桃山晴衣の梁塵秘抄 / 龍女は仏に成りにけり
日時:10月30日
内容:清掃(経田駅前トイレ)。
感想:
東京オリンピックの
マラソン大会等を
札幌開催という話ですが
8月の暑い東京でも
隈研吾氏の競技場に入りたいと思う
陸上選手がいるやも知れません。
陸上選手に聞いてみるべきです。
ただ
本来なら前回の東京オリンピックのように
10月にするべきであります。
おわり
高橋記(表現に不自由のない私)
日本は
いつまで経っても
鹿鳴館時代であり
西洋崇拝、西洋かぶれである。
近代の
思想、信条の自由は
ミルトンやボルテール
ロックやルソーのような
当時のカトリック的な権威社会で生きずらかった人々
何かあれば喧嘩して仲たがいするような
私のようなどもこもならん駄目人間の
個人見解から発している。
当然
当時のイエズス会やカトリック教会
国王様達とは
合わなかっただろうし
社会からつまはじきであったろう(私は何となく分かる)。
その意味で
近代フリーメイソンリーや
啓蒙思想、プロテスタンティズム
近代社会が
出現してきた経緯を
理解、想像することは可能である。
しかし
その変わった一群の人々の
生きる場を創造する
原初の荒魂(あらみたま)の過程を捨象して
西洋近代の物まねをした日本は
前近代的なカトリシズムへの
アンチテーゼの一部でしかない
近代思想そのものの
本質理解が浅はかなのである。
近代の西洋列強の
世界分割、植民地政策は
誤った政治、経済、軍事政策であった。
その真似をした
近代日本は
かつて崇拝していた
中国と朝鮮文化を一気に卑下し
脱亜入欧へと変節して
自らも欧米列強に仲間入りし
世界分割に乗り出した。
アジアと仲良くするという純粋なアジア主義は
いつしか
アジアの覇者となるという
支配欲の粗野な解放となり
愚鈍な政府と軍人は暴走して
最終的に
一度この国は破綻したのである。
その過程で
ガバナンスが弱体化していた清や李氏朝鮮にも
どんらんに介入し
満州帝国を建設したり
閔妃(朝鮮の皇后)暗殺に加担したりした。
よって
そのような近代日本を
肯定は出来ないし
林房雄的な大東亜戦争肯定論がいまだに日本に存在し
靖国神社へ公的に参拝しようとする政治家、論客が
残存している現状は
世界から観て
異様な情況である。
何れにせよ
昔は
中国や朝鮮文化の恩恵に与りながら
東アジア文化を卑下し
G7的な世界観に自足している現状は
憂慮すべきである。
この国の指導層と国民におかれましては
歴史的、超歴史的な本質理解のために
一次資料、原典にたちかえり
往時を追体験して
思索を深めて頂きたく存じます。
完
高橋記(表現の自由)
私の社会倫理規範は
歴史的倫理から言えば
前近代、封建社会の縦社会倫理
朱子学、カトリック的な伝統を
固守するものである。
よって
男子は外で働き
女子は家庭を守るという
聖家族
聖ヨゼフと聖母マリアのあり方を
理想とする。
子供は
母親や
女系家族が育てるもので
男子の入る余地はないと
考える。
よって
保育所を増やしていく施策には
異を唱える。
また
介護は
家族が中心に担うべきで
ケアマネや病院が
中心に事を決定するあり方は
間違っている。
その意味で
最近の行政施策
同性婚の容認や男子の育児参加には反対し
介護保険と年金制度の廃止を主張する(税に一元化)。
しかし
これは
あくまで個人見解であり
誰にも押し付けないし
現在の政府と自治体の政策を
批判はしない。
何となれば
それは
単なる個人の思想、信条の自由な表現に過ぎず
真理を市場原理の上ではっきりさせようとする弁証法的な論理学ではないからだ。
また
私は
政治的主張や反宗教的、反道徳的な主張を
芸術に混ぜるやり方は
昔から嫌いである(サルトルやニーチェ)。
反戦平和を唱えるならば
政治や行政や
公益事業に携わるべきで
60年代安保学生運動に挫折して
意味不明な前衛芸術や抽象絵画に逃げるな
と言いたい。
昭和天皇に大東亜戦争の責任はあるが
誤った国策に協力したのは
民衆のアノミーと無責任
指導者の見識と節操のなさである。
戦争
特に近代国家間の全面戦争は
何れかの国が浄化、ジェノサイドされるほどの
異常で非倫理的な所業であり
日本の大東亜戦争が
当初
アジア植民地解放を目指したとしても
やはり
中国やアメリカと戦争すべきではなかった。
慰安婦制度は
近代国家戦争において
どの軍隊でもあったから
日本は免罪とはならないし
大東亜戦争は義侠心から為されたため
それは聖戦だった
とはならない。
脱線したが
何れにせよ
戦後の日本が
事の核心から逃避し
本質的な論議をしてこなかったつけが
政治的施策の混迷
表現の不自由展や映画祭問題の遠因である。
政治的、宗教的な本質に抵触するであろう問題についても
いろんな異見を表明して
各自が思索を深めるべきである。
しかし
真理は市場原理で明らかになるのでなく
長上の決定
権力の決断
公的な権威
司教認可に依る。
すなわち
真理は個人の主観に想起するイメージの束ではなく
客観の存在から照射される対象の認識である。
これは
私の考えを自由に表現したものである。
完
高橋記(客観的素朴実在論)