NPO法人 地域福祉協会

清掃事業  森林事業(植栽・剪定)

社会倫理と表現の自由について。

2019-10-30 | コラム

私の社会倫理規範は

歴史的倫理から言えば

前近代、封建社会の縦社会倫理

朱子学、カトリック的な伝統を

固守するものである。

 

 

よって

男子は外で働き

女子は家庭を守るという

聖家族

聖ヨゼフと聖母マリアのあり方を

理想とする。

 

 

子供は

母親や

女系家族が育てるもので

男子の入る余地はないと

考える。

 

 

 

よって

保育所を増やしていく施策には

異を唱える。

 

 

 

また

介護は

家族が中心に担うべきで

ケアマネや病院が

中心に事を決定するあり方は

間違っている。

 

 

その意味で

最近の行政施策

同性婚の容認や男子の育児参加には反対し

介護保険と年金制度の廃止を主張する(税に一元化)。

 

 

しかし

これは

あくまで個人見解であり

誰にも押し付けないし

現在の政府と自治体の政策を

批判はしない。

 

 

何となれば

それは

単なる個人の思想、信条の自由な表現に過ぎず

真理を市場原理の上ではっきりさせようとする弁証法的な論理学ではないからだ。

 

 

また

私は

政治的主張や反宗教的、反道徳的な主張を

芸術に混ぜるやり方は

昔から嫌いである(サルトルやニーチェ)。

 

 

反戦平和を唱えるならば

政治や行政や

公益事業に携わるべきで

 

60年代安保学生運動に挫折して

意味不明な前衛芸術や抽象絵画に逃げるな

と言いたい。

 

 

昭和天皇に大東亜戦争の責任はあるが

誤った国策に協力したのは

民衆のアノミーと無責任

指導者の見識と節操のなさである。

 

 

戦争

特に近代国家間の全面戦争は

何れかの国が浄化、ジェノサイドされるほどの

異常で非倫理的な所業であり

 

日本の大東亜戦争が

当初

アジア植民地解放を目指したとしても

やはり

中国やアメリカと戦争すべきではなかった。

 

 

慰安婦制度は

近代国家戦争において

どの軍隊でもあったから

日本は免罪とはならないし

大東亜戦争は義侠心から為されたため

それは聖戦だった

とはならない。

 

 

 

脱線したが

何れにせよ

戦後の日本が

事の核心から逃避し

本質的な論議をしてこなかったつけが

 

政治的施策の混迷

表現の不自由展や映画祭問題の遠因である。

 

 

政治的、宗教的な本質に抵触するであろう問題についても

いろんな異見を表明して

各自が思索を深めるべきである。

 

 

しかし

真理は市場原理で明らかになるのでなく

長上の決定

権力の決断

公的な権威

司教認可に依る。

 

 

すなわち

真理は個人の主観に想起するイメージの束ではなく

客観の存在から照射される対象の認識である。

 

 

 

これは

私の考えを自由に表現したものである。

 

 

 

 

 

 

高橋記(客観的素朴実在論)

 

 

 

 

 

 

 


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