦記」の主人公ゲドの最初のおししょさん、オジオンがこう言ってるシーンがあるからだったりします。

「人生とは、辛抱することよ」

(BY,沈黙のオジオン☆)


 オジオンって、ゴント島の南西にあるル・アルビに住んでるので、喫茶店ル・アルビのマスターはここから名前取ったという、そういうことらしいです(まあ、だからどーしたって話ですけど・笑)


 でも実際、喫茶店に限らずですけど……今は不況ということもあって、飲食店はどこも大変なんじゃないかなという気がします

 わたし、ウェイトレスのバイトは三つくらいの場所でそれぞれ短期間やったことがあるんですけど、まあそこのマスターとか店長っていうのは大体、週に一回も休んでないとか、店自体は火曜定休とかでも、その日はその日で仕込みとか色々休みの日にしか出来ないことをやってたりで……一般的に公務員の方が土日休むっていうような種類の休みではないように思いました。

 でも、「自分で店を持つ」っていうのはそういうことだし、それを含めての仕事として小さいお店ながらも自分の裁量で仕事の出来ることに誇りを持ってたりとか、あとは家族のことを思えばそんなのは苦労の内にも入らないとか――何かそんな感じなのかなあ、と見ていてぼんやり思ったり。。。

 本当は「ゲド戦記」についても色々書きたいことあるんですけど、それは書きはじめると長くなるのでやめておこうと思います(笑)

 それではまた~!!
 


     ぼくの大好きなソフィおばさん。-【1】-

 ソフィ・デイヴィスは、片田舎にある小さな港町の出身だった。大きな半月型の港湾一帯に漁村がいくつか散らばることでヴァ二フェル町は構成されており、隣村へ行くまでには大体三~五キロの距離を歩いていかねばならなかった。ソフィは港湾のちょうど真ん中あたりにある、その一帯としては一番栄えている村落で生まれ育った。

 母親はひどく気の短い人物で、隣近所の人々からは「クレイジー・マザー」として恐れられていた。というのも、ソフィと四つ年の離れた姉のクレアが知的障害児であり、母のアルマ・デイヴィスは姉にひとつの動作を教えるのにも一苦労していたからである。

「そうじゃない!何度言ったらわかるんだい!!服はこっちが前だってのは、馬鹿が見たってわかることじゃないか。このうすらとんかちの馬鹿娘が!毎朝毎朝いちいち手間を取らせるんじゃないよ。ほら、ジャージは着たらちゃんとチャックを閉める!一体何回このあたしに同じことを言わせるつもりだい!?このアンポンタンのどあほうめが!!」

 デイヴィス家の朝は毎日、そのように母の金切り声ではじまり、そして金切り声で終わった。アルマは手に硬い定規を持っていて、姉のクレアがちょっとでも粗相をやらかしそうになると、その定規で手でも足でも尻でも、所構わず容赦なくはたいた。

 ソフィはそんな母の姿を見るのも、いかにも気弱そうな様子で唯々諾々と母に従う姉のことを見るのも、ともに吐き気がするくらい嫌だった。といっても、この「吐き気がするくらい」という感情は、十代以降になってから芽生えたもので――それまではどうにか母の負担が少しでも軽くなるようにと、子供ながら色々と神経を使ったものだった。

 クレアとソフィの父であるダニエル・デイヴィスは、ヴァニフェル町から北に十キロほど上ったところにある医薬品を扱う工場で、仕分けの仕事を担当していた。そして工場に付属した寮で暮らし、金曜の夜や土曜に帰ってきて、日曜、あるいは月曜の朝早くに再び出勤するという生活を送っていた。

 ソフィが近所の口さがない人々の噂話から仕入れた情報によると、父は姉のクレアが小さかった頃までは、アパートの一室で共に暮らしていたということだった。ところが次にソフィが生まれ、だんだんにクレアの知的障害が目立つようになってくると――アルマのヒステリーの症状があまりにひどいため逃げだし、工場の元いた寮のほうで暮らすようになったという。

 ソフィは、この父のダニエルのことが人間として好きであった。高卒で学というもののまるでない人ではあったが、素朴な温かみのある人柄をしており、母が姉のクレアにかかりきりになって構ってくれない分を補うように、ソフィのことを可愛がってくれた。

「お父さん、わたし、お父さんと一緒に暮らしたい。寮のほうに子供がいれないのはわかってるけど、わたしもう、母さんにも姉さんにも耐えられないの」

 ソフィは困りきった顔の表情で、何度もそのように父に頼んだのだが、ダニエルはただ首を横に振るばかりだった。「ごめんよ、ソフィ。父さんも出来ればそうしてあげたいけど、色々事情があって無理なんだ」

 のちに父に愛人がいるとわかった時――アルマは半狂乱になって、父のことを罵り倒した。同じアパートには、父の勤める工場で働いている従業員が三人もおり、そのうちのひとりの細君が、酔ってうっかり口を滑らせた夫の言葉をアルマの耳に入れたのである。

「このどうしようもないろくでなしの、こんちくしょうめが!!あんたの娘のどうにも情けないこの姿を見てごらん!!あたしがこの白痴のどうしようもない馬鹿娘に、どんだけ苦労して服の着方を覚えさせたかわかるかい!?歯の磨き方にしたって、顔の洗い方にしたってなんだってそうさ!!くそっ、おまえが自分の汚い棒を他の女に突っ込んでる間に、あたしはひとりこんなボロアパートで苦労してたってのかい!?こんな馬鹿な話があってたまるもんかっ!!」

 そう話す途中からすでに、アルマが常日頃から手にしている硬いスチール製の定規が、びゅんびゅん空を切っては夫の頭やら肩やら背中やらに次から次へと繰り出された。

「このクソ親父めがっ!!許して欲しかったら土下座してあやまりやがれっ!!」

 ――ビシッ、ビシッ!!

「相手の女は工場の若い事務員だって!?一体その女と何回ファックしたんだい!?白状しな!!」

 ――ビシッ、ビシッ!!

「いいかい!?その女と手を切るまではもう二度と絶対にうちへやって来るんじゃないよ!!ただ、金だけは今まで通りきちんきちんと入れるんだ!!あたしは死んでもあんたと別れる気はないからね。金だけ絞りとって、あとの残りカスは踏みにじるだけ踏みにじってやるつもりだから、今から覚悟しとくんだね!!」

 ――ビシッ、ビシッ!!

 デイヴィス家でこの種の騒ぎが起きるのは、何も今にはじまったことではなかった。週末、ダニエルが戻ってくると、アルマは父の中に何かの粗相を見つけては定規で殴ったし、給料の入った週にダニエルがそこから少しでもお金を使っていたりすると、「これはどういうことだい!?」と問い詰めて大喧嘩になるのだった。

 そして、父が母に怒鳴られながら、最後はサボテンの鉢なんかを投げられつつ、やっとのことで車に乗る姿というのは、隣近所ではちょっとした有名なショーだったのである。

 ソフィは最初、このような女房を持つ父のことを不憫と思ったし、深く同情してもいた。そのことは父の浮気が発覚してからも変わらなかったし、むしろこうした状況下で浮気するなと強制するほうが無理ではないかとすら思っていた。

 なんにしても、ソフィにとって重要なのは次のことだった。母が姉のことを時にヒステリックに定規で殴りつつ、日常生活全般のことをさせるのはまだいい――というか、すでに母の体罰は見慣れすぎていた――そして姉が時に泣きながらソフィに擦り寄り、「ソフィちゃん、あんたはいい子ね。わたしは悪い子」などと言う姿に反吐を覚えることも我慢できる。けれど、ソフィは14歳の時に父と母が完全に別居した時、やはり深く傷ついた。というのも、「父とふたりで暮らす」ということは、幼い頃よりソフィにとって重要な精神の逃げ場だったからである。

 もしかしたらいつかそんな、夢のような日がやって来るかもしれないと夢想することで、ソフィは所帯じみてしみったれた惨めな家庭生活を、どうにかやり過ごすことが出来ていたのだ。

 ところがその逃げ場が完全に塞がれた時、ソフィは精神的に窒息しそうになった。そこでどうにか父という存在以外の別の逃げ場が必要になり、同じクラスの男子生徒の家へ入り浸るようになったのである。

 彼の名前はロバート・ファーロングといって、都会からやって来た転校生だった。ロバートは田舎の学校へ転入してきたその日、顔を真っ赤にしながら黒板にロボットの絵を描き、こう自己紹介していた。

「ぼくはロボットじゃなくてロバートです。でも将来はロボット・メカトロニクスを学んで博士号を取り、人間そっくりのヒューマノイドを造るのが夢です」

 分厚い眼鏡をかけた、いかにもガリ勉そのものといった様子のロバートを見て――三十名ほどいたクラスの生徒たちは一斉に笑いだした。生徒のうちのある者はロバートに対して嘲笑の眼差しを送り、また別の生徒は「都会から来た変わった子」といったように好意的に受け止めた(つまり、嘲笑的な笑いが半分、好意的な笑いが残り半分を占めていたわけである)。

 ロバートが真っ赤な顔をしたまま自分の隣の席に着いた時、ソフィは彼に対して好感を抱いた。友達になれそうだと思ったし、遠く離れた都会からこんな田舎の港町へ越してきた少年のことが物珍しくもあった。

 とはいえ、その日ロバートはほとんど誰とも口を聞かなかった。ノースルイスという北方沿岸の大都市について、一般に知られていることをみなが口にしても、「うん」とか「そうだね」と短く答えるのみで、あとは本の虫になっていた。

 そして放課後になる頃には、クラスの半数以上の生徒が「今度転校してきた奴は変な奴」といったように、ほとんどレッテルを貼りかけていたかもしれない。「田舎者とは口も聞きたくないんだろうよ」とか「都会からやって来たお高く止まった奴」と評する男子生徒もいた。

 だが、ソフィにはすぐにわかった。彼が単に気後れしてうまくしゃべれないのだろうということが。そこで、何かの助けになれればと思い、その日は放課後になるとロバートのあとを尾けていくということにしたのである。

「なんだよ、ついてくんなよ。どうせ僕のこと、ガリ勉の暗い奴とか思ってるくせに」

「あんた、そりゃちょっと被害妄想ってもんよ」と、ソフィは呆れて言った。「ねえ、もしかしてあんた、前の学校で友達いなかったんじゃない?都会じゃどうだか知らないけど、こんな田舎の長閑な学校じゃね、いじめなんて滅多に起きないのよ。そりゃたまに喧嘩して揉めたりってことはあるけど――何しろ、一学年に二クラスしか学級がないんですもの。あんたもそのうち、嫌でも打ち解けるわよ」

「……そうかな」

 ソフィが開けっ広げに笑って見せたせいかどうか、ロバートは案外すぐ納得したようだった。実をいうと彼は以前、似た経験をしたことがあったのだ。クラスの中で可愛い子が自分の後ろを尾けてきたと思ったら、単に探りを入れられ、あとで馬鹿にするためのネタにされただけだった。

「そうよ。前の学校で何があったか知らないけど、あんたはもっとしゃべったほうがいいわ。馬鹿みたいなことでもとにかく誰かとしゃべってさえいれば――ずっとだんまりで何考えてるかわかんない奴よりは人から好かれるってもんよ」

「君、名前なんていうんだっけ?」

 分厚い眼鏡がずり下がるのを手で上げながら、ロバートは隣のソフィを見もせずに聞いた。

「ソフィ・デイヴィスよ。明日、あんたが登校してきたら、とりあえず隣のあたしとしゃべってればいいわ。そしたら適当に誰かが話に割り込んでくるから、なんとなく一緒に笑ったりしてれば、それだけでいいのよ」

「うん……なんか僕、ちょっと勘違いしてたみたいだ。感じの悪い態度を取ったりしてごめんよ」

 ――こんなふうにしてソフィはロバートと知り合い、放課後は大抵、いつも一緒に帰るようになった。ロバートの両親はともに、ソフィの父ダニエルが勤める医薬品会社で研究員をしており、入り江にある瀟洒な別荘のような邸宅で、親子三人で暮らしていた。

 つまり、ロバートはひとりっ子であり、学校から帰っても両親はどちらも不在であることが多かった。おまけにロバートの住む家は広く、仮に自分たちの息子と仲の良いガールフレンドが部屋でどんなことをしていたとしても……気づく心配はほとんどなかったと言える。

 やがてソフィとロバートは学校で、「金魚のフンのように仲がいい」と揶揄される間柄となり、そのくらいふたりはべったりするようになった。廊下を歩く時にも手を繋ぎ、休み時間は大抵いつも一緒にいた。こんなふうにふたりの仲が急速に深まったのには、もしかしたら理由があったかもしれない。ソフィは家の中で永遠に解消されない欲求不満を感じていたし、ロバートのほうはロバートで、紋切り型のクリスチャンである両親に深く絶望していた。

「うちの親父はさ、『人間には努力して出来ないことはない』とかって言うんだ。でも僕は、どんなに努力しても人間には出来ないことって絶対あると思う。僕が不登校になったらそれは僕の努力が足りないからで、何か問題があったらまずは先生に相談しろとかって言う。実際、なーんもわかってないんだよな。単に僕がロボットみたいに毎日学校に行ってれば、それで親としての務めは果たしたとか思ってんだから……母さんはさ、新薬を開発するための重要なメンバーに選ばれたとかで、研究所のほうに泊まりこむくらい仕事にのめりこんでるし。ふたりとも、僕の話なんか本当は全然聞いてないし、聞く気もないんだよ。それが自分たちにとって都合のいいこと以外はね」

「可愛そうなロバート」と言って、彼の部屋でソファに座ったまま、ソフィは自分のボーイフレンドを慰めた。「そして可愛そうなあたし。うちの母さんときたら、いまだに姉さんのことを定規でせっついて、何べんも同じことばかり言ってるわ。そりゃ、あたしが小さかった頃に比べたら、大分定規を振り回す回数は減ったけど……あんな濁った空気の流れた家、ずっといても体にいいことなんて一つもないもの」

 ふたりが初めてキスを交わしたのも、互いの家庭のこうした愚痴を話していた時のことだった。なんとなくソファに座って映画を見ていたのだが、主人公と相手役の男が激しいベッドシーンを展開しはじめ、これでもかというくらい何度もキスを重ねるのを見るうちに――「キスしたことある?」と、ロバートが草の葉模様のクッションを胸に抱いて、そう聞いてきた。

「いいえ」とソフィは答えた。「大人がするほうの本当のキスはまだ。でもキスって変よね。べつにキス自体はしてもしなくても――子供は出来るわけでしょ?つまり、子孫は残せるわけで、それなのに一体誰がキスなんていう習慣を考えだしたのかしら」

「さあね。大体さ、アダムとイヴの時代からキスっていうのはあったのかな。善悪の知識の実を食べた途端、キスとか子孫を残すにはどうしたらいいかっていう知識も授かったってこと?それとも神さまが、これこれこうして子供を作りなさいってアダムに教えたのかな」

「ロバートったら、そんな考え方は不敬よ」

 ソフィはそう言いながらも、ロバートの考えを面白がって笑った。

「でも、実際そうだろ?僕たちはさ、今テレビでこうして見てても、その種の知識についてはいくらでも知ることが出来るけど――ご先祖さまはそうもいかなかったろうしさ。まあ、興奮して相手の体中にキスしたりってのは動物の本能としてわかるよ。でも口と口を合わせてねっとり舌を絡めたりとかって、一体誰が考えだしたんだろう?」

「そうねえ。でもやっぱりそれも、性の興奮の産物なんじゃない?興奮してるうちに唇と唇を重ね合わせるようになって――それでなんか舌も入れちゃえみたいになったんじゃないの?」

「うん……知り合いや親しい間柄同士の人がさ、軽く頬や唇にキスしあうってのは、習慣の産物として理解できるんだよな。で、恋人ともおんなじようにキスするとか、しょっちゅうそれを繰り返すっていうのも親愛の情としてわかるけど、ディープキスっていうのはさ、紀元前何年ごろに一体誰が開発して広めたものなんだろう?」

「じゃあ、あたしとあんたで試してみる?」

 映画の主人公のあえぎ声が激しくなり、裸の男の背中がアップになったところで、ソフィはそう言った。ソフィ自身は元はとても保守的なほうで、性的なことに関して好奇心旺盛ということもなかった。けれど、ロバートがそれまでの間にも時折、そうした意味のある視線を自分に投げていたため、彼が言い出せずにいるらしいことを先に口にしたのである。

 こうして、ソフィとロバートはその日から「キスの研究」に対して非常に熱心になった。あらゆる映画やドラマのキスシーンを見ては研究し、その真似事をした。そして結局、その延長線上にあるものとして――やがて自然な成りゆきによってセックスするようになった。それはロバートが十六、ソフィが十五歳の時のことだった。

 そしてロバートが元いた北方にある沿岸都市、ノースルイス市にある私立高校へ進学することが決まった時、ソフィは母のことをなんとか説きつけてそちらの公立校へ進学したいと力説した。そこにはアルマの姉のセシルがおり、彼女は結婚もしていなければ子供もないキャリアウーマンだったので、ソフィはセシルに懇願し、部屋の片隅に同居させてはもらえまいかと打診したのである。

 最終的に、ソフィは母の姉であるおばと同居することはなかった。というのも、長くかかったダニエルとアルマの離婚調停が済み、正式にふたりが夫婦生活を完全に解消した時――アルマはすっかり生きる気力といったものを喪失していたからである。姉のクレアは折檻にも近い母の教育法によって、今では身のまわり全般のことは自分で出来、洗濯と茶碗洗いまでも率先して行うようになっていた。だが当の母はといえば、離婚の闘争劇と姉の養育というふたつの重圧から開放されたことで、これからどう生きていったらいいのか、行く先を見失っていたようなのである。

 ソフィは狡賢くそこにつけこんだ。自分が小さい頃からいかに母から構われずに育ったか、知的障害を持つ姉がいることで気を遣ったか、また父が家を出ていったのも無理はないと言ってアルマのことをなじり、最後には「そんな娘が初めて我が儘を言ってるのよ。そのくらいのこと、許してくれたっていいでしょう?」と、とどめにも近いことを口にし、母の説得工作に出た。

 つまり、アルマはこの時ようやく、いつもは姉の存在に隠れて見えなかったソフィのことにも目が向くようになっていたといっていい。元夫のダニエルのことはさんざ痛ぶって慰謝料と養育費を絞りとってやったし(彼のほうでは、それでこの気の狂った女から解放されるならと、不利な条件を涙ながらに呑んでいた)、姉のクレアも今ではあまり手がかからなくなった。それに、ダニエルの慰謝料と養育費があったところで、結局自分もこれからは働かなければ暮らしていくことは出来ないのだ。だったら、どこかに勤め先を見つけようとした場合、こんな田舎でくすぶっているよりも、思いきって都会で就職先を探したほうがいいのではないだろうか?

(幸いあそこには、姉のセシルもいることだし……)とアルマはそう考え、ソフィの言い分を入れることにしたのである。もちろん、彼女も知ってはいた。ソフィのボーイフレンドのガリ勉君が元いた都市のほうへ戻ってしまうため、彼にくっついていきたいというのが娘のノースルイス行き最大の理由らしいということは。

「じゃあ、家族みんなで引っ越そうかね」

 と、アルマがある朝言った時、ソフィは有頂天になって喜んだ。髪型も身じまいもだらしくなく、黄色いくすんだ顔をした母のことを、この日ソフィは生まれて初めてといってもいいくらい、心から「大好き」だと思えた。

 そして生まれて初めてのたっての願いが叶えられてみると、心が幼い純真な頃へと戻り、「母も本当に気の毒な人だ」と、真心のある同情をこめてソフィは母のことを見返すことが出来た。

 隣近所の人々から「クレイジー・マザー」として恐れられているアルマではあったが、母親としての天分としては、間違いなく優れた資質を彼女は最初から持っていたのである。おそらく、気が狂ったようになってダニエルのことを定規で叩き、目覚まし時計やフライパン、花の鉢などを手当たり次第に投げつける彼女を見た人は誰も――なんという恐ろしい狂女かと思ったかもしれない。また、ダニエルに対してなんの因果でこんな女を女房にしたのかと不思議がる人も多かったが、物事にはやはりそれ相応の理由や事情といったものがあるのである。

 ちっぽけなリビングのサイドボードの上には、アルマとダニエルが結婚した頃の写真が離婚後も飾られていたが、アルマはこれだけは決して夫に投げつけることをしなかった。つまり、こんなことを口に出して言うのはソフィにも憚られることであったが、写真立てのフレーム内には、今のアルマからは想像もつかない幸せそうな様子の花嫁が写っているのである。その笑顔を打ち壊したのは何よりも、知的障害を持って生まれた姉の存在が大きいだろうと、ソフィはそう思っていた。

 ピシャピシャと定規で容赦なくはたかれながらではあったが、クレアは今では洗濯機の操作法も覚えたし(もっとも、別の操作法の洗濯機を購入した場合、また一から教えなくてはならないのだが)、自分の着たものを洗って干すということも出来るようになっている。また、食べたものの後片付けと茶碗洗いをすることも出来るし、姉のことをここまで仕上げるのに母がどれだけ苦労したかを間近で見ているだけに――ソフィは母から定規を取り上げるのが正しかったとは、今もって思えないところがある。

 つまり、もしアルマに障害を持つ姉という存在がなくて、そこに注ぐ労力の分を他に振り向けることが出来たとしたら、今ごろ七棟くらいビルが建っていたのではないかと、ソフィはそんなふうに思うことが時々あった。アルマは姉のことを養護学校へ送りだしたあとは、ほっと一安心とばかり、いつも家の中のことに取りかかるのである。

 料理と裁縫だけでなく、植物を育てるという楽しみも持っていたアルマは、それじゃなくても狭い家の中を花の鉢で一杯にしていた。また、家の中では小鳥と猫を飼っており、動物の面倒もよく見ていた。そうした母の姿を見るにつけ、(もし姉さんに障害がなかったら)と、ソフィは時々考えたものだった。(母さんは鬼母の狂女としてではなく、父と娘の面倒をよく見る理想的な母の鏡として周囲の人々から賞賛されたかもしれない)と……。

 とはいえ、姉のクレアに当然罪があるわけではなく、誰が悪いということでもなかった。けれど、「誰が悪い」というのでもなく、善人同士の間で罪のなすりつけあいがされることがあり、割を食ったほうの善人は悪に落ちるか、あるいは元の善人が何やら偽善の仮面をつけていただけということに気づくことが、時としてあるものだ。

 ソフィにしてみれば、まさに父と母の離婚の調停劇がそれだった。ソフィは最後まで父が自分を引き取ると言ってくれるのではないかと、そのことに望みをかけていた。けれど、ダニエルはその後ふたりの娘のうちのどちらにも会いに来ることはなかったし、裁判所から帰ってくるたびにアルマの口から聞かされるのは、いかに彼が養育費の出し渋りをしたかということだけだった。

 今ではソフィにも、母が何故あんなに気が狂ったように父のことを定規でぶち、また手当たり次第物を投げつけたのかがわかる。アルマのクレアに対する養育法というのは、実際折檻にも近いものがあったかもしれないが――それでも彼女には間違いなく、本物の愛情と呼べるものが娘に対してあったのである。ところが、幼い頃はソフィにもわからなかったが、父のダニエルは娘のクレアに対しては冷たい関心のようなものしか抱いていなかった。ソフィに対してはそれなりに父として愛情を示してはくれたが、母がなんとしても許せなかったのは、「これは俺のせいじゃない」といったような、父の姉に対する無関心な態度だったのだろうと、ソフィはのちにそう思った。

 ノースルイスに移ると、アルマは娘のクレアが通うのにいい通所施設を見つけだし、彼女がそこにいる間、病院で清掃員として働きはじめた。彼女は子育てが一段落すると、少しは自分の身のまわりのことにも注意が向き、月に一度は美容院へ行って髪をセットするといった余裕も出来たのだが――アルマはその後の人生で男が自分に言い寄ることがあっても一切耳を貸さず、ただひたすら寡黙に働き続けた。

 生活費のほうも切り詰めて贅沢といったこともせず、五十五歳の時に突然脳梗塞を起こしてアルマは亡くなった。姉のクレアは国の補助と母親の残してくれた遺産とで暮らしてゆくことになり、ソフィは家族に迷惑をかけさせられることも何か金銭的に煩わされることもなかったのだが……母の亡くなった時期が、ちょうどこれから彼女に贅沢をさせてあげられるとソフィの感じた時だっただけに、親孝行ということに関しては、ソフィの中でいつまでも苦い根が残ることになったのである。


   *   *   *   *   *   *   *


 ノースルイスへ引っ越してきて、半年にもなる頃には、ソフィは「運命」という言葉を一切信じられないようになっていた。

 何しろ、町全体で四万人も人口のない田舎町から、人口百万人にもなる大都市へ引っ越してきたのである。最初の頃は目に映るものすべてが珍しく、自分たち家族の新住居が下町のしみったれた界隈にあっても、ソフィはロバートの実家こそが自分の真の住まいなのだと夢想することで、どうにか心の慰めを得ることが出来た。

 ロバートのほうは、そもそもこちらが生まれ育った街なので、小さな頃から慣れ親しんでいる場所にソフィのことを案内することも出来たし、ふたりの恋愛熱はますます高まりゆくばかりといったように、当初は思えていたものだった。

 ところが、それぞれ有名私立校と公立校とに分かれてみると、次第にふたりの間では心の行き違いが目立つようになっていった。まず、ロバートのほうではクラス内ですぐに打ち解けた仲間が出来、そちらとの交流が忙しくなった。ところがソフィのほうでは、一学年に四百名も生徒がいるような環境に馴染むことが出来ず、田舎の学校とは何かと勝手も違うしで、適応していくのがなかなか難しかったのである。

 ロバートは会えば仲間内であった楽しい話をしようとするし、ソフィは自分の置かれた場違いな環境について話せないしで、ふたりはやがてぎくしゃくする兆しのようなものにぶつかったが――彼のことを失いたくないと思ったソフィは、自分のほうがロバートに「合わせる」ことにしようと心に決めた。

 つまり、デートの時などはロバートのする楽しい話を喜んで聞く振りをし、自分の置かれた困難な立場については、言葉にするのを差し控えることにしたのである。

 ヴァ二フェル町にいた頃は、精神的に強者だったのはどちらかといえばソフィのほうであり、彼女はロバートが他のクラスメイトたちに馴染めるよう、あくまでも「さり気なく」手を回していた。また、ロバートのほうでは、クラスで人気者のソフィが自分に夢中であるのを誇りに思うにつけ、彼は男としても人間としても、田舎の港町で実は結構な自信をつけていたのである。

 そして一度身についたこうした<自信>といったものは、周囲の人間にも伝わるものである。ロバートの進学した私立校には、彼が元いじめにあっていた学校の生徒もいたのだが、ロバートがあんまり見違えたのを見て驚いたものだった。しかも、ブロンドの可愛い彼女までいるとなると、「元はあいつ、目立たない地味なダサい奴だったんだぜ」と誰かが囁いても、ただのやっかみといったようにしか周囲の生徒は受け取らなかった。

 確かに、ロバート・ファーロングは以前とはまるで違っていた。高校進学に合わせて分厚い眼鏡をやめてコンタクトにし、妙な癖毛のある髪型を変えてみると、彼は実は結構な男前だった。何より、彼は昔と違って人と話すことに対して物怖じしなくなった。ロバートはクラス内でハキハキ自分の意見を発表し、教師たちからも一目置かれる存在だったし、また成績のほうも良かったので、女生徒たちがかつて彼に対し「キモいオタク」とひそひそ言っていたことが、その昔本当にあったのかどうかと思えるほどの変貌ぶりを見せていたといっていい。

 ただ――ロバートは、自分がこんなふうに変われたのはソフィのお陰だということを、いつしかすっかり忘れてしまったようだった。ロバートはやがて、常に「自分が・自分が・自分が」、あるいは「俺が・俺が・俺が」と自分のことばかり話すようになり、その話し振りも傲慢なものに変わっていったのである。

 ソフィ以外にも、自分には学校で言い寄る女生徒がいるといったようにほのめかしたり、やれ告白されたの、ラブレターを受け取っただの……ある時など、「君がいなけりゃ俺も選ぶのに苦労したろうな」などと言うので、ソフィはキレそうになったほどだった。

 結局、ソフィはノースルイスに引っ越して来てから半年ほどした頃、ロバートとは別れるということになった。そのきっかけは、ロバートの仲のいい友人三人の内の、ジェイムズ・コナーという青年にあったかもしれない。ソフィは彼らと一緒にドライブしたり映画を見に行ったり食事をしたりということがよくあったが、そのうちにジェイムズがソフィのことを好きになってしまったということだった。

 ロバートは親友のジェイムズがそんなふうに<男らしく>、「おまえの彼女を好きになっちゃってごめん」と言うのに感激し、「なんだったらおまえにソフィを譲ってもいい」などと言ったらしいのである!

 そのことを他の友人のブラッドから聞かされた時、ソフィは今度こそ本当にブッチ切れた。

『俺さ、その話の流れを聞いてて、なんかヤバイなーとか思ったわけ。だってさ、ロバートの奴は休み時間なんかに「アレクサとクロエ、おまえだったらどっちにする?」なんて聞いてくるし、ふたりとも明らかにエロい目でロバートのことを見てるからな。そんでジェイムズはこれですっかりソフィは自分のものになったみたいに勘違いしてるしさ……あいつ、間違いなくおまえの胸のことしか考えてねえよ。だからまあ、ロバートのお墨付きってこともあって、ふたりきりになった時には気をつけなって先に言っとこうかと思って』

「ありがとう、ブラッド」と言って自宅にかかってきた電話を切ると、ソフィはむかつく胸を抑えながら自分の――正確には自分と姉の――部屋で、ベッドに倒れ伏した。

(もうこれでロバートとは終わりだわ)、そう思ってソフィは泣いた。自分の承諾も得ず友人に<譲られた>ことが問題なのではなかった。ようするにロバートは浮気したくて仕様がないのだ。それで、どうにかそうしてもいい口実が欲しかったのだろうと、ソフィにはよくわかっていた。

 田舎の港町で出会った、朴訥で純情な少年はいつの間にかいなくなり――ロバートは他の誰かに変わってしまった。ソフィはそのことを思って泣き、幾分かセンチメンタルな気分が抜けたあとは、今度は現実的な他の問題が胸に重くのしかかってくるのを感じた。

 というのも、入学してから半年にもなるというのに、ソフィはいまだ高校生活というものに馴染んでいなかった。ソフィがいつまでもひとりでいるので、校内でも最弱小グループと思える女子が仲間に入れてくれたとはいえ……そのグループの面々とも、本当の意味で気が合っている、芯からの友達というわけではなかったからだ。

 この時ソフィは、何故もっと早いうちから身を入れて勉強してこなかったのだろうと、そのことを深く後悔していた。そうすれば将来に対して夢のある未来といったものを思い描けただろうし、都会の学校の進んだカリキュラムに、やっとのことでどうにかついていくといった苦労もなかったはずだった。

 ソフィは周囲の人間からよく「おまえは馬鹿な子」だとか「頭に行くべきはずの養分が胸にいってしまったんだろうね」などと言われ続けたせいで、自分のことを頭の悪い人間だと思いこむようになっていた。だが、もしかしたらこれには少し弁明が必要だったかもしれない。まず第一に、ソフィは勉学に適した家庭環境に置かれてこなかったし、朝から晩まで始終母親が姉を怒鳴り散らす声を聞いていたのでは、勉学に励む意欲を持てと言われても無理だったであろう。また、彼女にはそんな事情を理解した上で、助け導いてくれるような教師もいなかったし、ソフィの中に何がしかの才能を見つけ、それを伸ばそうとしてくれる人物が現れたこともなかったのである。

 そういった点も含む様々な事情から見て――ソフィはロバートを失うのと同時に、ノースルイスにこのまま居続ける理由を見失った。半年前には、「これで田舎のしみったれた港町を出ることが出来る!」と、意気揚々と喜んでいたはずなのに、今では不思議と自分が生まれ育ったヴァ二フェル町へ帰りたかった。

 この点はどうも母のアルマも同じだったようで、彼女はよく「都会の人間は心が冷たい」とこぼしていた。そしてそうした愚痴を聞くたびにソフィはつらかった。ヴァ二フェル町では、男は滅多にアルマに話しかけなかったが、それでもアルマは隣近所の女性たちには不思議と好かれていた。アルマと夫ダニエルの夫婦喧嘩をある種の<見世物>として楽しむのと同時に――それと似たものは、表立って公開せずにいるだけで、どこの家庭にもあるものだと誰もが知っていた。また、アルマは家庭内のそうした問題を隠さず周囲の人たちに率直に語ったため、誰もが彼女に対して親身に相談に乗ったし、何くれとなく良くしてくれたといった事情が裏に存在していたのである。

 そうした周囲のコミュニティとも断絶してしまった今、ソフィもアルマもある種の孤独を抱えていた。ただ、姉のクレアだけが都会へやって来てとても幸福だったかもしれない。最初はまったく知らない土地ということで、どこかびくびくしていたクレアだったが、最近は通所施設に通うのがとても楽しいらしく、家でも明るい表情で落ち着いて過ごしていることが多かった。

 ゆえに、母のアルマがそのことのためだけでも、ノースルイスへ越してきて良かったと思っているのは明白だったし、ソフィにしても今さら「ヴァ二フェル町へ帰りたい」などとはとても言えないことだった。けれど、クラスがまた一学年上がり、芯から通じあえる友達もなく、勉強についていくことも難しい……といった毎日が続いたある日のこと、ソフィは高校へ向かうかわりに、バイト先の喫茶店へ行くことを思いついた。

 この頃ソフィは、「精神的胃痙攣」なるものと「精神的心発作」と自分で名づけた症状に苦しめられるようになっており、そのくらい学校へ通うということが苦痛になっていたのである。そしてある時、ふとこう閃いた。自分は一体何故こんなに苦しい思いをしてまで、学校へ通っているのだろう、と……どうせ高校を無事卒業したという免状をもらったところで、自分が勤めることの出来る就職先など、極限られたものにすぎないとソフィは前から思っていた。

 そして放課後、週に三日ほど働いている喫茶店で、フルタイムの従業員を募集する貼り紙がドアにあったはずだと、ふと思いだしたのである。

 カウンターの他に、四名の客が座れるテーブルが十五席ほどある喫茶店は、名前を<ル・アルビ>と言った。アーシュラ・K・ルグィンの描いたファンタジーの名作、「ゲド戦記」の主人公ゲドの出身地、ゴント島の南西にある地名である。

 ソフィはそのことを知らなかったが、喫茶店の正面口から入ってすぐ横にある本棚の片隅には、店の名前の由来としてゲド戦記の本が置いてあり、<ル・アルビ>という名前にピンと来た客だけが、それを見てニヤリとするわけだった。

 他に、何か<ゲド戦記>を彷彿とさせるものが喫茶店内に置いてあるわけではなかったが、<ル・アルビ>の店内は全体としてクラシックな雰囲気であり、窓際の座席にある出窓にはアンティーク調の花瓶や陶製の人形などが置かれていたし、店の中央の飾り暖炉のマウスピースにも、どこか中世風の絵や食器類などが飾られていた。

 店のマスターは四十台の中年男で、一階で喫茶店を経営し、二階で年とった母親とふたり暮らししているという気の優しそうな雰囲気の男だった。一度結婚していたこともあるらしいのだが、一階で店の手伝いをしつつ、二階で姑と一緒になるという生活が嫌になり、女房は店の客と逃げたらしいと、ソフィは他のバイト仲間から聞いていた。

 そしてソフィはその話を小声でしながら何故、彼女が意味ありげに目配せしたのかも、よく理解していた。というのも、マスターの母親は片足が不自由になるまで喫茶店で息子と働いていたという人物で、今も時々気まぐれに下へおりてきては従業員の監督をするのである。しかも、その厳しく渇を入れる口調ときたら、鬼でも驚いて逃げだすような物言いなのだった。

 そんなわけで、マスターの女房がその昔店の客と逃げたのも無理はないというのは、誰にも容易に想像できることだったのである。

 ソフィが開店前の店の片隅で、涙ながらに今の自分の身上を説明すると、マスターはいかにも退屈そうな顔をして話を聞いていた。そして、「出来れば高校は卒業しておいたほうがいいという気はするがね」と前置きしてから、「まあ僕はね、構わないんだけどね」と、店のブレンドコーヒーを飲んで言った。

「君がここに来て、一年くらいになるわけだけど、働きぶりにも十分満足してるし、あれならバイトから正社員に昇格してもらっても、たぶんやってけるだろうとは思うよ。けど、実際に正社員になってみたら、長時間拘束されるし、覚えることも多いしで嫌になった……っていうのはナシだからね。それと、お母さんにも必ず承諾をもらって来てくれ。あとで何かと揉めて突然店を辞められても困るから」

「はい、わかっています」

 そうソフィは一旦答えはしたものの――実際には、母親には何も話さずに<ル・アルビ>で正社員として働きはじめるということにした。もちろんアルマも、娘が週に三日ほど、喫茶店でウェイトレスをしていることは知っていた。けれどソフィは学校を辞めるということも、喫茶店でフルタイムで働くということも、「自分が立派にやっていける」ということを十分証明してからにしたかったのである。

 つまり、一月働いて十分な給料(もちろんチップを含む)をもらえることを証明してから、そのお金を片手に母親に対し「学校を辞めて働きたい」と言いたかったのである。

 そしてその一か月後の十二月、確かにソフィはチップで相当稼いだお陰もあり、彼女が貯金箱代わりにしているシューズボックスに、結構な数の紙幣を溜め込んでいた。喫茶店で正社員として働くということは、最初考えていたよりも大変なことであったが――足のふくらはぎがバンバンで、太腿が若干筋肉痛気味であったとしても、とにかく翌日、ソフィは<ル・アルビ>へ出勤していった。

 ソフィが母親に本当のことを話したのは、クリスマスの前日の十二月二十三日のことだった。母親と姉のクリスマスプレゼントはすでに買ってあったが、翌日の二十四日に「こんなプレゼントよりもあんたが高校を卒業してくれたほうが、あたしはどんだけ嬉しいか知れやしない」などと言われるのが怖かったからである。

 母のアルマはソフィの告白を聞くなり、思わずも定規を求めてテーブルの上に手を走らせたが――ここへ越してきた時に、もう定規は必要ないと思い、クローゼットに仕舞ったということをふと思いだした。その代わり、姉がやはりまた何か粗相をやらかした時には、アルマは定規の代用品として自分の指を使った。どうしてもイライラして我慢できない時には、自分の親指と人差し指をペンチのかわりとして、クレアの体のどこかをつまむのである(ちなみに、大抵は尻の肉であることが多い)。

「まあ、しょうがないさね」と、定規のかわりとなるものも見つからず、その間に冷静になったアルマは溜息を着いた。「あんたはあたしとあの人の子だものね。あの人は卒業しても実質無意味みたいな高校を出てるだけだし、あたしもあんたと同じように高校に馴染めなくて中退してるんだから……自分のことを棚に上げてあんたを叱るってことは出来ないよ。けどまあ、あたしが思うには、ウェイトレスなんて若い時だけにしといたほうがいいと思うね。あとは結婚したあとにパートでちょっと働くくらいにはいいだろうけど……このお金はさ、将来のために貯金しておきな。いずれ、自分が本当になりたいものがわかった時にでも、使うといいさ」

「お母さん……」

 ソフィは嬉しさのあまり、思わず涙が出た。何故といってこんなにあっさりわかってもらえるとは思っていなかったからだ。それで、本来なら翌日渡すべきクリスマスプレゼントを部屋から持って来、「一日早いけど」と前置きしてから母に渡すことにした。

 アルマはソフィがこの時プレゼントしてくれた、ラベンダーグレイのショールを「なんともいい色合いだねえ!」と言って喜び、一生の間冬はそれを大切そうに着て外の世界へ出かけていった。ソフィの母のアルマには、どこかそうしたところがあった。彼女は離婚した夫ダニエルとの結婚写真をいまだにサイドボードに飾っていたし、また離婚後もデイヴィスという夫の姓を名乗り続けただけでなく、彼から贈られた結婚指輪を終生左の薬指から外すということがなかった。

 ソフィはこの時、姉にも「一日早いけど」と言って、赤いバンドの時計をプレゼントしていたのだが――重度の知的障害のある姉は、時計の読み方などわからずとも、その手首の<飾り>をとてもお洒落だと思い、気に入ったようだった。



 >>続く。





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