ブログのアクセスログを見たら、過去の「産業カウンセラー試験」関連の記事のアクセスがあって、どうやらGooglebotさんではないようなので、、、産業カウンセラー試験合格発表の頃を思い出した。
私のカウンセラー人生の出発点は、産業カウンセラー養成講座だった。
ちなみにこのブログのskyoko05は、「さんぎょうかうんせらーようせいこうざ2005年度」を意味してる。それくらい思い出深いのだ。
私の頃は、まだ実技免除制度がなかったので、私のような「デコボコのボコ」(後に、当時の実技指導者にそう言われた)でもデコボコのデコ(私が尊敬していた、あの受講生仲間)と同じ扱いだった。
学科試験は、テキストにない「パニック障害」の問題が出たり、改正後の直近の法令が出た(ハロワに勤める仲間の話)り、残り時間10分くらいに問題訂正が出たり、いろいろあって、試験後の”つぼ八”では「落ちた・・・」の声ばかりだった。
そして合格発表。我々のグループは、目指した「全員合格」とはならなかった。
一年間、みんなで勉強会をしたが、不合格になった人も来てくれた。
翌年、その翌年と、不合格者が合格していって、最終的に合否がわからないままの一人を除いて、全員合格した。
2年後に、「合格しました」と教えてくれた人たち、、、 本当に嬉しかった。
いっぱい、想い出が残っている。
この試験、全員合格は、あり得ないみたい。
不合格になる人もいる。
不合格になったら、まず休もう。
産業カウンセラー試験は、そのうちまたやる気が出てくるから、大丈夫だ。
今回合格した人にも、今回は不合格になった人にも、いろんな想い出が、たくさん残るだろう。
先輩として、ひと言かけたくなった。。。
「今感じている様々な思い大切に、自分の心理世界を育てて、個性豊かな本物のカウンセラーを目指して欲しい」
ふぅ疲れたね。 ま、ゆっくり休んでください。
あ、心に興味があれば、交流分析の勉強してみないかい?(笑)
「今さら言われても!」と、人は思う。同時に、
「やっぱり・・・」と、人は思う。
国民が目を向けたくなかった現実を、今、見ているのだろうと思う。
福島原発 民間事故調報告書 「官邸、稚拙で泥縄」
Yahoo!ニュース(産経新聞)より
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120228-00000093-san-pol
■民間事故調報告書の骨子
・津波や過酷事故への事前対策が不十分
・低線量被曝(ひばく)に関する科学的理解の不十分さが社会的混乱を招いた
・官邸による現場介入で有効だった事例は少なく、無用な混乱やストレスにより状況を悪化させるリスクを高めた
・菅前首相の個性が政府全体の危機対応の観点からは混乱や摩擦のもとになった
・政府は国民の不安に応える情報提供者としての信頼を勝ち取れなかった
・SPEEDIは宝の持ち腐れに終わった
・「原子力ムラ」が生み出した原発の「安全神話」が事故の遠因となった
原発事故対応は「大失敗」=官邸に備えなく、情報不十分―菅前首相
Yahoo!ニュース(時事通信)より
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120228-00000074-jij-pol
菅直人前首相は3月11日で東日本大震災発生から1年となるのを前に時事通信のインタビューに応じ、東京電力福島第1原発事故について「事前の備えがあまりにも不十分だった。備えがなかったという意味で大失敗だった」と述べ、事故を想定していなかった政府や東電の対応に大きな問題があったとの認識を示した。
菅氏は「それ(備え)があればもっと事故も放射線被害も大きくならずに済んだと思うだけに、責任を感じる」と指摘。同時に「東電から上がってくる情報そのものが極めて不十分だった」とし、その原因については「全部『3・11』前になる。つまり全電源喪失を一切想定しなかったからだ」と断じた。
事故から1年が経過する今、問題なのは、ひとつひとつの対応の責任が誰にあるか、ということではなく、あのときの危機状態において日本全体で何が起きたか、を冷静に振り返ることだと思う。
もちろん、大問題だったのは、政府を含めた原発推進派が原発「絶対安全」神話を作り上げたせいで「もし事故が起きたら」を認めることができず、事故に備えなかったこと。そしてそれが起きてしまったとき、準備不足の各部署がパニックから迷走してしまったことだ。
しかし、もう少し大きな目で見ると、それは危機状況における「想定される心理的混乱」。いわば「当事者の防衛機制」が国民を余計な被爆へと導いていることは、明白であった。
もちろん、国民にも心理的防衛が大きく働いていた。国民はテレビ、新聞、ネットなどのメディアに、「救い」という名の心理的安定を求めていた。
そして官邸や専門家が、それに甘えてしまったのが、大きな原因だ。
日本中が汚染の「否認」に向かっている中で、その心理面の危険を呼びかける報道や専門家は、残念ながらほとんど(誰も?)いなかった。
昨年3月15日、震災から4日目の、自分のブログ記事を見て、ちょっと驚いた。
(記事のURL)
http://blog.goo.ne.jp/skyoko05/e/cf10b6e2cb3554d5ae97cf86b71c0ac3
少し自信が戻ってきた。
そして思う。
人間の心は、綺麗な側面だけに目を向けようとしてもよくない、と。
「目を向けたくない部分がある」と意識することが、必要ではないだろうか。
さらに、思う。
次の大地震が来たら、大丈夫だろうか?
この事件については、ひと言だけ。
グリーフ・ケアの失敗。
憐れだよ。
その責任は、何にある?
この事件について、裁判について、以前に散々書いたので、俺としては「いまさら何を言ってる?」って感じ。
下の記事を、読んでもらいたい。
「人が人を裁くことの恐ろしさ(その7) 世間の注目を集めた裁判の結末」
専門家たちにひと言。
原発事故対応でも散々書いたが、専門家たちは心理学を世の中の役に立てているのか?
マスコミの話題づくりに荷担するだけじゃなく、もっとしっかり、心理学を社会のために使って欲しい。
お粗末すぎる!!!
1回目トップだ!
コフラーも失敗したみたいだ。
今の時代、こうやって生で表示されるのがすごいよねー
2回目に、大いに期待!!
あ、スキージャンプの、ラージヒル。
ワールドカップ札幌大会ですよ!!!!
ここ数日のニュースを4つ拾い上げてみた。
拡散予測先に米軍へ 住民公表9日遅れ
文部科学省の渡辺格科学技術・学術政策局次長は十六日、福島第一原発から放射性物質がどう拡散するか緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)による試算結果を、事故直後の昨年三月十四日、外務省を通じて米軍に提供していたことを明らかにした。
試算結果が公表されたのは、米軍への提供より九日も遅い三月二十三日のことだった。公表が遅れたため、住民の避難が遅れ、放射性物質が拡散する方面に避難した人もおり、無用の被ばくを招いたと批判されてきた。その一方で、米国側には早い段階で連絡していたことになる。
(東京新聞)
福島第1原発:最悪シナリオ封印 菅政権、なかったことに
東京電力福島第1原発事故で作業員全員が退避せざるを得なくなった場合、放射性物質の断続的な大量放出が約1年続くとする「最悪シナリオ」を記した文書が昨年3月下旬、当時の菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、「なかったこと」として封印され、昨年末まで公文書として扱われていなかったことが21日分かった。複数の政府関係者が明らかにした。(共同)
(毎日新聞)
電力「余裕6%」公表せず 政府、不足のみ示す
今年夏の電力供給力が最大電力需要に比べ9・2%不足するとした昨年七月公表の政府試算に対し、最大6・0%の余裕があるとの試算が政府内にあったにもかかわらず、公表されていなかったことが二十三日分かった。
公表された試算は、太陽光発電など再生可能エネルギーによる発電を盛り込まないなど厳しい想定に基づいており、試算に携わった関係者は「極端なケースだけ公表するのはフェアではない」と批判している。
(東京新聞)
原子力災害対策本部 議事録全く作成せず
東京電力福島第一原発事故対応のため設置され、避難区域の設定や除染方針の決定を行ってきた政府の「原子力災害対策本部」の会議の議事録が、事故直後の設置以来まったく作成されていないことが二十三日、分かった。
重要な政策決定が行われた過程を検証できる資料が作成されていなかったことで、情報公開に対する政府の姿勢への批判が強まりそうだ。
災害対策本部の事務局を務める経済産業省原子力安全・保安院が明らかにした。三月十一日の設置以来、計二十三回あった会議ごとに作成されたのは議事次第程度の簡単な書類という。森山善範原子力災害対策監は記者会見で「開催が急に決まるなど、事務的に対応が難しかったようだ」と釈明する一方、「会議の決定事項など重要な部分は記者会見で説明し、かなりの部分は情報公開されている」との見方を示した。
その上で「意思決定に関わる過程を文書で残しておくことは(公文書管理法で)義務付けられている」と語り、担当者のメモなどに基づき事後的な作成を関係省庁で検討していると説明した。
(東京新聞)
今、私が書きたいことは、過去の記事に書いてあったので、是非読んで欲しい。
★その1
『原発事故に関して、伝えたいこと(2)』 (2011年3月30日)
http://blog.goo.ne.jp/skyoko05/e/7a2b750b62a21c2e496a565c9e4b4000
★その2
『危機管理のための心理学(その2)』 (2011年3月26日)
http://blog.goo.ne.jp/skyoko05/e/ffb9b1ba0d217828a63cee841201885b
危機状況において、国民に伝えるべきは、正しい情報と、役立つ知識・知恵だったと思う。
なぜなら、日本国民には、自ら判断する能力も教養もあるからだ。
そして政府は、その国民の「正しい目」が怖かったのだろう。
だから、正しい情報を開示できなかったし、危機対応の知恵を与えることもできなかったのだと思う。
そして国民も、「政府の言うことを信じていれば不安を感じずに済む」という心理的利得を求めていただろう。
こう考えて、あらためて思うこと。
放射能汚染がどれだけ恐ろしいことなのか
もう実感は薄れてしまったけど。。。
とある講座で、衝撃的なことを聞いた。
とっても尊敬する先生の講義だった。
認知行動療法の専門家の有名な大学の先生で、臨床心理士。
話は、こうだ。
3つの否定的な認知。
1.自己に対する認知
2.環境に対する認知
3.将来に対する認知
これらを口にする子どもは、だいたいその8割が「子どものうつ病」になる。
上の否定的な認知を言葉にする「おとなしい子」を放っておく教師は、うつ病を知らない教師。だから実は、学校内は、うつ病の子どもがとても多いのだそうだ。
でも、考えて欲しい。
これを鵜呑みにすれば、こうなる。
子どもは思春期になると、ほとんどがうつ病を発症する。
そしてそれに対し「思春期だから、こういうものだ」・・・と口にする親や教師がいれば、それは”うつ病のサイン”を見落としたとんでもない大人。
・・・・・そんなの、おかしいだろう。
臨床心理学は、
「自分以外は全員うつ病だ」
と、言いたいのか?
そして全国民に認知療法を割引料金で施して、”自己満足”したいのか?
子どものうつ。
全児童・生徒を検査すれば、患者はボロボロ出てくるだろうということ。だから国も自治体も、そんなに出てしまったら対応できないから検査を躊躇って行わないと言っていた。
もし、そんなに多いのなら、それは社会自体の問題だ。
個別に治療するより先に、社会を変えるよう努力すべきだ。
全国民を治療するのではなく、ひとつの社会を治療するのではないか!
それが、心理臨床の責務ではないのか!
私は、強くそう思う。
心理臨床の世界は、そんなに硬直した認知しかもてないのだろうか?
それとも、深く考えていないのだろうか?
俺が言いたいのは、たとえばこういう事なんだよ。
日本テレビ、事前収録場面を「生放送」演出
日本テレビが11月30日に放送した歌番組「日テレ系音楽の祭典」で、一部事前収録された場面が生放送のように演出されていたことが1日、分かった。
番組は30日午後7時から約3時間放送された。20組以上が出演し、大半の部分は幕張メッセ(千葉県)から生中継された。途中、平井堅さんと「いきものがかり」がいる日本テレビのスタジオをカメラでつなぎ、そこで歌ってもらうシーンがあったが、スタジオの映像は事前に収録されていた。この際、スタッフが観客に「生中継のように反応してほしい」「口外しないように」と依頼したという。
日本テレビ総合広報部は「2組の出演時には、画面上に『中継』の表示は出してない。通常の演出の範囲と考えている」としている。
Yahoo!ニュース(読売新聞)より
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111201-00001040-yom-ent
残念なニュースだが、これが現代の「科学」の位置づけをしめしてくれている。
科学は、正直か?そうでないか?
・・・答えは、どちらでもないんだ。
正直なのは”自然”であって、科学は決して”自然じゃない”んだ。
それを自然をそのまま見るための望遠鏡みたいに教えられているから、「科学だから」という殺し文句にひっかかってしまうんだ。
科学を作ったのは人間。
科学を使うのも人間。
だから、悪意や「未必の故意」という下心が科学を利用するのだ。
そして我々は、「これは科学だから」と思って、疑わないで信じることが多い。
信じるべきは、自然そのものであって、そして自分そのものだと思う。
科学的な結論ではないが(笑)
「新しいうつ病論」(高岡健著)からの引用です。
すでに何度も述べてきたように、軽症慢性うつ病論の利点は、<ヒステリー>や人格障害として社会の外へ放り出されていた人々を、治療と引き替えに、社会の内へ戻すという役割を果たした点にあります。抗うつ剤や炭酸リチウムによる薬物療法は、それらの人々にとって、一筋の光明をもたらしました。このことを、過小評価するべきではありません。
他方で、薬物療法の管理下に入ることは、いっそうの自己責任を、軽症慢性うつ病を有する人々に対して、求めることになりました。つまり、彼らは、薬物によって自己をコントロールし、社会へ復帰することを求められたのです。このことは、彼らの人生を息苦しいものにしてしまいます。なぜなら、薬物を用いながらでも、ひたすら走り続けるよう要求されているのですから。
(途中略)
このような中で、2001年における小泉純一郎内閣の登場は、日本における新自由主義の登場を予感させるものでした。持論である郵政や道路公団の民営化論ばかりでなく、財政・経済・行政のすべてにわたる構造改革とは、とりもなおさず小さな政府論を意味するからです。もっと具体的にいうなら、法人税率を引き下げて小さな政府にするかわりに、一人ひとりは自己責任で人生設計を行えという考え方です。この通りに進んでいけば、日本は間違いなくプロザックネーションへの道を走り出すことになるでしょう。
興味をもった人は買って読んでみてください。
何しろ「やればできる」「誰にも無限の可能性がある」といった幻想をさかんに吹き込んでいるのだから。
こういう類の幻想を吹き込まれ続けていると、「なりたい自分」の自己愛的イメージだけが際限なくふくらんでいく。現在の日本社会では失敗が許されないということもあって、そのとき、ふくらむだけふくらんだ風船をどうやってしぼませたらいいかわからず、自己愛が傷つき落ち込んで精神科医のもとにやってくる。患者の話をじっくり聞くよりも薬を出したほうが手っ取り早いという医療を提供する側の事情もあいまって、抗うつ薬の処方が増え続けるわけだが、それでは何の解決にもならないことは、現状を見れば一目瞭然だろう。
「なぜ抗うつ薬信者が増えるのか?」 片田珠美(京都大学)
(こころの科学 精神科臨床はどこへいく 2011年9月25日発行 より)
もうひとつだけ、記事からの引用。
むしろ、SSRIの登場以降薬物療法の際限のない長期化に拍車がかかり、我々はうつ病の遷延化という新たな壁にぶつかることになった。
(途中略)
いまや、つらいことがあったり、重い責務を背負ったりすると、自らの困難をできるだけ苦労せずに乗り越えようとして、薬理学的な助けを求める人がいかに多いか。片方の手に消費社会の中で肥大した欲望、もう一方の手に「自己実現」というバイブルを抱えた我々に、欲求不満と不全感が影のようについてまわるからこそ、SSRIはこれほどの成功を収めたのだとも言えよう。
この本、カウンセラーには、ぜひ読んで欲しい一冊である。
ぜひ、こういう記事の断片ではなく、実際に本を買って、記事を通して読んで欲しい。
もうちょっと、出典を隠して、記事を引用します。
(かなり長い引用で、引用元にはちょっと申し訳ないです)
戦後の自由で民主的な社会において、我々は「規範からの解放」の波に洗われた。個人の行動を枠にはめるような伝統的な規範はもはや受け入れられなくなり、自分自身の送りたいと願う人生を選択する権利が、声高に叫ばれるようになった。そこで強調されたのは、規範に従属するのではなく、社会的高速から独立した「自分らしい」生き方である。
(途中略)
もっとも、この「規範からの解放」は、同時に「全て選択し、すべて決定する」責務を自ら果たすことを意味する。社会が自由になり、外部の規範の拘束力が低下すると、個人が一人で自らの行為の責任を負わなければなくなるからである。
(途中略)
当然、絶え間なく不確かさに直面するし、傷つきやすくなる。というのも、自己責任が課されるのは、各人に自ら判断し決断し行動する能力のあることが前提とされているからである。それが自分にはないことに気づけば、誰だって不安と無力感の中で揺らぐだろう。
(途中略)
こうして、解放されて自らの人生の主人公になったはずなのに、その容赦ない代償として、自己責任の重圧が我々の肩にのしかかってくるようになった。
(途中略)
しかも、自己責任は、容易に反転して他責になる。自己責任の重圧に耐えられなければ、自分自身の責任を否認して他人に転嫁するのが最も手っ取り早いからである。その典型が、少しでもうまくいかないことがあると他人を責め理不尽な要求をするモンスターペアレントやクレーマーだが、こうした傾向はいまや社会全体に蔓延しつつある。この「一億総他責的社会」の危うさの中で、従来多かった「自責的」なメランコリー親和型うつとは対照的な「他責的」な新型うつが最近急増しているのは当然と言える。
次の記事で、出典を明示したいと思います。
今日買ったある本からの、引用。
消費行動を活発にするためには、大衆の欲望を刺激し続けるしかないので、消費社会は常に「あきらめるな」というメッセージを送り続ける。これは、資本主義社会の宿命でもある。そのため、先に指摘したように、現在「すべて可能である」という幻想を最大限刺激するような宣伝がちまたにあふれている。テレビで流されている広告にも、「~をあきらめないで」というコピーがいかに多いか。
これだけの宣伝が洪水のように押し寄せたら、消費者の側も、宣伝にだまされまいと思いながらも、つい信じてしまうことになりやすい―とりわけ、自らのさまざまな困難をできるだけ苦労せずに乗り越えようとして何かに助けを求めたい人は。消費社会の提供する商品がすべてを解決してくれるわけではない。ましてや、悩み、そしてその背景にある家族、仕事、対人関係などの問題をすべてちゃらにしてくれるわけでもない。それでも盛んに流される「あきらめるな」というコピーは幻想をかき立てる。
感想や引用元については、また後ほど。
朝書いた記事について、なんか、心に引っかかるものがあって、、、、
書ける範囲で、書いてみます。
これは、私が最初に感じた「テレビで見た違和感」をある程度よく表している(特に、それを言語的に表している)典型的映像。
自分の中で描いているイメージと、枝野氏の言動との不一致が、乖離が、あまりにも大きい。
これは今よく言われるようになった、「最悪の事態に備える」ということをせず、最小限の情報開示に留めようとする政府・官邸の思惑が見え見えのシーンである。
だから、私はずーっと心の中で思ってきた。
「枝野は最悪だ!」と。
(あくまで私が個人的に抱えてきたものです。枝野氏を中傷するものではありません)
そしてそれによって急性のパニックは国民に与えず、最小限の重苦しさのみをじわじわと国民の与え続けてきた。
(言い方を変えれば、未完のゲシュタルトを国民は抱えることになった)。
その一方で、国民は、心の「無意識的領域」に、(たとえ枝野氏の言うことを丸ごと信じている国民にも)放射能の怖さは、こんな筈じゃなかったというものが、確実にあるのではないか?
いや、そういう怖さを抱えている人ほど、先の枝野氏のテレビ映像を、「信じたい」という意識が働いているのではないか?
(認知的不協和の大きいほど抱えるストレスは大きいはずだ)。
とすれば、大きな被爆をした「かもしれない」人たちにとって、枝野氏のテレビ映像は、格好の防衛機制の道具だろう。
でも、だ。
その一方で、全く別の次元で、独立した座標軸上で、人の心の無意識に起きているものも、あるような気がしてきた。
原発事故の被災者を、さらなる被災へと追い込む、心理的メカニズムが、あるような気がしている。
そしてそれは、原発事故の恐ろしさ、放射能の怖さ、そして被災地の現状の悲惨さを浮き彫りにすればするほど、顕著に表れる”何か”のような気がしてきた。
その”何か”が何なのか?
ごめん。
ここでは、言えない。
間違いかも知れないし、多数の避難を浴びるかも知れないし、また、読者を傷つける事になるかも知れない。
(私の知り合いで、それを知りたい人がいれば、メールをください。説明してみます)
心には「陽の当たる世界」と「闇の世界」がある、、、そういう考えに立つと、その闇の世界に浮かび上がってきたものであることだけ、ここに書いておきたい。
そしてテレビに再三登場した枝野氏の姿は、言動は、その、人々の抱える、そして意識したくない無意識領域の「弱み」に知らず知らずのうちに浸透し、静かに心を汚染し続けていたように思う。
それは、悪魔の囁きにも似ているように、感じる。
また、もしかすると、枝野氏自身も、それに飲み込まれていたのかも知れない。
ココロは、本当に恐ろしい。
(もちろん、あくまでも私個人が、今、強く感じているということを書いているものです)
前から言っているが、これは日本政府の「未必の故意」による殺人行為に匹敵すると私は前から思っている。
(あくまで私個人が感じているだけですが)
そういう思いをずーっと抱きながら、震災後5ヵ月間、自己関連のニュースを見て、ブログを書いてきた。
自分の身は自分で守ること、それを訴えてきた。
そして、今、この発言が、飛び出した。
原発周辺、長期間住めないと判断…首相陳謝へ
政府は20日、東京電力福島第一原子力発電所事故で高濃度の放射性物質に汚染された周辺の一部地域について、長期間にわたって居住が困難になると判断し、警戒区域を解除せず、立ち入り禁止措置を継続する方針を固めた。
数十年続くとの見方も出ている。菅首相が地元自治体に直接説明し、避難の長期化を陳謝する方向で検討している。具体的な地域は、福島県双葉、大熊両町の原発3キロ・メートル圏内などを念頭に精査する。
政府は4月、原発20キロ圏内を原則として立ち入りを禁じる警戒区域に設定。来年1月中旬までに原子炉が安定的に停止する「冷温停止状態」を達成し、警戒区域を解除する方針を示してきた。
しかし、文部科学省が原発20キロ圏内の警戒区域内で事故発生後の1年間で浴びる放射線の積算量を推計したところ、大熊、双葉両町を中心とする35地点で、計画的避難区域などの指定の目安となる年間20ミリ・シーベルトを大きく超えた。原発から西南西に3キロ離れた大熊町小入野では508・1ミリ・シーベルト、同町夫沢でも393・7ミリ・シーベルトと、高い推計値を示した。
Yahoo!ニュース(読売新聞)より
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110820-00000928-yom-pol
そして私は今、それを確信する。
自分の身は自分で守るべきだった。
そう思うのは、どうしてか、もう一度書きたい。
まず、私が4月13日に書いた記事を読んで欲しい。
『福島原発事故から自分を守るために(その8) ついうっかりのフロイト的言い間違い?』
http://blog.goo.ne.jp/skyoko05/e/d325507091da3f58355510d3c6bcdfa5
もう忘れた人も多いと思うが、菅直人首相は、「原発周辺には当分住めない」と周囲に語りながら、それを後日完全否定した。
それが4月前半の話なのだ。
震災関連の記事を、書こうと思ったその発端が、「震災後の、テレビ画面に登場する政府や専門機関の態度が、なんかおかしい、、そう感じたこと」だった。
これだ。
この約半年間、日本国民の被爆量は、「自分でどれだけ身を守ったか」、「テレビやネットの情報をどう捉えたか」、によって、大きく変わっていると思う。
だが、困ったことに、、、、
放射線は、放射性物質は、目に見えないのだ。
放射線は、放射性物質は、臭いがしないのだ。
放射線は、放射性物質は、味がしないのだ。
そして、国民の累積被爆が積み重なっているはずなのに、国民自身が感じる「放射能の不安」は、、、減少しているのではないか。
忘れることは、素晴らしい心の防御機能ではある。しかしそれは、無意識に残り、くすぶっているかも知れない。
現実原則の中で、今生きる「自分」を大切にしよう。
【日々成長】