神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.258 日本占領

2024-08-11 00:24:14 | 文書・文献
(1)8月は6日広島の日、9日長崎の日、そして15日と続きます。だいぶ前に、この日を「終戦の日」というか「敗戦の日」というかで議論がありましたが、終結を待望した場合は「終戦の日」、戦争の帰趨に主眼を置いた場合は「敗戦の日」でしょうか。
 これは、このブログのだいぶ前〔場所みつけられず〕に書いた「とうとう」です。
 あの時あげた例は、「とうとう電車が来た」でした。これをドイツ語に訳すとき、待ち望んでいれば「endlich〔ようやっと〕」です。これに対して、できるだけ後の方がよい、できれば来ない方がよいという場合は「schließlich〔もう〕]です。なお、ドイツ語の辞書を見ると、「schließlich und endlich〔とどのつまり〕」というのもでてきます。
 おっと、話を戻します。
 あの時、多くの国民は「ようやっと終わった」だったでしょうから、その意味で「終戦の日」ですけど、「ついと敗けちゃった・・・これからどうなるんだろう」もあったでしょうから、その時は「敗戦の日」もアリでしょうねぇ。もちろん、戦争指導者には「敗戦の日」です。「終戦の日」などといった成り行きまかせみたいなノンキなことは許されません。
 ともあれ、庶民にとっては、「8月15日」をどういうクダリで取り上げるかで、「終戦の日」も「敗戦の日」もあるでしょう。
 この先、ウクライナやガザやそのほか多くの紛争地の子供たちは、多かれ少なかれ複雑な心持で終戦を迎えるはずです。その意味で世界はもっと急がなければなりません。遅い。
 きょうは、その終戦に関わるもので出て来たものを選びました。

    

【コレクション 49】
 まず、『密室の終戦詔勅』です。
 
 全体は、B5判大で、4㌻です。
 1㌻ 上掲
 2㌻ 上段 「 ”終戦の詔書”は何を語るか?」
    下段 詔書の作成過程を示した図。
 3㌻ 上段 推薦文 福島鋳楼(占領史研究会員)終戦の詔書に新事実
    中段 終戦閣議の座席図 第1回聖断の座席図
    下段 詔書の署名ページの図
 4㌻ 刊行案内 B5判 340㌻ 定価3500円 雄松堂出版 1989年
 以上です。
 この本の内容は、従来、詔書は迫水久常書記官長による起草と考えられていたが、実はその前に起草者がいたことなどがわかったというものです。これは事実の解明として重要なことです。しかし、上のパンフはどうでしょうか。ちょっと大げさにすぎませんか。
 見ると「家庭の書架に1冊!」などというキャッチ・コピーまであります。全国の約4千万世帯に1冊ずつ??? 売らんかな主義の広告です。要注意です。

【コレクション 50】
 つぎは、『G.H.Q.東京占領地図』です。
 
 全体はB5判大、4㌻です。
 1㌻ 上掲
 2~3㌻ 上段 福島鋳郎(日本出版学会会員 占領史研究会会員) 刊行のことば
      下段 占領当時の国会辺と銀座辺の写真と地図
 4㌻ 内容一覧 
    刊行案内 B5判 250㌻ 定価7500円 雄松堂出版 
 以上です。
 このパンフを見て買う人がいるでしょうか。2色摺だからではなく、どこを見ても魅力がありません。「現物を一度見てからだな」とまで行くかどうか、という感じです。。

【コレクション 51】
 つぎは、『日本占領・外交関係資料集』です。

 全体はB5判大、8㌻です。
 1㌻ 上掲
 2㌻ 荒 敬 編集にあたって
    推薦文 竹前栄治 東京経済大学教授 きわめて価値の高い資料集
    推薦人 赤澤司郎 荒川章二 粟屋健太郎 佐藤秀夫 袖井林二郎 中村隆英
    各巻の構成
 3㌻ 全巻収録資料一覧
 4~5㌻ 収録資料見本
 6~7㌻ 占領期関係年表
 8㌻ 宣伝・広告
 以上です。
 このパンフは2色刷りで、見た目は殺風景ですが、内容紹介としてしっかりしています。上の1面だけでも読んでみてください。

【コレクション 52】
 最後は『資料 日本占領 1天皇制』です。
()
 全体はB5判大6㌻です。横長のB5判3枚分の紙を、最初に左の3分の1を折り込み、次に見後の3分の1を折り込むとできます。
 1㌻ 上掲
 2㌻ 1天皇制の紹介 本シリーズの特色
 3~5㌻ 1天皇制の全目次 続刊案内
 6㌻ 広告
 以上です。
 このパンフは、上の1㌻目は立派ですが、2㌻目は目的不明、3~5㌻は、全目次がわかり調べるには都合よいですが、細かすぎてあまり有難くありません。1㌻をのぞけば、全体として良い出来ではありません。
 以上、それぞれ工夫されはいますが、どれも持っていて「楽しい」と思うのは一つもありません。
 きょうはここまでです。 

    
     公園の夕べ

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No.257 震災

2024-08-10 00:36:06 | 文書・文献
(1)宮崎県南東部・神奈川県西部と連続して地震が発生しました。目下の雰囲気としては、気象庁や政府も、NHKなど報道機関も、おしなべて「すわ、南海トラフ地震」といった対応ぶりですが、果たしてどうなのでしょうか。
 こういう時にこそ言いたいのが、
 外交で防げる軍事(防衛費)に金をかけるのでなく、プロの防災組織・機構をつくること、 
 気象や火山などの(これまで減らしてきた観測所を復活させ)もっと作るほか、地球科学の基礎的研究の振興に努めること、
 国民生活の安全のため、国土保全・環境維持・食料確保の要点である農林魚業にもっと支援策を講ずること、
 などです。 
 先日「米が品薄だ」というニュースがあったせいか、きょうカミさんが買い物に行ったら、スーパーの棚からコメがなくなっていたそうです。これでは、1970年代のトイレットペーパー騒動から何も学んでいないことになりかねません。

(2)そこで、きょうは、手元にある震災関係のチラシとパンフを紹介します。といっても、意識して収集したものではなく、気が付いたから持ってきておいたという程度のものです。

【コレクション 45】
 まず、横浜開港資料館で平成5〔1993〕年7月17日~10月24日に開催された「関東大震災と横浜」のチラシです。
 大きさがB5判で、裏表とも参考になりそうですから、そのまま載せることにします。
 〔表〕
 上側の絵は「牛田雞村画」、下側の絵は「服部亮英画『大震災絵巻』(服部一馬氏所蔵)とあります。

        
 〔裏〕
 上側の4枚の写真は「中央電話局屋上からの市中全景」。
 中段のノートは「戒厳令司令部神奈川警備隊司令官『陸軍中将奥平俊蔵自叙伝』。
 下段左の新聞は「東京日日新聞』大正12年9月2日付」。
   右は「復興英貨公債」


 
 なお、神足勝記もその孫の勝浩氏も被災しました。この震災で家屋が倒壊して下敷きとなりましたが、運よく抜け出すことができました。この時のようすは、『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)の538㌻以降に詳しく書かれています。
 なお、ここは歴史的資料としても重要なので、御料局の事業とは関係がありませんが、全文を残しました。また、神足は、その後も、この震災時の苦難を忘れないために、9月1日は震災の日としてあえて握り飯を食べるなどしています。その様子もすべて残してあります。ぜひお読みください。

【コレクション 46】
 つぎは、「国立歴民俗博物館」で2014年3月11日~5月6日に開催された「歴史に見る震災」のチラシです。大きさはA4判です。裏は、白黒で、場所不明の被災地の写真2枚、展示資料名、会場案内などがありますが、割愛します。 
 

 
 なお、このチラシに載せられている写真類の場所の特定はできませんが、一番下のものには右端に「巌手県青森県宮城県大海嘯画報」とあります。これは明治29〔1896〕年6月15日に東北を襲った津波のことです。上記の『神足日記』141㌻に出てきます。
 
【コレクション 47】
 つぎは、『新編日本被害地震総覧』です。
 これは、A4判大、4㌻ですが、1㌻目の右上に「被害地震を瞬時に検索 防災対策関係者に必携」とあるのでわかるように、2~3㌻推薦文と検索画面の説明があり、4㌻目は刊行案内ですから、ちょっと一般向けではないようです。
 とはいえ、この1㌻目の絵は興味深いです。
 左の「要石」を皆で拝んでいます。そして、周囲には、「わだばゴッホになる」といった棟方志功の版画のように、文字が所狭しと書かれています。全文がわからないので何とも言えませんが、この神だのみのことをいっているようです。でも、責任を持てないのでこれ以上は触れないことにします。挑戦してみてください。   

【コレクション 48】
 最後に、『地震の事典』です。
 大きさはA5判8ページです。1㌻と8㌻を下に載せました。これを見ると、このパンフレットの内容はだいたいわかります。
 念のために中を説明しますと、
 2㌻ 「刊行にあたって」と「執筆者一覧」
 3㌻~5㌻ 「内容・執筆者」
 6㌻~7㌻ 「本文組見本」
 以上です。
 このパンフレットは、刊行に必要なことはみな表紙に書いてあり、要領を得ていると思いました。中身は見たい人だけが見るので足りるということのようです。
 
 きょうは、地震に関して何か集めてあったはずだと思いついて探し出したものの、この4つを見つけるのに時間を取られてしまいました。
 あ~あ、くたびれた。おしまい。
        
       きょうの西の空
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No.255 大日本

2024-08-07 23:40:51 | 文書・文献
 きょうもまたカミナリ=サンダーが襲ってきました。
 前にも何度か書きましたが、私の住む昭島市は気象の境目にあたるようで、東の都区部、西の方の奥多摩・山梨、南の方の丹澤山・富士山、北の方の埼玉など、周囲でかなりひどく天気が崩れても、さほど大きな変化は見られません。むしろ、4つの周辺地域からすると昭島市は縁〔へり〕にあるわけで、「あっちは天気がよくないな」と感じさせる程度で、むしろ「おもしろい雲の変化」が見られたりすることがあるくらいです。
 きょうは北の埼玉県狭山市の方から黒雲が広がってきて覆われてしまいましたが、きのうは、夜半に雷雨になったものの、18時頃はきれいな夕焼け雲が見えてました。

   

【コレクション 41】
(1)きょうは『大日本』です。
 これはA4判縦、裏表2㌻ですから、マルマルを下に載せ、説明を略します。
 なお、スキャナーで取り込んだときはくっきりとしているのに、そこからブログに取り込んだところでぼやけます。写真だけ見るのもよし、興味ある人は天眼鏡を使って読むのもよし、としてください。
  まず表
 
 
  つぎに裏

 この本を私は持ってないのですが、すでに古書店でも入手が難しい稀覯本のようです。
 この本について、2つの点から関心をもっています。
 一つは、上のパンフにもあるように、工部大学校が日本の工業技術教育の先駆けとなる機関であり、それを築いたヘンリー・ダイアーが書いた本という一般的経緯からです。
 もう一つは、神足勝記の同郷人も工部大学校の事務方として働いていて、さらに、『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)に出て来る同郷の友人「築山鏘太郎」などがいるからです。
 なお、築山は1980年の『東京化学会誌』第11帙に「本邦製紙ニ関スル事項」、1892年第13帙に「越後地方ノ石油ニ就テ」、1894年第15帙に「砂糖精製講義」などを書いています。
 『神足日記』を読んでわかったことの一つに、維新後の新政府の動向で、薩長土肥の「肥後」・熊本勢の動向がかなりの要点をなしているということがあります。とくに、政治のトップではなく、実務者層をみると、熊本勢がかなり浸透しています。その筆頭は井上毅などですが、神足や築山もそういう下で育ってきた層とみることができます。

(2)私は、神足勝記や御料局の事業と関わるものについて目配りをしている程度のものですが、工業関係では「工手学校」をめぐる動向に関心をもっています。
 明治4年に工部省が設置され、11年に工部大学校ができると、民間の私立系の工学校の先駆けとして工手学校が20年10月にできます。この設立には、神足勝記の同窓生で、知人の巌谷立太郎〔いわやりゅうたろう〕と親しかった栗本廉〔くりもとれん〕が名を連ねています。
 『工手学校』については次のものを勉強しました。 
    

 茅原健『工手学校 旧幕臣たちの技術者教育 」(中公新書ラクレ 2007年6月)です。
 読んでの感想は「やや硬いが、得難い本」です。

(3)日本の民間の工業系の教育機関は、工手学校ができてのち次第にその必要性が認められるようになり、20年代後半から30年代にかけて、今日私立大学の工学部の先駆けになる工業学校の設立が始まります。

(4)この「工手学校」の設立より前に、一つ注目しているものがあります。「私立攻玉社」です。
 攻玉社は明治12(1879)年12月に測量術を教育する学校でしたが、21(1988)年に土木技術の教育を始め、34(1901)年に土木科と建築科を設置して攻玉社工学校になりました。
 まず、御料局で神足たちが測量事業に従事するようになったころに、攻玉社で勉強して入局してくる人が見られるようになります。また、神足の部下の鈴木民作が乞われて出講します。
 さらに、御料地・御料林の事業が進んでくると、大学や農林学校出の林業技術者〔幹部〕と並んで、攻玉社を経て技術雇員や技丁〔現場の技術者〕として入局してくる人が見られるようになります。

(4)やや専門的になりましたが、御料地・御料林の経営ということも、工業技術の発展やその教育ということを踏まえないと本当のところは解明でないと思われる重要な環なのですが、なかなか手が回らず、です。
 まあ、一般に財政は、今のことでも、昔のことでも、多くの分野と関わる複雑な学問分野です。「皇室財政」も、この呼称の是非はともかくとして、一応は「財政」と名がついていますから、やる以上はその覚悟が必要です。それだけでなく、情報公開法制定前は公文書が見られなくて難儀しましたが、情報公開法によって誰でも公文書を見られるようになった今は、その膨大さが大変なものです。
 それでも、あと20年あれば片付くでしょう。問題はそこです。
 では、今日はここで。

    
     あしただね!

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No.254 夜明け前 夜明けあと

2024-08-06 23:32:09 | 文書・文献
 きょうは、雨が降るのか降らないのかと空のようすを伺いながら水遣りをしました。遣り終わって、自嘲気味に「これで雨が降るな」と思っていたら、案の定、ブログの準備を始めたところに雷が鳴りだしました。やむなくパソコンの電源を切ったとおもったら、大きな音がして一瞬停電。どこかに落ちたようです。
   かみなりに 時間取られて よなべかな
 ということで、さっそく本題です。

【コレクション 41】
(1)きょう、パンフレットを見なおしていたところ、「夜明けまえ」と銘打った東京都写真美術館の展示会のチラシが出てきました。 

 
 ちょっと下部が欠けていますが、大きさはA4判で、開催は2007年3月10日~5月6日でした。写真は全体として不鮮明ですが、雰囲気はわかると思います。どこかで見たことがあるというものも見られます。
 これを見ていて、1970年代(明治100年といわれた頃)の群馬のあちこちにこういう雰囲気があったことや、当時見た時代劇映画の所作はこうだったということなどがおもいだされて、懐かしくなりました。もう今の時代劇にはこういう雰囲気はまったく感じられません。どのあたりが日本の転換点だったのかと、ふと考え込んでしまいました。

(2)『夜明け前』といえば、思い浮かぶのは、なんといっても島崎藤村です。これには明治維新前の木曽谷をめぐるようすが克明に描かれていますから、私も読みました。いつ読んだのかとあちこちと調べたところ、「1974年3月16日求む」とメモがありました。ちょうど50年前です。このブログのNo.163~5の辺りで書いた「3人の恩人」に出会う時期を経て、法政大学を追い出される寸前の頃です。
 私が読んだのは、中央公論社「アイボリーバックス 日本の文学 7」(昭和48〔1073〕年2月)です。新書判より一回り大きい判で、持ち運びが便利なのと、縁取りの青があざやかで気にいってました。いまはもう経年のヤケのために往時の面影はまったくありませんが、私が連れ添った本としては代表的な1冊です。シミジミ。

(3)『夜明け前』と並んで、『夜明けあと』という星新一の作品があるのをご存じでしょうか。
 星新一の作品では『人民は弱し官吏は強し』(新潮文庫)を読んで興味を持ち、『明治・父・アメリカ』(同)などを読みましたが、『夜明けあと』を古本屋で見つけました。
 大きさは四六判、245㌻、1991年2月発行です。内容は、安政5(1858)年から明治45(1912)年の明治天皇の逝去までの出来事を、各新聞・書籍から収集して編年体でまとめ、星自身のコメントが適宜に付されているというものです。
 いわゆる年表などとは違い、もともと読み物として成り立っていた文献から収集したものを本体としているので、出来事の短評のようであり、読んで楽しく、痛快のことも多いものです。ニヤリとさせられることもある、おススメ作です。 

    

(4)星新一の『夜明けあと』から2年後の1993年1月に岩波文庫で『維新新旧比較論』が出版されました。両者には似たところもありますが、星のものがパロディを感じさせるところがある一方、こちらは極めて真面目といった感じのものです。
 内容は、次の3つからなっています。
 1「新旧比較表(編年)」は、明治元(1868)年から9年までの改編された事項の得失などを対比してまとめています。
 2「新旧比較表(族別)」は、身分・上下に関わる新旧変化をまとめています。
 3「新旧比較論(社会)」は、出処進退・税制・学校・警察・裁判など新制度めぐる変化をまとめています。

     

 まだ、書きたいところもありますが、雷のためにちょっと予定が狂いました。
 きょうはここまでにします。

        
     多摩川と秋川の合流地点 向こうは高月

 ダジャレを一つ。
 これは、むかし塾の先生の頃、雷が鳴って子供が恐がったときに、間もたせで話していたことです。
  「雷のことを英語でサンダーっていうんだけど、知ってる?」
  「・・・」
  「ある時ね、外国人が日本に来て、地方へ旅行に言ったら、ゴロゴロって鳴ったんだよ。」
  「・・・」
  「そのとき、近くにいた子供がね、アッ!カミナリサンダーっていったんだよ。」
  「・・・」
  「それを聴いていた外国人が、雷はサンダーって言うんだってわかってたんだよ。」
  「???」
  「それで国に帰ってからみんなに話したのがもとでサンダーになったんだよ・・・」 
  「ウソだー!」
  「ごめん、ごめん・・・、じゃあ次へ行くよ。」

        
     近くのトンボ:「近くの」といっても、「極楽」ではありません
  
 
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No.252 後藤新平

2024-08-04 23:52:07 | 文書・文献
(1)今度のオリンピック柔道、毎日、何か話題が出てきます。きょうは、日仏団体戦で阿部一二三選手が敗れたあの技は何か、レスリングか、というようなのがありました。
 そもそも、柔道は立った姿勢から始めます。「組み手」といって、互いに相手の柔道着を自分の有利なように掴み合うところから始めます。そして、相手の動きを見て、あるいは制して、すかさず技をかけます。これでうまく技が決まって、相手を投げたり、背中から転がせられれば、「一本=勝ち」が宣告され終わります。
 
(2)ところが、相手に先に有利な体勢ができて、あるいは十分でなくても、単に積極的に技をかけて来る場合などがあります。この場合はまず防御が必要ですが、同時に、相手が技をかけてくるときは、相手が体勢を変える時です。そうすると体勢の崩れをみせます。その時は、「後の先」といって、今こちらが不利とか、攻められている場面ですが、その動きの中で、相手の崩れを捉えて技をかけて逆に倒す、ということがあります。今回のオリンピックでは、男子81㎏級の決勝戦で永瀬選手がクリガラシビリ選手を「谷落とし」で下しましたが、これが「柔よく剛を制す」という柔道の本質を体現したものです。柔道の本質は「力でねじ伏せる」のでなく、相手の動きを捉えて(利用して)技をかけ、制すというところにあります。

(3)ところが、見ていると、片方が組もうとしているのに、そのすきを狙っていきなり足を取りに行ったり、タックルしたり、やたらと背中を掴んだり、帯の辺りを抱え込んだりと、柔道でないほかのスポーツ(レスリングのような)そのままの変則なことをしだす人がいます。
 それから、最後に、柔道にもいろいろな技があります。しかし、「捨て身技」といって、自分の体勢が不利になった時に起死回生の策としてかける技があります。たとえば、「巴技」です。
 今回のオリンピックでも、この捨て身技である巴技を得意技としている選手がいて、始まったとたんにそれを使い、金メダルを取った女子選手がいました。もちろん、この技も決まれば実に鮮やかなものです。しかし、捨て身技は「奇襲戦法の一つ」です。「奇襲戦法が得意技というのは、勝てばいい式の柔道の裏返し」というべきで、私は逸脱していると思っています。
 
(4)やはり、まず正攻法で向かい合う、そして、その過程で多種多彩な技が駆使される、それが本筋であるべきです。奇襲戦法での競い合いでは、スポーツ精神に欠けると思います。

   
     多摩川遊人

【コレクション 40】
 きょうは、『正伝 後藤新平』です。
 これは、見た目はA5判大ですが、実際はA3判の用紙を4つ折りしたパンフレットです。これを広げると、表も裏もA3判のポスターの体裁になっています。そこで、下にはA4判2枚ずつで復元しました。
 表側

  

 裏側
 



 スキャナーでの取り込みの技術的不備のためにズレや断絶がありますが、これでほぼ復元出来ました。これが4つ折りされてパンフレットになっているわけです。
 表側の写真は風格のある良い写真です。右上に「自治三訣」が記されています。
 裏面の「刊行委員会」のメンバーには多彩な方々のお名前が見えます。推薦文もいくらかは読めると思われますから、どうぞご覧ください。

 このパンフレットは見た通りのもので、贅言を要しませんからラクをすることにします。
 そこで代わりに一つ。
 No.239で水沢市の「江藤新平記念館」へ行ったことを書きました。その時のパンフレットが出てきましたから、それを載せておくことにしましょう。
 このパンフレットは、A5判大、4㌻ですが、A4判の用紙を二つ折りにして出来ています。これも、裏表とも載せておきます。
  4㌻                   1㌻ 表表紙  
 2㌻                   3㌻

 
 4㌻と2㌻の若い時の写真は珍しいです。
 また、四㌻に「江藤新平略年譜」があります。これを見ると昭和4(1929)年に71歳で逝去、とあります。肖像写真から風格を感じるとおもいます。当時としてはやや高齢の域に達しているわけですが、しかし、もう私のほうがずっと年上です・・・。嗚呼!
 きょうはこの辺で。
 〽わたしは~ げんき~

    
     多摩川で
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