佐賀ばそーつく

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江藤新平卿之像

2009-11-03 08:18:58 | 偉人碑
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は日本の武士(佐賀藩士)、政治家である。
幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら・の・たねお)
(Wikipediaより)

佐賀市内にある神野公園内に建っている。

明治維新では、司法・文教の基礎を築いた。

佐賀の乱(役)の首謀者とされているが、最近は大久保利通が仕掛けた政争とも言われている。

佐賀七賢人の一人。



3メートルはあろうと思われる立像である。

しかし、顔が異常に大きい。

写真にものさしをあてて測ったら6頭身。

実物はどうだったのだろう?



明治政府の要人は、薩長土肥出身の藩士達で構成されていたが、薩長土に比べ肥前藩士の影が薄い。

業績的には遜色はないと思うのだが、目立つのを嫌う佐賀県人(肥前藩士)の気質か。



像の脇にある案内板には以下のよう記されている。

江藤新平卿について

 江藤新平卿は、天保五年(一八三四年)二月九日佐賀
郡八戸村(佐賀市鍋島町八戸)で佐賀藩士の家に生まれ
た。
 幼少から勉学に励み、藩校弘道館に学んだほか、枝吉
神陽、石井松堂などにも師事したが、早くから尊王派同
士の義祭同盟にも参加した。維新の風雲が急を告げるや
文久二年(一八六二年)脱藩して京都に上り、勤王派の
公卿や薩摩、長州などの志士とも交わって大いに画策す
るところがあったが、佐賀へ連れ戻されて脱藩の罪に問
われ、辛うじて死は免れたものの終身閉居を命じられた
 慶応三年(一八六七年)徳川幕府が大政奉還した後、
罪を許され郡目付として京都へ上る。翌年朝廷の徴士と
なり、征討大総督府の軍監として江戸開城に立ち会う。
また彰義隊討伐と江戸遷都を建議、その後、江戸の民政
安定などに尽くした。明治二年(一八六九年)佐賀藩の
参政に任命されて藩政改革に取り組んだ。同年秋、新政
府の要請により再び東京に上り、中弁に任命されて廃藩
置県案、賞典制度案、国政改革案、陸海軍備方策などを
作成し献策した。明治四年文部大輔、左院副議長、同五
年司法卿、同六年参議と要職を歴任し、文教制度の確立
諸法規の制定などに尽くした。
 明治六年十月征韓の議が否決となったため、西郷隆盛
らと共に参議を辞任し下野。同七年一月佐賀に帰って征
韓党の党首に推された。同年二月岩村高俊権令が熊本鎮
台兵を率いて佐賀に入城したため、島義勇の憂国党と共
にこれを攻めた。いわゆる佐賀の役ぼっ発。最後はこの
戦いに敗れ、同年四月十三日佐賀城内で処刑された。時
に満四十歳。大正元年(一九一二年)罪名消滅。大正五
年正四位を復位追贈された。
 その最後は悲痛を極めたが、江藤卿が初代司法卿とし
て近代的法制と諸官制の創建、司法権の独立、汚職の摘
発、人権の擁護などに身をもって当たった不滅の功労は
永く歴史に残るであろう。
昭和五十一年四月十四日
江藤新平卿記念碑建設委員会

【DATA】
江藤新平卿之像
佐賀市神園4-1-3神野公園内
昭和51年建立
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