長崎街道塩田道、成瀬宿の手前にある藩境石。
長崎街道は、当初この塩田道が本道であった。
しかし街道に沿って流れる六角川がたびたび氾濫を起こすため、武雄・嬉野回りに付け替えられた。
この藩境石は、佐賀本藩と多久領の境を示す石と案内板には書かれている。
この石、高さ1m、幅2m以上ある巨石。
黄色の丸印あたりに「五拾七番止」と彫ってあるらしい。
らしいというのは、風化と苔でほとんど文字が判読できない。
案内板は以下のとおり。
ここは、長崎街道、五十七番止。
道路から10mほど入ったところに「五十七番止」
と彫られている巨石がある。医王寺の古地図より、
巨石は、江戸時代享保4年(1719年)に多久領と佐賀
本藩の御狩倉山(おかくらやま)境界に設置された
境界石ということがわかっている。
「五十七番止」の意味は、57番目の境界石であ
ることを示し、「止」は、境界の最後の測点であ
ることを意味している。また、この周辺は参勤交
代や長崎へ行く大名等の籠立て場(休憩所)として
利用されていた。
さらに山の奥のほうには、猪鹿防石塁(いのしし
しかぼうせきるい)や鹿垣(ししがき)の跡が残って
いる。猪鹿防石塁や鹿垣は、医王寺、芦原、長池
地区山中の畑作物を猪や鹿から守るための他、狩
をする際に獲物を逃がさないためなどの目的に応
じて作られていた。
【DATA】
五拾七番止
佐賀県武雄市北方町芦原
【mapfan】
長崎街道は、当初この塩田道が本道であった。
しかし街道に沿って流れる六角川がたびたび氾濫を起こすため、武雄・嬉野回りに付け替えられた。
この藩境石は、佐賀本藩と多久領の境を示す石と案内板には書かれている。
この石、高さ1m、幅2m以上ある巨石。
黄色の丸印あたりに「五拾七番止」と彫ってあるらしい。
らしいというのは、風化と苔でほとんど文字が判読できない。
案内板は以下のとおり。
ここは、長崎街道、五十七番止。
道路から10mほど入ったところに「五十七番止」
と彫られている巨石がある。医王寺の古地図より、
巨石は、江戸時代享保4年(1719年)に多久領と佐賀
本藩の御狩倉山(おかくらやま)境界に設置された
境界石ということがわかっている。
「五十七番止」の意味は、57番目の境界石であ
ることを示し、「止」は、境界の最後の測点であ
ることを意味している。また、この周辺は参勤交
代や長崎へ行く大名等の籠立て場(休憩所)として
利用されていた。
さらに山の奥のほうには、猪鹿防石塁(いのしし
しかぼうせきるい)や鹿垣(ししがき)の跡が残って
いる。猪鹿防石塁や鹿垣は、医王寺、芦原、長池
地区山中の畑作物を猪や鹿から守るための他、狩
をする際に獲物を逃がさないためなどの目的に応
じて作られていた。
【DATA】
五拾七番止
佐賀県武雄市北方町芦原
【mapfan】