天と地の狭間で

2007年4月3日をもって、引っ越しを行いました。

弱いヤツは戦うな。

2005-09-10 | 中身
タイトルにある言葉を使用した張五飛は、闘いの技量そのものを指して言いました。
今回は闘争に臨む覚悟や認識を指して使用したいと思います。
ちなみに私は闘争の才能、と呼称しています。
つまり闘争の才能の無い者は闘っても御自分が辛い思いをするだけ。それでも、という余程の事が無い限り、闘わない方が良いですよ、と申し上げたいのです。

闘争とは何でしょう。
読んで字の如く、闘い争う事です。
己の肉体でも精神でも道具でも人でも何でも使って、相手を討ち滅ぼす行為です。
こんな事に不向きであっても、現代社会に生きる人という生命体であるならば別に恥じる事は全くありません。
好きな相手と和気藹々と過ごす、これもまた本当に素晴らしい事ですから。

私は、闘争の才能を自負しています。
歪んだレンズが映し出す侮蔑的な景色には異を唱えますし、狂った時計が刻む偽りの時を看過する事もしません。
無論、「歪んだ」やら「狂った」やらは私個人の主観です。臆面もなく客観を口にする程に恥知らずではありません。
誰を敵に回しても、どれだけの数が居ようとも、自分の主観の為に命を賭けますし、必然的に付随して発生する敵意や害意はそよ風程にも感じません。
卑劣だと感じれば卑劣だと、醜いと思えば醜いと口にします。
泣いて踞って憐憫の涙を貰うより、無数の敵意と闘い己を貫いて死にたいと願います。

今日の最後は、大好きなジンメンの言葉で締め括りましょう。本が手元に無いので、若干異なる部分があるかも知れませんけれど。

「憎まれる事は誇りだよ、強い奴ほど憎まれるからな」


……パートナーに叱られそうですけれど、偽りの無い本心です。

祈る、ということ。

2005-09-09 | 静流
私は、信仰する神を持ちません。
無神論を信奉している訳でも無く、信仰を捧げる対象がありません。
信じるものは私自身と、対等な存在として私の大切な方々、という事になります。

それでも私は、祈るという行為を行います。
大切な方と離れる時、再会を祈る。闘争に臨む方の、勝利を祈る。大好きな方の、幸せを祈る。
相手を見つめて両手を己の胸に重ね、何に祈るのかと言えば自分自身に、です。
無論、祈る以外に出来る事があるならば両手はその為に使います。しかし、人の腕は細く短く、どうしても届かない時という時があります。
そのような時、せめて自分の心だけでも相手の傍にありたいと願い、私は両手を封じます。

人の心は、大切な誰かを想う気持ちは、決して無駄では無いと信じて。

国破れて山河あり。

2005-09-08 | 中身
今日は休日でしたので、衆議院選挙の期日前投票を済ませて来ました。

選挙権を得て今年で8年になります。
地方選挙も含めて一度も棄権した事はありませんが……正直に申し上げて、政治の行く末にさした期待もしていません。
議論を避けて徒党を組む政党制度そのものが嫌いだという事もありますが、それ以上に。
そもそも、自分の現在と未来を誰に預けるつもりも無いから、です。
国家など無くても空も大地も消える訳では無く、私は私です。
医療や福祉、警察や軍隊その他諸々の社会保障システムが消失した程度で生きて行けないのならば、それは一つの生命体として淘汰され土に還れば良いのです。誰かに何かに縋らなければ成り立たない生活など、失った所で痛痒に値しません。
私は私自身と、私の大切な人の為ならばどのような違法行為にも躊躇いはありませんし、その結果として死を強いられるのであるならば寧ろ幸福な事だとさえ思うのです。

まぁ、それはそれと致しまして。
通したい法案が参議院で否決されたからといって、可決した衆議院を解散するという行動は、どう考えてもおかしいのではないだろうか、等と考えつつ、一番理想論的な綺麗事を言っていた候補者に投票しました。
現実に妥協するだけなら獣でも出来る事。
現実に屈する事無くより良い明日を信じて理想を掲げ、計画を立ててそれを現実とする事が政というもの。理想と綺麗事を堂々と口に出来ない政治家なんて、存在意義が無いと考えますから。

地球を大切に?ということ。

2005-09-07 | 静流
地球に優しく。
地球を大切に。
正直に申し上げるならば、私はそれらの言葉が、あまり好きではありません。
人間という種族がどれだけ生態系を破壊しようとも、環境を乱そうとも、それもまた自然の一部でしか無いからです。
「自然」の対義語は「人工」とされていますが、人が万物の霊長等と名乗った所で所詮は地球上の一種族にしか過ぎません。あくまでも自然に内包される存在なのですから、対立者や庇護者を気取る事は傲慢であると思えてしまうのです。

小学校時代国語のテストで「自然」の対義語を書きなさいという問題に対し、「自然とは特定の事象では無く世界そのものを指し示す言葉なので対義語はありません」と書いて叱られてしまった事を思い出して……ふと、そんな事を考えました。

闘争を行う、ということ。

2005-09-06 | 静流
私は、闘争を好みません。

世界は争いに満ち溢れ、争い勝たなければ生きて行く事は出来ません。
この世界は全てが有限であり、突き詰めたならば奪い合いです。食料、衣類、住居、資産、地位、名誉、学校、仕事、居場所、友人、恋人、家族……それら全て、それぞれの闘争に勝利しなければ得る事は出来ない。
勝利するとは得るという事、何処から得るかと言えば、それは紛れもなく敗者からです。
勝って、他者から奪う。
これが、全ての生物に共通する「生きる」という事の本質だと私は思っています。

しかし、それでも。
私は、闘争を好みません。

無論、私も物を食べて生きています。争い敗れた者を喰らって生きている訳です。
戦国学園に入学する際、入学試験を受けました。試験とは学力による闘争であり、選別です。他の方を蹴落として今居る場所を確保した訳です。
私は学費や生活費を工面する為、建築設計関連のお仕事をしています。言うまでも無くお仕事は有限であり、限られたパイの配分を決定するのは様々な闘争です。
他にも幾らでも挙げられますが、要するに私が今、此処に居るという事は限りない闘争の結果です。

それでも、決して。
私は、闘争を好みません。

それが当然の事だからといって、仕方がないと諦めては、お仕舞いです。
当然の事でも、仕方がなくても、それでも好きでは無いものは好きでは無い。
矛盾していようと、理論に破綻を来していようとも構わない。
仕方がないと俯いて、ただ道理に従って生きるなんて、格好悪いですもの。
私は、格好良く生きたいと願います。
胸を張って、自分自身に誇る事の出来る自分でありたい。

その為に、今日も生きています。

双龍杯。

2005-09-05 | 静流
本格的に大会を実施する前に、御相手探しのダンスパーティでも開催した方がよりユーザーフレンドリなのかも、等とも考えるのですけれど。

そんな御膳立てをしなくても、きっと皆様ならば大丈夫、ですよね。

大勢の学友、かけがえのない人達の中から、たった一人を選択して共に闘う事を約束する。
それはとても難しく、ある意味において残酷な事なのかも知れないと考えたりするのですが、世界というものは結局、己の意志で選択しその選択を信頼し、貫く事によって斬り拓かれるものだと私は信じています。

……このような理屈よりも何よりも、純粋に皆様に楽しんで頂きたいと、さらりと口にする事が出来たなら良いのですが。
性分とは、恐るべきものです。

お蔵入り……?

2005-09-04 | 中身
生徒会改革案の可決に伴い、静流は新体制に引き継ぎを済ませてから現行の生徒会を解散して、暫し新たな流れを傍観する事に致しました。
そんな訳で、放っておけば解散すると知れている現在の生徒会に、自分達が強制解散となるかも知れないリスクを背負ってまで宣戦布告を行う組織は存在しないと思われます。

そこで。
もしも宣戦布告されたなら、提示しようと考えていた決戦法を公開してしまいます。
まぁ簡単に言ってしまえば、聖闘士星矢ポセイドン編なのですけれど……学園決闘場に7本の柱なり12の宮なり、八つの獄と三つの谷と十の壕と四つの圏なり、防衛にあたる生徒会役員の皆様+「青」の皆様の人数分の防御拠点を建造し、一人一箇所護って頂きます。
攻め手の皆様は何処から攻めるも自由、一つ一つでも同時多数でも攻略を試み、そしてその全てを撃ち破ったならば生徒会神殿の扉が開き、中でパイプオルガンを弾きながら待っている私を袋叩きにする事が出来る、という物でした。

このような方法を考案致しましたのは、私自身の趣味も無論含まれますけれど、最大の要因は「時間の都合」に依る部分が大です。
生徒会転覆を目論む組織と生徒会との闘争ともなれば、それなりに大規模な物になると予測されます。つまり参加人数が多くなる、という事です。
現実的に考えた場合、人数が増えたならば増えただけ、関係者全てが同一の時間を確保する事は極めて難しいと予測されます。これを解決するには、戦闘を独立させ分割する事が必要だと考えました。
上記の方法ならば、全てをまとめて片付ける必要はありません。掲示板に柱の状況と守護者を記し、後は攻め手の方と守護者の一対一でそれぞれの都合を合わせて決闘を行う事が可能となります。
基本的に一対一の連続ですから組織戦としての連帯感に乏しいと思われるかも知れませんが、時間が合わずに参加出来ない方を見捨てるよりは遙かに良いと、私は考えます。

決戦に備えて頑張ってパイプオルガン演奏の特訓をしたのですが、その成果を活かす事が無いのは……きっと、素敵な事だと静流は言うでしょう。

剣術。

2005-09-03 | 時雨
剣は仁義礼智信に基づく。
直心を持ち非心を絶つ。
剣は敵を斬る物に非ず、己の心の非を斬るにある。
剣は相討ちの気構えが肝要、己が生き長らえ相手のみ斬ろうとするが故に臆心、迷い、弱剣が生じる。
剣は抜かぬに越した事は為し、鞘の中で勝つ事こそ極意。
剣と忠は同義なり。

全て、下らぬ。

剣術とは己が死なぬ工夫を凝らしつつ、相手を殺す技術。
ただそれだけの物じゃ。
剣術に限らず闘法というものは悉くそのように出来ておる。
剣術は殺人技、刀は人斬り包丁。それ以外の何物でも無し。
活人剣やら護る為の剣やらと、たかだか人を斬る程度の事に余計な題目を貼り付けねば気が済まぬは、脆弱さの露呈に他ならぬ。
飯を喰ろうて生きるが如く、斬り生きる。
それで充分じゃ。

信頼する、ということ。

2005-09-02 | 静流
誰かを信頼する、という事は。
信頼すると決めた、自分自身を信じる事だと思います。
そのような選択をした自分に誇りを持ち、胸を張って歩み続ける事だと、私は考えます。
信頼とは、己の判断を放棄して盲目的に対象へ寄り掛かる行為では無く……揺るぎない自律自尊の精神を礎としてこそ、成し遂げる事ができるのだ、と。

誰かを信頼する、という事は。
裏切られる覚悟をする事だと思います。
自由意志を持つ生命体の為す行為の根元が悉くそうであるように、信じるという事もまた、突き詰めたならば自己満足です。
「もしも裏切られたとしても悔いは無い」と覚悟を決めて、その上で自己満足を貫き通す強さこそが、信頼という行為の源であると考えます。

全ての生命体は例外無く、一人で産まれて一人で生きて、一人で死ぬ物です。
徹頭徹尾孤独であるが故に他者からの理解を渇望し、それを望むが故に他者を理解しようと足掻きますが、その望みが満たされる事は決して無いのだろうと思います。
人間に出来る事は、誰かを理解しようと努める事だけ。
自分自身さえも完全に把握する事が叶わない生命体が、他者を完全に理解した等と思い込む事は、思い上がりでしかありませんもの。


何かを願う心と、その決意を支える覚悟と、想いを貫く力。
いずれが欠けたとしても、全く無意味です。
私は、強く在りたいと心から願います。
大切な人を、信頼する為に。

秋の始まり。

2005-09-01 | 静流
人間がどのような区分けをしようとも、天体の運行に影響が出る訳ではありませんけれど……事象に名を与え認識し、己の枠に収め理解したと感じる事もきっと、人には必要な事なのだろうと思います。

私は、全ての理解は主観による錯覚であると考えます。
錯覚も自分自身にとっては真実ですから、無意味であるとは言いませんけれど、絶対的な真実というものは存在しない、と。
人の数だけ真実が存在し、その全てが思い込みに過ぎません。
だからこそ、人それぞれの真実はみな対等であり、優劣は存在しないと思うのです。

全ての学友の皆様の真実が、互いに敬意を払いつつ誇りを持って共存する事の出来る環境を夢見る私ですが……どんな夢も信じて貫いたならば、きっと現実のものとなる。
そんな錯覚を、私の真実を。

私は、信じています。