きみたちの未来

「私一人ぐらい…」という考えはやめよう。それを世界中の人がすれば、一発で地球はだめになる。坪田愛華ちゃんの語録から

余録「足で歩くな?!」

2006-07-29 07:27:15 | 爺さんの辻説法
 最近、社会現象になりつつある「メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)」について記事を書いたのがきっかけとなり、「太っ腹ということ」「太っ腹のすすめ」と続き、「謎のコトバ“足で歩くなっ”」と回を重ねてきた。拙い文章、未熟な表現ではあるが、20数年をかけてきた求道の一端を取りまとめることができホッとしている。
 もし沖 正弘導師から「足の拇指を使え、拇指で歩けっ!」と懇切丁寧に指導されていたら、途中で挫折していたであろう。沖導師も「体全体で把握した真実が奥義である」と、次のように記されている。
 奥義は語ろうとして語れるものではない。また考えてわかるものでもなければ、説明されて把握できるものでもない。書きあらわすことのできない理外の理なのである。この理外の理をつかまえることが悟りであり、奥義に達することである。
 それでは、この理外の理をつかまえるにはどうしたらよいかというと、つかまえようと思ってもつかまえられるものではなく、ひたすらにただ行じてみる以外にないのである。だが、ただ行じるだけではいけない。なぜならば、それは妄動に終わるからである。目をとじて歩けばころぶだけであろう。目をあけてひたすら歩くうちに、いつの間にか到達してしまったところ、そこが奥義なのである。
          沖正弘著『ヨガ・行法と哲学』(霞ヶ関書房)
 えらそうなことを書いてきたが、決して奥義を極めたわけではないし、まして悟れたわけでもない。求道の道は、道半ばにしてまだまだ続く、果てしない道である。唯、ひたすら拇指、拇指、拇指と足の拇指に意識を集中してきた結果、いつの間にか下腹(丹田)に力がこもり、肛門は締まり、肩の力が抜けた状態、つまり上虚下実の体形になっていたということであり、中村天風先生の書に親しまれた方なら、もう気づかれたと思うが、あの「クンバハカ」(最も神聖なる状態)が自然に出来あがっていたのである。それが結果として心(精神・神経)と肉体を強化する健康への王道であり、諸行無常という人生の荒波にも打ち勝てるライフボート(救命具)でもあったのである。
  「信ずるな、疑うな、確かめよ」というコトバが、沖正弘導師の語録にある。
コツや秘訣や奥義というものは、いわく言い難しであり、それこそ「冷暖自知」するしかないのである、というのだ。沖導師が「足で歩くなっ!」と一喝されたのも、峻厳なる愛であったと、唯ただ感謝するばかりである。
ブロガーのみなさんが、心身の強化、鍛錬を望み、健康維持を願っておられるならば、他物に頼らず「脚下照顧」されて、「足の拇指を使え、拇指で歩けっ!」と重ねてお奨めする。

 この「足で歩くなっ」をエントリーしたおかげで、映画「ダ・ヴィンチ・コード」ではないが、足と脚に関する言葉の意味(なぞ)をG3流に解釈すると、次のようになる。
 釈迦、キリストをはじめ、空海も道元禅師も法然も親鸞も、あらゆる宗教、宗派の開祖や教祖などは、自ら大悟した真理、教義を布教、説法して諸国を巡り歩いた。当時は、せいぜい駕籠(カゴ)に乗るか、馬や牛、象やラクダなどの動物を利用する以外は、もっぱら歩くしかなかった。来る日も来る日も、歩きに歩いた。ただ歩き続けた。彼らは直感的に、あるいは体験的に足の拇指の威力を知っていて、利用していたのではないだろうか。
「仏足石」というものが、日本各地の寺院に存在するがご存知だろうか。
フリー百科事典『ウィキペディア』によると、「仏足石」(ぶっそくせき)とは、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの。古いものは紀元前4世紀に遡るとも考えられている。また仏足石は釈迦のものとは限らず、シバ神の足跡も信仰の対象とされている。両足を揃えたものがより古い形式のもので、片足のものは比較的新しく紀元後のものと考えられる、と解説されている。
図は、奈良薬師寺にあるもので、753年(天平勝宝5年)天武天皇の孫文屋智努(=智努王)によってつくられた日本最古のものである。図が暗くて見づらいが、大きくて力強い拇指がその存在感を示している。〔奈良薬師寺のHPから引用〕

 したがって、日常よく使われる禅語の「脚下照顧」や「吾唯足知」は、通常に解釈すると 
 「脚下照顧」〔キャッカ ショウコ:禅家の標語から〕他に対して理屈を言う前に自分の足もとをよく見ろ。自己反省を促す意で用いられる。
 「吾唯足知」〔ワレ タダ タル ヲ シル〕:人は不足を数えず、今、生かされている自分であることに感謝し、今を大切にしなさい、という意味になるが、理外の理、言外の言を深く読めば、「足で漫然と歩くなっ。拇指を使え、拇指で歩けっ!」となるに違いないと確信している。拇指の威力と効果は「論より証拠」であり、「冷暖自知」するしかないのであるが・・・。    

 この「足で歩くなっ」シリーズをアップして、友人知人から「G3の元気の素は足の拇指だったのかぁ。元手いらずやなぁ」と賞賛半分、冷やかし半分の声が届いたり、「ひさご腹になりたいです」とか「腹がすわっている、というのは丹田のことだったのですね」という便りやメールをいただいた。うれしいことであり、ありがたいことであり、アクセスしてくださった皆さんに心から感謝しています。
 
 願わくは、倦(ウ)まず弛(タユ)まず拇指歩行を心がけて、丹田力を練りあげた真の太っ腹な人間を目指していただきたい。そして、いかなる外圧や環境の変化にも屈せず、この国、日本が進むべき道を正しくリードする人財として、政・官・財はもとより教育、文化、スポーツ界などであらゆる分野で活躍されることを心から信じ、祈念する。
危険に面して恐れざるものは遂に勝つ
 人間須(スベカ)らく強者とならざるべからず。強者となるには丹田にて呼吸せざるべからず。踵(カカト)にて呼吸せざるべからず。常に頭は軽く腹部に力こもりて「地天泰」(チテンタイ)の姿勢を保たなければならないのである。
 地天泰の姿勢は、崩れざること泰山の如く、富岳の如く、氷山の如きである。みよ、北極に浮かぶところの偉大なる氷山を。彼はピラミッドの如く先は細く下部は広く豊かに海底に浮かびてその八分の七は水中にあるのである。重みのバランスが下部にあるが故に、いかなる波濤(ハトウ)も暴風雨も、寸毫(スンゴウ)もこれを動揺せしめることはできないのである。偉大なるかな下部の力。臍下丹田の力。腰の力。踵の力。更に偉大なるかな、目に見えざる潜在意識の底にある「吾神の子なり」の自覚の力よ。
            谷口雅春著『青年の書』(日本教文社)
〔注〕「地天泰」
    易経の64卦の一つで、地天泰は文字通り、天と地とが交わって、万物の生命が滞りなく栄える様子を表す卦で、物事がきわめて伸展するという意味を持つ。天と地ばかりでなく、親と子、強者と弱者など、通常は対立しがちな立場の異なる人々が、親しく和合する象(スガタ)を表す。
G3    一燈照隅、萬燈照国  


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