今回は、ワークで傷付いたことを話してみたけど、「自身の弱さと対決するストイックさ」が無条件で認められる一方で、「弱さ」自体は敬遠されるような感じがした。
うーん、これがゲシュタルト療法の限界かなと。
俺は、本当は強いんだが。。。
純粋ボランティアでやっている無料電話相談活動がいくつかあるが、その中のひとつ、の、北海道の相談員養成講座を、一昨年~昨年、受けていた。
スタッフも一生懸命だったし、受講者仲間もすごくいい人たちだった。
だけど、実技指導が、ひどかった。
内容は、詳しくはここでは言えないが。。。
質問攻めで相談者の悩みを無意味に掘り起こそうとしたり、無駄な応答の連続で相談者以上に喋ったら褒められたり。。。
まずは、「話を聴かせてくれ」という気持ちを教える事じゃないかな・・・
いろいろ、周囲に気を配っているうちに、精神的に限界を超えてしまい、1年で辞めてしまった。
ここまで経験を積んだ自分が相談員として何か役立てば、と、夢をもってた。
でも、ここの指導には、大きく失望した。
毎年、相談員の応募が殆どいないという新聞記事を見る。
もっともっと意味ある存在にならなきゃいけないんだよ!!
世の中の悩める人たちを支えるために、ここは根本的に変わって欲しい。
この声が、届けばいいんだけど。
実は、とある相談ボランティア系の相談員養成講座を受けていた。
実技指導者が、下のふたつを教えていた。
①オウム返し
CL:「困っているんです」
CO:「困っているんですね」
・・・このようにひとつひとつ伝え返すことによって「あなたの話をちゃんと聴いて理解していますよ」ということを示すのだそうだ。
②意識的に掘り下げるための質問
CL:「2年前、父が亡くなったのですが」
CO:「どんなお父様だったのですか?」
CL:「はい。1957年香川県生まれで、3歳から大阪に引っ越したそうです」
CO:「お父様は香川県生まれなんですね。どんな育ちをしたんでしょうか」
CL:「とても自然に囲まれていたみたいです。その後都会に移り住んだそうです」
CO:「お父様は田舎に生まれて、その後幼少期に都会に移り住んだんですね。大阪の暮らしはどんなものだったんですか?」
CL:「祖父が厳しい人で」
CO:「お父様は厳しいお父様に育てられたんですね」
CL:「わかってもらえて嬉しいです」
・・・このように、どこを質問して掘り起こすか、常に頭で考えていることが大切なのだそうだ。
そして、自分の中に湧いた感情をそのまま伝えるのだそうだ。
これを「カール・ロジャーズ」と。
とんでもない!!
途中から受講者たちは、カウンセリングのロールプレイでクライエント役の「実況見分」を始め、挙句にはクライエントより多く喋り始めた。
・・・ビル・オハンロンか(笑)
講座スタッフたちも、閉口した。
そしてスタッフという立場のせいなのか、完全に口を閉ざしていた。
(閉口するというのは、どちらの意味なのか 笑)
俺は、指導者と戦ってたけど、疲れ切った。
臨床心理学の世界でロジャーズがここまで曲解されていることに、絶望的な悲しみを覚えた。
だからこそ、せめて俺は、もっとしっかりロジャーズを勉強して、後輩たちに伝えていきたいと、強く、強く、思った。
東京の学会に行ってきました。
学会の雰囲気が、変わってきてます。
特に、理論背景として
1.人格適応論
2.自己心理学的視点
このふたつが必須となってきた感じ。
人格適応論は、どういう話しにも当たり前の基礎理論として出てくる。学会レベルでは知らないとちんぷんかんぷんというところに近づいた感じがします。
昨日の研修午前は、人格適応論をイメージとしてさりげなく紹介してくれた感じで、嬉しかった。。。
北海道でも昨年人格適応論の勉強会をしていて、私も参加してきたので、とてもよかった。
自己心理学的視点というのはあの「青い本」の話、すなわち「【C】の混乱解除」を目的とした関係性交流分析。杉田先生の解説が難しいレベルの話をわかりやすくしてくれます。
でも実際には、たとえば昨日の研修午後の話には、そのレベルが必要なのだと、かの杉田先生がおっしゃっていた。。。
うん、そうだと思います。
北海道でも勉強会したいけど、深いレベルなのと、クリニカル・モデルなのと、あまり身近でもないため、うーん、、、頑張りたい人が2~3人いたらその2、3人で頑張りたいなと思っています。
以上、今年の学会の様子でした。
2月の研修会は「教育」がテーマのようで、頑張って岡山まで行ってきたいです。
今日は最終日でした。
午前の認知行動療法は、「使える技法」というより知識的なものが多かったですが、何回か講座等で認知行動療法に触れている私にとっては、これまでとはちょっと違う感じでまとめられていて、得るものが多かったです。
特に「認知を変容させる応答」と「単なる気休め」の違いが少しだけ分かって来た感じ。
そして午後のサイコエデュケーション・・・やっちまいましたよ。。。みごとにやっちまった。
ロールプレイで、また自分の「弱い部分」に挑戦してしまう、そういう無理をするクセが出て、なんだか惨めな気持ちを味わってしまいました(笑)
まぁそういうバカをやるのが私のクセということで、自分らしさを最後に感じた、2011年のスタートです!
知識としての学問も悪くはないが、昨日の3時間は、完璧に『興味』としての学問だった。
・・・って、何を言っているのかわからないね(笑)
講師から伝わってくるものが、精神分析の理論だけではなくって、講師(中野先生という人間)自身の心への、精神分析への興味とそれを追い求めてきた長年の集大成が感じられて、内容は決して難しいものではなかったけれども、圧倒されました。
そして交流分析を教えている私のバックグラウンドのなさ、弱さ、脆さを痛感。。。
いやぁもっともっと勉強、、そして追求していかねば!!
頑張るよ!
初っ端は、毎年恒例の”教育カウンセラー養成講座”。今日はその初日でした。
午後は他の用事があって、最後の1時間だけ参加。この日午後は「構成的グループエンカウンター」で、会場に戻った時はエクササイズ中でもあり、椅子に座って見学させていただきました。
初めてSGE場面を見学したんですが、これがよかった。
参加者の人たちの真剣さもさることながら、リーダーの品田先生の堂々としたリーダーっぷりが本当に心に響きました。
こうやってしっかり腰を落ち着けて、しっかり場面に応じた対応をとっていくのがリーダーの姿なんですね。
うん、なるほど!
本当に良い経験になりました。
昨日は、人格適応論の勉強会でした。
6つのタイプについて、ラポール形成と各タイプに合ったセラピーについて本を読んだあと、例によって何人かの有名人の「過去・現在・未来」をみんなで考えて人格適応論の理解と実践を楽しみました。
今回はちょっと人数が少なかったけど、やっぱり、こうやって定期的に集まって話すこと、とってもいいことだなと、改めて思いました。
火曜日の基礎講習も、楽しみたいです。
そして、初めて、教育カウンセリングの凄さを知った。。。
これは、本当に感性の研ぎ澄まされた世界。
並の感性では、とてもついていけない世界だった。
うーん、、、俺の感性で、やっとやっとついて行けている、そんな感じかな。。。
とにかくすごい世界だ。
この凄さを初めて知って、なんだかもう一度SGEに挑戦したくなった。
自分の感性を、確かめてみたくなった。
このカウンセリングの凄さについては、またSGEについての記事を書いて伝えてみたいと思います。
・・・俺は、それに馴染めなかった。
SGEで楽しく自他を見つめるのが、今の若者だ。
・・・俺は、それにも馴染めない。
そして、俺は、何をするか?
出張先の東京で、ホテルに向かいながら一人で都庁を眺め、自分の中の「子ども」の気持ちを感じたり、発表後、会場付近を一人で歩き回りながら、自分のプレゼンテーションがあまりうまくいかなかったことを反省したりするのが、好きだ。
かつて、こういうコマーシャルがあった。
「男は黙って、サッポロビール」。
YouTube検索すると、こんなコマーシャル集を発見!!
驚いた。
この名優たちのCM、ことごとく「一人」なんだよ。
ひとりでいることが決して悪くないことが、わかるだろうか・・・
我々は、いつから「集団に溶け込んでいること」を子どもたちに要求するようになったのだろう?
ゴールデンタイムのテレビ番組を見ていると、「他者との関わり」や「他者との掛け合い」ばかりに時間を費やしている様に見える。
だれかと関わっていることが、日本社会の中で最も正常な生き方とみなされているのだろうか?
夜回り先生水谷修氏は、中学生に対し「今すぐ携帯電話を捨てなさい」と、「夜11時から6時までは電源を切りなさい」と言っていたが、「一人でいることが寂しいから、誰かと関わっていること」が、今の子どもたちの、一番の心の脆さなのかも知れない。
親と一緒に生活する中で、親の良い部分、嫌な部分を見ながら、我慢しながら生きていくのが人間。
でもそこには、
「親子が触れあうエンカウンター」のエクササイズはない。
なぜか?
そう考えると、子ども同士の触れ合いに子どもを委ねてしまう大人の側の「無責任さ」も、ちょっと見える気がする。
エンカウンターは、大人がお膳立てした、人造のふれあいの場なのだ。
つまり、「真のエンカウンター」は、「真のふれあい」ではないのだ。
「真のふれあい」は、誰にもお膳立てしてもらわない、誰にもサポートしてもらわない、全く、ごく自然なふれあいの一瞬一瞬なのだ。
だから俺は、あのジェネリックSGEに違和感を感じだのだ。
局間に言うと、大人のお膳立てする「エンカウンター」とは、生徒たちに「あなたたちには、真のふれあいができないのです」という裏面のメッセージを発する行為になりかねないとも言えるのではないか?
さらに、その生徒たちに、エンカウンターを通じて触れ合いを体験させることは、大人の保護という名目の干渉の中で、逆に、「真の触れ合い」から遠ざけてしまわないか?
交流分析でいう「時間の構造化」では、人の時間の使い方を6つに分類する。
1.閉鎖、引きこもり
2.儀式、儀礼
3.雑談
4.仕事、活動
5.心理ゲーム
6.親交、親密
お膳立てされた「構成的グループエンカウンター」において、参加者の時間の使い方は、いったいどれに当てはまるか?考えてみて欲しい。(学校で生徒が行うスペシフィックなものにも、またジェネリックなものにも言えるだろう)
「仕事・活動」と言うような、やるべきことをやっている感じになってはいないだろうか?
面倒は避けようと「雑談」に徹していないだろうか?
とりあえず「儀式・儀礼」でお茶を濁していないだろうか?
時には集団にいながらも自分の世界に閉じこもっていないだろうか?
SGEが本当に効果を発揮するのは、どのレベルでなのか?
そこを、リーダーはちゃんと捉えてSGEを行っているだろうか?
本当のSGEには、「触れ合いを促すための努力」は、リーダーがやってくれるものなのだろうか?
時間は、自然と構造化されるものではないか?
単なる「お遊びワーク」とSGEとの区別をしっかりつけているだろうか?
みんなで綺麗な夕陽を見てみて欲しい。
同じ場所で、同じ夕陽を見て、そして「みんなそれぞれの思い」に浸っているはずだ。
それこそが、「エンカウンター」ではないだろうか?
そしてそこに、言葉はいらないのだ。
ここに確かに自分がいて、そして自分と違う他人がいる。
これだけで十分だ。
俺は、そのひとときを、静かに見つめたい。
それが俺。
SGEは、集団に埋没することを教えるものではなく、集団の中に存在する”自分”と”他者”の区別を確認するものだ。
だから、思ったまま、好きにしていればいい。
(おしまい)
しかし、「集団に順応する能力」は、「個人として生きられる能力」に比べて優るというわけではない。
たとえば、携帯電話やインターネットの世界における人と人の繋がりを大切にしている生徒たちも、今の世の中、多いだろう。これは、生徒たちが常にだれかと繋がっていることを示しており、従って、こうやって人との繋がりがとれるかどうかの「集団への順応力」という点で、この生徒たちは長けている筈だ。
だから、学校でSGEが行われても、順応する度合いも高くなるだろう。
集団に順応する能力は、今の時代こそ、発揮されるとも感じられる。
大人たちは、喜ぶだろう。
だから、そういう意味の「ソーシャルスキル」を持ち合わせていない生徒は、SGEに戸惑いを覚えるだろう。
それは、その子の欠点として、劣等感へと繋がる”危険”をはらんではいないだろうか?
集団をまとめることは、とても大切だ。
でも、没個性を求めるまでの集団志向は、好ましいこととは言えないだろう。
だから、SGEを行う際には、注意する必要がある。
全員がSGEに馴染めることを目指してはいけない!
全員SGEに平気で馴染んでいる姿の方が、おかしいと思わないか?
SGEに馴染まない素晴らしい生徒がいることを当然と思うべきだ。
そして、みんなが集団に溶け込んでいるからこそ、その生徒の大切な個性が光り輝いているのだ。
SGEはとても効果的なツールであろうが、SGEに馴染む生徒も、馴染まない生徒も、その後同じように楽に生きていけるようにするべきであろう。
そのためには、「見守ること」が最も大切だ。
ということは・・・・
生徒の側にとって、大切なのは、教師の言うことを聞く素直さでも、教師の求める集団行動に馴染める人なつっこさでもなく、一人ひとりが教師に見守られている安心感ではないのか?と思う。
教師には、その視点を、必ずもって欲しい。
SGEは、教師が学級経営を楽にするために使用する魔法ではないのだ。
教師に見守られぬまま生徒時代が過ぎてしまった私。
昨年の小樽SGEで感じた疎外感は、まさにこれだった。
小樽SGEで感じた違和感を、大切に抱え続け、苦しみ続け、仲間を失い、最後に至った結論。
SGEは「集団」と見てはいけない。
「個」の集まりの中で一人ひとりが「個人」として関わり合う事こそが、真のエンカウンターだ。
さらに、SGEに参加したら、「溶け込むことの重要性」を、人間評価の第一条件のように感じてしまうことも、体感した。これは私だけじゃなく、参加者の多くは、この「集団に溶け込むこと」を大切に思うだろう。
そう思いながら、悩み、苦しんで、私は、「集団の調和を乱す可能性のある行為」を躊躇ってしまった。
本当に苦しんだ。
私は決して「はみ出し者」として蹴飛ばされることを恐れていたのではない。
私は決して「調和を乱した」と非難されることを恐れていたのではない。
自分のことは、どうでもよかった。
(なぜなら、とことん戦ってみれば得るものは大きいから)
私は、「みんなが行っているSGEを台無しにすること」を恐れていた。
すなわち「自分は調和を乱す存在なのだ」と、改めて感じていた。
そしてそれは、「SGEで自分勝手な行為は許されない。だから集団の一人としての自分を客観的に見なければいけない」と考えるあまり、自分自身の視点(主観)から自分を見つめることを忘れたということでもあったのだ。
もう少し言い方を変えると、これは「SGEに馴染まない自分」をいわば「多数決」的な視点で見ていたのであって、集団行動という目的に自らを縛り付けなければならないと考えるあまり、自分自身の思いや考えを可能な限り表現せず心の内に留めることに囚われてしまった。
主観としての自分を信頼することを棄てる苦しみだった。
でも、単純な話だが、「SGEに馴染めない」あるいは「SGEに馴染まない」のは、決して悪いことではないのだ。
いろんな個性があって、それでいいんだ。
だから、学校内・学級内でSGEを行ったとき、それに馴染めない生徒がいたとすると、その生徒が馴染まなくても平然としていられることが、教育現場におけるSGEにとって最も大切なことだ。
SGEに馴染めない生徒を馴染めるようサポートするのではなく、SGEに馴染まないその生徒の個性を尊重してあげることが大切なのだ。
(続きはまた後ほど...)
「なぜ、自分は、馴染めなかったのか?」
「なぜ、自分は、馴染めないのか?」
一年間自問してきた。
でも、答えはひとつだった。
「私はSGEに馴染むことができないから」
でも、今、気付いたことがある。
「私は、SGEに合わない」。
どんなものにも、合う、合わないがある。
だから、SGEに合う人もいれば、合わない人もいる。
だからもうちょっと言い換えると、こうだろうか。
「SGEは、私に合わない」
一人で舞台に立つのが苦手な人もいれば、集団行動の中でみんなに歩調を合わせるのが苦手な人もいる。
自分の意志を尊重してもらわないと苦しい人もいれば、リーダーの指示に従っていた方が楽な人もいる。
ただそれだけのことだ。
私に合わないものがあって、当然なのだ。
そう。
単純な理由だった。
じゃ、そんな単純な理由なのに、なぜ私は、これほど落ち込み、悩み込んだのだろう。。。
それはまるで、
「SGEができないと一人前のカウンセラーではない」
「SGEができないと一人前の教師ではない」
「SGEに馴染めない奴は、人格が歪んでいる」
こういう暗黙の空気を感じたからのような気がする。
そこで感じたのは、「みんなができることを自分だけやれない」という”劣等感”であった。
(続きはまた後ほど...)
まず、みんなで仲良く、という基本姿勢以上の「ふれあい」体験に、どうしても馴染めない自分がいた。
でもこれは、日常生活レベルでは問題ない、その程度のものなのだが、スキンシップも含めて、戸惑うことが少しあった。
さらに「絵を描くのが下手」な自分がいて、絵を描くエクササイズでかなり困った(笑)
次に、エクササイズをこなすうちにリーダーへの不満がどんどん高まり、それを意思表示したくなった。
「エンカウンターではどうすればよいのか?」について迷い、悩んだ。
すなわち、「腹を立てている自分をそのまま表現する」のか、「アサーティブに伝える」のか、それとも「場を壊す可能性が高く不適切なので我慢する」のか・・・
結局、自分の意思表示でリーダーと険悪になったらどうしよう。。。 という判断から、出来る限り我慢しようと思った。
そして、その葛藤が、苦しかった。
ワークショップを終え、帰宅してからも、あのときどう行動すれば良かったのか、悩み続けた。
なぜなら、私が子ども時代から抱えている悩みでもあったから。
さらに、最終日は、朝食が喉を通らなかった。
そして最終日のエクササイズは、ほぼ棄権状態になった。
頑張りすぎた。いや、頑張ろうとし過ぎた。
最後に頑張った人たちへの表彰式があり、当然のごとく私は表彰されなかった。
でも、頑張ろうと頑張った自分は、誰よりも偉い、と、なぜかそのとき、自分では思った。
中学の頃から、私は「先生」と喧嘩する勇気があって、先生にぶつかっていって、喧嘩になって、、、というパターンが多かった。
それを、そんな非常識な自分を、あの神聖なSGEの中で出したとき、完全にSGE自体がぶっ壊れることが、ほぼ間違いなかったように、自分で思っている。
だから、我慢して正解だったろうと、思う。
そう。だからこそ、他の仲間たち、いや、他の参加者たちが勇気を出して主張し、健全で有意義なSGEが流れた。
あのとき「我慢」できた自分は、偉かった!
ただ、それで終わってはいけなかったのかも知れない。
先生と喧嘩する自分を出してみると、もっともっと大きな収穫があっただろう。。。
とすれば、私は、この気持ちを未完のまま抱え続けているということになる。
なぜ、一年間も、未完の思いを抱えているのか?
それによって大切な仲間を完全に失うまで狂ってしまったのか?
それが、実は、今になって、よくわかったような気がするのだ。
(続きはまた後で・・・)
勉強会は、主に「ドライバー行動」について話し合いました。
元モーニング娘。メンバー二人について、そしてあのフィギュアスケート日本代表選手について、その人格適応タイプを議論して盛り上がりました。
やっぱり、一人で考えてもわからないことが、みんなで意見を出し合うと見えてくるんですねー
たーくさんの気付きをもらった昨日の勉強会でした。
頑張った甲斐がありました。
みんな、ありがとう!
次回に向けて、気合いが入ります。