新宿で自死した方の遺体をスマホで撮影するのは、道徳に反する、亡くなった方への尊厳を傷つけるとし、
撮影する側への批判があります。
一方で、公衆の面前で自殺するのだから、撮影して晒して欲しいのだろうという意見。
ここで考えるべきは、自死をする状態の人の心身状態が冷静かつ沈着な思考かということです。
私は、そのように健康な心身の状態であれば、自死を選ぶことは無いと思います。
スマホで撮影して何が悪い、公衆の面前で死ぬほうが悪い、このような考えは、「自分の考え」しか知らない人の思考回路です。
生きることが生理現象であれば、死ぬことも生理現象です。
公衆の目の前で死ぬなという人は、公衆の中にあっては、尿意も便意も決してもよおすことが無い。
そういう人ですよね?
自分の排泄がコントロール出来ないのに、他人の自死現場についてとやかく言うことは全く以て見当違いです。
自死遺体を見て、その人の辛さ苦しさ置かれた環境の厳しさなどには思いを馳せず、死体を撮影する行為。
そして、公衆の面前で自殺する奴が悪いという。
自死がどのような経緯でなされたかなどわかるはずも無い。
発作のように起こった可能性がある中で、死んだ奴が悪いという理論。
そのような、自分の言動を正当化する人々の魂のレベルが露呈している。
そう言わざるを得ません。
公衆の眼の前で自殺するなという理論は、人の眼の前で事故を起こすなということと同じことです。
ですが、一体、どれほど多くの交通事故が人の眼の前で起こっているのでしょうか。
スマホで撮影する人たちは、交通事故で目の前で人がはねられても救助活動をせずに、スマホで撮影して、
こう言うのでしょう
「公衆の面前で事故に遭う奴が悪い」
命への敬い、魂への敬い、人への敬い。
そのような敬うことが人格形成時期に育たなかったか、その人の魂のうち敬うことが抜け落ちているのか。
心臓発作なら公衆の目の前で起きても良いのですか?
自死もまた発作的に起きることだと考えが及ばないのでしょうか。
自分の思考世界が世界の全てだと思う思考の狭さに、「自分勝手」「自分のことし考えない」他者への敬いの精神が育たなかった人の集まりの社会だからこそ
その人は自死を選ばざるを得なくなったのではなかろうか。
日本人の自殺は、年間3万人以上が10年以上も続き改善されているとはともて言えません。
そして、そのうちの約7割が精神疾患により向精神薬の治療を受けているという。
当然、薬ですから、副作用があります。
自死を防ぐはずの薬の副作用が人によっては、自死を促進させる副作用があります。
本人の意思でコントロール出来ないのです。
人間の生理現象がコントロール出来ないように、自死を選ぶ人たちがコントロール出来ないことにどれほど苦しんでいるかに理解を示そうともしない。
それは、「敬い」が欠如しているからです。
他者への、自分の命や魂への敬いは教育、周りの人間、環境そして魂のレベルによるものと考えます。
好きで自殺をする人など一人も居ないと言い切れます。
なぜなら、生命体にとっての絶対的善は「生きること」だからです。
苦しんだ結果の自死を嘲笑するかのような、「スマホで遺体を撮影する」「苦しみと自分は関係無い」
撮影者は、自分が自殺を選ぶことになった時に、初めて自分の愚行がわかることでしょう。
人の心も体も壊れる。
遺体を撮影する人は、自分は事故に遭わない、自分は病気にならない。
そんな自信があるのでしょうが。
全くあてにならない自信です。
いえ、自信では無く、自分の身に不幸が起こると考えも及ばないのでしょうが、
人の人生は禍福吉凶混合です。
「人の不幸をどう捉えるか」
それは、その人の身に不幸が降り落ちた時にしかわからないのでしょう。
「明日が我が身」
自分の身に置き換えることを学ぶべきでしょう。
いえ、学ばなかったのは、その人自身の問題なのでしょうか。
だとしたら、とっくにその人に不幸が降って降りていますね。
撮影する側への批判があります。
一方で、公衆の面前で自殺するのだから、撮影して晒して欲しいのだろうという意見。
ここで考えるべきは、自死をする状態の人の心身状態が冷静かつ沈着な思考かということです。
私は、そのように健康な心身の状態であれば、自死を選ぶことは無いと思います。
スマホで撮影して何が悪い、公衆の面前で死ぬほうが悪い、このような考えは、「自分の考え」しか知らない人の思考回路です。
生きることが生理現象であれば、死ぬことも生理現象です。
公衆の目の前で死ぬなという人は、公衆の中にあっては、尿意も便意も決してもよおすことが無い。
そういう人ですよね?
自分の排泄がコントロール出来ないのに、他人の自死現場についてとやかく言うことは全く以て見当違いです。
自死遺体を見て、その人の辛さ苦しさ置かれた環境の厳しさなどには思いを馳せず、死体を撮影する行為。
そして、公衆の面前で自殺する奴が悪いという。
自死がどのような経緯でなされたかなどわかるはずも無い。
発作のように起こった可能性がある中で、死んだ奴が悪いという理論。
そのような、自分の言動を正当化する人々の魂のレベルが露呈している。
そう言わざるを得ません。
公衆の眼の前で自殺するなという理論は、人の眼の前で事故を起こすなということと同じことです。
ですが、一体、どれほど多くの交通事故が人の眼の前で起こっているのでしょうか。
スマホで撮影する人たちは、交通事故で目の前で人がはねられても救助活動をせずに、スマホで撮影して、
こう言うのでしょう
「公衆の面前で事故に遭う奴が悪い」
命への敬い、魂への敬い、人への敬い。
そのような敬うことが人格形成時期に育たなかったか、その人の魂のうち敬うことが抜け落ちているのか。
心臓発作なら公衆の目の前で起きても良いのですか?
自死もまた発作的に起きることだと考えが及ばないのでしょうか。
自分の思考世界が世界の全てだと思う思考の狭さに、「自分勝手」「自分のことし考えない」他者への敬いの精神が育たなかった人の集まりの社会だからこそ
その人は自死を選ばざるを得なくなったのではなかろうか。
日本人の自殺は、年間3万人以上が10年以上も続き改善されているとはともて言えません。
そして、そのうちの約7割が精神疾患により向精神薬の治療を受けているという。
当然、薬ですから、副作用があります。
自死を防ぐはずの薬の副作用が人によっては、自死を促進させる副作用があります。
本人の意思でコントロール出来ないのです。
人間の生理現象がコントロール出来ないように、自死を選ぶ人たちがコントロール出来ないことにどれほど苦しんでいるかに理解を示そうともしない。
それは、「敬い」が欠如しているからです。
他者への、自分の命や魂への敬いは教育、周りの人間、環境そして魂のレベルによるものと考えます。
好きで自殺をする人など一人も居ないと言い切れます。
なぜなら、生命体にとっての絶対的善は「生きること」だからです。
苦しんだ結果の自死を嘲笑するかのような、「スマホで遺体を撮影する」「苦しみと自分は関係無い」
撮影者は、自分が自殺を選ぶことになった時に、初めて自分の愚行がわかることでしょう。
人の心も体も壊れる。
遺体を撮影する人は、自分は事故に遭わない、自分は病気にならない。
そんな自信があるのでしょうが。
全くあてにならない自信です。
いえ、自信では無く、自分の身に不幸が起こると考えも及ばないのでしょうが、
人の人生は禍福吉凶混合です。
「人の不幸をどう捉えるか」
それは、その人の身に不幸が降り落ちた時にしかわからないのでしょう。
「明日が我が身」
自分の身に置き換えることを学ぶべきでしょう。
いえ、学ばなかったのは、その人自身の問題なのでしょうか。
だとしたら、とっくにその人に不幸が降って降りていますね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます