フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

アラン『幸福論』(3)

2011年12月21日 | Weblog
 [注釈]
 
 細切れに読んでいるためもあって、文章全体の趣旨が活かされていないように感じました。まず、ちょっと図式化しておくと、こうなります。
 se souvenir, un re'cit dramatique, image <--> action, e've'nement, ce moment-la`
 つまり、Drame 「悲劇(惨劇)」は、その当事者にとっても事後的に構成されたものであり、ましてや第三者には、その出来事そのものは想像されるしかない、というのが文章の趣旨です。
 * On est alors comme stupide et tout entier aux actions... : x[この On は、病と今闘っている当事者のことです。それに対して]直前の l'on suit la maladie...のon はその病人を見守る人のことです。 Mozeさんの指摘を受けて[ ]部分を以下のように訂正します。
 Onは最期まで病人に寄り添っている人のことです。病人に寄り添うその時、その場では、ただ看護に没頭するしかない、ということです。
 * Ide'e famile`re a` tous...: この通念が人々の想像の中では裏切られている、とアランは皮肉を込めて指摘しています。
 
 [試訳]
 
 感じるとは、振り返ることであり、思い出すことだ。事の大小はあっても、誰もが身に覚えがあるだろう。新たな事態、思いもかけない出来事、一刻を争う行為にすべてが集中すると、どんな感慨もありはしない。まったく正直に、出来事そのものを再構成しようとすると、「無我夢中で、なにもわからず、何の備えもなかった」と語りたくなるだろう。けれども、思いを巡らせながら今覚える恐怖は、一編の悲劇となるのだ。誰かの死に至る病に寄り添う時の悲しみに関しても同様である。見守る私たちは、呆然とし、そのときその時の行為と感覚に一身を捧げている。たとえ他人にその恐怖と絶望の姿をわかってもらおうとしても、苦しいのは今であって、その時ではなかった。また、自分の苦痛を突き詰めて考えすぎた人々は、そのことを語り、他人の涙を誘うことによって、小さな慰めを感じさえしている。
 なにより、死者が何を感じたにしても、死はすべてを消し去ってしまっている。私たちが新聞を開く頃には、彼らの苦しみは終わってしまっている。あるいは苦しみからすでに解放されている。広く行き渡った考え方によると、人々は死後の世界など本当は信じていない事になる。その一方で、生きながらえている人々の想像力の中では、死者の苦しみは果てることがない。
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 実は、ぼくはアランの文章は苦手です。これは多分に自分の資質と関係があるのかとも疑っていたのですが、みなさんの訳文を読んで思ったのは、これは異邦人にはどこか扱いにくい文章なのですね。たとえば、Paul Vale'rie の文章などは普遍的な論理を踏まえることに留意すれば、そこそこ私たちにも過たず読める気がするのですが、アランの文章はフランス的な健全な理屈を共有しなければ十分に読めない文章であるような気がします。そこのところが、健やかな常識を忘れつつある日本人には難しいのかもしれません。
 それで、来年もふたたびアランのフランス語に挑戦することから教室をはじめたいと思います。XCI l'art d'e^tre heureux を読むことにします。pleurnicher sur des cendres.までの試訳を 1/11(水)にお目にかけます。

 さて、今年最後のLecon となりました。昨年最後のLecon には、佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房)を紹介しながら、ぼくはこんなふうに書いていました。「来年は、もう少し腰を据えて、読み、考え、書ける年にしたいものです。そう、佐々木のいう広義の「文学」の力を、ひとりでも多くの人が見直せる年になることを祈っています。」
 こう書いたものの、今年の後半以降はとくに「腰を据えて」読み、書くことは侭なりませんでした。アランの教えに反して、ここで小さな告白をすれば、昨年秋に経験した深い喪失から心身ともに自分を解き放つことがまだできずにいます。万という数の喪失を強いた大震災と自分のちっぽけな経験を、どこか重ねずにはいられませんでした。
 でも、先に引いた文章の後半部分は、大災害を経てますます切実なものになったような気がします。作家の天童荒太が新聞の小さな記事に書いていましたが、わたしたちは偶然隣り合うような身近に、大きな喪失を経験した人が佇む、そんな社会を今生きているのです。その喪失を共有するために、「佐々木のいう広義の「文学」の力」が今あらたに必要とされているように思われます。
 その一方で、言葉を通して喪失の意味を探る営為を、成長戦略に寄与しないからという理由で排除、抑圧しようとする声も、これからますます喧しくなるでしょう。そうした声に遮られない響きを、これからも続けて発してゆきたいと考えています。
 今年も、教室を支えて下さってありがとうございました。どうかみなさん、よいお年をお迎えください。ぼくは年末・年始を古井由吉『やすらい花』を読んで過ごすことにしています。
 Shuhei
 


4 コメント

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幸福になるコツ 1 (misayo)
2012-01-05 13:50:25
 明けましておめでとうございます。昨年は本当に大変な年でした。今年は良い年になるよう、願ってやみません。今回のテキストのように、幸福になるコツを身につけて過ごしたいですね。


 人は子供たちに幸福になるコツを教えた方がいいだろう。不幸が降りかかってきた時に幸せになるコツではない。そういうことはストア派の哲学者にまかせておこう。そうではなく状況がまあまあである時に幸せになるコツであり、人生のあらゆるつらさを、ちょっとした悩みと不調に変えるコツだ。
 第一の法則は、他の人に自分の不幸を、現在のことであれ、過去のことであれ、決して話さないことだ。頭痛や吐き気や胸焼けや腹痛を、たとえそれが言い方を選び抜いたとしても、他の人に述べるのは無作法だと見なさなければならない。不正についても、誤算についても同様だ。子供にも、若者にも、そして大人にも、忘れがちなことを説明しておかなければならない。自分の不平不満は他の人を悲しませるだけだと私は思う。結局のところ他の人には気に入らないと言う事だ。たとえ彼らがこういった打ち明け話を求めたり、慰めることを好むように見えたとしてもだ。なぜなら悲しみは毒薬のようなものだから。人はそれが好きかも知れないが、良いことではない。最終的に正しいのは、いつも一番深い感情なのだ。誰もが生きようとしており、死のうとはしていない。生きてる人を求め、満足だと言い合い、満足を示し合う人の言うことを私は聞く。もし各人が灰の上に泣き言を言う代わりに、火に薪をくべるなら、素晴らしきものは人間社会だろう。
Leçon249 (Moze)
2012-01-10 14:07:31
みなさん本年もよろしくお願いいたします。年が明けてもう10日。ぐずぐず過ごしたせいで、また目の前のことに追われる毎日が過ぎています。昨年25日にはクリスマスプレゼントをありがとうございました。興味深く読みました。「絆」が連呼されることに私も違和感をもっていました。そんな折、12月11日(日)毎日新聞に斎藤環氏の論説が載っており、まったく同感しほっとしました。束縛としての絆から解放された自由な個人の連帯のほうに未来を見たいと論じられていました。
さて、前回アラン『幸福論』(3)の注釈にあったonについて。
lorsque l’on suit のsuivreの訳を私は間違っていたのですが、ここのonは看護人で、続く3つのonですが、これは病人を看取った人ではないかと思いました。次のパラグラフのils etaient gueris ですが、苦しみから解放されている、とは考えられないでしょうか。亡くなった人と、今生きていてそれを思い出し語ることで苦しみ、癒される人について述べられているのではないのかと思いました。
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子どもたちには、幸福である方法をよく教えるべきであろう。なにも不幸が頭の上から降ってくる時に幸福である方法をいっているのではない。それはストア派の哲学者に私はまかせておく。しかし、状況がなんとかなりそうで、あらゆる人生の苦さが些細な心配やちょっとした不安にとどまる場合における幸福である方法のことである。
 第一のルールは、他人に現在のあるいは過去の不幸な話題は決してしないことだろう。他人に頭痛や吐き気、いらだちや下痢などの話をするのは、言葉を選んだとしても、失礼だとみなさなければならない。不正や幻滅についても同様である。子どもや若者、大人にも、説明する必要があるだろう。大人は忘れすぎていると思われるからだ。自分への不平は他人を悲しませるだけであることを。すなわち、結局他人を不快にするだけなのだ。いくら他人がそのような内緒話を求めていたとしても、慰めることが好きであったとしても。なぜなら、悲しみは毒のようなものだからだ。人はそれが好きだけれども、それに満足するわけではない。だから結局正しいのは、いつももっとも深い感覚である。だれもが生きることを望んでいるのであって、死ぬことを望んでいるのではない。生きている人々を求めているのだ。満足だという人々、満足だと表す人々が私は好きだ。誰もが遺灰に泣きごとを言うかわりに、薪で火をともすならば、人間社会はなんとすばらしいだろうか。

Unknown (midori)
2012-01-10 18:49:55
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

幸福でいる方法を子どもたちに教えたほうがいい。しかし、不幸が身に降りかかったときに幸福でいる方法のことではない。それはストア学派の哲学者に任せることにしよう。ここでは、状況が我慢できる程度で、人生のつらさのすべてが小さな悩みや軽い不調に帰するときに幸福でいる方法である。
第一のルールは、現在のものであれ過去のものであれ、自分の不幸を決して他人に話して聞かせないことではないだろうか。相手を選んだとしても、頭痛、吐き気、胸焼け、腹痛を話して聞かせることを無作法とみなすべきだろう。不当なことや見込み違いについて話すことも同様にとらえるべきだろう。子どもたち、若者、それに世間の人々にも、思うに、彼らがすっかり忘れていることを説明する必要があるだろう。すなわち、自身についての不平は他人を悲しませるだけであり、実は聞かされる人に好まれないのである。その人たちが打ち明け話を求めていたり、慰めることを楽しんでいるように見えたりしたとしても。なぜなら悲しみは毒のようなものだからだ。それを愛することはできるが、それによって満ち足りた気持ちにはならない。そして、最後に正しいのは常にもっとも深い感情なのだ。誰もが生きようと努める。死のうとではなく。そして生きているものを求める。つまり、自分は満足していると言う人々、自分が嬉しいことを示す人々を求めるのだ。灰について泣き言を言うかわりに、一人一人が自分の薪を焚火にくべたとしたら、素晴らしいものとは人々の社会だろうに。
Unknown (shoko)
2012-01-11 07:04:32
先生、みなさん、新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
年明け早々で残念なのですが、今回課題の提出を間に合わせることができませんでした。すみません。

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