きみたちの未来

「私一人ぐらい…」という考えはやめよう。それを世界中の人がすれば、一発で地球はだめになる。坪田愛華ちゃんの語録から

「足で歩くなっ?!」総集編

2006-07-28 07:54:04 | 爺さんの辻説法

【メタボリックシンドローム】

 厚生労働省が去る5月8日に発表した「平成16年国民健康・栄養調査」によると、中高年の男性の二人に一人、女性の五人に一人がメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)か、その“予備軍”であるというのだ。

 平成16年度食料自給率レポートによると、わが国の食料自給率は横ばい傾向が続き、主要先進国の中で最低の水準、40%(カロリーベース)となっているという。しかし、飽食の時代というか相変わらずのグルメ志向に明け暮れ、運動不足と過栄養の生活習慣になじんできたツケが、メタボリック症候群として社会問題化してきた。

 メタボリック症候群の定義は、腹囲(ウエスト回り)が男性85㌢以上、女性90㌢以上で、高脂症、高血圧、高血糖のうち二つが該当する場合を有病者、一つだけ該当する場合を予備軍とするというのだ。要するに肥満体であり、ビール腹の体型が外観的な特徴である。

 肥満体といえば、先日通勤時に二人掛けの座席にメタボリの男性がやってきた。ヨイショと掛け声こそ出さなかったが、ドスンと大儀そうに座り片隅に押しやられてしまった。肩が触れ合うので相手の呼吸に合わせてみると、こちらが酸欠になるような浅い息遣いである。これでは、酸素不足・排気不良でデカイ身体が悲鳴をあげるのも無理はないなぁと同情してしまった。心臓をはじめ人間の内臓は、年齢とともに成長するが基本性能は赤ちゃんも大人も同じである。たとえば、人間の心臓を車のエンジンとすると、ランドクルーザーに軽自動車のエンジンを搭載しているのと同じである。パリ・ダカールよりも過酷な人生というフィールドで、巨躯を自由自在に操るには、それにふさわしい内臓器官(機関)が必要であるが、人体はレーシングカーのように高性能、高出力の内臓器官(機関:エンジン)に取り替えるわけにはいかないのである。肥満体の方々にはきびしいようであるが、持久力・耐久力が乏しく、余病が発生しやすいのも仕方がないのである。

 「調査結果は、今の日本人の現状を物語る。生活習慣病の予防と改善には内臓脂肪を減らす努力が必要で、運動と食生活の大切さを改めて認識してほしい」と松沢佑次日本肥満学会理事長は提唱しているが、メタボリック症候群は健康にイエローカードが出された状態であり、当の本人は自覚症状が乏しく、「おなかが出てきただけ」と危機感も薄いようだ。太っ腹の人間という形容があるが、決してビール腹を指しているのではないことを肝に銘ずべきである。

 この夏、米ウォルト・ディズニーが、ハンバーガー・チェーン大手のマクドナルドとの提携関係を解消することに踏み切った。マクドナルドはディズニー映画の人気キャラクターを自社のテレビCMに使ったり、販促商品を製作する権利として、年間約1億㌦(110億円)をディズニー側に支払っていた。しかし、アメリカでもメタボリックシンドロームが社会問題となっており、子どもの肥満はマクドが原因か?という世論をうけて、「肥満の原因とされている企業をサポートすることは、わが社の企業理念に反する」とディズニー側から提携解消を打ち出したのである。〈この項は、5月9日産経新聞夕刊が報じていた。〉つまり、ディズニーがジャンクフードと縁を切るということである。

 ジャンクフードとは、フリー百科事典『ウィキペディア』によると、
ジャンクフード(junk food):
エネルギー(カロリー)は高いが他の栄養価・栄養素の低い食べ物のこと。
ファーストフードのハンバーガーやドーナッツ、ポテトチップス・ポップコーンなどのスナック菓子全般を指し、単に食感を通じた快楽や満腹感を目的とする食品の総称。
口当たりが良いこと、少量でもカロリーが高いことから、摂りすぎによってこれまでは成人病の一傾向であった肥満や糖尿病などの若年化が生じ、生活習慣病の原因になるとされている。
というのである。
 
 十数年前に、米大手金融機関のソロモン・ブラザースに勤めているというアメリカの青年を京都の観光名所に案内したときのことである。嵯峨野・天龍寺・龍安寺・金閣寺とお決まりのコースを次々と巡り、昼時になったので “ファーストフード” で食事をしようと声をかけたが、「ジャンクフードはだめだっ」と言って「湯豆腐を食べよう」とリクエストしてきた。当時は、過栄養の食事と肥満の関係は問題にされていなかったが、アメリカのヤング・エグゼクティブの間では、すでに関心が高かったようだ。
  
【太っ腹ということ】
 朝の出勤時に、ふと思い立ってドトール・コーヒーに立ち寄った。店内は、出勤途上のサラリーマンやOLでほぼ満席状態であり空いていたラウンド・テーブルに座り、一人静かにカップを傾けていた。前の席には、書類を広げた中年の男性(A氏)が座っており、腹囲(ウエスト回り)は軽く90㌢を超す体型で、明らかにメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の“予備軍”のようである。しばらくすると、彼の知り合いの男性がやって来て、その隣に座った。彼もまた腹囲90㌢を超す体型で「最近、小腹が張ってきたのや」と言うと、A氏は「それは太っ腹というもんや。貫禄がついてきたようで、ええやないか」と笑って応えていた。
 二人の会話が自然に聞こえてきて、「太っ腹」談義がはじまると飲みかけのコーヒーを思わず吐き出しそうになった。確かに、痩せたもの(図の右:犬のような腹)は貧相にみられて、腹の大きい人間(図の中央:ビール樽)の方が恰幅があり、貫禄がありそうに見えるものである。
「釈尊の呼吸法」や「丹田呼吸法」などを著している村木 弘昌氏は、人間の腹のタイプを三つに分類して、本当の太っ腹とは「瓢(ヒサゴ)腹」(図の左)をいうのであると次のように説いている。
          佐保田鶴治・佐藤幸治共著『静座のすすめ』(創元社刊)から
 
 (一) 犬のような腹 いつもくよくよと心配性で怒りやすく、恐怖心が人一倍
     強い。心に落ち着きがなく、神経質で、つねに煩悶不平が絶えない。
     このタイプの人は、ノイローゼ・呼吸器病・慢性胃腸病、とくに胃下垂
     ・胃アトニーなどになりやすい。
 (二) ビール樽腹 腹が出ているのは一見堂々として立派で、強健そ
     うに見えるが、過剰な皮下脂肪の持ち主であると同時に、心嚢(シンノ
     ウ)、つまり心臓の袋にも多量の脂肪が沈着し、心臓の活動を妨げる
     ので、すぐに疲れやすく、動悸や息切れが多く、動作に敏捷を欠くし、
     血圧は概して高く、脳出血あるいは狭心症や心筋梗塞に見舞われや
     すい。

 (三) ひさご腹 下腹部は、まるく豊かに快い膨(フクラ)みををもち、弾力に
     富み、いわゆる瓢箪(ヒョウタン)のようになっている。この状態は心窩
     (ミズオチ)の下は柔らかく凹み、下腹部は弾力性に富んだ硬さを
     随時形成できるようになる。上虚下実、つまり上腹部は柔らかにくつ
     ろぎ、下腹部はきりっとしまった光沢のある腹壁となる。
     このタイプの人は体質が健全で無病、そして活気にあふれ、活動力に
     富み、つねに快適な生活をいとなむことができる。
                     

 参考にした書、『静座のすすめ』の奥付には、昭和51年(1976年)5月20日第1版第8刷発行とあり、実に30年前に現在のメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)に対する予告・警告が出されていたのであるが、さらに江戸時代末期にも名医・平野元良が『養生訣』で次のように言っているのである。
 之を衆人に試みるに小腹臍下(セイカ)充実し、大腹に支結支懣(コリ ツカエ)なきものは無病なるのみならず、精神よく安定(オチツキ)て、仁義の道を志し、決断必ずよきものなり。
 また腹脇支懣(ツカエ)、心下中完のあたり塞(ツマ)りて臍下に力なき者は必ず宿疾ありて治し難く、その思慮定まらず、愚痴蒙昧(グチ モウマイ)にして毎事依様模湖(ハキハキセズ)、ややもすれば耳目の慾に惑いやすく、飲食停滞(トドコオリ)がちにして、多く天寿を完(マット)うすること能わず、たとえ偶々(タマタマ)寿を得たるとも耄碌(モウロク)して事用(コトノヤク)にたち難きもの多し。
 戦後、日本人の食生活が豊かになり栄養への関心も高まり、いまや飽食時代の真っただ中にあるが、健全な生活への試行錯誤は古来から続いてきているようだ。
 ブロガーの皆さんもご自分の腹を調べて、どのタイプに属するかを自己診断してみてください。おそらく100人中、97、8人は(一)か(二)のタイプで、(三)ひさご腹の人は極めて少ないことに気づかれるであろう。

 また村木 弘昌氏は、師と仰ぐ藤田霊斎(“息心調和法”の創始者)の言葉を引用してひさご腹の随伴的功徳、丹田呼吸の真の醍醐味を次のように述べている。
 この宇宙には、大健の徳・大剛の徳・大明の徳・大育の徳という四つの徳性がある。この大宇宙に対して人間を小宇宙とするならば、人間にも同様な四つの徳性がある。つまり、健康・剛勇・叡智(エイチ)・至誠がそれである。

大健の徳: 人間に対して自然治癒力となり、自然療能力となって病気を治し、健康を維持する力となる。
大剛の徳: 剛勇の徳性は毅然(キゼン)として悪をしりぞけ、善に還り、自己の是なりと信ずる道を勇往邁進(ユウオウマイシン)する実行力となる。つまり何ものにも左右されない強い意志力である。
大明の徳: 人間においては叡智の徳となる。この叡智によって、私どもは一切の現象を支配するところの道理を洞察し、芸術の秘奥を体得し、幽玄なる宇宙の真理・人生の根本義を達観して自己の真面目(シンメンモク)・真骨頂(シンコッチョウ)を悟得することができるのである。叡智とは、腹の底から生まれた直覚智(実相覚)にほかならない。
大育の徳: 人間に移して至誠の徳となるものである。至誠は人類最高の徳で、私どもが純真無私、神の如き境地に至ったときに現れる心境である。この徳性が高められていくときは、我と他とのあいだに隔たりがなくなり、王陽明のいわゆる「万物一体」の境地になるという。この心こそ釈迦の慈悲であり、キリストの愛であり、孔子の仁にほかならない。
  佐保田鶴治・佐藤幸治共著『静座のすすめ』(創元社刊)
最後の「大育の徳」には容易に到達し得ないかもしれないが、この世に人間と生まれたからには、せめて「大健・大剛・大明」の三つの徳性を自分のものとしたいものだ。それこそが真の生きがいであり、真の「太っ腹」人間としていつでも、どんな時にも泰然自若(タイゼンジジャク)として、人生の讃歌を高らかに歌い上げることができるであろう。 
 
 真の太っ腹とは、バドワイザーやスーパードライなどのビール樽腹ではないことが明らかである。では、ひさご腹はいかにしてできるかを考えてみたい。腹筋や背筋を鍛えるのも毎日たゆみない努力を続けることが必要であるが、ひさご腹は丹田を鍛えることで形づくることができるのである。丹田をgoo辞書でひいてみると、「丹田(タンデン):東洋医学で、臍(へそ)の下のあたりをいう。全身の精気の集まる所とされる。」とある。丹田は下っ腹にあり、古来から「胆(キモ)に銘ずる」「胆が太い(勇気がある)」「胆(ハラ)がすわっている(度胸がある。滅多なことでは驚かない)」などというが、常に丹田に力が入っている状態を持続させていると、身体のはたらきが活発になり、精神(神経作用)が安定してくる。いわゆる快食・快便・快眠は当たり前で、医者要らず薬いらずの常時健康状態を維持していけるのである。ただ、日々の生活習慣になるためには、それなりの覚悟と根気と努力と創意工夫が必要だ。

 さて、丹田を鍛える(腹を練る)ためには、身構え(姿勢)と呼吸と心構えを整えることが大切である。もちろん独学独習でマスターはできるのですが、ちょっとしたヒントやアドバイスを得るためにも、経験者や先達から指導を受けるのが早道です。この「太っ腹」シリーズで紹介した佐保田鶴治・佐藤幸治編著『静坐のすすめ』(創元社刊)や、村木弘昌著『釈尊の呼吸法』『白隠禅師の丹田呼吸法』(春秋社刊)などの指導書や解説書を参考にされることをお勧めする。

【足で歩くなっ?!】
 昭和50年(1975年)、京都の桃山南口でヨーガアシラム(道場)を主宰されていた佐保田鶴治先生から、最初に静坐(正座)と呼吸法の基礎の基礎と「心身一如」の教えを手ほどきしていただいた。当時は、慢性胃炎・慢性下痢・貧血・不眠症、そして心臓神経症でニトログリセリンを手放せない半病人であった。このヨーガアシラムで一年ほど佐保田先生らの師事を受けていたが、ある日、道友の女性が声をかけてくれた。「静岡の三島に、男性向きのダイナミックなヨガ道場・沖ヨガ道場がある・・・」と。これがまた、新たな人生ドラマの幕開けであったとは、まさに「人生は、小説よりも奇なり」である。
そのうち仕事が忙しくなり、ヨーガアシラムをいつしか自然退会してしまった。

 昭和55年(1980年)5月、人事異動で職場が変わり時間的にも少しゆとりができたのでヨーガを再開しようかと思ったが、ふと三島の沖ヨガのことを思い出して、三島市沢地の求道実行会密教ヨガ修道場へ入門した。玄関の正面には『生命即神』と墨書された軸がかかっており、受付を済ますと新規入会者への面接が始まった。入会の動機や目的を聞かれ、「軟弱な心身を鍛えて強くなりたい。それと先生の名前が自分と同じ正弘なのでこれも何かのご縁と思いましたので・・・」と答えると、「それがどうしたっ」と一喝されて沖 正弘導師との面接が終わった。
 研修は講義と行法(修正法・強化法・呼吸法・冥想行法など)が交互にあり、夜はレポートを書きあわただしい一日がアッという間に過ぎてしまう、毎日がそのくり返しであった。かくして四泊五日の研修生活が過ぎる頃には、身体も心も軽くなり、体力気力ともに充実した自分に変わっていた。それ以来、61年まで毎年5月の連休は、沖ヨガ修道場へ行くことが年中行事となった。
 
 今、当時に受けた講義の内容を詳細には覚えていないが、特に印象に残っているのは、
 『生命即神』ということ。つまり、生命は神であり、自己自身の中に神を見出し、すべての人と物事に神を見、神ありと感じ、行じること、この境地が「即身成仏」であり、沖ヨガの目指すところである・・・。
 『適者生存』ということ。自然界は適者生存という法則があり、環境の変化に対して適応性が高く、柔軟性が高くなければ生きていけない。暑ければ暑いで、寒ければ寒いで、どんな刺激や変化に対しても調和できる状態が、真の「体力」である。
 『日々の生活がヨガである』ということ。仕事でもスポーツをするときでも、姿勢(身がまえ)と呼吸と心(心構え)を一つにすることである。身体の中心は丹田にあり、心は不動心であり、深い呼吸(腹式呼吸)をする。この三つがあらゆることの基本原則である。

 もちろん、当時これらの行法哲学がストンと心に入ったわけではなく、学んでいよいよ迷うことも多く紆余曲折(ウヨキョクセツ)の日々であった。しかし、「 信ずるな、疑うな、確かめよ 」という沖導師の言葉のとおり、何ごとも体験である、体験である、体験は頭の学(知識)を、全身の学(智慧)にしてくれるものである。ある日、沖導師と道場ですれ違ったとき、突如、「 足で歩くなっ! 」 ときびしい声が飛んできた。それ以来、この謎のコトバ 「 足で歩くなっ! 」は、謎のコトバとなって頭から離れなくなり、禅の公案のように解を見出せないまま年月が流れていった。
ヨガの体位(アサンス)には、「逆立ちのポーズ」というのがあるが、まさか逆立ちをして“手で歩く”わけにもいかないし、どういう意図、意味があるのだろうかと思案に明け暮れた。

 最近、『安岡正篤一日一言』―心を養い、生を養う―(知致出版)が出版されたが、安岡正篤先生が小学生の頃、満足(満ち足りる)という言葉に、なぜ、手ではなく、足が使われているのかと担任に尋ねたところ、「バカなことを考える暇があったら勉強しろ」と叱られたそうである。著書の『先哲講座』(竹井出版)中に、「足るを知り、奢(オゴ)らざれば禍(ワザワ)いなし」と足を鍛錬しておくと、身体は健康で、その日常はきわめて「満足」"となり、反対に足が弱ると足が十分でない、すなわち「不足」が原因となって、いろいろな病気にかかり苦しむことになる、だからたる手るではなくて、足ると書くことに注意しなければならないと解説されている。
足ることを知れば、家は貧しといえども、心は福者なり。
足ることを知らざれば、家は富めりといえども、心は貧者なり。
  石庭で有名な京都・龍安寺には「吾唯足知」と刻まれた国宝の“つくばい”が、禅の悟道を無言で語りかけている。“たかが足、されど足”ということは分かる。だが、「 足で歩くなっ! 」 という沖正弘導師のコトバの謎は、依然として解けなかった。それが回天の愛語の一喝だったとわかるまでは・・・。

  「這えば立て、立てば歩めの親心」(この親心は、人間を創りだした親、神・宇宙の大生命の心である)
 赤ちゃんが一人歩きし始めた頃のことを想い出してほしい。いかにもヒョロヒョロとして不安定である。バランス感覚が十分に発達していないことと、身体の重心が定まらないからヒョロヒョロして転んだりするのは当然である。
 では、人間の重心(中心)はどこにあるのか。人間の重心(中心)は、臍(ヘソ)と腰椎三番と肛門の三点を結ぶ三角形の中心、いわゆる丹田にあるのである。丹田なるかな、丹田なるかなである。
 
 次に、足の働きであるが、人間が直立歩行することによって、全体重を足の裏で支えるために、踵(カカト)が拡大し、拇指(オヤユビ)が発達した。そして、人間の体重は、踵(3/6)と拇指(2/6)によって保持され、他の四指は補助的役割(1/6)を果たすに過ぎないのである。正常な足の体重支保線は足心(ツチフマズ)であり、重心が足心に正しく落ちている者の拇指は発達し、力があり、第二指(人差し指)との開きがなく拇指の裏は硬くなっている。
       [この項は、沖正弘著『ヨガ・行法と哲学』(霞ヶ関書房)から引用]

 沖導師の一喝、「足で歩くなっ!」は、実にこの一点、「拇指で歩けっ!」であったということが、ある日、偶然に分かり、理解できた。というのは、休日などに外出するときは、素足で下駄を履くことがお気に入りのスタイルで、靴履きでは味わえない身体の開放感を楽しんでいた。その時、沖導師のコトバは、「足で漫然と歩くなっ。拇指を使え、拇指で歩けっ!」という言外の言であったと直感的に分かった。その日以来、いつでも、どこでも、どんな時でも、一意専念して拇指歩行を心がけた。と同時に、下腹・丹田に力を入れることも意識的に続けてきた。
 
 拇指歩行を始めて一ヶ月になる頃、こんなことがあった。夏の夕方、仕事帰りに京都・丸太町通の古本屋めぐりをしていたときのことである。河原町丸太町の北側の交差点を東から西へ横断歩道を歩いていると、右折してきた車がスピードをゆるめずに突っ込んできた。とっさに身体を90度反転し、車のボンネットに両手を突いた。フロントガラス越しに運転手が「アッー!」と口を大きく開けている表情がはっきりと見えた。次の瞬間・・・、今でもそのときの状態は自分でも分からないが、身体は車の左側に移動し、数メートル先で急停車した車を見送っていた。運転手があわてて駆け寄ってきたが、お決まりの「バカヤロー」という言葉も出さず悠然として微笑さえ浮かべる心の余裕があった。右手の肘辺りがフェンダーミラーにでも当たったのか、微かな感覚があっただけである。これを超常現象とか、奇跡とかいうのではなく、拇指歩行の威力、偉大なるかな丹田の力として、さらに熱心に拇指・拇指・拇指と唯ひたすら拇指を使って歩くことを心がけてきた・・・。

 その結果、今では腹囲(へその回り)は76センチ、下腹部(丹田)は85センチの、百人に一人か二人という「ひさご腹」になっている。徳うすく、識浅いG3で、地位もなく財もなく、他に誇れるものは何もないが、こうしてブロガーの皆さんに、「太っ腹のすすめ」や「足で歩くなっ!」を通して、神といい自然といいサムシング・グレート(偉大なる何者か)という名で呼ばれている宇宙の大生命が設計された最高傑作・真の人間を自分自身の人生で実現していかれることを、心から祈念しています。おかげさんで、ありがとうございます。
感謝合掌       《 完 》
 G3




   


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1 コメント

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足で歩くな (H Yamashita)
2016-05-16 05:31:40
勝手な想像ですが、「足で歩くな」のもう一つ考えられる意味として、骨盤で歩けということも考えられませんか。つまり足は骨盤の動きを伝えるタイヤのようなもの……筋肉で言えば大腿四頭筋ではなく、腸腰筋であるという解釈はいかがでしょうか。
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