Yahoo!ニュース(FNN)より
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150112-00000245-fnn-soci
「一部新成人が暴れる騒動」を映しているのは「暴れなさい!」と指示しているようなもんだ。
もしこのような、式典で暴れる行為を適切ではないと思っているなら、「一部暴れて警察に捕まるバカがいたが、その他2万5千人以上は静かに式典に臨んだ」と報道しないと。。。
現代の報道は、心理学的に考え尽くされているわけで、、、
とすればさ、暴れた人間をクローズアップして「主役」に祭り上げているこの報道映像は、心理学的に見ると、どう解釈しても、
「来年もっと派手にやってくれ!」
と、18歳の少年少女にメッセージを投げかけているようなものだと思う。
理由は?
視聴率が稼げるからだろう。
つまり、「若者のバカ騒動」を笑いながら見たい大人がたくさんいるということだ。
本気でやめさせたくないのだよ。
暴れるおバカ若者が、大人の劣等感の、格好のオモチャにされてるということだろう。
『幸福の王子』の失敗は、世の中に勇気のあるやつは殆どいない、ということを考えなかったことだ。
町長の代わりに市民を喜ばせ、そして全財産を失って使い道がなくなると町長に”ゴミ”とみなされ捨てられた。
しかし、彼の幸運は、オスカー・ワイルドの世界に”神”がいたことだ。
その神は、幸福の王子が無言で町民に金品を提供して、町長批判を回避するのを目を細めて眺め、無言で町長を喜ばせた褒美に彼の心臓を天国で遊ばせた。
そして神は、町長を罰したり戒めたり、一切しなかった。
ワイルドの世界の”神”は、町民を救わなかった。
もちろん、王子も救わず見殺しにした。
一方で、現実の世界には、カール・ロジャーズがいた。
彼は、人の心を無条件で肯定しようと務め、個人・集団・組織の全てを”心”ある存在として尊敬することで良い方向に成長するのだと説いた。
そう。晩年ロジャーズは、社会不適応の個人ではなく、社会自体を良くすることが必要だと考え、立ちあがった。
そして行った、あの”エンカウンター・グループ”は、強者による支配というマジックに疑問をもたない個人に対して見せた、
”いかなる社会も組織も、個人の心の産物に過ぎない”
という、種明かしだったのではないかと思う。
私は、現代カウンセリングが不適応者の社会復帰だけを見つつあることを憂う。
”強い立場”の人間が喜ぶ社会自体には触れず、その仕組みに迎合して、不適応者を憐れむ......
それを思うと、最後に、ここに行き着いた。
『幸福の王子』像は、町長が自分のために建てたんだ。
「現実には勝てないんだよ」・・・天国から、ワイルドの声が聞こえてきそうだ。。。
そんなことを語っているうちに、夜が明けてしまった(笑)
存在は、存在するものにのみ感じられる。
存在は、存在するから、存在する。
確かに、存在する。
どんな方法にせよ、自分の存在を確かめる必要など、ない。
自分はどうだろう。
俺は生きてる。
俺は、存在する。
考える必要はないのだ。
大きな声で言ってみる。
「俺がいるから、大丈夫!」
俺は、こういう強さを持つべきだ。
・・・俺は、まだまだ弱い。
【日々成長】
いろいろ考えたんですけど、ブログのタイトルは、気に入ってるからこのままにしようかな。
でも、ブログのコンセプトを変えたい。
ていうか、もう変わってよね(笑)
やっぱり、私の永遠のテーマは「ひとり」だと、思った。
それは「ひとりでいたい」でもあるし、
時には「ひとりはいやだ」でもあり、
そして「どうせひとりなんだ」だったり。
そんな自分は、ひとりぽっちで、
こんな自分は、やっぱり一匹狼で、
でもここにいる自分は、実は一人にはなりきれなくて、
そのさみしさから、「俺は一匹狼だ」と、誰かに言い張ってみたりして、
その「誰か」からも遠ざかろうと必死でもがいて、
結局、孤立しないまま疲れ果てる。
こんな自分、
気がつけば、
ひとりじゃない。
最初から最後まで、ひとりじゃない。
不思議なことに、
”私たちは、みんな、ひとりなんだ”って思うと、逆に”ひとりじゃない”感覚に包まれるような気がする。
だから、
その意味で、
”We are all alone.”
私たちは、みんな、ひとり。
ひとりだから、ひとりになれる。
ひとりだから、一緒にいられる。
【日々成長】
みんな! これからも、一緒にいよう!
A氏には、幼少期から抱いている罪悪感がある。だが、それを自覚できない。分析的に言うと、「どうして自分が悪いのか思い出すにはあまりにも記憶が遠すぎる」のだ。
そこで彼は、漠然と覆い続ける罪悪感の源を”現在”または”未来”に描き、それに対する許しを得たいと願う。
彼は、何か罪を犯したい気持ちに駆られる(あるいは実際に小さな罪を、バレないように密かに犯す)。
(「どうせ俺は罪人なのだ」という捨て鉢な気持ちが、弱った心から湧いてくる)
そこから(罪を犯したいと考えてしまったことから、あるいは実際に罪を犯したことから)彼は罪悪感を感じ、自分はやっぱり罪人だということを確認して納得する。
でも実は、その罪悪感は、本当は、遠い過去の記憶に基づいて彼が日頃から漠然と感じている「私は処罰されるべき罪人」という心的リアリティであり、それを今、その小さな罪に投影しているに過ぎない。
このようにして彼は、「罪を犯したい」という欲望を思った、ただそれだけのことについて、それはとんでもない大罪であり、自分は誰よりも大きな罪を犯したのだ(相手を大きく傷つけたのだ)と、自覚する。
(「だから俺は処罰されるべきなのだ」という気持ちに襲われる)
彼は、その”大罪”を背負った自分を処罰しないと気が済まない(安心できない)。
しかしその自己処罰は、「偶然のうっかり事故」という形をとる。なぜなら、実は欲しているのは”処罰”ではなく、”他者の許し”だからである。
すなわち、自分が背負う罪よりも大きな”悲劇”に陥ることで、自分は”負傷者”(または死亡者)として大罪を許されるという、大きな心理的利益を求めるからである。
そこで彼は、ポートタワーに登り、偶然足を滑らせて転落する。
彼は、落ちる瞬間、「しまった!」と思った直後に、「これで許しを得られる」という安心感を感じる。
そして落下中のほんの数秒間だけ、人生を通して背負ってきた罪悪感から解放される。
結果として彼は、過去の罪について自らを処罰し、周囲の許しを得る。
【生物学的利益】 周囲の涙と許し
【実存的利益】 自己処罰。 「私は悪人だ」 (I am not OK, You are OK)
【内面的心理的利益】 許されたという安心感
【外面的心理的利益】 罪悪感から逃れる
【内面的社会的利益】 「ごめんなさい。でもわざとじゃないんだ」
【外面的社会的利益】 「私は悲劇に見舞われてしまった」
彼が背負っている(心的リアリティとしての)”罪”はとても大きく、小さな「犯罪」程度では償い切れない。すなわち、この考えに従うと、彼は死をもって償い、事故死した自分の姿をさらけ出して周囲の許しを得ることでしか本当の意味で過去を清算できないだろう。
(Eric Berneの定義する「第三度のゲーム」に近いものであろうか)
とすれば、A氏は、「自死の欲動」が他の人たちよりも強いということだ。
※これはあくまでもA氏が関西出張中にふと感じたことに対する自己洞察であり、出張中にA氏は罪を犯していないし、犯そうとしてもいないので、ご安心下さい(笑)
さて、どんなもんでしょ!?
正直に書くと、これも岡山出張前、自分の中に、2つの自分があることが、わかった。
交流分析でいう【P】と【C】と【A】というのではない。
自分の中に、2つの【P】【A】【C】があるということ。
ひとつは、「生まれつきの自分」
もうひとつは、「成人以降自分自身で築き上げた自分」
俺は、子どもから大人になったのではなく、
「子どものままの俺」がいる。本来それが大人に育つはずなのに育たず、子供のままでいる。
だから自分でそれとは別にもうひとつ「大人の自分」を作った、そんな感じだ。
自分の中の「空洞」は、この「子供のまま育たなかった自分」と「成人になってから自分で作り上げた大人の自分」の間の隙間だ。
そのイメージに気づけた自分はすごいと思う。
そして、なんだか、苦しい生き方なんだなぁ・・・と思ったら、2つの自分が同時に自己否定初めてしまって、どうにもならん、という感じになった(笑)
自分の中に、2つのエゴグラムをもつ。
実は、みんなそうなんだ。
だけど、それが普通は似通っている。
俺は、全く正反対の2つだ。
でもね、共感するアンテナを2つもっている、って、これはものすごい能力なんだよ。
東海テレビの『セシウムさん』テロップについて心理学的に感じるものがあります。
(フロイトに聞いたら、間違いなくこう解釈するでしょう)
東海テレビ、不適切テロップ「怪しいお米セシウムさん」で謝罪
フジテレビ系の東海テレビ(名古屋市)は4日午前、ローカル情報番組「ぴーかんテレビ」で、視聴者プレゼントの「岩手県産ひとめぼれ」の当選者テロップに「セシウムさん」「怪しいお米」などと不適切な表示をして放送した。テロップ担当者がリハーサル用に作成したものが操作ミスでオンエアされたもの。謝罪する同局に対し、岩手県は猛抗議している。 本来なら「〇〇市△△さん」となるべき当選者テロップに、信じられない文字が並んだ。「怪しいお米セシウムさん」2行と「汚染されたお米セシウムさん」1行。復興へと歩み出した被災地にとって許し難い、不謹慎な表現だった。
Yahoo!ニュース(スポーツ報知)より
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110804-00000302-sph-soci
問題のシーンは、これです。
当選者発表のテロップを後で流すので、仮に作ったこの「セシウムさん」のテロップを使ってそのテストをした、ところがそれが間違って放送で流れてしまった、ということのようです。
当然、こんなことは許されるわけありませんし、そしてこういう不謹慎なテロップで「遊んでいる」テレビ局の姿勢が問われる、、、のですが、やっぱり私は、心の「裏側」を感じてしまうんです。。。。。
精神分析のフロイトは、「意識が抱えておけない衝動は”無意識”に抑圧され、それはあるとき意識に上ってくる。以下は、Wikipediaからの引用(下線は私による)。
無意識に抑圧された衝動は、そのまま無意識に留まっているわけではない。様々な迂回路を通って外界に放出される。完全に抑圧されれば、その欲求は自我によって変形されたり昇華されたりして、有効活用されるが、何らかのきっかけで咳嗽、失言などの形で表現されることもある。また足が動かなくなったりなどの気質性病理や不安神経症などによって意識に表れることもある。このように、意識の主体が衝動や欲求を意識していないため、それがどうなっているのかは分からないが、本人の肉体や思考を通じて、それは何度も意識に出てこようとする。ただし完全に無意識に留まるケースもある。
これはよく見られるもので、抑圧とまでいかなくても、言わないようにしているのに、つい喋ってしまうというものもよくありますね。
つまりそれは、「言っちゃいけないんだけど、言いたくてしょうがない!」という思いをがんばって抑圧しようとしているから、いわば無意識的に出てしまう。。。
4月に私はこういう記事も書いていました。
「福島原発事故から自分を守るために(その8) ついうっかりのフロイト的言い間違い?」
http://blog.goo.ne.jp/skyoko05/d/20110413
ところで、様々な食品や飼料などが放射能汚染されたまま検査もされず日本中にばらまかれていたという事実を、みなさんはどうお考えですか?
もうひとつ。
様々な食品や飼料などが放射能汚染されたまま検査もされず日本中にばらまかれていたという事実について、みなさんはどうお感じになっていますか?
すこし自分の本音を、感じてみてください。
どうでしょうか?
毎日、「食卓にのぼる日々の食材が放射能汚染されているかも知れない」と、実は思っていませんか?
「それは大したことないから」
「政府がちゃんとやってくれているだろうから」
「たとえ口に入っても、これくらいでは害にはならないだろうから」
そう思って、気持ちをなだめていませんか?
思い出して下さい。
あのときあなたが感じたものと、今あなたが感じているものの大きさは、どうですか?
「大丈夫!」と思う気持ちに、偽りはありませんか?
心の中でくすぶる「本当は、予想以上に危ないのかもしれない・・・」という不安を、「でもどうしようもない」から、否認あるいは抑圧しようとしていませんか?
もし、答えが「YES」だったなら。。。
これを、様々な報道の現実を目の当たりにしてきた東海テレビの担当者たちが、”遊び心”としてテロップに”投影”してしまい、半ば無意識的に放送に流してしまった、ということも、考えられないでしょうか?
電力会社から献金などを受け取っている立場もあって、民主党も自民党も、原子力対策にものすごく弱腰。
2大政党制の前で、国民はあまりに無力。
「放射能なんて、大したことない」という気休めばかり言い続ける政府を「信じよう」としてきた。
でも、震災が起きる前に我々はどうおもっていたでしょう? これだけの文明の最先端にいる日本国民は、その恐ろしさを本当は世界でいちばん知っていたのではないでしょうか?
明日8月6日と、そして8月9日。
【原爆の日】を、迎えます。
我々の抱える不安は、現実に存在するものなのだと、あらためて認識したい。そう思います。
日本人。
「道庁の英語間違い」、「小学校でのうつ病対策教育」、「小学生へのワークライフバランス指導」・・・ これらを憂う気持ちが感じたままに、日本人のある”側面”を書いてみます。
☆Nippon-Jinの【顔】
【顔】の表情 知人と一緒にいるときは仮面舞踏会用のマスクをかぶってさっそうと歩くが、ひとりで歩くときは能面を裏返して装着し、自分の世界にこもる。
人に会うと「Hi! I am an American so happy and friendly as you are! haha」と笑うが、実はまともな英語すら喋れないので和製英語またはニホンゴで言っている。
【顔】からのメッセージ 「I LOVE JAPAN !!」
【心】の表情 他の人より一歩いや半歩だけアメリカ人であることを確認しないと気が済まない。中には「私は日本人だ!」と言って、アメリカ人を超えたと思いたがる人すらいる。
とりあえず確認できたら、(「本当は日本人だ」とバレないように)一歩下がってそれを隠しておく。
【心】からのメッセージ 「私はあの日本人よりはアメリカ人に似ているでしょ?」
展開・結末 仮面の中の本当の顔は徐々に退化しつつあり、既にどこの国の人間かわからなくなってきているが、アメリカ人ではないことだけは、一目でわかる。
彼らが装着している仮面は20年前にアメリカで流行っていたものだ。
今日はココロを休めながら交流分析のお勉強をしようと決めました。
さて、ビートルズの、この単純な曲ですが、さらに調べてみると、この曲のバックコーラス部分に、こんな歌詞があるのを発見。
You say yes (I say "yes") I say no (but I may mean no.)
You say stop (I can stay) and I say go go go (till it's time to go ), oh no.
You say goodbye and I say hello
Hello hello
I don't know why you say goodbye, I say hello
Hello hello
このピンク色の部分・・・ これはまさに、”裏面のメッセージ”。
I say "yes" but I may mean "no".
私は「yes」と言うよ。でもおそらくそれは「no」という意味だな。
I can stay till it's time to go.
私はここにいたっていいんだ、、、立ち去る時が来るまではね。
人の意志って、いくつもの層を成しているから、本当のところはわからん。
だってさ、このように「社会的レベル」の層の下に「心理的レベル」があるけど、その下にも、たとえば、、
「だから私はシラミのような最低の人間なんだ」 とか
「あの親がいてこの私がいるんだ」 とか
さらには、
「私は存在してはいけないんだ」 とか
「私は成功してはいけないんだ」 とか
でも本当は単純に、
「私は寂しい」 とか
「私は怒っている」 とか
奥底には、言語のない、ひたすら怯えた【私】があったり。
やっぱり火星人に見てもらわないとわからん。
劣等感という魔法に取り憑かれ、その味を知ってしまうのは、特別なことではない。
人間誰もがそういう「Stranger」の顔を持っている。
(ここでようやくブログタイトルと繋がった・・・)
さて、こういう魔法の呪文がココロを導く先の、”心の闇”は、どこにあるのか?
もしかしたら、暗い淵の奥底に沈んでいった所にあるように思えて、実は、案外すぐそばにあるのかも。
たとえば、あなたが無理にライトを当てようとしている心の明るい部分の、まばゆいスポットライトのすぐ裏にあったり・・・
あ、ところで、舞台裏に置き忘れてきたものはないかい?
・・・また妄想的になってきたので、このへんでやめておきます(笑)
☆前世の自分の【顔】
【顔】の表情 想像したとおりの顔だ。
【顔】からのメッセージ 「”今の君の生きにくさ”に対する責任は、もしかしたら私にあるのかも知れない」
【心】の表情 痛々しい心の苦しみが、ハッキリと伝わってくる。でも、これほどまでに強いキャプテンが、なぜそんな弱い姿を私に晒しているのだろう。。。 不思議だ。
【心】からのメッセージ 「お互いに責任を交換しようではないか。つまり、今の君が抱えている問題に対する全ての責任は、私が引き受けよう。代わりに君は、前世に私がいることへの責任を負ってくれればいい。あとはストーリーに没頭していろ。」
展開・結末 名優は客の心を惹きつけ、即興演技を見事に演じ切る。幕が下りる頃に、観客は大粒の涙を流しているであろう。
そして場内に明かりが戻り、観客はすっきりした気持ちでこの映画館を出る。
試しに、用意する舞台を変えてみる。すると、配役・演技は変わる。が、ストーリーは変わらないはずだ。そしてパンフレットにはこう書いてあるだろう。
「前世は幾重にも重なり、繰り返しているのだ」
オスカー・ワイルドの有名な童話「幸福の王子」について。
お話はここから読んでみて下さい。
http://www.hyuki.com/trans/prince.html
☆幸福の王子の【顔】
【顔】の表情 永遠に眠る表情は一見おだやか。しかしよく見ると苦渋の錆と亀裂が無数に走っている。
【顔】からのメッセージ 「私は銅像だから出来る事はこれしかなかった。でも人並み以上にやるべき事はやったのだ」
【心】の表情 過去に行った数々の善行を顧みる事によって寒さをしのぎながら、半信半疑ながらも遠い空を仰いでいる。
【心】からのメッセージ 「天国は必ずあるはずだ。神様はそこにいると信じたい」
展開・結末 王子の心がどうなったか、残念ながら、少なくともこの世にいる誰にも知られる事はない。少なくとも体を失った空想の王子は、忘れ去られるだろう。人間は、形のないものを忘れることができる。そして岡では、新しい銅像が光り輝き続ける。
それは、自分が他人に見せる『自分とはちょっと違う顔』であり、自分が自分を知るのを防ぐためにかぶる仮面でもある。
そして、いくつもの仮面を自在に操っているように見えて、実はそのいくつもの仮面にある共通点に、周囲の者たちは気付いているだろう。
「どの仮面も鼻が高い」
「どの仮面も視線がきつい」
「どの仮面もおどけた表情だ」
などなど・・・
強い仮面の奥には、強がりたい、弱い自分がいるかも知れない。
弱い仮面の奥には、本当は強がりたい、弱い自分がいるかも知れない。
人間って、弱いものだ。