こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

トーマの心臓。

2021年06月21日 | 日記

 

 すっごくすっごくいいお話でした

 

 漫画というよりも、一冊の上質な文学作品を読んだような読後感があって……あ、でもわたしがここで書こうと思ってるのは実は、「トーマの心臓」という作品の純粋な感想ではまるでなかったりします(すみません。例によってまた、萩尾先生と竹宮先生との間にあった盗作云々問題です^^;)

 

 そのですね、「ピアノと薔薇の日々」の確か【34】あたりに、「100分de名著、萩尾望都」の回に、「トーマの心臓」と竹宮先生の「風と木の詩」がBL漫画の元祖と言われている……みたいに出てくると書いたと思うのですが、前言撤回します!

 

 いえ、そのこと自体は番組内でそのように取り上げられているのは確かなのですが、「トーマの心臓」を読み終わって感動した今、「このふたつの作品を並べて論じるなんて論外よおおっ!!」みたいに、わたしのほうで気持ちがまるっきり変わってしまったものですから。。。

 

 わたし、BL作品については10代から20代くらいにかけて、主に同人誌を中心に読んできたと思うのですが(同人誌である分、性描写のほうはドギツイ☆ものが時々あった気がします)、なんていうか、「トーマの心臓」のように純粋で美しい物語を、BL作品の枠に留めて語るのってどーなんだろうと言いますか(^^;)

 

 確かに、男の子同士でキスしてたりとか、男子寄宿舎内で恋愛模様があったりはするものの――それは女の子同士の性関係のない百合の世界にも似たもののような気がしました。つまり、十代くらいの少女たちも、自分より年上の素敵な先輩に憧れたりとか、あるいは「おまえらレズか!」と時々からかわれるくらい親密だったりとか……そういうのを経て、次に男の子というか、男性と恋愛するようになっていく前段階として、そうした時期っていうのがあるものですよね(まあ、今は時代も相当変わったとはいえ、この種のことに心当たりのある方は多いと思います。「同性に恋してる」とかじゃなくて、友情関係も最上級に濃くなると、ほとんど恋愛にも近くなるという、あの感情のことです)。

 

 それにも似た形で、あくまで純粋な気持ちでトーマもエーリクもオスカーも、ユーリに恋していたり、彼のことを友達として心の底から心配していたり……だから、わたしはこれをBL作品といったようには認識しませんでした。というか、もっと広い意味で位置づけられるべき作品と思うので、そんなふうに狭いジャンルに固定したり閉じ込めたりしてしまうのは、「トーマの心臓」という作品自体に失礼な気がするというか。

 

 というわけでですね、また例の「大泉問題」と言いますか、竹宮先生がその昔萩尾先生に盗作疑惑をかけたことについて、新たにわかったことが出てきたのです

 

「一度きりの大泉の話」には、萩尾先生がクロッキーブックに描いてらしたのであろう「トーマの心臓」の習作っぽいページが大体10ページくらい収録されていて……正直、最初に読んだ時には、「ええと、このことにはどういう意味があるのかな?」くらいな感じだったんですよね。

 

 もちろん、わたしがもし「トーマの心臓」を先に読んでいて、「一度きりの大泉の話」を読んでいたとすれば……喜びのあまり「きゃあああっ!!」と叫んでいたくらいでしょうけれども、ここで大切なことは、実はそうしたことではなかったのだと思いました。

 

 てっきりわたし、竹宮先生にとって問題だったのは、「ポーの一族」の中の「小鳥の巣」というエピソードだけだったのだろうとばかり思ってたんですよね。でも、そうではなく――この話にはさらに続きがあったのだと、初めて理解しました(鈍いよ^^;)。

 

『11月のギムナジウム』は、わたしまだ読んでいませんが、この作品を読んだ時にも、竹宮先生はおそらく、こめかみあたりにピクッ☆とくるものがあったのだろうと想像します(じゃないと、手紙に「『11月のギムナジウム』ぐらい完璧に描かれたら何も言えませんが」なんていう言葉は出てこないと思うので)。

 

 でもその後、「ポーの一族」の中の「小鳥の巣」には「もう我慢できない」という激しい感情まで芽生えたからこそ……萩尾先生をマンションに呼びだして、「私の作品を盗作したのではないのか?」と問い詰めるに至ってしまったのではないでしょうか。

 

 この時、「盗作」などと言われてもまったく心当たりのない萩尾先生はショックを受け、漫画を描くと目が痛くなったり蕁麻疹が出たり、その他不眠に悩まされたりと……そうした症状に苦しめられたわけですが、何故そんなふうに言われたのか根本原因のわからない萩尾先生は、こののち、さらに「トーマの心臓」の連載を開始されます。

 

 そこで大切なのが――「トーマの心臓」を萩尾先生が描くきっかけになったのが、増山法恵さんや竹宮先生と一緒に見にいった映画の「悲しみの天使(寄宿舎)」という作品であり……これが1971年2月頃のことなんですよね(萩尾先生がその後、竹宮先生から「風と木の詩」の最初のほうを描いたクロッキーブックを見せてもらったのが、同年6月くらいのことらしく)。

 

 この時、萩尾先生はこの映画にインスピレーションを受けて「トーマの心臓」を描きはじめ、発表のあてはなかったけれど、大体300ページくらいクロッキーブックにコマ割りしたりセリフを入れたりしたものを、見たい人には誰にでも見せていた。

 

 ですからまあ、「トーマの心臓」に関しても、「風と木の詩」の盗作ということはまるでないわけですが、竹宮先生&増山法恵さんと萩尾先生との間の人間関係のもつれ――ということでいうと、「盗作したのではないのか?」と問うた時に、「男子寄宿舎ものを描かないで」と言ったも同然なのに、萩尾望都はまたしても男子寄宿舎ものを描いている……これはもしかしてわたしたちに対するあてつけではないのか?と受け取ったとしてもおかしくなかったんでなかろーかと、初めて思いました。

 

 だからこそ、その作品をいつ頃描いていたかといった時期についても、色々詳しく書いてあるんだろうなと……でももちろん、竹宮先生著の「少年はジルベール」と萩尾先生の「一度きりの大泉の話」を読み比べた方なら、萩尾先生側としてはわざと竹宮先生の神経に障ることを強行したとか、そういうことではまったくないわけですよね。

 

 つまり、萩尾先生には竹宮先生が「風と木の詩」という、画期的な少年愛の物語に漫画家生命のすべてを賭けている……というくらいの情熱があること自体知らなかったわけですし、簡単にいえばまあ、竹宮先生が「風と木の詩」の原稿を見せた出版社の方が、「うちではちょっと……」みたいに言わず、「やってみましょう!」と引き受けてくれていたとしたら――それがもし仮に萩尾先生が「ポーの一族」の中の「小鳥の巣」を発表される前だったとしたら、たぶん、竹宮先生と萩尾先生の間で揉め事のようなことは起きなかったかもしれない……そんなふうに思います。

 

 もちろん、萩尾先生は竹宮先生と増山法恵さんのそうした計画について知らなかったので、「この間した話(盗作疑惑をかけたこと)はすべて忘れてほしいの、全部、何も、なかったことにしてほしいの」と言われたし、盗作に関しては誤解だったってことでいいのよね……と、訳がわからないながらもそのように理解し、萩尾先生は前々から描いていた「トーマの心臓」の連載に着手された。

 

 でも、実際のところは竹宮先生・萩尾先生の双方にしかわからないこととはいえ――おそらくこの「トーマの心臓」という作品は、竹宮先生にとって決定的だったのではないかという気がします。

 

 その、竹宮先生は色々なことを物凄く冷静かつ理性的に分析される、とても頭のいい方ですから、一応理性によってはわかってらっしゃると思うんですよね。萩尾先生がそう考えておられたように、「誰だって、男子寄宿舎ものを描いていいはず」といったことは。ただ、感情としては、「男子寄宿舎ものを描かないでって言ったのに!」とか、「あくまでわたしに対抗するつもりなの!?」みたいに感じられたとしても、不思議はないのかなあ……というか(※あくまでわたしの想像ですから、本当のところの事情はもちろんわかりません)。

 

 それで、「少年の名はジルベール」を読んで、わたしの中で竹宮先生の好感度というのは、爆上がりに上がったということもあり、竹宮先生のことを何か悪者にしようとか、悪者にしたいといった意図はまったくないんですけど、でも、<大泉サロン>を少女漫画版のトキワ荘にしようというあのお話……手塚先生だって、漫画に関しては「全漫画家皆敵視(ライバル)!」ではありませんけれども、すごくそうした嫉妬の情の強い方だったって言いますよね(^^;)

 

 ですから、むしろ竹宮先生の嫉妬というのは、「萩尾先生のような天才が真横にいたら、そうなるのかもしれない」といった意味では、一応理解できるのです。でも、トキワ荘にだってもちろん、嫉妬による切磋琢磨ですとか、そうしたことはきっとあったんじゃないかなって思うものの、それは決して悪い方向へは向かわなかったっていうことですよね(あ、このあたりのトキワ荘事情についてはわたし、まったく詳しくないんですけど)。

 

 それで、「少年の名はジルベール」には、萩尾先生のことを悪く書いてあるような箇所は見受けられず、むしろすごく褒めてあったりとか、竹宮先生自身、萩尾先生に対する嫉妬を反省している……といったようにすら読める気がします(また、50年近く昔のこととはいえ、こんなふうに嫉妬していたことをはっきり認めるのは、すごく勇気のいることだとも思いました)。

 

 でも、たくさんの方が萩尾先生にこの本を読むよう薦めてきたそうですが、マネージャーの城章子さんが送り返されたように、わたしもこの本は萩尾先生が読まないほうがいい本……といったようにしかやっぱり思えないんですよね(^^;)

 

 何故か、というと、最後のほうの文章に>>「萩尾さんの活躍については、私がどうこう言わずとも多くの人が知るところだが、城章子さんをマネージャーとしての二人三脚を今も続けている。すべての作品に自分を反映するストーリー展開の力は健在だ」……とあり、他のところに関する萩尾先生の描写はともかくとして、ここだけわたし、何故か唯一引っかかりました。。。

 

 城章子さんに「大泉が解散したのはあなたの嫉妬のせいでしょうが!」と電話で言われて、その後泣いていたという竹宮先生。でも、そんなことも今は50年近くも昔のお話なわけですし、竹宮先生もそんなことを根に持つような方でないと思います。ただ、わたし唯一、>>「すべての作品に自分を反映するストーリー展開の力は健在だ」というところ、ここにすごく引っかかったわけです。

 

 萩尾先生が盗作疑惑をかけられて以降、竹宮先生の作品を読めなくなってしまったというのは、おそらく本当のことでしょう。でも、「すべての作品」ということは……竹宮先生側では、文字通り「すべて」でなかったにしても、そう書くくらいには、萩尾先生の漫画はその後も読んでいたということなのでしょうし、このあたりは「その後も実は(いい意味で)ライバル視していた」ということでも、全然普通と思いますし、その後も時として嫉妬を覚えることがあった……というのでも、人間として全然いいのではないかと思います。

 

 ただ、>>「すべての作品に自分を反映する」というところ、ここが何かちょっと引っかかるわけです。萩尾先生のことを褒めるとしたら、「少女漫画界の神として崇められるストーリー展開の力は今も健在だ」というのは、同業者として微妙な言い方かもしれませんけれども、萩尾先生のすごいところは、「作品に自分を反映する」ところではない気がするのです。それはもちろん、どんな作品だって、作品のどこにもわたしは自分らしさを反映しなかった……ということというのはほとんどありえないでしょうけれど、この言い方だとなんだか、「今もわたしは出来れば萩尾望都という漫画家をなるべく褒めたくないのだ」と言ってるように感じてしまう、というか(考えすぎでしょうか・笑)。

 

 それで、ですね。萩尾先生は竹宮先生というご本人というか、若い頃にリアルでおつきあいがあっただけに――「これはどういう意味かしら?」とか、本を読むと、色々考えずにはいられないのではないだろうか……という意味で、「少年の名はジルベール」は読まないほうが、萩尾先生の心身の健康のためには良いのではないだろうかと、そのように一ファンとして思った次第であります。。。

 

 あ、タイトル一応「トーマの心臓」なので、最後に、ユーリが思っていた、「ユダはキリストを愛し、キリストはユダを愛していたのだろうか」という疑問について……あくまでひとつの説であって、キリスト教界全体としてはやはり、「ユダはイエスを裏切ったとんでもないやつ。ダンテが神曲で描いているように、ルシファーに地獄で食われて当然」というところかもしれませんが――ユダがキリストを愛していたという説も一応あるわけですよね。

 

 つまり、これでいくと、ユダはキリストが不治の病いの人々を癒し、悪霊に苦しむ人々から悪い霊を追い出し、さらには死人を甦らせるといった奇跡まで行なうのを見て……自分が彼を売っても、キリストは何かここでも奇跡的御業を行なって、逮捕されたりはしないだろう、逮捕されたにせよ、これもまた奇跡的御業によってどうにか逃げるなどするだろう――といったように予測していた。また、別の説では、ユダはユダヤ人がローマ支配から脱するために、キリストが政治的指導者となるべきだと考えていたため、そのくらいキリストを追い込めば、彼は何か偉大な業をなすだろう……そう考えたことが、ユダがキリストを売った動機であるとするものがあります。

 

 この場合、ユダはイエスを奇跡を行える偉大な方として尊敬し、愛していたということですよね。そして、イエス・キリストのほうでは神の御心はそんなところにないとわかっていたわけですが、聖書が成就するために必要な裏切り者として、ユダのことを深く憐れみ、「あなたのなすべきことをしなさい」と言った……と、大体のところこうした説を信じている方もいます(もちろん、こうしたことは現行聖書には書いてありませんし、一般的なクリスチャンの方というのはやっぱり、ユダといえば「イエスを裏切ったとんでもないやつ!」と解釈してるのが普通と思います^^;)。

 

 そして、「トーマの心臓」を読んで深く感動するのと同時、「残酷な神が支配する」というのは、ユーリが神学校へ行くというのではなく、他にも彼には自由な救いの道もあったのではないか……との、こうした<魂の救い>の延長線上にある、より先鋭化された救済についいての物語だったのではないだろうか――と思ったりもしました

 

 それではまた~!!

 

 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ピアノと薔薇の日々。ー【あ... | トップ | 「風と木の詩」について。 »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事