神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.255 大日本

2024-08-07 23:40:51 | 文書・文献
 きょうもまたカミナリ=サンダーが襲ってきました。
 前にも何度か書きましたが、私の住む昭島市は気象の境目にあたるようで、東の都区部、西の方の奥多摩・山梨、南の方の丹澤山・富士山、北の方の埼玉など、周囲でかなりひどく天気が崩れても、さほど大きな変化は見られません。むしろ、4つの周辺地域からすると昭島市は縁〔へり〕にあるわけで、「あっちは天気がよくないな」と感じさせる程度で、むしろ「おもしろい雲の変化」が見られたりすることがあるくらいです。
 きょうは北の埼玉県狭山市の方から黒雲が広がってきて覆われてしまいましたが、きのうは、夜半に雷雨になったものの、18時頃はきれいな夕焼け雲が見えてました。

   

【コレクション 41】
(1)きょうは『大日本』です。
 これはA4判縦、裏表2㌻ですから、マルマルを下に載せ、説明を略します。
 なお、スキャナーで取り込んだときはくっきりとしているのに、そこからブログに取り込んだところでぼやけます。写真だけ見るのもよし、興味ある人は天眼鏡を使って読むのもよし、としてください。
  まず表
 
 
  つぎに裏

 この本を私は持ってないのですが、すでに古書店でも入手が難しい稀覯本のようです。
 この本について、2つの点から関心をもっています。
 一つは、上のパンフにもあるように、工部大学校が日本の工業技術教育の先駆けとなる機関であり、それを築いたヘンリー・ダイアーが書いた本という一般的経緯からです。
 もう一つは、神足勝記の同郷人も工部大学校の事務方として働いていて、さらに、『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)に出て来る同郷の友人「築山鏘太郎」などがいるからです。
 なお、築山は1980年の『東京化学会誌』第11帙に「本邦製紙ニ関スル事項」、1892年第13帙に「越後地方ノ石油ニ就テ」、1894年第15帙に「砂糖精製講義」などを書いています。
 『神足日記』を読んでわかったことの一つに、維新後の新政府の動向で、薩長土肥の「肥後」・熊本勢の動向がかなりの要点をなしているということがあります。とくに、政治のトップではなく、実務者層をみると、熊本勢がかなり浸透しています。その筆頭は井上毅などですが、神足や築山もそういう下で育ってきた層とみることができます。

(2)私は、神足勝記や御料局の事業と関わるものについて目配りをしている程度のものですが、工業関係では「工手学校」をめぐる動向に関心をもっています。
 明治4年に工部省が設置され、11年に工部大学校ができると、民間の私立系の工学校の先駆けとして工手学校が20年10月にできます。この設立には、神足勝記の同窓生で、知人の巌谷立太郎〔いわやりゅうたろう〕と親しかった栗本廉〔くりもとれん〕が名を連ねています。
 『工手学校』については次のものを勉強しました。 
    

 茅原健『工手学校 旧幕臣たちの技術者教育 」(中公新書ラクレ 2007年6月)です。
 読んでの感想は「やや硬いが、得難い本」です。

(3)日本の民間の工業系の教育機関は、工手学校ができてのち次第にその必要性が認められるようになり、20年代後半から30年代にかけて、今日私立大学の工学部の先駆けになる工業学校の設立が始まります。

(4)この「工手学校」の設立より前に、一つ注目しているものがあります。「私立攻玉社」です。
 攻玉社は明治12(1879)年12月に測量術を教育する学校でしたが、21(1988)年に土木技術の教育を始め、34(1901)年に土木科と建築科を設置して攻玉社工学校になりました。
 まず、御料局で神足たちが測量事業に従事するようになったころに、攻玉社で勉強して入局してくる人が見られるようになります。また、神足の部下の鈴木民作が乞われて出講します。
 さらに、御料地・御料林の事業が進んでくると、大学や農林学校出の林業技術者〔幹部〕と並んで、攻玉社を経て技術雇員や技丁〔現場の技術者〕として入局してくる人が見られるようになります。

(4)やや専門的になりましたが、御料地・御料林の経営ということも、工業技術の発展やその教育ということを踏まえないと本当のところは解明でないと思われる重要な環なのですが、なかなか手が回らず、です。
 まあ、一般に財政は、今のことでも、昔のことでも、多くの分野と関わる複雑な学問分野です。「皇室財政」も、この呼称の是非はともかくとして、一応は「財政」と名がついていますから、やる以上はその覚悟が必要です。それだけでなく、情報公開法制定前は公文書が見られなくて難儀しましたが、情報公開法によって誰でも公文書を見られるようになった今は、その膨大さが大変なものです。
 それでも、あと20年あれば片付くでしょう。問題はそこです。
 では、今日はここで。

    
     あしただね!


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